甘くて小さい恋のおはなし

 今日で夏休みが終わる。あれから大町くんとはひとつも連絡を取っていない。一度だけ三國のバイト先のカフェに誘われてご飯を食べに行った以外は、自室で勉強して、ご飯を食べて、寝ての繰り返し。人との関わりが少ない生活に身体を慣らすのは大変だったけれど、これも全て自分への罰だと思えば受け入れらた。
 もう、『だがしや おおまち』に行くつもりはない。
 あの日、大町くんの同意もなしに自分勝手なことをした。壊れてしまう、嫌われてしまうと分かっていてしたことだったけれど、優しい大町くんは一切拒絶の色を見せずにこれまで通り接して、あろうことか輝くんの相手をしてくれたことに対して感謝を伝えてくれた。だから、僕はもう彼と関わってはいけない。こんな気持ちを抱えている以上、友だちでいられるわけはないし、これ以上近くにいると、いつか僕は大町くんや大町くんの家族に迷惑をかけてしまう。
 唇に指を添える。感覚を消し去ろうとする度、忘れるなよと釘をさすかのように柔らかな痺れがやってくる。戒めのために何度も唇を噛んでいたら、皮が剥けて血が出てしまった。

 「織くん、おはよ」
 「おはよ、三國」
 夏休み明け、いつもと変わらず登校すると珍しく三國が先に教室に着いていた。わざとらしく髪を左耳にかけて、深紅のストーンがついたピアスをきらきらと光らせている。
 「ピアス、先生が来たら隠しなよ」
 「もちろん。ホール、思ったより安定してていい感じだよ。織くんの腕がよかったのかもね」
 「そう。よかった」
 夏休みに三國からピアスホールを開けてくれと頼まれて、断る理由もなかったから二つ返事で了承した。人の体に穴を開けるなんて初めてのことだったけれど、穴を開けたことに子どものように喜んではしゃいでくれたおかげで思っていたほどの心理的ダメージはなかった。これから三國の耳にはもっとホールが増えていくだろう。あの人が理想、と示されたバイト先の先輩の耳には数え切れないほどのピアスがついていた。最初に開けた穴のことなんて、どうせすぐに忘れる。
 夏休みを終えたクラスの面々は、予想通りかなり浮ついていた。ピアスを開けた三國、別人のように日焼けをした運動部、彼氏ができてスマホの写真フォルダを友人に見せる手が止まらない女子、志望大学のオープンキャンパスに行って可愛い女子大生に声をかけられたと話す男子。どれも自分には関係のない世界だ。いたるところで弾んでいる会話に少しずつ耳を傾けながら、教室の真ん中だけは見ないようにする。
 「なぁ織くん、夏休み、ほんとにずっと勉強してたの?」
 「そうだね。他にやることもないから」
 僕の机に肘をついて、三國が口を尖らせる。
 「俺に声かけてくれたらよかったのに。織くんと海行ったりスイカ食べたりお泊りしたり色々やりたかった」
 いっぱい遊べる最後の年なのにさー、と軽く頬をつねられる。スイカ食べたり、お泊りしたり。聞きたくない笑い声が耳をつく。終わらせたのは自分なのに、どうしてこうも彼を探してしまうんだろう。
 「来年だって全く遊べないわけじゃないからさ。リベンジしようよ。僕から誘う」
 「えー、でも受験あるって考えたら思いっきりは遊べなくない?」
 「まぁ、しょうがないね」
 三國の左耳をじっと見つめる。太い針が貫通した耳たぶは何事もなかったかのように異物を受け入れていた。耳にひとつ装飾があるだけで随分と雰囲気が違って見えるものだ。僕もいつかは開けてみようかな、と考えていると、視界の端で見ないようにしていた集団が、少し騒がしくなる。
 「え、てかさ。夏休みに部活で南川町駅のとこ行ったら遊我と永田と、あとちっちゃい子ども見たんだけど、ふたりで遊んでたん? あの子ども誰?」
