甘くて小さい恋のおはなし

 2年生1学期の期末テストは、なんとか全科目でクラス1位の成績を取ることができた。でも、満点の科目は1つしかなかったから気を抜くことはできない。落とした問題があるということは、大切な試験の当日に、そこから崩れていく可能性があるということと同義だ。
 夏休みに入って1週間が経った。受験前最後の大会に向けて全力で部活に取り組む人もいれば、受験対策に本腰を入れ始める人もいる。僕は言わずもがな後者だ。毎日変わらず早起きして昨日の夜に復習した範囲が定着しているか確認する。夜寝る前まで何度も何度も間違えた問題を反復する。
 勉強は、常にできないことと向き合わなければならない。

 「疲れてきたな」

 テキストを閉じて、目頭を指でぐりぐりと押すと、固まっていた筋肉も思考もほどけていくようだった。さすうがに誰もいない家でひとり黙々と勉強し続けるのにも、飽きがきた。こんなこと言っている場合じゃないのはわかっているけれど。
 夏休み、家には僕ひとりだということを実感するたび、ふと、あの言葉が蘇る。
 いま彼は何をしているんだろうか。友だちの多い彼のことだ。きっと夏休みも友だちとの約束を果たすことで忙しいに違いない。そう思う反面、彼の言葉を信じたい自分がいる。「いつでもどーぞ」と柔らかく笑った大町くんは、本当にいつ僕が連絡をしても快く返事をしてくれるのだろうか。
 信じてダメになったら、僕はどうしたらいいんだろう。

 「……」

 ごちゃごちゃ悩む自分が鬱陶しい。勉強の邪魔にならないよう、ベッドに放ったスマホを勢いに任せて掴む。交換したっきりほとんど使っていなかった大町くんの連絡先をタップし、メッセージを打ち込んだ。

 『今、何してる?』

 消す。なんかまわりくどい。

 『今日って予定ある?』

 消す。さっきのと一緒だ。
 うまい言葉が見つからない。大町くんの負担にならないかつ、断られても自分が傷つかないような……。

 「……傷ついたって今さらか」

 窓の外はうざったいくらいの快晴だ。断られてもそこらをテキトーに歩いていれば、いい気分転換にもなるだろう。

 『今日、お店行っていい?』

 言いたいことは、端的に。スタンプや顔文字がないせいでそっけなく見えたらどうしようと思ったけれど、色々考えてまた消してしまう前に送信ボタンを押した。5秒ほど画面を見ていると、すぐに既読の文字がついた。

 『いいよ』

 あまりの返信の速さに思わず口元が緩む。僕の心配なんて、するだけ無駄なのかもしれない。

 『つか助けて』

 続いて来たそのメッセージにろくに返事もせず、僕はにやけ面のままクローゼットを開けて『だがしや おおまち』に行く準備を始めた。


 


 さすがに一度しか行ったことのない場所に迷いなく行くことは難しい。しかも右に左にたくさん曲がらなければならない場所だ。やっとの思いで『だがしや おおまち』にたどり着き、風にはためく営業中ののぼりに攻撃されながらも店内を覗き込む。

 「おじゃましま……え、」

 畳スペースに、人間の塊があった。
 きゃいきゃいと楽しそうな声を出す子どもたちが何人も重なって寝転んでおり、子どもたちの下から見覚えのある男の手足が覗いている。

 「だれーー」
 「ねーユーガ、だれか来たよー」
 「ゆいちゃんひっぱらないで!」
 「先にたいきがどいて!」

 子どもたちは僕を見て口々に話す。ひとり、ふたり、ぽろぽろと子どもが剥がれ落ちると、仰向けの状態で気力を全て吸い取られ、髪も服もボロボロになった大町くんが出てきた。

