甘くて小さい恋のおはなし

 黒板に『100点』の文字が書かれる。
 指先は温かくて、身体の強張りは一切ない。ひとりずつ名前を呼ばれて、先生から答案用紙をもらっていく。想像していたよりも点数が良かった人、点数が振るわなかった人、現状を維持している人。
 「永田ー」
 名前を呼ばれて立ち上がる。クラス中から「まぁ永田だろ」と聞こえてきても、もう動じなくなった。
 「今回もよくやった。最近調子いいな」
 受け取った答案用紙の右上には赤ペンで大きく100点と書かれている。だらしなく緩みそうになる口元を引き締めて、なんとか控えめな笑顔に作り直す。
 「そうですね。ちょっと勉強のコツが分かってきました」
 先生がにっこりと笑ったのを確認して自分の席に戻る途中、教室の真ん中に座る人物と目が合う。それだけで心臓が不規則に早鐘を打ち始めるから、どうしようもない。でももう、それを繕うことも、なかったことにする必要もなくなった。それだけでひどく心強い。
 放課後に進路希望調査を持って職員室へ向かう。そろそろ本腰を入れて自身の将来について考えなければいけない頃で、個人面談の機会もかなり増えてきた。自分の成績を見ないふりして高望みをすることを許される時期はとうに終わっている。
 「医学科希望だな」
 職員室の後方、赤本や学校パンフレットが並べられた指導スペースと呼ばれるところで、僕が書いた調査表に目を落としながら、先生はかけているメガネを少しだけずらした。担任の先生は最近老眼が始まってきたとかで、細かい文字を見るのに苦労しているらしい。この前三國に教えてもらった。
 「まぁ永田は親御さんがご立派な医師だしな。希望自体はなんら不思議なことじゃないし、今の成績なら充分目指せると思う」
 「ありがとうございます」
 進路の話をするにあたって、もう両親や家族のことに言及されるのは慣れっこだ。というか、僕の進路を考える上で両親のことを抜きにするのはほとんど不可能だ。前はそのことに対してやるせなさや憤りを感じることもあったけど、少しずつ前向きになれていると思う。
 「それはそうと永田、最近なんか良いことでもあったか?」
 突然先生が指導者の顔から近所の世話焼きおじさんの顔に変わる。調査表は机に置かれて、もう役目を終えてしまったらしい。
 「良いこと、ですか。どうしてまた」
 「良いことというか、変わるきっかけみたいなものでもあったのかと思ってな。成績が安定しているだろ。前までも好成績ではあったが、一度崩れると持ち直すまでに時間がかかっていた印象がある。最近は安定してほとんど満点に近い数字を出せているし、模試の成績も順調だ」
 あと、と先生が続ける。
 「かたさが取れたような気がするんだ。具体的にはうまく説明できないけど、余計な力が抜けたような。他のやつも気づいてるんじゃないかと思うんだが、何も言われなかったか?」
 「三國には最近楽しそうだねって言われました」
 「そうか。高校生活なんてすぐに終わるんだ、楽しむのが一番だからな」
 引き続き頑張れ、悩みがあったら教えてくれよ、と先生が締めて進路相談は終わった。僕が医学科を目指すことや今の成績について難色を示されることはなかったことに安心する。2年生半ばの進路相談なんてそんなもんかと拍子抜けしながら、足は駅に向かう。最近週に3〜4日は図書室で勉強をして、残りの日は場所を変えている。今日はその日だ。少しだけ早まる足を懸命に抑えながら目的の電車に乗る。今日は放課後に委員会の仕事と面談があったから、終礼からかれこれ1時間ほど経っている。電車は帰宅ラッシュに足を突っ込みかけていて、停車の度に多くの人が乗り込んできた。学校の最寄り駅から2駅のところで他の乗客に紛れて降りる。
 もう道には迷わなくなった。駅から少し歩いて、くねくねと曲がった道を進んでいく。今日は店番はおばあさんがやっていると連絡が来ていたから、自宅の方を目指す。親御さんは会社が繁忙期で帰るのが遅くて、輝くんは今日初めてのお泊り保育で一晩帰ってこないらしい。
 まぁ、だからなんだという話だけど。
 チャイムを押すとすぐにインターホンから「ういー開いてるから部屋まで上がっていいよー」と返事がある。あれほど鍵は閉めろって言ったのに、ドアを引くと何の抵抗もなくがちゃりと開いた。また説教だなと考えるけれど、ドアを開けると一瞬で好きな香りが僕を通り抜けていくせいで毎回全ての棘を抜かれてしまう。洗面台を借りて手を洗う。ハンドソープ、もうすぐなくなりそうだ。階段を上がって目当ての部屋に向かい、一呼吸置いてドアを開ける。制服から部屋着のパーカーに着替えて、部屋の真ん中に置いたローテーブルで今日の課題をやる大町くんが「遅かったじゃん」と言う。
 「面談今日だったから」