 教室の真ん中から突然自分の名前が聞こえてきて心臓が早鐘を打ち始める。大町くんの家の最寄り駅で、僕と大町くんを見たって。間違いなく僕が大町くんの家に泊まった次の日のことだ。輝くんがどうしてもお見送りに行きたいと言って駅まで一緒に来てくれたところを、見られていた。何も不思議なことじゃない。学校からは近いし、多くの人が使う駅だからクラスメイトと遭遇する確率は高いに決まっている。大町くんと夏休みに会っていたって、何かの罪に問われるわけじゃない。それが原因でいじめられたりクラスでの居場所がなくなってしまうわけでもないのに、なぜ僕はこんなにも焦っているのだろう。
 頭の中で、誰にも言うなよ、とあの日の声が響いている。
 理由は知らないけど、大町くんの身内が駄菓子屋を営んでいることを彼はクラスメイトには隠している。いまここで僕が事実を肯定してしまったら、彼が隠そうとしていたことを明かさないといけなくなる可能性が高い。彼と僕のつながりや関係は、あの駄菓子屋を抜けば不自然極まりない。肯定は、約束を破ることに直結してしまう。
 「な、永田。遊我と遊んでたん? そんなイメージなかったんだけど。仲良かったんなら言えよな! 教室では全くそんな感じしないのに」
 数人のクラスメイトの頭越しに、僕へ視線が飛んできた。大町くんの周りにいる4人全員がこちらを向く。中心の彼だけ、僕からふいと顔を逸らした。
 「それ、たぶん僕じゃないよ」
 驚くほど滑らかに、嘘が口から飛び出す。
 「僕、夏休みはあんまり外に出てなかったから人違いじゃないかな」
 僕が笑うと、じゃあ見間違いか、と4人はあっさりと納得してくれた。つまらなそうに頬杖をついて机を指でトントンと叩く三國は、窓の外を眺めている。
 「永田だと思ったんだけどなー。私服だとわからんよね。別の学校の友だちとか?」
 「そうだよ。中学の時のね。確かに背格好似てるかも。永田が俺なんかと仲良くしてくれるわけないって」
 内心で舌打ちをする。
 織、って呼んでくれていたくせに。
 なんだか、全てなかったことになったような気分だ。
 僕と大町くんが話すようになったこと、大町くんのおばあさんが営んでいる駄菓子屋で、たくさんの人と関わったこと、大町くんの家族が温かかったこと、僕が大町くんのことを好きだと思ってしまったこと。
 僕と大町くんしか知らないことは、僕たちが知らないフリをすればなかったことになる。
 それでいい。この感情は持っていてはいけないものだから。輪の中で笑う大町くんの唇に思わず視線が吸い寄せられそうになって、また僕は自分の唇をきつく噛んだ。

 朝のあの出来事以降、クラスメイトに大町くんとのことを追求されることはなかった。休み時間の度に大町くんの周りには何人もの人が集まって、防御壁を張られているような気さえした。中心で誰にでも平等に人好きのする笑顔を浮かべて、均等に話せるよう話題を振っていく大町くんに、ぎゅうと心臓が絞られるような感覚になる。一度認めてしまったらこれだから、たちが悪い。
 「永田〜呼ばれてるぞ〜」
 全ての授業が終わって、各々が解放感に包まれ始めたとき、廊下側から名前を呼ばれた。クラスメイトの男子の後ろに隠れているのは、隣のクラスの女子だった。ざわつく人たちをかき分けて三國が駆け寄ってきてくれる。
 「ねぇ織くん、あの子って」
 「いいよ、三國。行ってくるね」
 わざわざ教室にたくさんの人がいるタイミングで声をかけてくるなんてよく考えたものだ。向けられる好奇の目が痛くて仕方ない。
 「ごめんね、永田くん」
 僕よりも頭ひとつ以上小さい。ピンク色に染められた頬に、身長差を使って自然と演出された上目遣い。決して派手な子じゃないところが勇気を出してここまで来た健気な子という印象を皆に植え付ける。
 「ほな楽しんで〜」
 男子のからかうような視線。
 「永田くんみたいな人と付き合えたら将来安泰だよね」
 女子のやけに現実的な視線。
 どうしても娯楽の少ない高校生にとって恋愛事なんて恰好のエサに決まっている。足は進まないけれど、早くこの場から抜け出すために自分から話を切り出す。
 「どこがいい?」