 「おせーよ……マジで死ぬかと思った」
 「ごめん……助けてってそういうことだったんだね」

 まさか本当に命の危機に瀕しているとは思わなかった。大町くんは黒のTシャツに有名スポーツブランドのジャージズボンを合わせた、いかにもグラウンドで友人たちとサッカーをしていそうな休日の男子高校生らしい格好だったけれど、襟はよれ、ズボンの裾は片方だけ膝あたりまで捲し上げられていた。きっと誰かのいたずらだろう。
 エアコンの効いた店内でも、大町くんは汗だくだ。シャツの裾で額に浮かんだ汗を拭き、レジ台に置いていたペットボトルの麦茶を煽る。その間にも子どもが数人、大町くんの腰辺りに群がっていたのだから、きっと今まで本当に絶え間なく攻撃を受けていたんだろう。

 「お兄さんお名前はー?」

 ひとり、女の子が僕のもとへやってくる。
 以前ここに来た時は冬真くんたち3人組しかいなかった。店内にいる子どもはざっと7人。全員はじめましての子たちばかりだ。

 「永田織って言います。大町くんの……」

 ふと考える。友だち、って言っていいかな。自信を持って友だちを名乗れるほど関わった時間が長いわけでもない。関わった時間は短いくせに色々なことがあったせいで、普段なら絶対に曝さないようなところまで見せてしまっている。大町くんは僕にとってイレギュラーな存在すぎる。

 「……友だち、かな?」
 「友だちだろ。なんで疑問形なんだよ」

 大町くんが僕の肩から荷物を取り、のれんで隔てられた住居スペースに置きに行ってくれた。女の子はなつきちゃんというらしい。なつきちゃんは畳スペースにやや強引に僕を座らせて、自分の読みかけの児童書を手に、膝の上にちょこんと座ってくる。

 「なっちゃん、いま本読んでるんだ」
 「いいじゃん。おもしろい?」
 「うん。クラスの男の子がね、歌い手をやってて、最初はその子のファンだったのにだんだん好きになっていっちゃうんだ」

 なんとまぁ。最近の児童書ってそんなに進化しているのかと感心する。なつきちゃんはぺらぺらとひとりでお喋りをしながらページをめくり、時折僕に同意を求めてくる。その間、男の子たちは大町くんにちょっかいをかけたり、夏休みを有意義に過ごすための作戦会議をしたりしていた。

 「ねーユーガ、いまからお桜さん行くんだけどユーガも来る?」
 「んや、俺はいいわ。疲れた」
 「ジジイじゃん!」
 「うるせー早く行ってこいガキが」

 んべー、とお互いに舌を出して「逃げろ〜」と騒ぎながら男の子たちは皆外へ行ってしまった。

 「あのさ、大町くん、お桜さんってなに?」
 「近所の公園だよ。でっかい桜の木が生えてるから地元の人からはお桜さんって呼ばれてる。『さん』ってつけないと呪われるんじゃねぇかって思うくらいデカいんだよ」
 「へぇ」

 畳スペースにどかっと腰をおろした大町くんは、僕にペットボトルの冷たい麦茶を差し出してくれた。

 「あげる」
 「え、いいの。ありがと」

 パキ、とキャップを開けて飲み口を傾ける。喉を通っていく麦茶が痛いくらいに冷たくて、気持ちいい。来るときもかなり暑くて、背中にじっとりと汗をかいていた。夏、侮るなかれ。

 「永田、夏休みの課題ってどこまで終わった?」
 「あとちょっとで終わるよ」
 「うげぇ……さすがだな」

 受験対策のため各々こなさなければならない課題があるだろうからと、今回学校から出された課題はそんなに多くなかった。あと3日もあれば終わるだろう。
 勉強の話はそれ以上膨らまなかった。無言になると、なつきちゃんの小さな手や脚が僕の体を悪気なく刺してくる痛みが気になってしまう。小さくて細い分、圧力が1点に集中して地味に痛い。

