それはあまりにも突然だった。
中間試験が終わったら、次は期末試験。うちの学校では高校2年生の秋から大学受験に向けて全国模試が始まるから、今が最後のゆっくりできる時間だった。ゆっくりできると言っても、遊び呆けはしない。毎日図書室へ通うことはやめず、今だからできる予習復習、苦手対策をしっかりとしておく。もうあんな悔しい思いはしたくない。
「アリスちゃん駅前のカフェでバイト始めたの!? あそこ顔採用あるって有名なとこじゃん! 今度行っていい!? てかあたし受かると思う?」
放課後、教室の後ろの方からやたらと大きな声が聞こえてくる。内輪だけじゃなく、明らかに他の人にも聞かせるための大げさな声量は、否が応でもクラス中の空気を一瞬凍らせてしまう。
数人の女子に囲まれている三國は、見るからに引きつった笑みを浮かべている。なぜあの三國を囲んでなお、嫌がっているかもしれないと思えないのか、甚だ疑問だった。
ふぅ、と一呼吸置いて自分の席を立つ。
「三國」
僕の声を聞いて、三國を囲む女子が全員顔を見合わせた。やべ、とでも言いたげな顔をしているが、そもそも大きな声で話していたのは自分たちじゃないか、と心の中で悪態をつく。
「三國、今日バイト?」
「あーー、……ごめん」
「なんで謝るの。ちょっと来て」
少しばかり強引に三國の腕を掴んで席から立ち上がらせる。左手で三國の腕を引き、右手で自分のと三國のカバンをロッカーから引っ張り出しながら、教室を出る。背後から「まじやばいことした」「バイトって校則で禁止だっけ?」「てか永田って三國と仲良くなかった?」と口々に聞こえてくるけれど、そんなことは構いやしない。
廊下を歩いている間、後ろをついてくる三國は大人しかった。
「ここらへんでいいかな」
人がいないところなんてこの辺りしかない。図書室へ行く途中の廊下で足を止めた。
「三國、バイト間に合う?」
「うん。え、てか怒ってないの?」
「え? 怒るわけないじゃん。三國が困ってたから連れ出してきただけなんだけど」
「それであの顔、怖すぎるでしょ」
ちびるかと思ったよ、と三國が僕の手から自分のカバンをなめらかに奪う。
「イケメンの凄んだ顔って怖いんだから。あぁいうことしたら勘違いされて敵作るよ」
「そもそも人の嫌がることする方が悪いんだろ。しかも僕はバイト? って訊いただけなんだし、怒られてるって勘違いするのは悪いことしてた自覚があるってことの証明じゃないの」
何よりも、アリスちゃん、という呼び名が気に入らなかった。三國がどういう気持ちでこの顔と名前で生きてきたか、知らないくせに。
「今後は絡まれないようにしなよ。てか嫌なことは嫌ってはっきり言いな」
「織くんははっきり言い過ぎ」
でもまぁありがと、と三國が口を尖らせる。そのまま、三國はバイトに、僕は図書室へ向かった。
図書室で古文漢文のテキストを広げて、2ページほど進めたところで、珍しく図書室の扉が開いた。いつもの定位置から来訪者の姿はすぐに見える。興味で視線を上げると、とても図書室に用があるとは思えない人物がキョロキョロと何かを探していた。
目が合う。探していたのは、モノではなく人だったらしい。しかも、おそらくお目当ては僕だ。
私語厳禁をきちんと守っている彼は、ちょいちょいと僕に向かって手招きをする。きっとこのあと図書室に戻ってくることはできないだろう。なんとなくそんな予感がした。
机上の勉強道具をまとめ、カバンに詰めて彼の元へ行く。司書さんに軽く会釈をすると、温かな微笑みが返ってきた。
「まじごめん! ちょっと急なんだけどさ、永田、このあと時間ある?」
大町くんはパンッと顔の前で手を合わせ、眉を下げて申し訳なさそうな顔をしている。
「あるけど……。合コンとかなら行かないよ」
「俺のイメージどうなってんの。俺だって合コン行ったことねぇし。じゃなくて、バイトお願いしたいんだよ。ほんのちょっとの間」
バイト、の言葉に数十分前に教室で繰り広げられたやり取りが蘇る。なんだ、今日はそういう日か?