 「なんか言われた?」
 「特になにも。最近柔らかくなったねって言われた」
 僕の言葉に大町くんは一瞬目を見開いて、微笑む。両手を広げられて、吸い込まれるようにそこへ収まりに行く。
 「今日のテストも最高点だったんだろ? 頑張ったかいあったな」
 「うん」
 胸いっぱいに大町くんの香りを吸い込む。この人と付き合い始めてから実は匂いフェチだったのかもしれないと思うことが多々あるけれど、他の人の香りにはなんとも思わないからたぶん大町くん限定だ。ちょっと抱きしめる力が強くて骨が折れそうになることがあるのだけはいただけない。
 「キスしていい?」
 「いいよ」
 頬に手を添えられて軽く唇が重ね合わせられる。もう何度したかわからない。初めてじゃないのに、毎回きちんとお伺いをたてて僕の了承を得てからキスをしてくる。その丁寧さが嬉しい反面、少しもどかしい。
 「別に、いちいち訊かなくてもいいのに」
 もう付き合ってるんだし、と机の上に自分の分のテキストを広げながら言うと、大町くんが顎に手をあててお手本のような悩む素振りを見せる。
 「俺にキスされるってわかっててそれを受け入れようとじっとしてるお前がいいっていうか、まぁそんなとこだよ」
 平然と言わないでほしい。大町くんには恥じらいという感情が著しく欠落しているときがある。よくもそんなことを数学の問題を解きながら言えるな。
 強めの力でテキストのページをめくり、紙の風圧で熱くなった顔を冷ます。わかりやす、と僕の頬をつつく大町くんの手を振り払って、英語の予習を始める。
 問題を解く手は止まらない。最近、見るからに成績が安定し始めた。先生に言った通り、勉強のコツがわかってきたのはある。今までやっていた目の前の苦手をひたすらに反復していくという勉強方法を少し変えて、広く予習をするようにしたら先が見通せるようになって頭に入ってきやすくなった。
 それと。あまり大きな声では言えないけれど、こうやって大町くんと勉強をし始めたことが一番の要因だと僕は思っている。良い点を取ったら何の見返りもなく、手放しに大町くんが褒めてくれる。そこには嫌味もなければ義務感もない。僕がいい点数を取ったことを一緒に喜んでくれるのが嬉しくて、次も、次も、と目線が上がる。これまでひとりで孤独や焦燥感とともに勉強していたから、こうやって人の温もりがあることが新鮮で、毎日が楽しい。
 「あ、そういやさ。こないだ川持が織の作った紙ヒコーキの殺傷能力が高すぎるってゲラ笑いしてたけど、あれなんだったん?」
 「休み時間に川持くんたちが紙ヒコーキ作ってたから、三國と一緒に混ぜてもらって競い合ってたんだよ。大町くんが委員会でいなかったときだね。永田家秘伝の紙ヒコーキで僕が優勝した」
 「ばかだなぁ……。織って意外と子どもの遊び得意だよな。頭良いのにガキみてぇにバカなことやるからたまにびっくりすんだけど」
 「小さい頃から勝つために全力を尽くすのが好きだったからね。てかなんで自分だけ大人になった気でいるの。大町くんも十分ガキだよ」
 「うるせ」
 口を尖らせた大町くんが床に寝そべる。証明問題の途中で躓いてしまったのか、解答欄の半分程度のところでペンが投げ出されていた。
 「これ、わかんないの?」
 「わかんないし疲れた。最近織につられて俺史上最高に勉強頑張ってっから、頭はちきれそう」
 「成績上がったって言ってたもんね」
 「おー」
 えらい、と床に転がる頭を軽く撫でると、眠そうにしていた目が何かを思いついたのか急にぱちくりと開いた。
 「散歩行かね?」
 「……いいけど、どこまで行くの」
 「近所の神社。人いなくて静かだから好きなんだよな」
 急に立ち上がった大町くんに手を引かれてドタバタと家を出る。玄関を出たところで繋がれていた手がぱっと離され、少しだけ寂しさを感じる。僕たちのことはまだ誰にも言っていない。大町くんは変わらずクラスの中心にいるし、僕は比較的静かに教室の端にいる。普通に話すけれど特別仲が良いわけでもない、と、たぶんみんなは思っているだろう。別に知ってほしいわけでもないから、黙っている。
 独り占めみたいな感覚で、悪くはないし。
 「大町くんってさ、静かなとこ好きだよね」
 「まー……言われてみれば確かに。そうかも」
 これまで大町くんが僕に紹介してくれたお気に入りの場所は、人が少なくて静かなところばかりだった。最初は僕に気を遣ってそういう場所を選んでくれているのかと思ったけれど、どうやら違うらしい。
 しばらく大町くんに連れられるまま歩いて、10分ほど経った頃だろうか、住宅の切れ目の先に緑の葉をたくさんつけた木に囲まれた真っ赤な鳥居が現れた。30段ほどの石段を上がった先にあるそのコントラストの鮮やかさに、思わず一度瞬きをしてしまう。ベージュやグレーの外壁をした家ばかりだったから、そこだけ現実離れしているように感じる。
