そして来たる待ち合わせの日、俺は駅の構内にある鏡の前で足を止め、念入りに自分の姿をチェックしていた。
通り過ぎる人が邪魔そうに眉をひそめて通り過ぎていくのが横目に見える。申し訳ないけれど、今だけは多めに見てほしい。今日は俺にとって、とても特別な一日なのだ。
(変じゃないよな?)
柱に備え付けられた鏡の中には、見慣れた地味な自分の姿があった。どこにでもいそうなシンプルな服を着た、当たり障りのない仕上がりだ。
何しろ休日に家族以外と出かけるなんて初めてだから、どんな格好をするのが正解なのか分からなかった。とりあえずユニクロで買ったシンプルなシャツとパンツの新品を下ろしてきたので、変ではないと信じたい。少なくとも俺の手持ちの中では、これが一番きれいな服なのだ。
あまりにもそわそわしすぎて、家族には「デートにでも行くのか」とからかわれたけれど、気持ち的には似たようなものだ。なにしろ今日は、初めて日誌越しではない大狼先輩と対面するのだから!
――羊: つきました
――羊: 正面出口の前にいます
メッセージを送ると、間を置かずして大狼先輩から返事が返ってくる。
――狼: 了解
――狼: こっちもすぐ着きます
――狼: 青色のシャツを着ています
青は海の旅路のイメージカラーだ。今日に合わせて色も選んできたのだろうか。さすがは大狼先輩だ。
会う前からどきどきしてきた。大狼先輩はどこから来るんだろうかときょろきょろ辺りを見渡していると、不意に近くから聞き覚えのある声が聞こえてくる。
「……あれ? 日辻? 珍しいな。こんなところで会うなんて」
(げっ、狐崎くん!)
思いがけずクラスメイトに出くわしてしまって、思わず顔が引きつった。
爽やかな顔立ちと、夏休み前よりほんのり焼けた健康的な肌が目に眩しい。明るい笑顔に目が眩む。
「狐崎くん、帰ってきてたんだ」
「うん。日辻に会うって分かってたら、お土産持ってきたのになあ。つーかさ、LINE返してよ! 冷たいなあ、もう」
その言葉に、ざあっと血の気が引いていく。
そういえば、宿題を見せてほしいというLINEをいつだか狐崎くんからもらっていた。後から返そうと思っていたのに、大狼先輩との約束に浮かれて、すっかり忘れ去っていた。
「ごめん! 後で返そうと思って、そのままだった」
「いいよ。そんなことだと思った。日辻、いつもだったら返事すぐくれるもんな。……それでさ」
すすす、と狐崎くんが耳打ちするように体を寄せてくる。目が合うなり、狐崎くんはにんまりと愛嬌溢れる笑みを浮かべた。
「悪いんだけどさ、数学の宿題、見せてもらえないかな? 旅行中にやろうと思ってたんだけど、持っていくの忘れちゃってさ。今からはじめても休み明けまでに間に合うかどうか自信がないんだよ。お願い、日辻!」
「えー……、ええと」
宿題は自分でやるから意味があるものではないのか。形だけ埋めて出したところで、いったい何が身につくというんだろう。
そう思っても、それをそのまま伝える勇気はなかった。俺はひたすら目を泳がせる。
「数学だけだからさ。なあ、いいだろ?」
狐崎くんの腕が肩に回ってくる。爽やかな笑顔なのに、イエス以外を許さない圧力が醸し出されている気がしてならない。
「う、……」
居心地の悪さに負けて頷きそうになったそのとき、突如としてぶっきらぼうな声が割って入ってきた。
「――日辻さん」
「ひえっ、はいっ!」
突然名指しで呼ばれたものだから、うっかり声が裏返る。
声の先を見ると、そこにはいかにも怖そうな顔の先輩が立っていた。
「待たせてすみません」
オーバーサイズの青いシャツに、ゆったりとしたパンツを合わせた、ぱっと見は気だるげな雰囲気の人だった。でも、まっすぐに伸びた背筋といい、袖から覗く鍛えられた体つきといい、全体を見るとむしろしゃっきりしている。
目にかかるくらいの長めの髪の下からは、こちらを睨むような鋭い眼差しが覗いていた。何もしてないのに怒られている気分になるその目には、不思議と見覚えがある。
(あれ、この人……この前ランニングしてた人だよな?)
