空は快晴。まだ朝九時ということもあってか、気温はそこまで暑くない。まさに絶好の登山日和だ。
街の喧騒から離れた緑の中で、俺はしっかりと帽子をかぶり直して、目の前にそびえ立つかがりび山をこわごわと見上げた。普段はどこに行っても視界に入ってくる小さな山も、いざ麓に来てみるとなかなかの迫力だ。
「かがりび山って、下から見るとこんなに大きいんですね」
「そうだな。ここは緑が豊かだから、余計に大きく見える」
ほえーっと間抜けに山を見つめる俺とは真逆に、大狼先輩は「トイレと自販機はここが最後だから」と落ち着いた様子で教えてくれた。
大人びた振る舞いもさることながら、今日の大狼先輩の装いはスポーティーで格好いい。運動できる格好と言われて、迷わず高校指定のジャージを選んだ俺とは雲泥の差である。見ていると、この光景を切り取っておきたい気分になってきた。
「先輩、撮ってもいいですか」
「……俺を?」
カメラを取り出しながら問いかけると、大狼先輩は思いもかけないことを言われたとばかりに目を泳がせたものの、苦笑しながら頷いてくれた。
「一眼レフ、買ってもらったってLINEで言ってたもんな。俺で練習になるなら、どうぞ」
「ありがとうございます!」
許可をもらうなり、俺は新品のカメラをいそいそと構え、かがりび山をバックに大狼先輩の写真をパシャリと撮った。
初心者向けのデジタル一眼レフカメラは、写真同好会に入ることになった次の日に、親が電気屋で買ってくれたものだ。スマホのカメラで十分だと主張したのだけれど、せっかく部活動をする気になったんだからということで、父が張り切って選んでくれた。
形から入るやつみたいでちょっと照れくさいけれど、いいカメラのおかげか、俺みたいな素人でもきれいな写真が出来上がるので、撮るのがますます楽しくなった。
「撮れました!」
カメラを掲げてピースする。大狼先輩はひとつ頷いて、「行こうか」と登山口へ案内してくれた。
かがりび山・登山口と書かれた古い看板を超えて歩いていくと、どんどんと空気が涼しくなる。整備された登山道は緩やかで、ジョギングでもするみたいに走っている人もいれば、家族連れで楽しそうに歩いている人たちもたくさんいた。
九月に入ったというのにまだまだセミは現役らしい。ツクツクホウシが鳴いていた。鮮やかな緑色の葉をつけた木々と、澄んだ空気が心地よい。
「なんか、いいですね。森林浴ってこういう感じなんですかね。きついんですけど、気持ちいいです」
汗を拭いながらしみじみ呟くと、大狼先輩は鋭い眼差しをほんのり和らげ、「だろ?」と嬉しそうに応えてくれた。
「植物も動物も、街で見かけるものとは変わるから面白いよな。最初はきついんだけど、結構ハマる」
「分かるような気がします。……あ、トカゲ」
「本当だ。初めて見た」
警戒心のないトカゲは、七色に見えるつやつやの体をちょろちょろと動かし、大狼先輩の近くで動きを止めた。こういうときこそ写真の撮り時なのではないかと思い、慌てて俺はカメラを構える。
しかしシャッターを切った瞬間、意地悪なトカゲは示し合わせたかのように、サッと草むらの方へと逃げてしまった。
「あっ、そりゃないよ!」
ブレにブレた写真を見ながら嘆いていると、大狼先輩がついついといった様子で笑い出す。
「笑わないでくださいよ、大狼先輩」
「悪い。でも日辻、真剣にやってる割には動きがのんびりすぎて」
「そういうこと言うと撮りますよ」
「どうぞ」
笑いを隠せていない大狼先輩にピントを合わせて、俺は腹立ちまぎれに連続シャッターを切る。
ひとしきりじゃれ合ったところで、大狼先輩はほんのり意地悪な顔をして、人差し指で俺の帽子の上を指さした。
「俺より日辻の頭の上の方が撮りがいがあると思う」
「頭の上……? うわっ、カマキリじゃないですか! 言ってくださいよ早く!」
そんな調子で、見慣れぬ虫を見ては騒いでみたり、大狼先輩の登山話を聞かせてもらったりしているうちに、山頂まで登り切るのはあっという間だった。初心者向けというだけあってか、登り始めてから一時間くらいで着いた気がする。
階段になっている登山道を登り切るなり、辺りの景色が一気に開けた。
「わあ……!」
ほんのり煙って見える水色の空の下には、遠く小さく見える街並みが広がっていた。
ざあ、と吹きつけてくる風が、汗ばんだ体に心地よい。達成感と気持ちのよさに浸っていると、横から大狼先輩が穏やかに声を掛けてきた。
「初登頂おめでとう、日辻」
