夏休みも終盤に差し掛かっている。さすがにこれだけ毎日勉強をしていると、自分が間違った問題だけを書き集めたルーズリーフの束もかなり分厚くなってきた。
あの日、大町くんの店に行って勉強したあと、保育園から帰ってきた弟の輝くんと遊んだ。特別なことをしたわけではないけれど随分と気に入ってもらえたようで、輝くんが僕に会えないかと毎日大町くんに尋ねては、だだをこねているらしい。
『今日、保育園で織にあげるために怪獣作ったんだって』
メッセージに紙やモールで作られた怪獣を掲げて笑う輝くんの写真が送られてくる。2日に1回くらいの頻度で大町くんから輝くんの近況報告メッセージが送られてくるけれど、僕は未だに輝くんの熱心なお誘いに応えられないでいる。遊びたくないわけじゃない。むしろ遊びたいのだけれど、どうしても勉強をしないと他の人たちに置いていかれてしまう。
……というのは建前で、本当はどうしていいかわからないから先送りにしているだけだ。小さい子どもとはいえ、あれだけ人から熱烈な好意を向けてもらったことがない僕は、輝くんの期待に応えられる自信がない。大町くんみたいに魅力にあふれている人間でもないし、ろくに面白いことも言えない僕のどこがそんなにいいのか、本当にわからなくて困惑している。
土曜日の昼。家には誰もいない。父は勤務で明後日までは帰ってこないし、母は学会で遠くに行っている。何をしていても誰にも文句を言われない環境にいるのに、自室にこもってノートと向き合っている自分におかしさすら感じるけれど、仕方のないことだ。こうでもしないと僕は成績を維持できないんだから。
昼食にするかと椅子から立ち上がったとき、ベッドからヴーと音がした。いつものごとく勉強の邪魔にならないよう放ったスマホが、自分はここにいるよと言わんばかりに振動している。
画面に表示された名前は【大町遊我】。メッセージを送ってきてくれることは多々あれど、通話をかけてくるのは初めてのことだ。何か急用でもあるのかと思い、緑色の受話器が上がったボタンを押す。
「はい。永田です」
『あ、織? ごめん突然。今大丈夫?」
「大丈夫だけど、どうしたの?」
大町くんの声に、特段焦ったような様子はない。いつもの落ち着いて、どっしりと構えていてくれる大町くんの声に少し安堵する。気になることといえば、輝くんの通話をしたがる声が絶えず聞こえてきていることくらいで。
『今日さ、時間あったりしない……?』
遠慮がちな疑問符のあと、『あ、ちょ! 輝!!』と慌てた声、それから、がさごそと大きなノイズが耳を劈く。
『ねぇしき! きょうおれんちでばんごはんたべよ! カレーだって!』
やっとの思いで大町くんからスマホを奪い取ることに成功したらしい輝くんは、無駄に大きな声を通話口にぶつけ、んふー、と鼻息を荒くして僕の返答を待っている。提案されたことをうまく認識できずに僕の脳が処理落ちし、沈黙が生まれる。まずいと思ったのか通話の相手が大町くんに代わった。
『ごめん! 織にも予定あると思うし、無理だったら大丈夫! 輝がどうしてもって言うから電話しただけで……』
「大町くんのところがいいなら、行きたい」
『いやマジ、ほんと無理しなくていいから……』
悩んだ挙句、気を遣って僕が承諾したと思われてしまっただろうか。返答に時間はかかったけれど、言われたことを認識するのに時間を要しただけで、悩んだ時間なんてほとんどないに等しい。人から自宅の夕飯に誘われた経験なんてなかったから、自分に言われたことだと思えなくてびっくりしてしまった。
「無理じゃないよ。それに、輝くんにも会いたいし」
『……ありがとう、織。おい輝、織来てくれるってよ』
大町くんの足元にずっといたのだろう、『やったーーー!!』と叫ぶ輝くんの声が遠ざかっていく。