何日か前、俺が雨の日に泥を飛ばされたとき、ティッシュを渡してくれた優しい人だ。
この人が大狼先輩なのだろうか。狼を思わせるその人は、訝しげに狐崎くんへと視線を向けた。
「……友だちですか? 一緒に行くなら、三人でもいいっすけど」
「あ、いや。俺はたまたま会っただけなんで。お構いなく」
先輩の迫力に押されるように、狐崎くんはぎこちない愛想笑いを浮かべて後ずさる。バツの悪そうな目をこちらに向けてきたかと思えば、狐崎くんはパッと手を合わせるような真似をして、即座に踵を返しにかかった。
「ごめん、日辻! 待ち合わせしてたんだな。また連絡するよ。例の件、考えておいてな!」
言うが早いか、狐崎くんは早足でその場を立ち去ってしまう。
後に残されたのは、俺と怖そうな人のふたりだけだ。いや――。
(怖くない。だって、目がすごく優しい)
睨むような目つきに最初はびっくりしたけれど、向き合ってみれば、こちらを心配そうに見ているだけだとすぐに分かる。
青いシャツを着ていて、顔が怖くて、でも優しい。飼育日誌から感じ取った、大狼先輩の印象そのものだ。
「大狼先輩……ですよね?」
おそるおそる問いかけると、大狼先輩は自分が名乗っていないことに気がついたのか、きまり悪そうに目を逸らした。
「……すみません、焦ってて。大狼であってます」
「あ、普通に話してください。俺、一年ですし」
「なら、日辻さんも」
「日辻で大丈夫なので! それにその、俺はこっちの方が喋りやすいですから」
先輩に敬語を使わせるなど、俺はいったい何様なのか。どうにかこうにタメ口にしてもらえるようにお願いすると、大狼先輩は落ち着かなさそうな様子ながらも、「じゃあ」と言葉を切り替えてくれた。
「割って入って悪かった。困ってるように見えたから、つい」
「とんでもないです。声を掛けてくれて助かりました。その、クラスメイトなんですけど、たまたま会ってびっくりしてたので。ありがとうございます」
緊張と嬉しさのせいで、舌がよく回らない。舞い上がってしまった俺は、自然と早口になっていた。
「お会いできて嬉しいです! 特徴がなさすぎて見失うってよく言われるんですけど、よくすぐに分かりましたね! 初めて会うのに」
照れながら笑いかけると、大狼先輩はじっとこちらを見つめて、直後にふいと勢いよく顔を背けた。
(そんな見るに堪えないくらいひどい顔してた⁉)
一瞬ショックを受けたけれど、どうやらそういうわけではなさそうだ。だって、顔を背けたせいで丸見えになった大狼先輩の耳は、俺でもすぐに分かるくらいに真っ赤だったから。
よかった、とこっそり息をつく。緊張しているのは俺だけではなさそうだ。
じっとりと浮かんでいた額の汗を拭っていると、ぼそりと大狼先輩が何かを呟く声が聞こえた。
「……分かるに決まってる」
通り過ぎる人が邪魔そうに眉をひそめて通り過ぎていくのが横目に見える。申し訳ないけれど、今だけは多めに見てほしい。今日は俺にとって、とても特別な一日なのだ。
(変じゃないよな?)
柱に備え付けられた鏡の中には、見慣れた地味な自分の姿があった。どこにでもいそうなシンプルな服を着た、当たり障りのない仕上がりだ。
何しろ休日に家族以外と出かけるなんて初めてだから、どんな格好をするのが正解なのか分からなかった。とりあえずユニクロで買ったシンプルなシャツとパンツの新品を下ろしてきたので、変ではないと信じたい。少なくとも俺の手持ちの中では、これが一番きれいな服なのだ。
あまりにもそわそわしすぎて、家族には「デートにでも行くのか」とからかわれたけれど、気持ち的には似たようなものだ。なにしろ今日は、初めて日誌越しではない大狼先輩と対面するのだから!
――羊: つきました
――羊: 正面出口の前にいます
メッセージを送ると、間を置かずして大狼先輩から返事が返ってくる。
――狼: 了解
――狼: こっちもすぐ着きます
――狼: 青色のシャツを着ています
青は海の旅路のイメージカラーだ。今日に合わせて色も選んできたのだろうか。さすがは大狼先輩だ。
会う前からどきどきしてきた。大狼先輩はどこから来るんだろうかときょろきょろ辺りを見渡していると、不意に近くから聞き覚えのある声が聞こえてくる。
「……あれ? 日辻? 珍しいな。こんなところで会うなんて」
(げっ、狐崎くん!)
