羊くんと狼先輩の交換日誌

「……で? 日辻くんとはどうなのよ、最近」

 秋も深まってきた十月半ば。
 ワンダーフォーゲル同好会の部室の中に、呆れたような声がぽつりと落ちる。
 部室と言ってもただの使われていない教室なので、実質ただの溜まり場だ。ミーティングのない日に使っているのは、俺こと大狼隼人と、幼なじみの有馬だけ。どこからともなく漂ってくる金木犀の香りも、愛でる感性を持っている人間はここにはいない。

「どうって何が」

 縦書きのノートへ丁寧に字を書き込みながら、俺は有馬に聞き返す。
 
「うまくやってるのかってこと。隼人のキモさに愛想尽かされてないかって心配してるんだよ」
「俺はキモくないし、日辻は大天使だから、俺が何かやらかしたとしても笑って許してくれる」
「……一応聞くけど、妄想じゃないよな? 本当にあの後、日辻くんと付き合うことになったんだよな?」

 失礼な。
 ノートを一ページ埋め尽くしたところで、俺は署名代わりに狼の絵を描き込んでいく。

「もちろん真面目にお付き合いしてるに決まってる。牧場デートもしたし、部屋で一緒にゲームもしたし、どこからどう見たって順調な恋人だ」
「なんだって? もう部屋に呼んだのか。片想い拗らせておかしくなってると思ったら、やっぱり手の早い狼野郎だったんだな」
「手? ああ、手はこの間川べりで散歩したときに繋いでもらったな……」

 気もそぞろに返事をする。
 脳裏に浮かんでいたのは、こういうのってちょっと照れちゃいますね、と恥ずかしそうに笑ってくれた日辻のかわいすぎる表情だ。握手会の後に手を洗いたくないオタクの気持ちが、分かってしまうくらいにはときめいた。
 絵を描く手を止め、幸せな記憶に浸っていると、有馬が呆れきった目を向けてくる。

「そっちの手じゃねえよ。キスとかハグとか、そういう方」
「やめろ、日辻が汚れる」
「日辻くんだって健全な男子高校生なんだから、あんまりそうやってキモいこと言ってると嫌われるぞ。焦れた向こうに襲われても知らないからな」
「日辻はそんなことしない」

 でも積極的に迫ってきてくれる日辻というのも、それはそれでギャップがあって素敵かもしれない。というより日辻になら、何をされても大歓迎だ。
 何しろ日辻は俺の天使である。
 天使でなければ平和の遣いである日辻が、俺の人生に舞い降りてくれたのは、中学二年の時だった。

 生まれたときから目付きが悪いと言われ続けた俺は、中学生になるころには、何もしていないのに教師という教師に不良予備軍として警戒され、女子には怖がられ、年上の男には生意気だと難癖をつけられる悲しき日々を送っていた。
 何もしてないのに怖がられるたび泣きそうだったが、持って生まれた顔ばかりはどうにもならない。
 理不尽に責められることには慣れていたけれど、とうとう無実の罪で警察に補導されるまでになったかと絶望していたあの日、日辻が声を上げてくれたことが、どれだけ俺にとって嬉しかったことか。きっと俺以外には分かるまい。
 
『今日はその……大変でしたね』
 
 全方位にびくびくしながらも、日辻はそうやって当時の俺を慰めるように声を掛けてくれた。多分あの瞬間、俺は恋に落ちたのだと思う。
 でも、他校の何年生かも分からない相手を探すことなんて、ただの中学生にできるはずもなかった。
 俺にできたことといったら、ジャージに縫い付けられていた『日辻』という名前を胸に刻み込むことと、日辻が買っていった漫画を揃えて、あの人はこういう作品が好きなのかなと想像することくらいだった。
 日辻が持っていた本がゲームのコミカライズだと知ったから、元になったゲームもやった。
 やってみたら案外楽しくて、似た系統のゲームにも手を出すようになった。そのうちのひとつが日辻と付き合うきっかけになった『旅路』シリーズだったのだから、これはもう神の導きというものだろう。
 あの日の天使にまた会いたいと願い続けて、冤罪を吹っ掛けられそうになった本屋にも通い続けた。
 けれど、いつまで経っても日辻との再会は叶わなかった。二年、三年と経つうちに、きっともう会うことはないのだろうと、だんだんと諦めの気持ちの方が強くなっていたくらいだ。
 
 転機が訪れたのは、そんなときだ。
 
 高校二年に上がって間もないころ、入学式を終えた新入生たちがぱらぱらと校門を抜けていく様子を、俺はワンダーフォーゲル同好会の部室からぼんやりと眺めていた。別に目的があったわけでもない。ちょうど今日みたいに、有馬とふたりでだらだら暇を潰していただけだ。
 ふと、目についた生徒がいた。入学式なんて知り合いを作る大チャンスだろうに、その男子生徒は同級生に絡むでもなく、ひとりでマイペースに牧場を眺めていた。
 あの子も人付き合いが苦手なのだろうか。そう思ったら、有馬がいないときの自分とついつい重ねて見てしまう。
 不意に、誰かに呼ばれたのか、パッとその男子生徒が顔を上げた。