『おかあさん! しき、きてくれるって!!』
大町くんのご両親は会社員で、土日が休みだと言っていた。ということは、今日の夕飯時には大町家が全員揃っている。想像する。家族みんなが口々に話しながら食事を摂る中、ぽつんと話題に入れずにいる自分を。どのようなパターンを考えても、うまく馴染める気がしなかった。
『ほんとに気遣わなくていいから。こっちがお願いして来てもらうんだし。手ぶらで来てよ。うちの母さんと父さんも大歓迎だってさ』
通話越しの穏やかな声が、僕の悪い想像を全てかき消してくれる。
「ありがと」
『んじゃ、テキトーな時間に店来てよ』
俺今日も店番してるから、と大町くんが話している間も、後ろから輝くんが一生懸命お父さんとお母さんに向かっておしゃべりをしている声が聞こえてきていた。
「わかった。楽しみにしてるね」
15時頃に店に行くつもりだということだけ最後に伝えて、電話を切る。ひとりで静かに夕飯を食べて、静かに今日を終えていく予定だったところに、思わぬ明るい約束が舞い込んできた。ふと自室の時計をみたとき、口角に心地よい疲労感があることに気づいて、自分が電話中にずっと笑っていたのだと知る。
昼食の準備のために冷蔵庫の前に立つ。今日の夕飯はカレーらしい。お腹を空かせておかなくては、と思い、気持ち小さめの冷凍ご飯を手に取った。
夏の日差しが年々強烈になっていっているような気がする。僕が小さい頃は真夏でも木陰に入れば涼しかったのに、いまは蒸し風呂みたいだ。直射日光は刺すように痛くて、長袖を着たくなる。そのうち日差しが強すぎて突然発火する、なんてことが起こりそうで怖い。
『だがしや おおまち』へ行くのも慣れたもので、もう道に迷うことはない。足に迷いがなくなったからか、目標到着時間の読みがずれて30分ほど早く着いてしまいそうだ。一応大町くんにその旨を連絡すると、これまた秒で了解と返信があった。夏休み中何度も連絡をしているけれど、大町くんはいつも僕がメッセージを送って10秒以内に返事をくれる。おかげで送ったメッセージについてあれこれ悩んで勉強が手につかなくなる、なんてことは起こっていない。たまに話が弾んで時間が経ってしまうのも、いい気分転換になっているし。
あれこれ考えている間に、『だがしや おおまち』に到着する。今日は店内から子どもの声は聞こえてこず、周囲はひたすらにセミの鳴き声に支配されている。全ての生き物が自分はここにいるよと主張して灼熱の時間を太く短く生きようとしているこの季節が、僕は嫌いじゃない。
「お邪魔しまぁす……」
春の間は開放されていた扉も、エアコンの冷気を逃さないために最近は閉められている。建付けの少し悪い引き戸を開けると、冷気がぶわっと僕の肌を通り過ぎて、外の熱気と混ざっていく。
「いらっしゃーい。汗だくじゃん」
「暑い……」
店主がペンを持つ右手をひらひらと振る。どうやら大町くんはレジ台のところで夏休みの課題をやっていたらしい。狭い台で開かれたテキストは左右の分厚さが不均等で、彼が頑張って課題を進めていたことがよくわかる。こめかみに汗を垂らして、肌に張り付いたシャツをぱたぱたと空気にさらしている僕に待つよう言って、大町くんは奥へ消える。すぐに戻ってきたその手には、スポーツブランドのハンドタオルが握られていた。
「これ、冷やしタオル。こうなると思って濡らしたタオルを冷蔵庫に突っ込んでた」
こっち来いよと大町くんに呼ばれ、畳スペースに上がった瞬間、首にタオルを巻き付けられる。
「ぅぬわぁ!!」
「んはは! なにその声!」