「ありがとうございます! 大狼先輩もお疲れ様です」
にこにこと互いに労い合ったところで、大狼先輩は促すように手で何かを指し示す。
大狼先輩の手の先には、『かがりび山・山頂』と書かれた看板があった。ポケットからスマホを取り出して、大狼先輩は俺を看板の横へと誘導する。
「撮るよ。登頂記念に」
「ありがとうございます。……あのっ、よければ先輩と一緒の写真もいいですか?」
促されるまま一枚写真を撮ってもらったあとで、せっかくならと思って頼んでみた。
「もちろん」
「ありがとうございます! ちょっと待ってくださいね。……ええと」
大狼先輩が頷いてくれたことを確認するや否や、俺はすっかり浮かれながら、きょろきょろと辺りを見渡した。
「すみません。写真を撮っていただけないでしょうか」
近くにいた登山客のおじさんを呼び止める。普段だったら知らない人に声を掛けるのはなかなかハードルが高いのだけれど、初めて山を登りきれた興奮のせいか、今だけは羞恥も感じなかった。
夫婦で来ているらしいおじさんは、「はい、写真ね。いいですよ」とにこやかに頷いてくれる。
「せっかくならお手持ちのカメラの方で撮りましょうか」
「いいんですか?」
「ええ。僕もよくかがりび山には写真を撮りに来ますから。……お、ニコン。僕と同じだ」
嬉しそうに俺のカメラを検分するなり、おじさんはてきぱきと手慣れた様子でカメラを構える。
「三、二、一……はい、笑ってー!」
「へへ……、ありがとうございます」
「ありがとうございます」
大狼先輩と並んでおじさんに礼を告げ、撮ってもらった写真をじっとふたりで覗き込む。
青空と街並みをバックにして、俺も大狼先輩もきっちり笑顔で映っていた。パッと顔を上げて、俺はにこにこと大狼先輩に微笑みかける。
「あとでLINEに送りますね」
「ありがとう。……せっかくだから、休憩がてら山頂の写真も撮ってみたらどうだ?」
「あっ、そうですね。せっかくですし!」
大狼先輩の厚意に甘えて、俺はぐるりと山頂を回って景色の写真を撮ってみた。
人や虫の写真と比べると、景色の写真はいまいち何をどう撮っていいのか分からない。広告や雑誌で見かけるような臨場感のある写真というのは、案外難しいものなのだなあとよく分かる。
依頼だからといってほいほい見栄えのいい写真を撮っていた『海の旅路』の主人公には、きっと天賦の才があったに違いない。
ざっと何枚か撮ったところで、かがりび山・山頂と書かれた看板の前に戻ってみたが、大狼先輩はそこにはいなかった。
どこに行ったのだろうと不思議に思ったそのとき、近くで子どもがぐずる声が聞こえてくる。
「あのおにいちゃん、こわいー!」
「しっ。そういうこと言わないよ」
漏れ聞こえてくる話の内容から、なんとなく察せられるものがあった。
多分、泣いている子と運悪く目が合ってしまったか何かで、大狼先輩は人目につきにくいところに移動したのではないだろうか。
(さっき、木の後ろの方にベンチがあったよな)
眺めが良い方とは逆側に、人気のない展望用の場所があった気がする。
足を運んでみると、思ったとおり、大狼先輩は展望台の手すりに肘をついて景色を眺めていた。どことなくしょんぼりとした顔つきが気の毒で、俺はそっとカメラを構えると、わざと足音を立てて展望台の方へと近づいていく。
「大狼先輩!」
声を掛けながら、大狼先輩が振り向くまでに何回かシャッターを切ってみる。すると、期待どおりに大狼先輩は呆れたような苦笑いを浮かべて迎えてくれた。
「俺を撮っても仕方ないだろ。景色を撮ったらどうだって言ったのに」
「景色もきれいなんですけど、山と大狼先輩、ぴったりなんですもん」
大狼先輩の顔から悲しそうな気配が消えたことにほっとしながら、俺は「景色もばっちり撮れたので大丈夫です」とカメラを見せつける。
「ハイキングっていいですね。登る間も登ってからも楽しいですし、景色もいいし……。連れてきてくださってありがとうございます、大狼先輩」
「どういたしまして。楽しんでもらえたならよかったよ。……もう少し休むか?」
「いえ。そろそろ下山しませんか? 実はもう俺、お腹が空いてきちゃって」
言った端から、腹の虫が存在を主張するようにぐうと鳴く。
「……本当だな」
「すみません」
吹き出すように笑った大狼先輩は、軽く伸びをして展望台に背を向ける。
「行こうか。下におすすめの飯屋がある。運動した後に食べると最高にうまいんだ」
「楽しみにしてます!」