 「図書室の、途中の階段のところがいい」
 よりによってあそこか。僕の秘密基地に入りこまれたような感覚がして拒絶したくなるけれど、指定されたものは仕方ない。どうせ乗らないと終わらないし。
 移動中、ほとんど会話はなかった。僕の数歩後ろを着いてくるのが精一杯な様子でトコトコと歩いてくるのには気づきながらも、あえて歩くペースを落とすなんてことはしない。
 「あの、ここでいい」
 呼び止められて振り返る。
 「私、永田くんのこと好きで、よかったら私と付き合ってほしいです。どうしても諦めきれなくて」
 僕の都合も知らず、一方的に告白される。小さな身体、短いスカート丈、丁寧にケアされているのだろう艶のあるボブの髪、校則に引っかからない程度の薄いメイク。
 右手をブレザーのポケットに入れると、かさ、と袋に手が当たった。あの日もらったラムネは、まだ食べずにポケットに入れている。僕より大きな身体に、短い髪、丁寧とは言えない振るまいに口調。真逆すぎていっそ笑えてくる。この子を好きになっていたほうが、きっと悩みは少なかっただろうな。
 「……またお母さんに言われたの?」
 僕の言葉に、早瀬さんの握りしめていた拳がゆっくりと開く。
 「うん」
 へら、と笑う顔が、痛々しい。
 「私が遠田くんと付き合ってたの、知ってる?」
 「知ってる。噂で聞いただけだけど、幸せそうだってみんな言ってたよ」
 「うまくいってたんだ。バレずにやっていけると思ったんだけどね、私たちが出かけてたの、お母さんの知り合いに見られてたらしくて。そこから聞いたんだってさ」
 何も期待していない、全てを奪われたような目は、女子高生には驚くほど似合わない。
 「将来が約束されてない子とは付き合うなって言われちゃった。永田くんみたいな大きな病院の子と付き合わないと、出かけるためのお小遣いもあげないからって言われて。ヤバい親だって遠田くんにも言われて、フラれちゃった」
 早瀬さんの目の端に涙が溜まる。ポケットの中で握ったラムネが、くしゃりと音を立てた。
 早瀬さんのお母さんは看護師で、昔付き合っていた人は早瀬さんを妊娠しているとわかると逃げてしまったらしい。元同期の中には医者と結婚した人もいて、今でも余裕のある生活をしているという。自分が苦しい思いをしたから、娘にはちゃんとした医者を捕まえて結婚してほしいと早瀬さんの恋人にあれこれ口出しをしている。1回目に告白された時、友人に早瀬さんのことを知っているか訊くとそう教えてもらった。返事をするときに早瀬さん本人に真偽を尋ね、「合ってる」と不器用な笑顔で認められたことは今でも忘れられない。
 「僕と付き合っても、幸せにはなれないと思うよ」
 「なんで」
 「ほんとに好きな人とじゃないと、楽しくないでしょ」
 両手をポケットにしまい込んで俯く。真面目な顔をしてこんなことを言うのは僕の柄じゃない。
 「びっくりした」
 「なにが」
 「永田くんってそういうこと言うんだと思って」
 「うるさいな」
 くふ、と早瀬さんが笑う。
 「どうしたの、前に告白したときはすげなく断られたのに」
 そういや前は本当に手酷く断った。大病院の息子だからという理由でひとつも僕を見てくれていないことに腹が立って、そこまで言わなくてもいいじゃないかということまで言った気がする。怒られて当然のことをしたけれど、お互い様だからといって今でも廊下ですれ違えば普通に挨拶をしてくれる早瀬さんは、本当に懐が深い。
 「僕、好きな人、できたんだよ」
 「そうなんだ。なんかごめんね。……付き合ってるの?」
 「付き合うとかは……まだだし、わかんないな。他の人には言わないでね」
 第一男だし、相手。ボロが出るのを防ぐため、これ以上の自己開示はしないでおく。すぐ噂になるんだから。
 「私たちさ、幸せになりたいだけなのにね」
 早瀬さんが足元を見つめながら言う。
 「ね」