「人のシフト代わるなんて、僕にはできないと思うよ。バイト経験ないし」
「あ、大丈夫大丈夫。永田にしかできない。てかさせたくない」
いけそうだな、と大町くんが僕に背を向けて歩き出す。
「ちょっと急いでてさ。細かいことは移動しながら教えるからとりあえず来てくんね? ちなみに電車の定期ってどこまで?」
学校の最寄りから1駅だけ離れた駅名を言うと、交通費支給制度あり! と親指を立てて眩しい笑顔を向けられた。
「要は、店番頼みたくて」
あまりにも突然すぎて、正直僕はここまでの流れに何ひとつ着いていけていない。そんな僕を横目に、大町くんは素知らぬ顔をして通学定期をスラックスのポケットに押し込む。
「俺、ちっさい弟いるんだけどさ。今日親が保育園の迎え行けなくなったらしくて俺が行かなきゃならんのよね。でも俺今日店番もしなきゃなんなくて、体が足りねぇのよ。だからちょうど事情知ってる奴1人拉致って俺の分身してもらおっかなって思ったってわけ」
簡単だろ? と電車の吊り革に掴まって窓の外を眺めながら、大町くんが早口で説明してくれた。バイトというのは実家が営む駄菓子屋の店番の代理のことらしい。
説明に言い淀みがないあたり、彼なりにこの行動を起こすまでに悩み尽くしたんだろう。拉致という言葉は聞かなかったことにする。
「今日に限ってばーちゃん習い事でいないからさー。弟迎えに行ってる間は店閉めてようかなとか考えたんだけど、開いてると思って来たガキんちょがかわいそうだろ?」
あいつらすぐこの世の終わりみたいな顔するから、と大町くんが笑う。
「お迎えって、どれくらい時間かかるの?」
「チャリぶっ飛ばして20分くらいかな。すんなり帰るって言ってくれたらだけど」
帰りたくないモードのときは40分くらいかかるかも、と言われ一抹の不安が過ったけれど、この間散々迷惑をかけたことを考えれば、僕に断る権利なんてないも同然に思えた。
「お店のマニュアルとかって……」
「ないよそんなもん。全部値段のシール貼ってあるし、わかんなくても店に来る子が教えてくれる。レジの使い方は……まぁ永田ならできるだろ」
な? と片眉を上げてこっちを見られても、どうしようもない。できないに決まってる。レジってたくさんのボタンがあって、それを間違いないように押さないといけないし、もし間違ったとしても誰にも助けてもらえないってことだろ……と色々考えているうちに、大町くんが「ここで降りる」と僕の背中をトンと押した。
所詮は学校から2駅だ。景色なんてそう変わりやしない。この地域は大きな団地があることで有名で、駅前も家族連れで賑わっている。
「人、多いね」
「割と毎日こんな感じだな。イベントとかあるともっと多いし」
駅構内にはいたるところにイベントポスターが貼られている。2週間後、子どもたちに人気のヒーローがやってくるらしい。力を入れているのか、他のイベントに比べてポスターの枚数が圧倒的に多かった。
「そのヒーローショー、うちの弟も行きたいって言ってたわ。永田はガキんときヒーローとか見てた?」
「たまに。日曜日はヒーローみてから塾行ってた」
「そんなガキの頃から勉強してたん!? すげぇな。俺なんか河川敷で鼻垂らして木の棒振り回してたっつの」
結局、塾は続かずに小学生のうちに辞めてしまった。けれどそんなこと、わざわざ大町くんに言う必要もないだろう。
お店へ行く道中も、大町くんの話は尽きなかった。大町くんが通っていた小学校は家から徒歩10分のところにあって、最近当時の担任の先生とたまたま再会して学校のサッカークラブに世話焼き人として顔を出していること、近所に商店街があるけど、アーケードの維持費が回収できなくなって撤去され、雨の日に遊ぶ場所がなくなってしまったこと。大町くんの話を聞いていると、彼がいかにこの町に広く根を張って生きているかがよくわかった。