下り道は風が余計に気持ちよくて、下山には登りの半分の時間もかからなかった。
街の喧騒から離れた緑の中で、俺はしっかりと帽子をかぶり直して、目の前にそびえ立つかがりび山をこわごわと見上げた。普段はどこに行っても視界に入ってくる小さな山も、いざ麓に来てみるとなかなかの迫力だ。
「かがりび山って、下から見るとこんなに大きいんですね」
「そうだな。ここは緑が豊かだから、余計に大きく見える」
ほえーっと間抜けに山を見つめる俺とは真逆に、大狼先輩は「トイレと自販機はここが最後だから」と落ち着いた様子で教えてくれた。
大人びた振る舞いもさることながら、今日の大狼先輩の装いはスポーティーで格好いい。運動できる格好と言われて、迷わず高校指定のジャージを選んだ俺とは雲泥の差である。見ていると、この光景を切り取っておきたい気分になってきた。
「先輩、撮ってもいいですか」
「……俺を?」
カメラを取り出しながら問いかけると、大狼先輩は思いもかけないことを言われたとばかりに目を泳がせたものの、苦笑しながら頷いてくれた。
「一眼レフ、買ってもらったってLINEで言ってたもんな。俺で練習になるなら、どうぞ」
「ありがとうございます!」
許可をもらうなり、俺は新品のカメラをいそいそと構え、かがりび山をバックに大狼先輩の写真をパシャリと撮った。
初心者向けのデジタル一眼レフカメラは、写真同好会に入ることになった次の日に、親が電気屋で買ってくれたものだ。スマホのカメラで十分だと主張したのだけれど、せっかく部活動をする気になったんだからということで、父が張り切って選んでくれた。
形から入るやつみたいでちょっと照れくさいけれど、いいカメラのおかげか、俺みたいな素人でもきれいな写真が出来上がるので、撮るのがますます楽しくなった。
「撮れました!」
カメラを掲げてピースする。大狼先輩はひとつ頷いて、「行こうか」と登山口へ案内してくれた。
かがりび山・登山口と書かれた古い看板を超えて歩いていくと、どんどんと空気が涼しくなる。整備された登山道は緩やかで、ジョギングでもするみたいに走っている人もいれば、家族連れで楽しそうに歩いている人たちもたくさんいた。
九月に入ったというのにまだまだセミは現役らしい。ツクツクホウシが鳴いていた。鮮やかな緑色の葉をつけた木々と、澄んだ空気が心地よい。
「なんか、いいですね。森林浴ってこういう感じなんですかね。きついんですけど、気持ちいいです」
汗を拭いながらしみじみ呟くと、大狼先輩は鋭い眼差しをほんのり和らげ、「だろ?」と嬉しそうに応えてくれた。
「植物も動物も、街で見かけるものとは変わるから面白いよな。最初はきついんだけど、結構ハマる」
「分かるような気がします。……あ、トカゲ」
「本当だ。初めて見た」
警戒心のないトカゲは、七色に見えるつやつやの体をちょろちょろと動かし、大狼先輩の近くで動きを止めた。こういうときこそ写真の撮り時なのではないかと思い、慌てて俺はカメラを構える。
しかしシャッターを切った瞬間、意地悪なトカゲは示し合わせたかのように、サッと草むらの方へと逃げてしまった。
「あっ、そりゃないよ!」
ブレにブレた写真を見ながら嘆いていると、大狼先輩がついついといった様子で笑い出す。
「笑わないでくださいよ、大狼先輩」
「悪い。でも日辻、真剣にやってる割には動きがのんびりすぎて」
「そういうこと言うと撮りますよ」
「どうぞ」
笑いを隠せていない大狼先輩にピントを合わせて、俺は腹立ちまぎれに連続シャッターを切る。
ひとしきりじゃれ合ったところで、大狼先輩はほんのり意地悪な顔をして、人差し指で俺の帽子の上を指さした。
「俺より日辻の頭の上の方が撮りがいがあると思う」
「頭の上……? うわっ、カマキリじゃないですか! 言ってくださいよ早く!」
そんな調子で、見慣れぬ虫を見ては騒いでみたり、大狼先輩の登山話を聞かせてもらったりしているうちに、山頂まで登り切るのはあっという間だった。初心者向けというだけあってか、登り始めてから一時間くらいで着いた気がする。
階段になっている登山道を登り切るなり、辺りの景色が一気に開けた。
「わあ……!」
ほんのり煙って見える水色の空の下には、遠く小さく見える街並みが広がっていた。
ざあ、と吹きつけてくる風が、汗ばんだ体に心地よい。達成感と気持ちのよさに浸っていると、横から大狼先輩が穏やかに声を掛けてきた。
「初登頂おめでとう、日辻」
「ありがとうございます! 大狼先輩もお疲れ様です」