あまりの冷たさに変な声が出てしまった。大町くんは間抜けを晒した僕がよほど面白かったのか、思い切り上体を反らして腹を抱えて笑っている。ツボに入ったのか、イヒーと変な声を上げながら笑い続ける彼につられて、僕も思わず笑ってしまう。目尻に浮かんだ涙をタオルで拭う。僕の身体に溜まっていた熱を一手に引き受けてくれたタオルは少しぬるくなり、優しい温度になっていた。
「ありがと、今日来てくれて」
「こちらこそ。誘ってくれてありがとう」
まだ笑いの余韻が抜けきらない揺れた声でお礼を言われ、今日の目的は夕飯のご相伴に預かることだと思い出す。ここで大町くんと駄弁って終わりじゃないんだと思うと、少し背筋に力が入るような気がした。
「ほんとに緊張とかしなくていいし。うちの親テキトーな人だから、礼儀とかも気にしないで」
「いや、さすがに失礼はないようにするよ」
僕にも面子ってものがあるし、と答えると、それもそうだなと大町くんが目尻をさげて柔らかく笑う。その笑顔になぜか一瞬心臓が跳ね上がり、慌てて深呼吸をする。この緊張は、慣れない人に会うことへのプレッシャーから来ているんだろうか。それだけじゃないような気がするけれど、今は蓋をしておく。
「んじゃ、俺んち行くか」
「あ、家ってここじゃないんだ」
「うん。ここはばーちゃん家。俺んちはこっから5分くらい歩く」
また暑いとこ行くけど大丈夫? と尋ねられ、首を縦に振る。大町くんが机の上のテキストをトートバッグにしまいこみ、いつものごとく奥にいるおばあさんに大声で呼びかける。
「織と家行ってくるな」
「あいよ。これ持っていきな」
「え、マジ? いいの?」
おばあさんから渡されたものは超大玉のスイカで、かなりの重量がありそうだった。スーパーでたまたま安売りをしていたところを運良く買えたらしい。
「輝ちゃんスイカ好きやったやろ。永田くんはスイカ好きかい?」
「はい。とても好きです。こんなに大きいスイカ、久しぶりに見ました……」
「おー、織の目ってこんなキラキラすんだ? ありがとばーちゃん」
「喜んでくれて嬉しいよ。また由香里さんによろしく言っといてな」
おばあさんに店番を代わってもらって、僕たちは外に出る。暑さとセミの声と、スイカ。
「なんか、めっちゃ夏って感じじゃね?」
「それ、僕も思った」
せめてお世話になるからと、スイカを持つ役割をかって出たはいいものの、重さで既に腕がプルプルしている。何度も持ち方を変えているところを見かねたのか、大町くんが僕の顔を覗き込んでニヤリと笑った。
「腕大丈夫? 織がペンより重いもん持ってるとこ、あんま見たことねぇんだけど」
「失礼な……って言いたいとこだけど、かなり重い。ちょっと代わってほしい」
「任せな」
大町くんのトートバッグとスイカを交換する。このままスイカを持ち続けていたら家に着く頃には腕が再起不能になっていたに違いない。日頃の運動不足を痛感した。大町くんは重いと言いながらも、安定してスイカを抱えている。
「腕、大丈夫?」
「普段から輝とかガキたち担いでるから、まぁこれくらいは持てる」
さすがだ、と笑っている間に、大町くんの家に着いたらしい。町によくある一軒家。比較的最近建てられたのか、外壁は白く、玄関に続く石畳は日の光を受けてキラキラと輝く素材で造られていた。
「ごめん、俺のポケットから鍵出して開けてくんね?」
顎で指されたのはズボンの尻ポケット。いくら最近距離が縮まったとはいえ、そんなところに手を突っ込むのは申し訳ないし恥ずかしい。でも意識しているとも思われたくなくて、ポケットを引っ張ってなるべく大町くんに触れないように鍵を引っ張り出した。
「これ、開けていいの?」
「おう」
がちゃ、と鍵が開くと、家の奥からドタドタと足音が聞こえてくる。聞き慣れた小さな足音に、思わず頬が緩む。
「しきーーーーー!!」