「ここ」
どうやら僕はそのまま駄菓子屋を通り過ぎようとしていたらしく、大町くんにカバンをぐいっと掴まれて引き戻された。一瞬バランスを崩し、大町くんにぶつかる。細身だと思っていた彼は意外と筋肉質で、僕にぶつかられてもびくともしなかった。
「普通の民家って感じだね」
外装は古くからある一軒家といった佇まいだった。もとは白だっただろう漆喰の壁は薄いベージュに、引き戸の木枠は黒みがかった葡萄茶になっていて、おばあちゃんのようなどっしりとした安心感がある。
「築70年だったかな。古くて建付けも悪いんだよ」
ポケットから鍵を取り出して、鍵穴にさす。鍵はスムーズに開かなくて、大町くんが戸を少し持ち上げたりずらしたりすると、15秒ほどでやっと鍵が開いた。大町くんの背中越しに見える店内は、小さなお菓子が入った箱が所狭しと、それでいて几帳面に並べられていた。
「わ! 駄菓子がいっぱいだ」
「目輝きすぎ。まぁいまの時代、駄菓子屋とか珍しいからなぁ」
大町くんは戸を全開にし、軒先に『営業中』と書いてある群青色ののぼりを出した。確かに、目印がないとまさかここが店だなんて思わない。入口で一瞬入るのにためらってから、小さくお邪魔します、と呟くと大町くんが吹き出した。
「なんでそんな緊張してんの。おもれぇな」
「そ、そりゃ……人の家来たのなんて何年ぶりって感じだし、緊張もするよ」
「バイト頼まれた身なんだから、もっとでけーツラしてりゃいいんだよ」
大町くんが店の奥へ歩みを進める。店内は子ども向けに作られているのか、お菓子を載せている台は全て僕の膝上程度の高さしかない。僕よりも頭半分ほど背の高い彼は、ミニチュア世界を破壊しに来た怪物のように巨大に見えた。そんなこと言ったらきっと怒られるだろうから何も言わないでおくけれど。
「とりあえずレジ操作だけ教えるな」
「はい」
カバンから手近な紙を出して構えると、またしても大町くんが吹き出す。
「なんだよ」
「いや、真面目すぎ……。ごめん、永田のことナメてたわ。そんなしっかりやってくれんなら時給弾む」
「いいよ別に。それより、早く弟くんの迎え行かないといけないんでしょ」
「おう」
くくく、と目尻を下げて喉で笑い続ける大町くんに一通り操作を教えてもらい、それをメモする。想像していたほど難しいものではなくて安心した。わからないことがあったらここに、と大町くんからメッセージアプリの連絡先を差し出され、交換する。それから手渡されたのは、紺色の見覚えのあるものだった。
「ちょっと頭下げて」
軽いお辞儀をするように身をかがめると、大町くんの腕が首元にすっとかかる。驚きとくすぐったさでびくついてしまうも、彼の手はすぐに離れていった。
「これ、」
『だがしや おおまち』の紺色のエプロン。初めてあの場所で話した時から頭を離れてくれなかった文字が今僕の胸元にある。
「そんなに嬉しい?」
言われて、初めて自分の頬が緩んでいることに気づいた。
「職業体験に浮かれる子どもみたいな顔してんじゃん。いつものお澄まし顔はどこにいったんだよ」
んじゃ、俺行ってくるわ。と通学カバンをレジ横にある2畳の謎のスペースに放る。ポケットにスマホだけ入れて、大町くんは店を出ていった。扉が開いているから、がちゃん、と自転車のスタンドが外れる音も、すー、と自転車が走り去っていく音も全て丸聞こえだった。
そして、静寂に包まれる。