にこにこと互いに労い合ったところで、大狼先輩は促すように手で何かを指し示す。
大狼先輩の手の先には、『かがりび山・山頂』と書かれた看板があった。ポケットからスマホを取り出して、大狼先輩は俺を看板の横へと誘導する。
「撮るよ。登頂記念に」
「ありがとうございます。……あのっ、よければ先輩と一緒の写真もいいですか?」
促されるまま一枚写真を撮ってもらったあとで、せっかくならと思って頼んでみた。
「もちろん」
「ありがとうございます! ちょっと待ってくださいね。……ええと」
大狼先輩が頷いてくれたことを確認するや否や、俺はすっかり浮かれながら、きょろきょろと辺りを見渡した。
「すみません。写真を撮っていただけないでしょうか」
近くにいた登山客のおじさんを呼び止める。普段だったら知らない人に声を掛けるのはなかなかハードルが高いのだけれど、初めて山を登りきれた興奮のせいか、今だけは羞恥も感じなかった。
夫婦で来ているらしいおじさんは、「はい、写真ね。いいですよ」とにこやかに頷いてくれる。
「せっかくならお手持ちのカメラの方で撮りましょうか」
「いいんですか?」
「ええ。僕もよくかがりび山には写真を撮りに来ますから。……お、ニコン。僕と同じだ」
嬉しそうに俺のカメラを検分するなり、おじさんはてきぱきと手慣れた様子でカメラを構える。
「三、二、一……はい、笑ってー!」
「へへ……、ありがとうございます」
「ありがとうございます」
大狼先輩と並んでおじさんに礼を告げ、撮ってもらった写真をじっとふたりで覗き込む。
青空と街並みをバックにして、俺も大狼先輩もきっちり笑顔で映っていた。パッと顔を上げて、俺はにこにこと大狼先輩に微笑みかける。
「あとでLINEに送りますね」
「ありがとう。……せっかくだから、休憩がてら山頂の写真も撮ってみたらどうだ?」
「あっ、そうですね。せっかくですし!」
大狼先輩の厚意に甘えて、俺はぐるりと山頂を回って景色の写真を撮ってみた。
人や虫の写真と比べると、景色の写真はいまいち何をどう撮っていいのか分からない。広告や雑誌で見かけるような臨場感のある写真というのは、案外難しいものなのだなあとよく分かる。
依頼だからといってほいほい見栄えのいい写真を撮っていた『海の旅路』の主人公には、きっと天賦の才があったに違いない。
ざっと何枚か撮ったところで、かがりび山・山頂と書かれた看板の前に戻ってみたが、大狼先輩はそこにはいなかった。
どこに行ったのだろうと不思議に思ったそのとき、近くで子どもがぐずる声が聞こえてくる。
「あのおにいちゃん、こわいー!」
「しっ。そういうこと言わないよ」
漏れ聞こえてくる話の内容から、なんとなく察せられるものがあった。
多分、泣いている子と運悪く目が合ってしまったか何かで、大狼先輩は人目につきにくいところに移動したのではないだろうか。
(さっき、木の後ろの方にベンチがあったよな)
眺めが良い方とは逆側に、人気のない展望用の場所があった気がする。
足を運んでみると、思ったとおり、大狼先輩は展望台の手すりに肘をついて景色を眺めていた。どことなくしょんぼりとした顔つきが気の毒で、俺はそっとカメラを構えると、わざと足音を立てて展望台の方へと近づいていく。
「大狼先輩!」
声を掛けながら、大狼先輩が振り向くまでに何回かシャッターを切ってみる。すると、期待どおりに大狼先輩は呆れたような苦笑いを浮かべて迎えてくれた。
「俺を撮っても仕方ないだろ。景色を撮ったらどうだって言ったのに」
「景色もきれいなんですけど、山と大狼先輩、ぴったりなんですもん」
大狼先輩の顔から悲しそうな気配が消えたことにほっとしながら、俺は「景色もばっちり撮れたので大丈夫です」とカメラを見せつける。
「ハイキングっていいですね。登る間も登ってからも楽しいですし、景色もいいし……。連れてきてくださってありがとうございます、大狼先輩」
「どういたしまして。楽しんでもらえたならよかったよ。……もう少し休むか?」
「いえ。そろそろ下山しませんか? 実はもう俺、お腹が空いてきちゃって」
言った端から、腹の虫が存在を主張するようにぐうと鳴く。
「……本当だな」
「すみません」
吹き出すように笑った大狼先輩は、軽く伸びをして展望台に背を向ける。
「行こうか。下におすすめの飯屋がある。運動した後に食べると最高にうまいんだ」
「楽しみにしてます!」
下り道は風が余計に気持ちよくて、下山には登りの半分の時間もかからなかった。