輝くんがロケットスタートを切って、減速も遠慮もなしに僕に突っ込んでくる。勢い良く股のあたりに突撃されて一瞬縮み上がったけれど、抱えあげると嬉しそうに笑う輝くんに一切の悪意はない。どうせすぐに大きくなってしまうんだから、このスリルを楽しむのも悪くないだろう。
「こんにちは、輝くん」
「こんにちわぁ」
自分から飛びついてきておいて恥ずかしそうにはにかむ。隣で大町くんが「なにモジモジしてんだよ」と突っ込みを入れるも、その声は輝くんには届いていないようだった。
「母さーん! 野菜室って空いてるー?」
輝くんを抱えたまま靴を脱ぎ、端に揃えてリビングに向かう。家全体から大町くんの香りがして、なんとなく落ち着かない。大町くんの後ろについて、リビングへ顔を出す。ダイニングテーブルのところで談笑していたらしい大町くんのお母さんとお父さんが、スイカを見て目を見開いた。
「え、すごい大きいスイカ! どうしたのこれ」
「ばーちゃんがくれた。食べなって」
「ほんとにでかいな。これ食べるのに3日はかかるだろ」
大町くんがごとりと机にスイカを置き、僕に向き直ってくれる。そう真面目な顔をされると余計に緊張してしまう。僕が借りてきた猫になっているのが面白かったのか、大町くんはくす、と笑って僕の肩に手を置いた。
「織。輝の熱い要望に応えて来てくれた。俺も輝も、最近めっちゃ仲良くしてもらってる」
「はじめまして。永田織と言います。今日はお誘いいただきありがとうございます」
「あなたが織くんね、待ってたよ。来てくれて本当にありがとう。こら輝下りなさい」
お母さんに言われても、輝くんはイシシ、と笑うだけで僕から離れようとしない。こんなにも会えるのを待ち望まれていたとは知らず、長い間お誘いに応えてあげられていなかったことを、今さらながら少し反省する。
「ありがとう織くん。ごちゃごちゃしてやかましい家だけど、ゆっくりしてってね」
柔らかくはにかんでお父さんがスイカをキッチンへ持っていく。ぱっと見ただけで大町くんのお父さんだとわかるほど、ふたりはよく似ていた。何より笑った時に目尻が柔らかく下がるところがそっくりだ。輝くんはまだ小さいからか、お母さんの愛らしさを強く受け継いでいるように思える。
「織、夕飯まで時間あるから、俺の部屋でゲームでも……」
「しき! おれとたたかいごっこしよ!」
大町くんの提案は、目をこれでもかというくらいにキラキラさせた輝くんにかき消される。もうこうなったら大町家の末っ子は止まらない。このままお誘いに乗らなければ、輝くんの小さい手で引っ張られた僕の人さし指はきっと引っこ抜かれてしまう。大町くんに一言ごめんね、と言い、僕は輝くんの望むまま悪役となって斬りかかられることを受け入れた。
それから、1時間ほどたたかいごっこは続き、挙句「しきとカレーつくりたい!」という無茶振りが飛び出して、一緒にカレーを作るお手伝いをすることとなった。
「織の家ってカレーには何肉入れんの?」
大町くんはカレーを作る僕たちをカウンターの向かいから眺めている。
「牛肉。初めて鶏肉の入ったカレー食べるから楽しみ」
「へぇ。やっぱカレーって家によってちげーんだな。おい輝、ちゃんと猫の手しろって。指なくなんぞ」
輝くんが切った不揃いなにんじんやじゃがいもを鍋に入れていく係を任命された僕は輝くんが怪我をしないように神経を使いながらも、その使命を無事に果たし終えた。誰かとカレーを作ったのは中学校の修学旅行以来で、とても楽しかった。
「いただきます!」
「いただきまーす」
「いただきます」
出来上がったカレーはとても美味しくて、思わずおかわりをしてしまった。輝くんが切った野菜も柔らかくなるまで煮込まれて角が取れ、口の中でほろほろと崩れていく。
「織って意外と食うんだな。細いからあんま食わねぇのかと思ってた」
「食べたの、どっかに消えてるんだよね。あんまり身につかなくてちょっと困ってる」