いくら駅前は人が多かったとはいえ、住宅街にまで人は流れ込んでこない。この店に来るまで、何度角を曲がっただろう。少し入り組んだこの場所に、ふらっと訪れてくるような一見さんはいるのだろうか。
店内を見回す。本当に夢のような場所だ。小さくて色鮮やかな買い物カゴが入口に積まれ、それを手にとったら冒険が始まる。甘いお菓子、しょっぱいお菓子、チョコレートにラムネに、おつまみにラーメンまで。それぞれが箱に入れられ、大きく値段が記載された札が掲げられている。10円のお菓子から200円を少し超えるお菓子まで幅広い。
レジは入口の正面、店内を見渡すことができる位置にある。その真横には大町くんがカバンを置いた謎のスペースがある。レジを打つ人が座るためにある壁からせり出したベンチが、そのまま横に広がってちょうど2枚の畳になったような場所。ここは荷物置場なんだろうか。
「…………」
誰も来ない。今は16時。今日は学校の設備点検があるらしく、授業は短縮されていつもより早めに終了した。こんな時間に学校や家の外にいることは、僕にすればすごく珍しい。時間の潰し方を知らない僕は何もしないということに耐えられず、結局カバンからB6版の小さなテキストを取り出してしまった。世界史の復習でもしようと付箋を貼った場所を開く。たまには違う場所で勉強するのもいいなと思っていたとき、外からバタバタとそれでいて軽やかな足音が聞こえた。
「えーーー! だれーーー!!!」
突然、店内に大きな声が響き渡り、驚きのあまり手に持っていたテキストを落とす。
視線をあげると小学校低学年くらいだろうか、男の子の3人組が僕を見て指さしていた。
「い、いらっしゃいませ」
「おばあちゃんは? ユーガは? いないの? 今日おかしかえないんですか!?」
「お、お菓子は買えるよ。もうすぐ大町くん帰ってくるから、それまで僕が代わりに店番してるんだ」
何子どもに押されているんだ、僕は。季節は春。最近夏の気配を感じるとはいえ、朝夕はかなり冷える。なのに、3人のうち2人は半袖半ズボンだった。
「大町くんじゃないと不安なんだったら、もう少し待っててね」
「おおまちくんってだれ?」
3人の真ん中にいる男の子が不思議そうに首を傾げる。一瞬意味がわからなくてこちらもフリーズするも、つい数秒前少年は『ユーガ』と口にしていたことを思い出し、ただ大町くんの名字を認識していないだけなんだと思い至った。子どもとは不思議なものである。
「ゆ、遊我くんのこと」
初めて大町くんの名前を口に出す。慣れない音が舌を絡め取っていく。ただ不在の彼の名前を呼んだだけなのに、なんだか気恥ずかしかった。
「別に、ユーガいなくてもいいけどっ」
男の子たちはそれぞれカゴを持って、店内のお菓子を見て回る。ひとつのお菓子の前で立ち止まったと思えば、反対側のところまでとんでいって、またもとのところに戻ってくる。不規則な動きは全く予想できない。
そして何より不思議なのは、時折僕の方をちらっと見て、すぐに目をそらしてくるところだった。
最初は警戒されているのかなと思った。けれど、それにしては目が合う頻度が高いし、お菓子の合計金額が合っているか何度も尋ねてくる。
「あのさ、」
しばらくして、長袖長ズボンの子が言いにくそうに口を開けた。
「ユーガって、なんじごろ帰ってきますか」
お菓子を選んでいたときの元気と威勢はどこへ行ったのやら。たどたどしく覚えたての敬語を使う様子がいじらしい。この子たちは遊ぶふりをして大町くんが帰ってくるのを今か今かと待っていたのだろう。
「あと10分くらいで帰ってくるんじゃないかな。遊我くんが帰ってくるまで、ゆっくりしてていいよ」