 気の利いたことが言えなくてたった一音だけで済ませてしまう。こういうとき、大町くんだったらうまく言葉を返せるんだろうけど、僕には受け止めることしかできなかった。
 早瀬さんは今後どうしていくんだろう。お母さんのお眼鏡にかなう人を見つけるのか、それとも家を出て自由に恋愛をしていくのだろうか。連絡先を交換してまで彼女の行く先を辿るつもりはないから、幸せになってほしいと願うことしかできない。
 なんとなくこのまま図書室で勉強する気にもなれなくて、ふらりと校舎の外へ出る。じりじりと照りつけるような日差しが目に染みる。日陰を辿ってあてもなく歩いていると、いつだかの職員用駐車場のそばまで来ていた。
 「今日は泣いてねーんだ?」
 物陰から声がする。振り向くと、建物の陰にしゃがみ込んだ男がニヤケ面でこちらを見ていた。
 「……泣いてないよ。なんでここにいるの」
 「輝の迎え待ち。ちょっと時間余ったから散歩してた」
 そういえば、あの日も用事まで時間があるからとか言っていた。あれは輝くんのお迎え待ちだったのか。関係を絶たれても仕方ないことを一方的にした罪悪感から僕が必死に避けていた人物がまさか自分から声をかけてくるなんて思わなくて、次の言葉が出てこない。
 「……僕と話すの、嫌じゃないの」
 いつもと変わりない様子に思わず尋ねてしまう。
 「嫌なわけあるかよ。つか織、開口一番それ? 告白されるのなんか慣れっこってか?」
 モテ男はちがうねぇと大町くんがスマホに目を落とす。嫌味たっぷりの言い方は大町くんらしくない。手に持っていたカバンを大町くんの隣にどんと置いて、隣に立って並ぶ。膝のあたりにある大町くんの頭は夏休み中と違って、整髪料でこざっぱりとスタイリングされている。
 「今回のは、告白っていうか、大町くんが想像してるようなのと違うよ」
 「意味わかんねぇ」
 「僕が医者の息子だから付き合いたいんだって」
 「はぁ!? なにそれ? それ別に織じゃなくてもよくね? 失礼だろ」
 あり得ないものを見たとでも言わんばかりに目を見開いて声を荒げる大町くんに、思わずぷっと吹き出す。そうだ、この人はこうやっていつも全力で向かってきてくれる。
 「もちろんあの子の意思じゃないんだけどね。色々事情があって、僕に声をかけざるを得なかったというかさ」
 空は今日も目が痛くなるほど青かった。遠くから聞こえてくる野球部の野太い掛け声も、少し調子が外れた吹奏楽部の音出しも、下校する人たちの楽しそうな話し声も、どれも僕には眩しくてかなわない。
 「……医者の息子ってさ、そんなに大変なの?」
 遠慮がちに大町くんが口を開く。自分が知らない世界に踏み込むのは怖い。どこに相手を傷つけるきっかけが潜んでいるかわからないから、触らないのが一番いいに決まっている。なのに、大町くんはいつも知ろうとしてくれる。この人と関われば関わるほど、そういう面に触れれば触れるほど、心臓が不規則に跳ねて仕方ない。
 「大変ってわけじゃないけどね。あることないこと言われるのはもう諦めてるし」
 それと、と繋げる。なんでこんなにもすっきりした気持ちでこのことを話せるのか、不思議でならない。堰き止めていた言葉がとめどなく溢れてくる。
 「家族が全員優秀だとさ、僕もこうならなきゃなぁとか勝手に思うんだよ。うっすらそんな空気も流れるし、なんでできないの? みたいな。誰に強制されたわけでもないけど、ひとりで気負って、潰れそうになって、やめればいいってわかってるのに、できないんだよね」
 靴の先で小石を蹴る。ころころと軽い音をたてて転がって、溝に落ちて見えなくなった。
 「俺さ、」
 サッカー部が使っているホイッスルの音に混じって、大町くんの少しだけ低い声が僕の耳に届く。
 「織が泣いてるとこ見た時、そんな風になるなら辞めちまえよって思ったんだよな」
 「うん」
 「でも、きっと俺より色んなもの背負って、毎日死ぬ気でしがみついてしんどい思いしてんだろうなって思ったら無視できなくなってさ。面白くない奴かと思ったらちゃんと笑うし」