『……っ、あれ、日辻さん?』

 俺は食い入るように身を乗り出す。
 忘れるはずもない。夢にまで見た日辻が、記憶より少しだけ大人びた顔をして立っていた。
 年下だとは思わなかった。同じ高校だなんて、どんなラッキーだろう。
 話してみたい。でも、いきなり上級生から話しかけられたら、きっとびっくりするだろう。俺のことなんてそもそも覚えてすらいないかもしれないし、そうでなくとも俺の顔は怖いのだから。
 でも、何かきっかけさえあれば、怯えさせずに話せるかもしれない。
 クラスはB組。部活は帰宅部。委員会は美化委員。帰りにたまにヤギ小屋に寄っては、ヤギたちに手を振っている。
 学食ではカレーと担々麺をよく食べている。辛党なのかもしれない。
 テスト前は図書館で勉強している。得意科目は歴史で、苦手なのは古典。
 話しかける機会を窺ううちに、知っていることだけが少しずつ増えていく。

 日辻と何も接点を持てないまま夏休みに入ってしまい、不貞腐れていた俺を連れ出したのは、有馬だった。別に俺のためを思ってくれたわけではなく、単にひとりで飼育当番をするのが面倒臭かっただけだ。
 けれど、半ば無理やり引きずられていった先で、俺はヤギ小屋から出てきた日辻とすれ違うことができた。予想通り向こうは俺のことは覚えていなさそうだったし、なんなら関わりたくないとばかりに逃げられてしまったけれど、そんなのはささいなことだ。
 
『……なあ、飼育当番って朝夕で分かれてるんだよな。飼育委員以外でもやるのか』

 遠ざかっていく日辻の背中を眺めながら、俺は有馬に問いかけた。
 
『まさか。何のための飼育委員だよ。今週の朝当番は狐崎のはずなんだけどなあ……。あの子、押し付けられたのかね』
『今週の飼育当番、俺が変わってやる。先に帰ってていいぞ』
『はあ? まあ、隼人がやりたいならいいけどさ』

 チャンスだと思った。
 飼育当番の最中に忘れ物でもあれば、それを届けるという口実で接点が持てる。そうでなくても、少し早めに来れば、今日みたいにすれ違う可能性だってなくはない。
 そして、血眼になってヤギ小屋を探し回った果てに見つけたのが、あの飼育日誌だった――。

 
 そこから先は、とんとん拍子だ。日辻は以前と変わらず天使みたいに優しくて、俺がわざと飼育当番を替わっていたと知っても引かなくて、人に怖がられてばかりの顔でも、そのおかげで日辻の役に立てることもあった。
 巡り巡って、今はこうしてお付き合いをする仲にまでなっている。
 俺はもしかしたら一生分の幸運をあの夏休みで使い果たしたのかもしれない。でも、補って余りあるくらい今が幸せだから、なんでもよかった。
 幸せを噛みしめながら、俺は描き慣れて久しい狼の絵を完成させて、最後に自分の名前をサッと書き足す。

「……なあ。突っ込もうかどうしようか迷ってたんだけど、さっきから熱心に何書いてるんだ」
「交換日記」

 飼育日誌のやり取りが楽しかったと日辻が言ってくれたので、今度は交換日記をしてみることになったのだ。LINEでのやり取りとはまた違う、手紙のやり取りのような感覚があって、これはこれで返事を待つ時間が楽しい。
 俺の言葉を聞いた有馬はもう、呆れを隠そうともしていなかった。

「まあ、お互い楽しいならいいんじゃね」
「ありがとう。末永く日辻と一緒に幸せになってみせる」
「そこまで言ってねえよ」
 
 軽口を叩き合っていると、校舎からカメラを持った集団が出てくるのが見えた。そういえば今月の撮影会は平日にやると日辻が言っていた。
 すっかり同好会に馴染んでいる日辻の姿を見つけて目で追っていると、不意に日辻がこちらを振り仰ぐ。目が合うと、日辻は嬉しそうに微笑み、控えめに手を振ってくれた。
 小さく手を振り返すと、日辻は満足したようにまた同好会の仲間たちとの会話に戻っていく。
 かわいい。胸がいっぱいになって、俺はふううと細く長い息を吐くことしかできなかった。
 
「……見たか? 今の。天使だな」
「そうか。頼むから日辻くんの前ではまともでいろよ」
「下の名前っていつから呼んでいいと思う? (みのる)くんか実さんか、それともあだ名? 呼び捨てにするのは気が引けるよな」
「もういいよ、一生頭に花咲かせてのろけてろ」
 
 窓から爽やかな秋風が吹き込む。
 ぱらぱらとめくられていく交換日記の隅には、のんびりと笑う羊と狼の絵がのぞいていた。