「ほんと!? ありがと! お兄ちゃん、名前なんていうの?」
「永田だよ」
「じゃなくて、下の名前」
「織」
しき、と僕の名前を口の中で転がして、ぱっと笑顔になる。それから、真ん中にいた子はとうまくん、もうひとりの半袖の子ははるとくん、自分はらいというのだと、長袖の子は教えてくれた。3人は畳の上にそっとカゴを置き、靴を脱いでぴょんと畳に飛び乗る。
「シキ、これ見て!」
とうまくんが僕の肩に手を置いて、片手を差し出してくる。小さな手のひらには10円玉が10枚握られていた。
「おこづかいたまった」
「すごいじゃん。ためるの、時間かかったでしょ」
「すぐだったよ。おれ、塾のプリント3枚と、家のてつだい1こしたら10円もらえんの。1週間もかかんなかった」
「えらいね。ちゃんとお仕事してるんだ」
そう言うと、とうまくんは「おしごと、」と 手元のお金を見つめる。きっととうまくんの親御さんは、お金をもらうのは簡単なことじゃないと小さな頃から教えたくて、この方法でお小遣いを渡しているんだろう。肩に乗せられた手は小さくて、しっとりと汗ばんでいた。
「おしごとって、お父さんとお母さんといっしょってこと?」
「そうだよ」
ぱぁぁっと笑顔になったとうまくんを見て、あとの2人も自分の手のひらを僕に差し出してくる。
「ぼく、ばあちゃんのかたたたきした!」
100円玉を持ったらいくんが言う。
「えらいじゃん。おばあちゃん、嬉しかっただろうね」
らいくんは満足したのか、カゴを抱きしめて100円玉を見つめ続ける。
「おれ、テストで100点とった!」
はるとくんが言う。その言葉に一瞬だけ体が固くなったけれど、僕の事情なんてこの子には何の関係もない。膝の上に置いた左手をぎゅっと握り直して、ブレないようにまっすぐはるとくんを見る。
「すごいよ。何の教科?」
「算数! クラスで100点おれだけだったんだ!」
「そう……がんばったんだね」
なぜか、泣きそうになった。僕が言葉をかけると、はるとくんはくちゃっと笑って2人のところに戻っていった。
数分して、店の外からちりり、と小さなベルの音がした。
「あ!! 自転車の音!」
「ユーガだ!」
3人はぴょんと畳から降りて、一目散に玄関へ走っていく。とうまくんは素早く靴を履けなくてもたついていたけれど、2人に置いていかれまいと考えたのか、靴を履くことを諦めて裸足のまま外へ行ってしまった。
「ユーガ! おそい!」
「おそいよ! 500時間まった!」
「うそつけ。つか冬真、なんで靴履いてねぇんだよ」
「ユーガ、てるくんのおむかえだったんだね」
「おう。雷、ちょっと輝の荷物持っててくんね?」
店の外から聞こえてくる声に、妙に安心する。やっぱり、僕はひとりで心細かったし、3人は大町くんがいなくて寂しかったんだ。
「たでーま。まじにぎやかだな。永田、大丈夫だった?」
「うん。おかえり。みんな大人しく大町くんのこと待ってたよ」
「ぜってぇ嘘だな。こいつらが大人しくできるわけねぇもん」
はるとくんは大町くんのお尻に連続パンチをして、らいくんは嬉しそうに小さなリュックを持っている。僕といたときより、ふたりとも表情がいきいきしている。靴を履いていないとうまくんは、大町くんの小脇に抱えられてジタバタとしていた。
「はなせ!」
「靴履いてねぇのが悪いんだろ」
ほら、と畳の上に降ろされたとうまくんは、あれだけ嫌がっていたのにまた大町くんに自分を抱えるようせがんでいた。
ふと、大町くんの足元を見る。小さな子どもがひとり、隠れていた。
「輝。挨拶は?」
「……ばいとくん!」
