羊くんと狼先輩の交換日誌

 大狼先輩が連れて行ってくれたのは、登山口のそばにある、こじんまりとしたインドカレー屋だった。辛さのレベルが五段階選べる上に、とにかくかぐわしいカレーの香りがそこら中に漂っているものだから、腹ペコの俺にはもう堪らない。
 周りを見れば、俺たちと同じくハイキング帰りと思わしき人たちが、皿から溢れるほどの巨大なナンをおいしそうに貪っていた。
 迷いに迷った挙句、俺はほうれん草と肉の入ったサグチキンカレー、大狼先輩は王道のバターチキンカレーを注文した。

「はーい、マンゴラッシー、サービスね! サモサもあげる」
「ありがとうございます」
「うちのカレー、おいしいからね。たくさん食べてね」

 インド系のフレンドリーな店員さんが、カレーと一緒に、頼んだ覚えのないラッシーやらサモサやらを気前よく机に置いていく。

「さすが大狼先輩のおすすめですね! すごくおいしそうです!」
「ああ……。でもそれ、本当に大丈夫か? ここのカレー、だいぶ辛いぞ」
 
 大狼先輩は、俺が頼んだ辛さレベル最大のサグチキンカレーをこわごわと見つめて心配してくれる。さっそくナンをちぎりつつ、俺は「大丈夫です」と自信満々で頷いた。

「俺、カレーはしっかり辛い方が好きなんです。割と辛党な方なので」
「ああ、うん。知ってるよ。コラボカフェでも灼熱チキンに山ほどタバスコかけてたもんな……」
「大狼先輩も一口食べますか? まだ口をつけてないので、よければどうぞ」
「じゃあ、いただきます」
 
 勧めてみると、怖いものみたさなのか、大狼先輩はスプーンで緑色のカレーをひとさじ掬って口に運んだ。大狼先輩の反応は劇的で、大袈裟なくらいに顔をしかめたかと思うと、素早くマンゴーラッシーに手を伸ばしている。

「……っ、辛すぎる……!」
「そんなにですか。……あ、やっぱりおいしいですね! 本格派っていうか、スパイスの香りがすごくいいです」
「すごいな、日辻」

 大狼先輩のカレーも一口味見をさせてもらったけれど、濃厚で甘みの強いおいしいカレーだ。
 それぞれのカレーをぺろりと平らげたところで、俺はお手洗いに立つ大狼先輩を見送り、のんびりと水を飲んでいた。
 楽しいハイキングとおいしいカレーで幸せな気分でいられたのもそれまでだった。ガシャンと乱暴にスプーンを置く音が聞こえたと思ったら、隣からいきなり不穏な声が聞こえてくる。

「おい。マズすぎるだろ、このカレー。どうなってやがる」
「スミマセン、お客サマ。お口、合わなかったですか」
「合わねえも何も、味がおかしいだろっつってんだよ!」

 机を派手に叩いて、隣の客は店員さんに向かって声を荒げ出す。

「てめえみたいな日本語もおかしいやつじゃ話になんねえんだよ! 店長出せ店長!」
「落ち着いて、お客サマ。みんな怖がるよ」
「俺は落ち着いてるっつーの!」

 どんどんとヒートアップしていく怒鳴り声に、店内の空気は一気に張り詰め、息苦しいくらいになっていた。下手におじさんを刺激したくないのか、誰も話をしていない。なんならこそこそと会計を済ませて店を出ていく人もいた。
 動くに動けない俺は、逃げるわけにも行かないので、仕方なしにそろりと隣の怒鳴り声の主を窺ってみた。
 見た目はどこにでもいそうな普通のおじさんだ。俺たち同様に山帰りなのか、くたびれた白いシャツが汗で濡れている。カレーが跳ねたと思わしき新鮮な茶色のシミが裾についているのが、ちょっぴり気の毒だった。
 こんな風に人前で喚くような怖い人には見えないのに、いったいどうしたというのだろう。
 そんな風に様子を窺っていたのが運の尽きだ。不意に、おじさんはぐるりと俺の方へと首を回すと、「ああ?」と歯を剥きだしにしてきた。

「何見てんだ、てめえ」
「す、すみません……!」
「聞こえねえよ! 馬鹿にしてんのか⁉」

 顔を真っ赤にしたおじさんは、椅子を蹴倒すようにして立ち上がるなり、俺に向かって手を伸ばしてきた。
 厨房から店長らしき人が顔を出す。横からは先ほどの店員さんが止めようとしてくれるのが見えたけれど、残念ながらおじさんが俺に手を出す方が早いだろう。
 ああ、ついてない。
 胸倉を掴まれかけた俺は、恐怖と諦めで目を閉じようとした。しかし、もうだめだと思ったその時、力強い手がサッと場に割り込んでくる。