 「なつきー、いつまでそこいんの。永田大変だからそろそろ降りな」

 僕が時折顔をしかめているのを察してくれたらしい。なつきちゃんは大町くんからふいと顔を背け、口を尖らせる。

 「ゆうがくんうるさい。しきくんと仲良しじゃないんだから、そんなこというけんりないよ」

 女の子って本当にませている。おそらく2年生くらいだろうに、権利なんて言葉が飛び出してくるだなんて。

 「……ん? なんで僕と大町くんが仲良しじゃないって思ったの?」

 大町くんと顔を見合わせ、疑問に思ったことを訊いてみる。なつきちゃんとは今日初めて出会ったし、僕と大町くんは今まで普通の会話しかしていない。別段ケンカ腰なわけでもないし。

 「だって、名前でよんでないもん。学校の先生はよびすてはだめっていうけど、みんな友だちになったら名前のよびすてするんだよ。それが仲良しのしょうこなの」

 見つかったらおこられるけどね、となつきちゃんは笑顔になる。また本に戻って、僕の手をぎゅっと握って離してくれなかった。いくら軽い子どもとはいえ、さすがにちょっとばかり脚が痺れてきた。

 「なぁ、なつき。あれ健太たちが呼んでるんじゃね? 外見てみろよ」

 大町くんがなつきちゃんの肩をちょんとつつき、外に視線を誘導する。ちょうどその時、外からなつきちゃんをお桜さんに来るように呼ぶ男の子声が響き渡った。なつきちゃんはぱぁぁっと顔を輝かせ、大町くんと僕に「じゃあね!」とだけ言い、本を入れたカバンを抱きしめて楽しそうに外へ行ってしまった。

 「なんか、ごめん。ありがとう」
 「こっちこそ悪かった。あいつ最近妹生まれて、ちょっと甘えたがってるとこあるんだよな」

 俺にもばーちゃんにもやたらと引っ付いてくるし、ストレス溜まってるんだろ、と大町くんが畳に落ちたホコリを拾う。今までずっと自分が一番だったのに、一番じゃなくなるのは、きっと辛い。僕は末っ子なのに、なぜかその寂しさは少しだけわかるような気がした。

 「それはそうと」

 大町くんが胡座をかいて腿に肘をつく。にやりと笑った顔すらも様になっていて、なんだか妙に腹立たしい。

 「()がこの店気に入ってくれたみたいでよかったよ」

 この時ばかりは、子どもたちに戻ってきてほしいと心の底から思った。これまでの人生で人からわかりやすいからかいを受けた経験がない僕は、思わずふいと大町くんから顔を逸らしてしまった。

 「……いつでも来ていいって言ったのそっちじゃん」

 あの日僕の頭を柔らかくかき混ぜた大きな手のひらは、膝の上に所在なげに放り出されている。じっと見ると羞恥でどうにかなってしまいそうだったから、慌てて畳の目に視線を遣る。

 「まーそうだけどね。こんなすぐに連絡来ると思ってなかったから。勉強大変だろうし」

 とん、とん、と古いかけ時計の音だけが店内にこだまする。いつも絶え間なく話題を提供してくれる大町くんが黙っているのはすごく珍しい。こういう時、一度口を閉ざしてしまうと僕はてんでダメで、相手から助け舟を出してもらわないと一言目を出すことができない。でも、僕が来たいと言ってここに来させてもらったのに、話しかけろと言わんばかりの態度で偉そうにふんぞり返っているのも失礼だ。

 「あの、さ。一緒に夏休みの宿題やらない?」

 僕が懸命に大町くんを見ないように畳を見つめている間も彼は僕の挙動を眺め続けていたようで、すぐにアーモンドの目が緩く弧を描いて僕を捕捉する。

 「いいな、それ」

 よっ、と大町くんが立ち上がり、店の奥に向かって大きく息を吸い込んだ。

 「ばーちゃーーーん!! ちょっと店番代わってーーー」

 何もそんなに大きな声を出さなくてもいいじゃないかと思うくらいのボリュームで大町くんが呼びかけると、どた、どて、と不規則な足音が聞こえてくる。店の奥、いつもはのれんで遮られていた廊下から、小さなおばあさんが顔を出した。