拙い日本語ではあったけれど、間違いなく小さな子どもから出てくる語彙ではなくて、なんと返事をすればいいかわからなくなる。
「あ、えっと、うん。バイトで……す」
「おい輝、失礼だろうが! 悪い、俺が店にバイトくんがいるから早く帰るぞとか言ったせいで!」
慌てる大町くんの足元で、大町くんのミニチュアみたいな男の子が目をキラキラさせてこっちを見ているのがなんとも面白くて、思わず笑ってしまう。
本当に、よく似ている。これだけ年が離れているのにぱっと見ただけで兄弟だとわかる。
「ながたしきです。よろしくね」
レジのところから移動して、男の子と視線を合わせるためにしゃがむ。一瞬もじ、としたけれど、形だけの人見知りだったのか、すぐに大きな声で自己紹介をしてくれた。
「おおまちてるです! 5さい!」
「4歳だろうが。サバ読むな」
とんでもない大声で挨拶をしてくれたおかげで、周囲の空気が少し震える。名前を教えてくれてありがとうと言うと、輝くんは保育園指定のバッグから何かを取り出した。
「くれるの?」
「ばいとだい! あげる!」
「お前まじで失礼だな。いい加減にしろよ」
「あはは。いいよ。ありがとう」
小さな手から受け取ったのは、昔からある台形の一口サイズのチョコレートだった。輝くんの手に収まっていたときはとても大きく見えたけれど、僕の手のひらに渡ったそれは、あまりにも小さい。
それから、3人は自分たちが持っている100円玉の話を大町くんにもして、褒め言葉のカツアゲをしていた。4人の小さな子どもに群がられる大町くんは鬱陶しそうな顔をしながらも、お兄ちゃんと呼ぶにふさわしい態度で丁寧に話を聞いてひとつひとつにリアクションをしてあげていた。
「ねぇユーガ、てるくんと一緒にお桜さんで遊んできていい?」
「いいけど、5時半までだぞ」
「わかってる」
3人は買ったお菓子が入った袋を心底大切そうに抱きながら、輝くんと一緒に店を出ていった。
「あーー、うるさかった……」
「元気だったね」
「永田なんでそんな菩薩みたいになってんの」
アルカイク・スマイル的な、と日本史で習った覚えたての単語を口に出し、意味合ってる? と尋ねてくる。
「合ってるよ。すごく久しぶりに小さい子と喋ったんだけど、みんな、小さい身体で一生懸命頑張ってるんだって思ってさ」
じっと僕の方に体を向けて、大町くんは次の言葉を待ってくれる。
「大町くんも、はるとくんのテストの話聞いたでしょ? 満点取ったの嬉しかったって言ってて、なんでかわかんないけど僕が泣きそうになったんだよね」
僕も頑張らないといけない。出すだけ出して、結局一度も使えなかった世界史のテキストをそっとカバンにしまう。
畳に座った大町くんは、黙ったままごそごそと自分のカバンを漁って何かを取り出した。唐突にペンを出して、紙に何かを綴る。
「これ、バイト代」
「え、もうもらったけど。輝くんから」
「あほか。冬真たちが退屈しなかったのも、永田のおかげだから。マジで今日は助かった」
ありがとう、と渡されたものは、手書きの『だがしや おおまち おかしなんでも1000円』券だった。
「こんなにもらっていいの? 1000円あれば、駄菓子パーティーができそう」
お礼を言ってありがたく券を受け取る。ちなみに、これは数回に分けて使ってもいいらしい。お世辞にも綺麗とは言えない癖字で、右下に小さく注釈が添えてあった。
「お前も頑張ってるよ」
突然の言葉に、思わずフリーズする。
「遥斗の満点、ちゃんと褒めてやったんだろ? あいつ、シキにも褒めてもらったって超喜んでた。俺みたいな上っ面だけの褒め言葉なんじゃなくて、満点取る大変さを知ってる奴からの褒め言葉ってわかったんじゃね?」