「連れが何かしましたか」
 
 おじさんの手首を掴み、見たこともないくらい怖い顔で眉根を寄せているのは、大狼先輩だった。

「俺の後輩なので、何かあれば俺が話を聞きます」
「な、な……」
「やめませんか。乱暴するの。飯屋は飯を食うところっすよね」
 
 いきなり手首を掴まれたおじさんは、はじめは大狼先輩に食ってかかろうとしたようだけれど、淡々と話す大狼先輩の迫力に呑まれたらしい。みるみるうちに先ほどまで勢いをなくしていくと、「そんなつもりじゃなかった」だの「なんて野蛮な」だのとぶつぶつ小さな声で呟いて、小さく背を丸めてしまう。
 大狼先輩が手を放すなり、おじさんはうつむいたまま、レジの方へと早足で逃げてしまった。
 おじさんが店の外へと出ていくと同時に、ふっと店内の空気が緩んでいく。へなへなと肩の力を抜いて背もたれにもたれる俺を、大狼先輩は心配そうに見つめてくれた。

「大丈夫か、日辻」
「平気です。ありがとうございます、大狼先輩」

 思わずひしと大狼先輩の手を握り、俺は拝みたい気持ちで先輩の顔をまっすぐ見上げた。何をするか分からないおじさん相手に、あんなふうに毅然と振る舞えるなんて、やっぱり大狼先輩はすごい人だ。こんな風になれたらどれだけいいか。頬が熱くなるのが自分で分かる。

「大狼先輩、さすがです……! 頼りがいがありすぎます! アニキって呼びたいくらいです!」
「アニキはやめてくれ」
「かっこよかったよ、お兄サン! ありがとねー」

 ぬるりと会話に入り込んできた店員さんが、ばしばしと褒めたたえるように大狼先輩の背中を叩いた。当の大狼先輩はといえば、凶悪な目つきでそっぽを睨んでいる。でも、この顔が照れているときの顔だというのは、もう知っているのだ。
 落ち着かない様子で目を泳がせていた大狼先輩だけれど、不意に何かに気づいたように床へ視線を落とすと、「なんだこれ」と訝しげに何かを拾い上げた。
 年季の入った定期入れだ。中には先ほどのおじさんの免許証と、有効期限内の定期券が入っている。

「さっきのおじさん、落としちゃったんですかね」
「あー……、困るね。取っておくと、盗んだって言い出すよ。アノ人、多分、近くのカフェにいるからね。届けてくるよ」

 横から覗き込んできた店員さんは、あからさまに嫌そうな顔をしながらそう言った。

「いつもソウ。ウチでカレー食べましたら、カフェでコーヒー飲む。そういう習性。そろそろ出禁したいケド、たまにいい人のときもあるから、困りますね」

 どうやらあのおじさんは常連らしい。でも、一度怒鳴られただけの俺でも怖かったのだから、何度もああやって理不尽なクレームをつけられていたら、店員さんもたまったものではないだろう。そろりと両手を組んだ店員さんは、何かを期待するようにじいいっと大狼先輩を至近距離で見つめる。

「お兄サン。近くだから、一緒に来ませんですか? あなた、怖いし強い。守り神。安心します」
 
 多分、さっきおじさんに対抗できた大狼先輩にも一緒に来てほしいのだろう。気持ちはよく分かる。
 かわいそうになるくらい切実な目にうろたえたのか、大狼先輩が困ったように俺の方を見る。

「……少し付き合ってもいいか、日辻」
「もちろんです! お会計だけしたら行きましょう」
 
 手早く会計を済ませた俺たちは、店員さんに連れられて、隣の通りのチェーン店へと足を運んだ。店員さんの予想どおり、ガラス張りの窓の向こうには先ほどのおじさんの姿がちらりと見える。しかし、コーヒーをゆっくり飲んでいるにしては目がつり上がっているし、何やら興奮したように忙しなく口を動かしているように見えた。

「なんか、また揉めてませんか」
「隣の女性客と揉めてるな」
「珍しいネ。あの人、この店だといいお客サンになるはずなのに」

 三人で顔を見合わせて、俺たちは意を決してチェーン店の扉をくぐった。ちりんと軽やかな鈴の音が鳴る。

「いらっしゃいませー! ……あれ、シンハさん? どうしたの」

 制服を着た店員さんは、カレー屋の店員さんを見るなり口調を崩した。どうやら知り合いらしい。シンハさんと呼ばれたカレー屋の店員さんは、困ったようにおじさんの定期入れを顔の前に掲げた。

「どうも。例のおじさんの落とし物、届けに来たヨ。さっきうちにも来たからね」
「あー……、なるほど。おつかれさま。でも今は行かないほうがいいかも」

 店員さんが気まずそうに店内を見たと思ったら、その直後に聞き覚えのある怒鳴り声が響いてきた。

「――どうしてくれるんだよ! あんたがコーヒー飛ばしたんだろうが! 見ろ、このシミ!」