 「はいな。ん? 遊我、お友だち来とったんか」
 「うん。永田っていうの。同じクラスの友だちで、この店気に入ってくれたんだって」

 いつもよりゆっくりと大きな声で話す大町くんの紹介に合わせ、小さく会釈をする。おばあさんは大町くんより頭一つ分ほど背が低かったけれど、腰はほとんど曲がっておらず、凛とした雰囲気があった。髪はきれいなグレイで、一部に紫色のメッシュが入っている。

 「永田って、あの永田病院の子か?」
 「あーー、」

 大町くんの目が一瞬泳いで僕に流れ着く。この地域で永田の名字を名乗ると、大抵「永田病院の?」と尋ねられるところまでがセットだ。お年寄りとなると特にその傾向は強い。細かい事情を話したことはないけれど、今まで勉強がうまくいかなくて弱っているところを大町くんにはたくさん見せてしまっているせいで、きっと気を遣わせてしまっているのだろう。
 一呼吸おいて、努めてなんてことない風を装って大町くんのおばあちゃんに向き直る。

 「そうです。永田織と言います。永田病院の三男坊です。今日は手土産もなく突然お邪魔してすみません。本当に素敵なお店で、思わずまた来てしまいました」
 「あらぁ、やっぱりお行儀がいいのね。ゆっくりしていきな」

 んじゃばあちゃんよろしくな、と大町くんが言い、僕の手を引いて店の奥へと歩みを進めていく。
 家は木造で、床を踏みしめる度ぎし、と音がする。1階で炊いているらしい線香が家全体を包む木の香りと混ざって、甘く僕の鼻腔に流れ込んでくる。

 狭くて急な階段をのぼり終えると、廊下の左側に2つの引き戸、右側に1つの開き戸が現れた。一番階段から近い左側の部屋の引き戸を大町くんが開ける。和室の真ん中に年季の入った木製のローテーブルがぽつんと置かれている以外、何もない部屋だった。

 「なんもないけど、座って待ってて」

 荷物を置いて、座布団を敷いてもらったところに言われるがまま腰を落ち着ける。大町くんが部屋を出て、階段を降りる足音が遠ざかっていく。
 大きく息を吸う。初めて来る人の家なのに、なぜか落ち着く。生まれ育った僕の家には和室がないから、慣れ親しんだ香りや居心地ではないはずなのに。畳の部屋、和紙が混ぜられているのか、少し毛羽立ったベージュの壁。すりガラスの窓、紐を引いて操作するライト。どれもが新鮮だった。

 「ごめん。おまたせ。お茶持ってきた。あとお菓子も」

 大町くんが持ってきたお盆の上にはガラスのコップに入れられた冷たい麦茶と数個の駄菓子、それから豆大福がふたつのっていた。

 「いいのに。こんなにいただいて、悪いよ」
 「ばーちゃんちってのはこういうもんなの。無限に食いもん出てくるんだから」

 ばーちゃんも永田が来てくれて喜んでたよ、と言われ、少しむず痒くなった。
 机の上に夏休みの課題として出されたテキストを広げる。僕は数学、大町くんは英語。大町くんはひとつも手を付けていなかったらしく、まっさらなテキストに折り目を付けるところからスタートしていた。
 しばらく、お互いに黙々とペンを進める。最初の簡単なところが終わってしまったのだろう、だんだん大町くんの手が止まり始めた。

 「英語、苦手なの?」
 「まぁ。他の教科に比べたら。永田がいるうちにやっといたら、わかんないとこ教えてもらえるかなって思って」

 大町くんのペン先が完全に止まる。問題に詰まっているなら力になれるかもと英語のテキストを覗き込もうとするも、彼の口から出てきた予想外の言葉に動きを止められてしまった。

