羊くんと狼先輩の交換日誌

「わ、私じゃないです……!」

 怒鳴られているのは、俺と同年代らしき女性客だった。テーブルの上には、カップを倒してしまったのか、コーヒーが小さな水たまりを作っている。とはいっても少量で、テーブルの下にも落ちていないし、おじさんが言うように隣の席にまで飛ぶほどの量とは到底思えない。

「コーヒーは、今びっくりしてこぼしちゃっただけです。順番がおかしいじゃないですか……!」

 震える声で女性客が主張する。助けを求めるように周りを見渡していたけれど、誰も関わりたくないのか、さっと目を逸らして俯く人ばかりだった。
 反論されたのが気に入らなかったのか、おじさんはますます顔を赤くして、見せつけるように自分のシャツの裾を持ち上げる。

「じゃあこれはなんだよ! シミついてんだろうが! ああ⁉」

 遠目でも見える茶色っぽいシミは、たしかにコーヒーの色に見えなくもない。
 しかし、目を凝らしたところで、「あれ?」と俺は違和感に気がついた。

「知りません……! 私じゃないです。監視カメラでもなんでも見ればいいじゃないですかっ」
「往生際が悪いんだよ! 謝ることもできねえのか!」
  
 震えながらも気丈におじさんを睨んでいた女性客が、一際大きい声で怒鳴りつけられて、怯んだように視線を泳がせる。
 彼女の視線が、カフェの入り口を撫でていく。店員さんから、その横にいる俺たちへ。
 目が合ってしまったら、もうだめだった。

「――あ、あ、あの! 違うと思います」

 緊張で喉が締まって、蚊の鳴くような声しか出なかった。興奮している様子のおじさんも、怯えている様子の女性客も、俺の声には気づかない。
 気づいてくれたのは、俺の近くにいる大狼先輩たちと、入り口で迎えてくれたこの店の店員さんだけだった。

「何か知ってるんですか、お兄さん」

 サッと話を振ってくれた店員さんに、俺は恐る恐る頷き返す。

「さっきカレー屋にいた時、あのおじさんの服にシミがついてたのを見ました。多分、カレーが跳ねたんだと思います」
「行きましょう。すみませんけど、皆さんちょっとついてきてください」

 きりりと表情を引き締めて、店員さんが俺を促しながら足早におじさんの方へと近づいていく。

「お客様。奥の方でお話を聞かせていただけますか」

 店員さんが毅然と声を掛けると、おじさんはうるさそうに、女性客は泣きそうな顔で、それぞれ俺たちの方を振り返る。
 
「ああ? 話なんてすることねえよ。見りゃ分かんだろうが!」
「でしたら、そちらの汚れですけれど、念のため匂いを確かめてみていただいてもよろしいですか」
「はあ? なんで俺がそんなことしなきゃいけねえんだよ」
「コーヒーの汚れとは限りませんので」
 
 喧嘩腰な店員さんは、見ているとハラハラする。

「俺が嘘ついてるって言いたいのか!」

 おじさんが唸ると、そんな空気を宥めるように、俺の後ろからひょいとカレー屋の店員さんが顔を出した。

「違いますヨ。でもうっかりしちゃうこと、誰でもありますからね。分かりませんからね。はい、お客サマ。さっき定期入れ、カレー屋に忘れていきました」
「……ふん! だからなんだよ」

 お礼も言わず、ぶんどるように定期入れを受け取って、おじさんは苛立ったようにこちらを睨む。後ろに大狼先輩の顔を見つけたせいか、先ほどのように掴みかかってこようとする気配はなかった。
 ごくりと唾を呑み込んで、俺は恐る恐る口を開く。
 
「あの、その、さっき、つ、机に」

 全身が竦んでいた。舌がもつれて、うまく話せない。
 後ずさりしかけたそのとき、励ますように大狼先輩が背に手を添えてくれた。おかげで、少しだけ息がしやすくなる。
 後の言葉は、つかえることなく口からするりと出てきた。

「……っ、さっきのカレー屋で、机に裾を引っ掛けていましたよね。その時に定期入れを落とされたと思うんですが、裾が汚れていたのを見ました。多分、そのときの汚れじゃないでしょうか」
「なんだと?」

 面倒臭そうにしながらも、おじさんはしぶしぶとシャツに鼻を近づける。途端におじさんはカッと顔を赤くした。多分、コーヒーの匂いではなく、カレーの香りがしたのだろう。わなわなと肩を震わせるおじさんを、カレー屋の店員さんとこの店の店員さんが、サッと息の合った動きで取り囲む。
 
「大丈夫ですヨ。うっかりしちゃうこと、誰でもありますからね。僕、シミ落としにいいの、持ってます。おすすめです」
「シミを落とすなら早いほうがいいですよね。どうぞ奥をお使いください、お客様」
「あ、ああ……」
 
 おじさんが怯んだ隙に、カレー屋の店員さんと、この店の店員さんは、あれよあれよとおじさんを丸め込んで店の奥へと連れて行く。
 おじさんの姿が完全に見えなくなったところで、嫌な静けさがあった店内には、ゆっくりと話し声が戻ってきた。
 震える女性客を気遣うように、別の店員さんが布巾と試供品らしき小さなカップを持って近づいてくる。素早くテーブルを片付けて、店員さんは一言、二言女性客に声を掛けると、また別の客の元へと試供品を届けに行った。