身長も筋肉ももう少し欲しいのに、と溢すと、大町くんのお父さんが「わかる……」と深く頷いてくれた。
「中高校生くらいの時って食っても食っても腹減るし、すぐにデカくなれるわけじゃないからもどかしいんだよな……」
「お父さん、高2のときに既に180くらいあったじゃない」
「まぁそうだけどさ。中学まではチビだったんだよ。高校のときほんとに成長痛で脚痛かった。そのままバラバラになるかと思ったくらい」
「俺、父さんほどでかくはなりたくねぇな。色んなとこに頭ぶつけてんのだせぇし」
「これでも減ったのよ。大学くらいまで常に頭にたんこぶあったんだから」
誰かが話題を投げると、それに続いてぽんぽんとラリーが続いていく。会話が途切れることなく続いて、常に誰かに目を向けてもらえる。
久しぶりだな。ひとりじゃないの。
いつも夕飯はひとりで食べていたから、誰かと食べる食事がこんなにも美味しいことを忘れかけていた。カレーの味は一般的な家庭とそう変わらないはずなのに、みんなで同じテーブルについて、顔を合わせて話しながら食べる特別感が、さらに美味しく感じさせる。
「織くん、ほんと美味しそうに食べてくれるのね。作ったかいがあったわ」
大町くんのお母さんにそう言われ、カレーを頬張ったまま僕にできる最大限の笑顔を作った。
「しき、おいしいね」
口の周りにたくさんカレーをつけた輝くんがにーっと笑う。大町くんが仕方ねぇなと言いながら、輝くんの口元をティッシュで拭う。お母さんとお父さんが笑う。
家族団らんに僕という異物が混ざって大丈夫かと思っていたけれど、この人たちは僕を優しく招き入れて、異物なんかにはさせてくれなかった。
夕飯のデザートにスイカをたらふく食べて、名残惜しさを感じていた矢先、輝くんが爆弾のような一言をこぼした。
「しき、おとまりするんでしょ?」
「はぁ!? さすがに無茶言うなよ輝」
「やだ! まだあそぶ!」
さっきまであれだけ楽しそうに笑っていたのに、突然口元をへの字に曲げて今にも泣き出しそうな顔をされてしまったら、もうどうすることもできない。これまでも帰り際に帰らないでくれとせがまれたことはあったけれど、さすがに泣かれたことはなかった。
「こら輝。楽しかったのはわかるけど、織くんだって忙しいの。無茶言ったら大好きな織くんが困っちゃうよ」
「やだぁ……」
大粒の涙がポロリと丸い頬に落ちていく。小さい子どもは、いつも全力だ。まだ5年ほどしか生きていない彼らはきっと、常に人生で一番悲しい、嬉しい、楽しいことを経験している。
こんなに楽しかったんだ、この子の今日を悲しい日で終わらせたくないと、猛烈に思ってしまった。
「……あの、もしよかったら、泊まらせていただけませんか?」
抱きついてきた輝くんを受け止めながら、お父さんとお母さん、それから大町くんに向けて言う。3人とも困ったような、本当にいいの? というような顔をしたのち、力強く頷いてくれた。
「本当に大丈夫なの? おうちの人は?」
「家は誰もいないんで、大丈夫です。どうせ今日帰ってもひとりなので、僕もここにいられた方が楽しいし」
たはは、と笑うと、大町くんの眉間にくっと皺が寄る。いらないことを言ったかな。不安に襲われる身体をどうにか宥めるため、とめどなく涙を流している輝くんをぎゅっと抱きしめる。小さくて柔らかい身体は力強く泣いたせいで少し汗ばんでいた。
「……織、泊まるなら俺の部屋で寝ろ。たぶんこいつはしゃぎすぎでおねしょするから」
「それもあるし、遊我といた方が気楽でしょ。お泊まりに必要なものは一式あるから、うちは問題ないよ。遊我、服貸してあげてね」
「当たり前」
ぽんぽんと進んでいく僕のお泊り予定に、輝くんがいつの間にか笑顔になっていた。「うれしいね」ともちもちの頬をくっつけられ、僕の頬が涙でびしょびしょになってしまった。