 「あのさ、俺、永田って呼ばないほうがいい?」

 教室の真ん中で大口を開けて笑っている彼とは似ても似つかない真剣な表情に、思わず息を奪われた。僕と大町くんのふたりしかいないとき、彼は教室の真ん中で笑っている時とは別人のように、ひどく不安そうな顔をすることがある。その顔を見る度、心臓のあたりがぎゅっと痛くなる。

 「さっきのおばあさんのかな。気遣わせちゃってごめんね」
 「いや、いいんだけど。学校ではもうほとんど皆知ってるからどうしようもないけどさ、こういうとこで言いふらすみたいな形になるの、嫌だったら悪いなって」

 俺にはそういうの、わかんないから、と溢す大町くんの声は小さくて、テキストの紙が擦れる音に負けてしまいそうだった。

 「別にどっちでもいいけど、織って呼んでくれると、助かる」
 「わかった」

 本当は呼び名なんてどうでもいい。ただ、大町くんが僕の名前を呼んだ時、その口が笑っているように見えたのが嬉しくて、思わずくだらないわがままを言ってしまった。大町くんに、悲しそうな顔は似合わない。

 「勘違いしないでほしいんだけどね」

 途中式を少しだけ省いて導き出した数字を下線で締めて解とする。僕が話し始めると、大町くんは律儀にその手を止めて僕の話を聞いてくれる。

 「僕、別に家とか両親のこと、嫌いじゃないんだ」

 余計な音のない部屋に、やけに重々しく響く。そんなに全身で聞いてもらうほど、この話は価値のあるものじゃないのに。僕はペンを動かしながら独り言のように続ける。

 「僕には兄がふたりいるんだけどね。とても優秀なんだ。僕が勝手に負けたくないって思ってるだけ。別に医者になることを誰かに強要されてるわけでもない。自由な身分だよ、三男坊ってのは」

 時計もない静寂に満ちた部屋に、僕の乾いた笑いは馴染まない。努めて明るく、なんでもない風に。昔からしてきたことで、もう慣れっこだったはずなのに。

 「本当に自由だったら、あんなふうに泣けないだろ」

 どうしてだろう。あの日から、大町くんの前では何ひとつうまくいかないことばかりだ。
 手元の数学の問題は、簡単な三角関数だ。解き方はわかるし、少し問題を捻られてもそれなりに対応できる自負はある。解けるように、努力してきたから。
 本当に家や家族が嫌いなわけじゃない。できるのが当たり前で、できないのが不思議に思われる。そういう価値観なんだから仕方ない。
 そう諦めたいのに。変に優しくしてくる人がいるから、僕はこうやって自分に言い聞かせていないとやっていけない。

 「普段は泣かないよ。もうあのことは忘れて」
 「忘れてって……そしたらお前、」

 大町くんが机にダンっ、とペンを叩きつけて僕の言葉に抗議しようと机から身を乗り出してきたとき、階下から大町くんを呼ぶおばあさんの声がした。
 何かトラブルでも起こったのかと思い、ふたりで階段を下りてお店に顔を出すと、子どもたちが畳スペースに寝そべり、宿題を広げて悪戦苦闘していた。

 「ごめんね遊我、勉強教えてやってくれない? ばあちゃんもう教えられないわ」
 「え、俺も無理だよ。ばーちゃん俺が勉強得意じゃないの知ってるじゃん」
 「ねーーユーガ、なんで2×4と4×2って答えおんなじなのに両方とも必要なの? かたっぽだけでいいじゃん」

 女の子が脚をバタバタさせながら宿題のプリントを見つめている。どうやらかけ算、しかも九九を習ったばかりのようで、僕たちがもう気にすることもなくなったようなところに疑問を抱いているらしい。想定していたような大きなトラブルじゃなかった安堵と、そんなことで呼ぶなよという気持ちが入り混じったのだろう、大町くんががしがしと髪をかき混ぜて大きく息を吐く。

 「知らねぇよそんなの……テキトーに覚えときゃいいだろ」
 「でもなんでか気になるもん!」

 女の子の周りにいる友だち3人も考えてはみたけれどうまく説明できなかったようで、みんなでうんうんと唸っている。
 ちらっと店内を見回し、目当てのものがあることを確認する。売り場からそれを取ってきて、財布に大切にしまっていたものを大町くんに渡した。