 そんな風に思われていたなんて少し意外だ。まぁ、大町くんやその周囲の人に比べたら面白くはないけど、実際に人から言われると複雑な気持ちになる。
 長い脚を三角に折り畳み続けるのは窮屈だったのか、大町くんが立ち上がって壁に凭れる。少し横を見上げると目が合った。反射的に顔を逸らしてしまう。
 「あんなことしといてその態度はないんじゃね?」
 「あんなことしちゃったからだよ」
 けけ、となんてことない風に笑われる。
 「俺、別になりたいもんもねぇし、ならないといけないもんもねぇんだよ。ありがたいことに親は好きに生きろって言ってくれてるから」
 「優しいご両親だもんね」
 「ほんとな」
 恵まれてるよ、と笑いながら俯く。
 「俺、なーんにも持ってないんだよ。だからさ、お前が勝手に背負ってるもの、半分くらい俺にくれない?」
 一瞬、何を言われたのかわからなかった。
 気づいたときには眉を下げて微笑む大町くんが目の前に立っていて、僕の頬にはその大きな手が添えられていた。身体は縛られたようにぴくりとも動かせない。
 ちゅ、とわざとらしい音をたてて唇が離れていく。
 心だけがどこか違うところにいるような、浮いた感覚。これを現実だと認識できずに、音が遠ざかっていく。
 「俺、織のこと好きだよ。あの時すぐに俺もって言えなくて悪かった」
 「うそだ」
 「嘘じゃねぇって。嫌いだったらキスされたときに蹴り飛ばして追い出してたって」
 ははっと明るい声が響く。
 「輝がなんでお前にあんな懐いてるか知ってる?」
 「……知らない」
 「ちゃんと自分のこと見てくれるからだよ。お前、どんだけ輝がめんどくせぇこと言ってもちゃんと相手してやるだろ? それがたまらなく嬉しいんだと」
 それに、と続く。
 「俺のばーちゃんちが駄菓子屋やってんの、他のやつに言わずにいてくれたのもさ、嬉しかった」
 僕の頬をに、とつねる。
 「だって言うなよって言ったから」
 「律儀だよな。その義理堅さ、もっと誇っていいよ」
 「なんでそんなに知られたくないの?」
 一瞬考える様子で、頭をぽりぽりと掻く。言いたくないというより、言葉を探しているように見えた。
 「あそこが溜まり場になんのが嫌でさ。子どもたちの場所なのに、あいつらが入り浸ってバカ騒ぎしたら安全な場所じゃなくなるだろ?」
 「……なるほどね」
 「なに笑ってんだよ」
 「いや……うん。大事な場所なんだね」
 少し照れくさそうに頬を赤くする大町くんが新鮮で、思わず嬉しくなってしまう。
 君が僕を大切にしてくれたみたいに、僕も君が大切なものを少しずつ大切にして、恩返しをしていきたい。たぶん、一生かけても返しきれないと思うけれど。
 「大町くん、今日さ、お店行っていい?」
 「いいけど、改まってどうした」
 「アイス食べたいなーって」
 「いいよ。何食うの」
 「半分にするやつ。一緒に食べよ」
 「大人はあれひとりで食べるもんじゃねーの?」
 「いーや、ふたりで食べるからいいんだよ」
 地面に置いたカバンを持って歩き出そうとすると、ぐい、と大町くんに手首を握られた。いくら日陰にいたとは言え、暑さに包まれたその手のひらはしっとりと汗ばんでいる。
 「どうしたの?」
 「このあとどうせ輝に取られるから、先払い」
 思い切り引き寄せられて、腰を抱かれる。
 「ちょ、ん、っ……」
 頭が茹だりそうだ。重ねられた唇のところは燃えるように熱い。もうこの熱に触れるのに後ろめたさはいらないんだと考えると、少しだけ怖くなった。
 自分の欲に際限がなくなってしまいそうで。
 わざとらしく僕の唇をぺろりと舐めて熱が離れていく。してやったりとでも言いたげな顔が、腹立たしい。
 「輝に言うなよ」
 「言わないよ、てか言えるわけないだろ」
 兄として最低だよ、と肩を小突く。
 足元をふと見る。
 あの日流した涙は、もう完全に乾いて、どこにも見当たらなかった。