まだ遊びたいと地団駄を踏んでいた輝くんはお父さんに手を引かれ、お風呂へ連行されていく。その間に大町くんは来客用の布団を出して、僕に貸すための服を用意しておくというミッションをお母さんから課された。文句一つ言わず2階へ消えていった大町くんを、じっと見送る。
「織くん、ちょっとここに座ってくれない?」
残ったお母さんに呼ばれ、ダイニングテーブルにつく。出してくれた冷たい麦茶をこくりと飲み込み、お母さんの顔を見る。改めて見ると、本当に優しい顔つきをした人だ。攻撃性がひとつもなくて、いるだけで安心できる。左手の薬指にはめられたシルバーの指輪をやさしく撫でて、お母さんはゆっくりと話し始める。
「こんなことを言っても困らせちゃうだけかもしれないけど、うちがこうやって笑ってられるのは、織くんや織くんのお母さんたちのおかげなのよ」
「え……?」
突然のことについていけない。僕が大町くんと関わり始めたのは比較的最近のことだし、僕の母親は大町家には何の関係もないはずだけれど。話がどう転がっていくか予想できなくて、気の利いたことを言えない。僕は困惑で閉じられなくなった口を開いたまま、続きを待つことしかできなかった。
「輝を妊娠してたときね、切迫早産で1ヶ月入院することになったの。ここらで産科のある大きな病院って永田病院くらいしかないじゃない? 不安いっぱいで入院することになってね」
お母さんが続ける。
「今でも覚えてるわ。主治医は藤谷先生で、その時の指導医かしらね、が、永田先生だったのよ」
聞き慣れた名前に胸がどきりとする。藤谷先生は母のチームの先生で、今では患者思いで腕のいい女医さんだと聞いている。うちの病院の産科は女性の医療スタッフを充実させていて、女性が安心して医療を受けられる体制作りを重視しているらしい。母がいつもそう熱く語っていた。
「本当に不安で仕方なかったんだけど、毎日たくさん先生たちが見に来てくれて、特に永田先生なんて忙しい先生のはずなのに丁寧に話を聞いてくださってね。遊我から聞いて嘘だと思ったけれど、織くんは優しくて聡明な子で、言われなくてもあの永田先生の息子さんだって分かるわ。これも何かのご縁なのかしらね」
本当にありがとう、とお母さんが微笑む。
「……たぶん、母は当たり前のことをしたって言うと思います。そういう人なので」
昔から医師として誰よりも真面目に生きている人だった。何よりも仕事が大切で、あまり家にいない。帰ってきたと思ったら、またすぐに出ていってしまう。母親の温かさや優しさを向けてもらった記憶はあまりないけれど、こうして担当した患者さんから感謝してもらえるような丁寧な仕事をしているなら、僕のことを見ている時間がなかったのも、納得だ。
「よかったです。あの時の患者さんは今も元気にしているって、また母に言っておきます。きっと喜ぶと思います」
会話に一区切りついたとき、2階から大町くんが下りてきて、同時に風呂場から輝くんとお父さんが出てきた。
「織、先に入りな。今日いっぱい汗かいたろ。これ俺の服。ちょっとでかいかもだけど」
「あ、ありがとう」
Tシャツとジャージを受け取り、風呂場に行く。少し熱めのお湯を頭からかぶって、ざわつく心に早く鎮まってくれと祈った。
大町くんの部屋は意外にも綺麗に整頓されていて、身の置きどころに迷わなかった。ベッドのすぐ隣に置かれた丸いローテーブルに置いてあるテキストを少し覗き見る。部屋に似つかわしくない乱雑な文字で書かれた数式は、ところどころ初歩的な計算間違いをしていた。
部屋にある大きな窓からは、丸い月が見えている。きれいな満月というわけではなく、よくみるとほんの少しだけ欠けている。分厚いマットレスを乗せたベッドに少し背中を預けてぼーっとしていると、部屋の扉が開く音がした。