 「ここ。上あがろうぜ」
 石段は不揃いな石で構成されていて、突然狭くなったり広くなったりするから歩きにくかった。丁寧に一段ずつ転ばないように踏みしめながら歩いて、やっとの思いで鳥居の前に立つ。正面に小さな拝殿がある以外は何もない境内。端に寄って鳥居をくぐる大町くんに続いて、参道を歩いていく。気持ち程度の、短い道だった。
 「しょーじき、何の神様がいるか知らないんだよなぁ……」
 「稲荷って書いてあるから、商売繁盛とか家内安全とかそういう感じじゃないかな」
 「ほぇぇぇ、初知り。なんでそんなこと知ってんの」
 「僕の家の近くにもあるんだ。こんな雰囲気のあるとこじゃないけど」
 こう、なんていうか、もっと商魂たくましい感じの、と言うと、大町くんがふっと笑う。
 「ついてきて」
 大町くんがおもむろに僕の手を取って、そのまま拝殿の裏側に進んでいく。今まで大町くんに教えてもらった場所のどこよりも人がいない。木々と石と砂が、僕たちを騒がしい世界から切り離す。決して人が通る用に舗装されたわけじゃない道には砂利が敷いてあって、いくつか小石が靴の中に入ってきた。
 「ここ、よくね?」
 少しだけ冷たくなった風が、頬と耳を通り過ぎる。そういえばかなりの石段を登ってきた。小高い丘になっているのだろうこの地からは、小さくなった住宅街を一望できた。
 「俺、疲れたら毎回ここ来るんだよな。あるじゃん? そんなに嫌なことがあったわけでもないけど、なんか疲れたなーって日」
 「大町くんにもあるんだ?」
 「失礼な」
 ぺんっとデコピンを食らって、額が熱を持つ。
 「みんなと話してるのも楽しいんだけどさ、ひとりの時間も欲しいわけよ。家帰ったら賑やかだし、たまにこういうとこ来て酸素いっぱい吸ってるわけ。織にも教えといてやるから、なんかあったら来なよ」
 たぶんマイナスイオン出てるし、と迫る木の葉を見つめながら大町くんが静かに笑った。付き合い始めてから、こうしてふっと大町くんが大人みたいな顔をするのを見る。僕はそれがとても怖い。勉強ばかりしている僕を置いて、いつか大町くんが追いつけないくらい遠いところまで行ってしまうような気がしてならなくて。
 「うわ!」
 大町くんの襟元を強引に掴んで、少し乱暴なキスをする。たぶん、僕たちは真逆だ。生まれた家も、育った環境も、性格も、何もかも。
 だから、離れてしまいそうになる前にキスをする。そうしたら、ここにいるってわかるから。
 「こんなとこでキスって……見せつけんじゃん」
 「どうせ誰も見てないし、見えないでしょ。ゴマ粒だよ」
 ごう、と強い風が吹き抜ける。確かに、この風は疲れを吹き飛ばしてくれるかもしれないな。
 「てかさ大町くん、前に自分はなんも持ってないって言ってたけど、そんなことないよ。友だちもたくさんいるし、子どもたちからも慕われてるし、駄菓子屋のことちゃんと守って大事にしてるし」
 変なところで自分に自信がないところだけ、僕たちふたりは似ているのかもしれない。僕の言葉に歯切れ悪く「そうかぁ…?」と首をかしげる大町くんに自信を持たせるのは、長期戦になりそうだ。
 ぐしゃりと握ったせいでよれてしまった大町くんの襟元を直す。
 「大町くんさ、好きなお菓子、なに?」
 「え、くもパチ」
 「口の中で飴がパチパチする綿菓子?」
 「そそ。おもろいじゃん」
 「僕あれ怖くて食べられないんだよね」
 前に大町くんがくもパチを食べていた時、口の中からあり得ないくらいバチバチ飴が弾ける音がしていて怖かった。
 「あれ食いながらキスしたら面白いんじゃね?」
 「ほんとにやめて。殴られても文句言わないでよ」
 けけけ、と妖怪みたいに笑う大町くんを無視して砂利道を引き返す。
 「お菓子の話してたら食べたくなってきた」
 「おーいいな。糖分欲しいかも。ねりねり作る勝負しようぜ」
 「僕あれ作るの上手いよ? 超ふわふわの作れる」
 「言ってくれるじゃん。駄菓子屋の孫ナメんなよマジで」
 大町くんが勢いよく肩を組んでくる。自分より背の高い男に急に来られるとたまにふらついてしまうからほどほどの力加減にしてって言ったのに。言うことをきかない大型犬みたいだ。
 「ばーちゃんち行くか」
 「だね。前に大町くんがくれたなんでも券使お」
 「いつのやつだよ。大事に持ちすぎだろ」
 「そんなことないよ。あ、そうだ大町くん。ラムネ、またちょうだい」
 「いいけど、なんで」
 「好きだからだよ」
 君からもらったラムネを、これからも絶対、ポケットの中に入れておこう。
 強く手を握って、僕たちは駄菓子屋へ向かう。