「……そんなこと、ないよ」
本当は羨ましかった。ちゃんと頑張ったことを褒めてもらって、結果を認めてもらっているのが。はるとくんの100円玉が、とびきり輝いて見えたのが、僕は悔しかった。
「ちゃんと褒めてあげなくちゃ。頑張れるのって、無限じゃないから」
僕は今、うまく笑えているだろうか。
大町くんと話すようになってから、僕はこの人に情けないところばかり見せている気がする。一度弱いところを見せてしまったせいか、全ての感情の栓が緩んでいるような気がしてならなかった。
「お前、優しすぎね? 今日の三國の騒ぎ見てても思ったけど」
「え?」
「教室でのあれ、え、ほんとにぶちギレてたわけじゃないよな?」
「ちがうよ。三國には怖い顔するなって言われたけど……やっぱりちょっとまずかったかな」
「いや、あいつら強く出ないとやめねぇからな。三國の顔引きつってたし、あんまりにも酷いようなら割って入ろうかと思ってたけど、俺三國とあんま喋ったことないからなぁって迷ってたら救世主来てビビった」
かっこよかったぞ、と大町くんが隣でにっと笑い、僕の頭に手を伸ばしてきた。
「ちょ、なでないで」
わしわし、と少しだけ乱暴に髪をかき混ぜられる。最後に頭を撫でられたのはいつだっただろう。両親にしてもらった記憶はほとんどない。僕の髪がぐちゃぐちゃになることもお構いなしに撫で続けられ、さすがに気恥ずかしくなって大町くんの手首を強引に握ってやめさせる。
「怒った?」
「怒って、ない。けど、僕もう大人なんだからやめて」
「大人ってお前、」
くっ、と拳を口元に添えて、大町くんが笑う。
「なに」
「褒められると嬉しそうにしてんのに?」
「……っ、うるさい!」
大町くんは畳に転がり、あはは、と腹を抱えて笑う。
「いいじゃん別に。褒めてほしかったらそう言えば。それで頑張れるなら、いくらでも言ってやるし」
「……そういって色んな人たらしこんでるんだろ」
「だぁらなんでそうなんの」
大の字になった大町くんは、腹の力だけで上体を起こす。
「俺はみんなが欲しい言葉をかけてまわってるわけじゃないって。不特定多数になりさがろうとすんな」
突然真面目な顔をして、まっすぐそう言う。
「自分に向けられた言葉はきっと他の奴にも向けられてるって思うの、もったいなくね? もっと自分は特別だって思っていいよ、お前」
永田って自分に自信ないよな、と、大町くんがポリポリと頭を掻く。
思い返す。僕が満点を取ったとき、兄たちも満点だったこと。僕がいい成績を取ったとき、兄たちはもっといい成績を取っていたこと。
先生たちが僕に使った褒め言葉を、一字一句違わず他の生徒にも使っていたこと。
これまで、僕だけに向けられた言葉なんて数えるほどしかなかった。
「あと、言ってほしいことあるなら、ちゃんと言え。潰れるまで我慢するな。見てると焦れったいんだよ」
なんでそんなのもわからないんだと叱られているようだったけれど、まっすぐ僕だけのために用意された言葉は、なぜか心地良かった。
言ってほしいことなら、いま、ある。口を開けるも、1回目は空気しか漏れず、うまく音が紡げなかった。2回目、はく、と口を動かし、喉に力を込める。
「……また、ここ、来ていい?」
はじめてかもしれない。
自分から欲しい言葉をねだったのは。
絞り出した声は甘ったれた子どものようで恥ずかしかったけれど、大町くんは笑ってくれた。
「いつでもどーぞ」
ちゃんと言えんじゃん、と、もう一度僕の頭に手を伸ばす。
さっきよりも優しく撫でられる。
きっといま自分は、嬉しそうな顔をしているのだろう。
言われなくてもわかってしまった。