「織、大丈夫? さすがに疲れたよな」
「うん。でも、気持ちいい疲れ方だよ」
「よく寝れるんじゃね? 俺も大してなんもしてないのに疲れたわ」
輝、いつにも増してハイだったしなー、と大町くんがセットされていない前髪を横に払う。いつも整髪料で整えられている髪はさらっとしていて、つい目で追ってしまう。吸い込まれるように思わず手を伸ばしてしまった。
「んー? なに、髪へん?」
「いや、サラサラだなと思って。ごめんね、触っちゃって」
「いーよ」
眠いのか、間延びしたまろやかな口調が僕の心臓を撫でていく。歯磨きも済ませ、もう後は寝るだけ。敷いてもらった布団はふかふかで、掛け物のタオルケットもまるで新品みたいにパイルがしっかりとしていた。布団の上で膝を三角に折りたたみ、小さくなる。寂しかったり嫌なことがあった日は、こうして身を縮こまらせることでやり過ごしてきた。
「あのね、大町くん」
ベッドに腰掛けてやりかけのテキストをぱらぱらとめくっていた大町くんが、僕の一声で身体も心も、その全てをこっちに向けてくれる。
「僕、ずっとさみしかったみたい」
静かな部屋に、ぽつんと落ちる声。情けなくて、小さくて、僕は何も持っていないんだと思わされるから、独り言をこぼすのが嫌いだった。それが、大町くんと出会って、僕の言葉を全て丁寧に拾い上げて柔らかく笑ってくれるから、自分が今まで見ないようにしてきたことに、否が応でも気づいてしまった。
「おいで」
長い腕が、ゆっくりと広げられる。中毒者みたいに、おぼつかないあしどりで大町くんの隣に座り、その腕の中に収まる。同い年のはずなのに、僕よりも大きい身体に、ゆっくりとした鼓動。大きな手が僕の頭を柔く押さえつけて、滑らかな首筋に僕を閉じ込める。
「いままで、いっぱい我慢してきたんだな」
がんばったな、と低い声が耳に流し込まれる。
もう、だめだった。涙が溢れて止まらなくて、大町くんの肩が静かに冷たく濡れていく。
わかっていた。両親が外でたくさんの人を救っていることは。大町くんのお母さんの話を聞いて人を救う仕事をしている両親は、やっぱりすごいんだと思った。忙しいから、僕を見ている時間が惜しいのもわかっていた。
でも、両親が頑張ることで他の人は温かく幸せに過ごせるのに、どうして僕はさみしいままでいなきゃいけないんだろう。
尊敬できる両親を持ったことは嬉しいはずなのに、そう思ってしまう自分が嫌で仕方なかった。
僕のすすり泣く声が部屋に響く。不規則な呼吸のせいで酸素が足りなくて、頭がぼーっとしてくる。あの日、大町くんに言われたように顔を上げようと思ったけれど、頭を抱かれているから叶わなかった。
いつの間にか、僕の身体は大町くんの身体にすっぽりと覆われていて、腰は寄せるようにきつく抱かれている。大きくて広い背中に恐る恐る手を回すと、更に僕を抱きしめる力が強くなる。
「がんばった。さみしかった。もっと言いなよ。俺でよかったら、いつでもいるから」
大町くんが与えてくれる熱に、心臓が呼応する。もう、この騒々しさの正体を、僕は知っている。
もっと欲しい。もっと満たしてほしい。
もっと、もっと、もっと。
好奇心、焦燥感、多幸感、不安感、全てがないまぜになって、ふわふわした甘さとあとを引く苦みだけを残していく。
頼りがいのある胸に手をついて、少しだけ身体を離す。
「大町くんじゃないと、だめなんだ」
こんなことをしたら壊れてしまうってわかっているのに、止められなかった。
いつも僕を慰めて、褒めて、一緒に笑ってくれる唇に、そっと自分のを重ねる。1秒にも満たないふれあいだったけれど、触れたところがびりびりと痺れて仕方なかった。
「ごめんね、好きで」


