裏アカ彼女は、クラスの地味男子

​ その日は、朝から両親がそろって帰りの遅い日だった。
 母は出勤前、玄関で靴を履きながら財布から現金を引っ張り出し、鴎の手に押しつけてきた。
​「今日ごはん作れないから、翼芽(つばめ)とどっかで食べてきて」
「え、急に?」
「適当に済ませないこと。コンビニ飯とか絶対ナシ。……お姉ちゃんにもちゃんと声かけてね」
​ 嵐のように去っていった母のあとには、数枚の千円札が残された。
 帰宅してから姉に伝えると、翼芽はソファに寝転がって動画を見ながら、ニヤリと口角を上げた。
​「最高じゃん。ねえ、駅前のファミレス行こ」
「ファミレス?」
「え、いいじゃん。こういう時くらいしかあんたとサシとかないし、普通にポテト食べたい気分」
​「……別になんでもいいけど」
「何そのテンション。たまには可愛いお姉様と外食できて光栄です! くらいのパッション出しなよ」
「出さない。……早く準備してよ」
「はいはい、塩対応〜。ほんとかわいくないわー」
​ 口では文句を言いながらも、翼芽の動きは爆速だった。
 家を出る頃にはすっかり日が落ち、夜の静寂が街を包み始めている。駅前まで歩く道すがら、翼芽は最近のトレンドだの、新作のコスメがバズってるだの、好き勝手に喋り倒し、鴎は適当に聞き流していた。
​ ***
​ 自動ドアをくぐり、ファミレスの明るい照明の下に踏み込んだ瞬間。
 鴎は、石のようにその場に立ち尽くした。
​ 店内の奥。黒いエプロン姿でトレーを運ぶ、見覚えのある人影。
 茶髪、耳のピアス、そしてあの、目を引く長身。
​(……詰んだ)
​ 反射的にそう思った。嫌いなわけじゃない。けれど、最も「気を抜いているプライベート」に鉢合わせたくない相手、ナンバーワンだった。
​ そんな鴎の内心なんてフルシカトで、翼芽はさっさと受付を済ませて進んでいく。
 鴎はできるだけ顔を伏せ、気配を消してその後を追った。
​ 案内された席に座り、なるべく店の奥を見ないようにメニューを広げる。
 知らないふりをしていればいい。向こうは仕事中だ、わざわざ客に絡んでくることもないはずだ。
​ そう、自分に言い聞かせていたのに。
​「あれ。……時任じゃん」
​ すぐ横から降ってきた、聞き慣れた軽い声。鴎の肩がびくんと跳ねた。
 見上げると、ハンディを手にした琉生がそこに立っていた。
​「……どうも」
「なんだよ『どうも』って。ここ、よく来んの?」
​「今日は、たまたま。……仕事中だろ、いいから早く行って」
 なるべく素っ気なく追い払おうとする。けれど、目の前の「極上のエサ」を姉が見逃すはずもなかった。
​「えっ、待って。鴎、知り合い?」
​ 翼芽の目が、キラリと肉食獣のように輝く。
​「同じクラスの、早見。……ただのクラスメイト」
「へえ、なるほどね……?」
​ 翼芽は琉生の顔を上から下まで、品評するようにまじまじと見つめた。そして、一瞬で「お姉ちゃんモード」の営業スマイルを張り付かせる。
「何あんた、こんなイケメンな友達いたの!? マジで聞いてないんだけど」
​「友達じゃないってば」
「えー、でも知り合いっしょ? ほぼ友達みたいなもんじゃん。てかもう友達で良くない?」
​ 全否定する鴎をスルーして、翼芽は琉生に向かって声を弾ませた。
「ウチの弟がいつもお世話になってまーす。姉の翼芽です。よろ〜」
​「ちょっと、姉ちゃん!」
 鴎の制止なんて翼芽には届かない。むしろアクセル全開だ。
​「鴎、学校だとどんな感じ? ちゃんと馴染めてる? 陰キャ爆発してない?」
「姉ちゃん、余計なこと聞かなくていいから!」
「いいじゃん、減るもんじゃないし」
​「減る! 尊厳とかいろいろ!」
 顔がカッと熱くなるのが分かった。おそらく、耳の先まで真っ赤だ。
​ 琉生は一瞬ポカンとしていたが、やがて噴き出すのを堪えるように肩を揺らした。
「お姉さん、マジでおもろいっすね」
​「でしょ? 鴎、家だとマジで可愛げないのよ。学校だとやっぱ静か?」
「……姉ちゃんってば!」
​ 被せるように叫ぶと、翼芽はついに声を上げて笑い出した。
「あはは! 必死すぎ! ウケる」
​ 琉生も楽しそうに目を細めている。最悪だ。地面にめり込みたい。
​「じゃあ、注文決まったら呼んで。……時任」
 琉生は一歩下がり、去り際にだけ、鴎にしか聞こえない音量で囁いた。
​「家だと『(かもめ)』って呼ばれてんだ。……いい名前じゃん」
「……っ、うっさい。行けよ」
​ 翼芽には聞こえなかったようで、「今なんて言ったの?」と首を傾げている。
 鴎は「何でもない」と吐き捨て、テーブルの上の水を一気に飲み干した。
​ ***
​ 琉生が離れていったあとも、翼芽のテンションは爆上がりだった。
「ねえ、いいじゃん。ああいう子」
​「何が」
「顔面偏差値高いし、ノリもいい。あんたが学校でつるんでるタイプには見えないけど、意外と仲良いのバレバレなんだけど」
​「だから、仲良くないって」
「嘘おっしゃい。あんなに楽しそうにイジられてるくせにー」
​「……」
 完全にニヤついている姉の目に、鴎はメニューを盾にして黙り込んだ。
​ けれど、胸の奥のどこかでは、今の琉生の姿が再生され続けていた。
 学校にいる時よりも、声のトーンが少し低くて、落ち着いている。
 客に向ける笑顔は営業用なんだろうけど、動きに無駄がなくて、普通に仕事できる男って感じがした。
​ 自分の知らない、あいつの日常。
 それを見てしまったことが、妙に心臓をざわつかせる。
​「何ニヤついてんの。きも」
「……してない」
「してるわよ。え、何? もしかして……恋?」
​「……んなわけないだろ!」
 全力で否定する鴎に、翼芽は「はいはい、お幸せに〜」と適当に流しながら、楽しそうにポテトを口に運んだ。
​ 結局、料理が運ばれてくるたびに翼芽が茶々を入れ、琉生が近くを通るたびに鴎が縮こまるという、最悪に落ち着かない夕食になった。
​ けれど、帰り際。
 レジで会計を済ませようとした時、琉生とふたたび目が合った。
 彼は仕事用の表情を崩さないまま、けれどほんの少しだけ、いたずらっぽく片目を細めて見せた。
​「また学校でな。……鴎」
​ たったそれだけの、名前の響き。
 なぜか昨日までよりずっと、彼との距離がバグってしまったような感覚に陥る。
 
「……どうも」
 また、変な返事をしてしまった。
​ 店を出ると、冷たい夜風が火照った頬をなでた。
 隣では翼芽が「鴎、顔赤いよ?」「熱ある? それとも恋?」と、確信犯的にいじり倒してくる。
​「うるさい! 帰るよ!」
​ 早足で歩き出しながら、鴎は自分の鼓動が少しだけ速いことに気づいていた。
 たぶん今日のことも、夜、布団の中で何度も思い出しては、枕を殴ることになるんだろう。
​ そんな確信に近い予感を抱えながら、鴎は冷たい夜の空気を思い切り吸い込んだ。