思いがけずクラスメイトに出くわしてしまって、思わず顔が引きつった。
爽やかな顔立ちと、夏休み前よりほんのり焼けた健康的な肌が目に眩しい。明るい笑顔に目が眩む。
「狐崎くん、帰ってきてたんだ」
「うん。日辻に会うって分かってたら、お土産持ってきたのになあ。つーかさ、LINE返してよ! 冷たいなあ、もう」
その言葉に、ざあっと血の気が引いていく。
そういえば、宿題を見せてほしいというLINEをいつだか狐崎くんからもらっていた。後から返そうと思っていたのに、大狼先輩との約束に浮かれて、すっかり忘れ去っていた。
「ごめん! 後で返そうと思って、そのままだった」
「いいよ。そんなことだと思った。日辻、いつもだったら返事すぐくれるもんな。……それでさ」
すすす、と狐崎くんが耳打ちするように体を寄せてくる。目が合うなり、狐崎くんはにんまりと愛嬌溢れる笑みを浮かべた。
「悪いんだけどさ、数学の宿題、見せてもらえないかな? 旅行中にやろうと思ってたんだけど、持っていくの忘れちゃってさ。今からはじめても休み明けまでに間に合うかどうか自信がないんだよ。お願い、日辻!」
「えー……、ええと」
宿題は自分でやるから意味があるものではないのか。形だけ埋めて出したところで、いったい何が身につくというんだろう。
そう思っても、それをそのまま伝える勇気はなかった。俺はひたすら目を泳がせる。
「数学だけだからさ。なあ、いいだろ?」
狐崎くんの腕が肩に回ってくる。爽やかな笑顔なのに、イエス以外を許さない圧力が醸し出されている気がしてならない。
「う、……」
居心地の悪さに負けて頷きそうになったそのとき、突如としてぶっきらぼうな声が割って入ってきた。
「――日辻さん」
「ひえっ、はいっ!」
突然名指しで呼ばれたものだから、うっかり声が裏返る。
声の先を見ると、そこにはいかにも怖そうな顔の先輩が立っていた。
「待たせてすみません」
オーバーサイズの青いシャツに、ゆったりとしたパンツを合わせた、ぱっと見は気だるげな雰囲気の人だった。でも、まっすぐに伸びた背筋といい、袖から覗く鍛えられた体つきといい、全体を見るとむしろしゃっきりしている。
目にかかるくらいの長めの髪の下からは、こちらを睨むような鋭い眼差しが覗いていた。何もしてないのに怒られている気分になるその目には、不思議と見覚えがある。
(あれ、この人……この前ランニングしてた人だよな?)
何日か前、俺が雨の日に泥を飛ばされたとき、ティッシュを渡してくれた優しい人だ。
この人が大狼先輩なのだろうか。狼を思わせるその人は、訝しげに狐崎くんへと視線を向けた。
「……友だちですか? 一緒に行くなら、三人でもいいっすけど」
「あ、いや。俺はたまたま会っただけなんで。お構いなく」
先輩の迫力に押されるように、狐崎くんはぎこちない愛想笑いを浮かべて後ずさる。バツの悪そうな目をこちらに向けてきたかと思えば、狐崎くんはパッと手を合わせるような真似をして、即座に踵を返しにかかった。
「ごめん、日辻! 待ち合わせしてたんだな。また連絡するよ。例の件、考えておいてな!」
言うが早いか、狐崎くんは早足でその場を立ち去ってしまう。
後に残されたのは、俺と怖そうな人のふたりだけだ。いや――。
(怖くない。だって、目がすごく優しい)
睨むような目つきに最初はびっくりしたけれど、向き合ってみれば、こちらを心配そうに見ているだけだとすぐに分かる。
青いシャツを着ていて、顔が怖くて、でも優しい。飼育日誌から感じ取った、大狼先輩の印象そのものだ。
「大狼先輩……ですよね?」
おそるおそる問いかけると、大狼先輩は自分が名乗っていないことに気がついたのか、きまり悪そうに目を逸らした。
「……すみません、焦ってて。大狼であってます」
「あ、普通に話してください。俺、一年ですし」
「なら、日辻さんも」
「日辻で大丈夫なので! それにその、俺はこっちの方が喋りやすいですから」
先輩に敬語を使わせるなど、俺はいったい何様なのか。どうにかこうにタメ口にしてもらえるようにお願いすると、大狼先輩は落ち着かなさそうな様子ながらも、「じゃあ」と言葉を切り替えてくれた。
「割って入って悪かった。困ってるように見えたから、つい」
「とんでもないです。声を掛けてくれて助かりました。その、クラスメイトなんですけど、たまたま会ってびっくりしてたので。ありがとうございます」
緊張と嬉しさのせいで、舌がよく回らない。舞い上がってしまった俺は、自然と早口になっていた。
「お会いできて嬉しいです! 特徴がなさすぎて見失うってよく言われるんですけど、よくすぐに分かりましたね! 初めて会うのに」
照れながら笑いかけると、大狼先輩はじっとこちらを見つめて、直後にふいと勢いよく顔を背けた。
(そんな見るに堪えないくらいひどい顔してた⁉)
一瞬ショックを受けたけれど、どうやらそういうわけではなさそうだ。だって、顔を背けたせいで丸見えになった大狼先輩の耳は、俺でもすぐに分かるくらいに真っ赤だったから。
よかった、とこっそり息をつく。緊張しているのは俺だけではなさそうだ。
じっとりと浮かんでいた額の汗を拭っていると、ぼそりと大狼先輩が何かを呟く声が聞こえた。
「……分かるに決まってる」