 「織、これ、」
 「こないだくれたバイト代。これのお代、それから払ってもいい?」

 大町くんお手製の『だがしやおおまち おかしなんでも1000円券』と、30個入りのひとくちゼリーを大町くんに渡す。怪訝な顔をしながらも、大町くんは券の裏面に残高を手書きで記載してくれた。

 「見て。ここにゼリーがあるでしょ」

 子どもたちの前に、8個のゼリーを並べる。いちご味、メロン味、レモン味、みかん味、それぞれの色をしたゼリーはとても色鮮やかで、見るだけでワクワクする。

 「2つずつのセットにすると何人がゼリーをもらえる?」
 「4人!」

 ゼリーをそれぞれ子どもたちの前に置くと、皆が目をキラキラさせる。残念ながら、まだ説明のために必要だから一度回収する。

 「そうだね。じゃあ、4つずつのセットにすると、何人がもらえる?」
 「2人だ」

 ゼリーを目の前に置かれなかった2人が露骨に残念そうな顔をした。

 「九九を覚えておくと、こうやっていくつのかたまりを、何人に配ることができますか? っていうのをすぐに計算できるようになるから、便利だよ」

 今回は2×4にしよっか、とそれぞれにゼリーをあげる。「いいの!? ありがとう!」と目を輝かせて、宿題を再開する。この説明だと割り算への導入になってしまうけれど、この子たちの疑問はかけ算に対するものを飛び越えてしまっている。納得してくれたことにひとまず安心し、ゼリーの袋から2つ取り出して、大町くんにも渡した。

 「え、俺にもくれんの?」
 「課題全然終わってないからはやく続きやらなきゃ」

 子どもたちにはまだここにいるように引き止められたけれど、おばあさんが僕たちにも宿題があるからとなだめてくれたおかげで、すんなりと2階へ上がることができた。

 「織、これ教えて」
 テキストを進めながら、ぽつぽつと尋ねられることに答えていく。大町くんはほんの少しヒントを伝えるだけで、たいてい自力で解答までたどりつくことができていた。

 「大町くん、自分で言うほど勉強苦手じゃないでしょ」
 「苦手だって。てか好きじゃない」
 「それは、まぁ。そういうもんだよ」
 「あれ、織って勉強好きじゃないんだ?」
 「好き……ではないかな。大学に行くために必要だからやってるだけで」

 テキストに視線を落とす。やらなくていいならやらないだろ、こんなの。できないことを突きつけられるの、しんどいし。

 「なら、もっとすごいじゃん」

 机に肘をついて、大町くんが僕を見つめてくる。

 「どういうこと」
 「好きじゃないのに頑張れんの、すごくね?」

 しかもああやって子どもにもわかりやすいように説明できてさー、と大町くんがお盆にのった豆大福の包装をあけて大きな口で頬張る。甘いものが好きなんだろう、うま、と頬を豆大福で膨らませている姿は、見ているこっちまで嬉しくなる。
 大町くんは、美味しいものを美味しいと言うのが当たり前のように、自分がすごいと感じたものを素直にすごいと伝えてくる。その言葉にきっと嘘はなくて、謙遜も、卑下も、大町くんの前ではかえって失礼になってしまうような気がした。

 「まぁね!」

 僕もお盆から豆大福をもらって、ぱくりとかじりつく。口の中に広がった柔らかい甘みが、勉強をして疲れていた頭に染み渡って、体中から余計な力が抜けていった。

 「ぷっ」
 「なにさ」
 「いや、幸せそうに食うなと思って。ばーちゃん喜ぶわ」
 「大町くんもこんな顔してたよ」

 口の端に白い餅とり粉をつけて、ふたりで笑う。
 テキストを前にしてこんなにも楽しいのは、たぶん、生まれて初めてだ。