「……出るか」
「そうですね」

 大狼先輩と顔を見合わせて、俺たちはどっと疲れた気分で背を翻す。そのとき、「あのっ」とか細い声が後ろから聞こえてきた。

「さっきはありがとうございました」
「いえっ、そんな」
 
 涙声でお礼を言ってくれた女性客に、何と言えばいいかも分からず、俺はおろおろと両手を挙げる。

「俺もカレー屋でさっき絡まれたんです。その……災難でしたね。あんなに怒鳴らなくてもいいのに」

 しどろもどろに声を掛けると、女性客はますます目を潤ませてしまう。目に溜まった涙がいつこぼれてしまうかと思うと気が気ではなかったけれど、女性客は指でサッと涙を拭うと、控えめな笑みを浮かべてくれた。

「高校生ですよね? どこの高校ですか? 良かったら名前を――」
「――名乗るほどじゃないですから」

 女性客が何かを言いかけたそのとき、大狼先輩が遮るように口を開いた。まるでそれ以上話してほしくないとでも言うような、大狼先輩にしては強引な被せ方だった。
 
「行こう、日辻。さっきの人が戻ってこないうちに出た方がいい。そっちのあなたも」
「あ、そうですね」
「たしかに!」

 俺と女性客は同時にハッとして、慌ただしく出口へと足を向ける。レジで会計している女性客と会釈をし合って別れたあとで、俺と大狼先輩は自転車置き場に向かって早足で歩いていく。
 さんさんと午後の日差しが降る散歩道を、自転車で並んで走りながら、俺は大狼先輩にへらりと微笑みかけた。

「最後の最後になかなかびっくりしましたね」
「ごめんな。いつもはのんびりした店なんだけど」
「どこでもああいうことってありますよ。大狼先輩が謝ることじゃないですって! それに大狼先輩、すごく格好良かったですよ。店員さんもお客さんたちも、ヒーローが来てくれた気分だったと思います。もちろん俺も!」
「大袈裟だな」
「大袈裟じゃないです! カレー屋のときなんて、後光が差してみえましたもん」
 
 拳を握りたい気分で力説しつつ、それに比べて俺の情けなさといったら、と悲しくなった。

「俺はびくびくすることしかできませんでした。ビビりで本当、嫌になります。大狼先輩みたいにかっこよく動けるようになりたいですよ」
「俺みたいにならなくたって、日辻は元々かっこいいだろ」
「へ?」

 初めて言われた。きょとんと大狼先輩を見つめると、大狼先輩は目をきらきらと輝かせながら、どこか懐かしむように語り出す。

「優しくて、周りをよく見てる。みんなが見ないふりをするところでも、日辻はなんとかしようって頑張ってくれる。さっきだって、服のシミはあの子のせいじゃないって庇ってあげてたじゃないか」
「でも俺、割って入ることも、まともに声出すこともできなかったですし……」
「でも、目を逸らさなかった。日辻だって怖かっただろうに、勇気出して話をしてたじゃないか。すごいことだと思う。あの子だってきっと嬉しかったはずだ」

 優しい目を向けられて、どうしようもなく心臓が乱れた。
 そんな風に言ってもらったのは、本当に初めてのことだった。俺はどうしようもないビビりだから、頼まれごとはうまく断れないし、誰かに絡まれたって毅然と言い返すなんてできやしない。困っている人をヒーローみたいに助けるなんてことは、とてもじゃないけれどできなくて、自分が見たことを話すだけで精一杯なのだ。
 その精一杯のことにしたって、困っている女性客と目があってしまったから、逸らす方が怖くてやったことなのに。
 ……でも、まわりから見たらきっと情けないことだろうけれど、俺にとっては、たしかに自分なりの勇気が必要なことだった。

「……っ、ありがとうございます」

 大狼先輩の言葉が嬉しくて、うっかり目頭が熱くなる。自分の嫌いなところを、優しく抱きしめてもらった気分だった。
 潤んだ目をごまかすように、俺はへらりと笑みを浮かべる。
 
「へ、えへへ……、俺でも役に立てたなら、嬉しいです」

 うん、と穏やかに頷いて、大狼先輩は噛みしめるように呟いた。
 
「俺を助けてくれたときと同じだ。日辻はやっぱり、優しいよ」
「え? 助けた……ですか?」

 何かしただろうか。首をひねってはみたものの、思い当たることはなかった。そもそも大狼先輩と会ったのだって、夏休みが初めてのはずだ。
 
「……ごめんなさい。覚えてないかもしれません」

 正直に謝ると、「いいんだ」とおかしそうに大狼先輩は目元を和らげた。
 
「今日みたいに、きっと日辻にとっては当たり前のことだったんだろうな。日辻のそういうところ、すごく好きだよ」
「うぇっ? しゅっ⁉」

 ストレートすぎる言葉に、顔どころか全身まで一気に熱くなる。
 柔らかく微笑んだ大狼先輩は、頷きながら「ああ、尊敬する」とごく当たり前に言葉を足した。

「あ……、そ、そうですよね」
 
 当たり前だ。好きというのは、人間的にということだ。
 そりゃそうだ。ほんのり残念な気持ちになりながら、俺はわたわたと言葉を返す。
 
「俺も大狼先輩のかっこよくて優しいところ、すごく好きです! 自分の顔のこと気にして、わざわざ人のいないところ行ったり、本当は優しいのに、わざと怖い人のふりしてみたり……誰かのために動けるところ、すごく憧れます」
「……気づいてたのか。言われると恥ずかしいな」

 お互い、なんとなく照れながら笑い合う。
 きらきらと差す陽の光が眩しくて、散歩道を囲む木々の葉っぱも目に焼き付くくらいに鮮やかで、なんとなく俺は、今日のことをずっと覚えているだろうなと思った。