裏アカ彼女は、クラスの地味男子

​​ 今村がロッカーから這い出してきたあとも、しばらく誰も動けなかった。
 夕方の光が斜めに差し込む空き教室。俺と琉生は中途半端な距離のまま固まり、今村だけが掃除用具入れの前で、この世の終わりみたいな顔をして立っている。
​「……えっと」
 沈黙を破ったのは、やはり今村だった。
「ほんとに、俺もこんな展開になるとは思ってなかったんだ。罰ゲームで『十秒以内に隠れろ』って言われて、たまたまここが空いてただけで。出るタイミング、完全に失ったっていうか……」
​ 言い訳を並べる今村の声が、必死すぎて逆に何も言えない。俺は顔が燃えるように熱いまま、隣にいる琉生の顔を見ることすらできなかった。
 琉生はまだ少し笑いを引きずっていたが、やがて短く息を整えると、今村の方へ向き直った。その瞳には、いつもの冷ややかな余裕ではない、鋭い光が宿っている。
​「……で。どこまで聞いた」
「どこまでっていうか」
 今村は気まずそうに頭をかいた。
「『避けられると傷つく』、あたりからは全部。……遮音性ゼロなんだよ、あのロッカー」
​ 終わった。
 今度こそ本当に、何もかも。
 そう思って血の気が引くのを感じたが、今村は意外なほど真面目な顔をして続けた。
「でも、別に言いふらすつもりはないよ。前から変だなとは思ってたけど、今のでやっと繋がったっていうか。……ああ、そういうことなんだなって。面白がってバラすほど、俺も趣味悪くないし」
​ 軽い調子の奥にある、真っ直ぐな眼差し。琉生がわずかに表情を緩める。
「助かるわ」
「いや、助かるのは俺の方。あのままあそこにいたら、酸欠か精神崩壊で詰んでた」
 今村が本気で嫌そうな顔をする。そのやり取りがあまりにもいつも通りで、俺だけが時間の止まった場所に置き去りにされた気分だった。
​「……俺、帰る」
 絞り出すように言って、扉へ向かおうとした瞬間、背後から名前を呼ばれた。
「時任」
 足が止まる。
「さっきの続き。後で、ちゃんと聞かせて」
 今村の前で何を言ってるんだ、と思うのに、言葉が出ない。
「……知らない」
 それだけ返して、俺は逃げるように教室を飛び出した。廊下の冷たい空気に触れて、ようやく肺が酸素を取り込んだ気がした。
​ ***
​ 翌日。今村とどう顔を合わせればいいのか分からなかったが、拍子抜けするほど、あいつは普通だった。
「おはよ」
 それだけ。いつもの調子で手を上げ、何事もなかったように自分の席へ行く。
 あまりに普通すぎて、逆に怖いくらいだったが、今村は本当に約束を守った。休み時間に茶化すこともなければ、琉生に変な目配せをすることもない。ただ、俺と琉生が不意に目を合わせた瞬間にだけ、ふっと小さく笑う。その「分かってる」風な笑い方が、最高に癪で、けれど同時に、たまらなく救いでもあった。
​ そして放課後。昇降口で靴を履き替えていると、隣に琉生が立った。
「今日、少しだけいい? 昨日の続き、したいんだけど」
 逃げたかった。でも、逃げたくない気持ちの方が、もうずっと勝っていた。
​ 人気の少ない裏通り。夕方の風が少し強く、街路樹の葉が騒がしく揺れている。少し先を歩いていた琉生が立ち止まり、振り返った。
「昨日は、変なところで邪魔が入ったから」
「……今村の登場シーンは、確かに変だったけど」
「ああ、最悪だった」
 琉生が苦笑する。けれど、すぐにその表情は消えて、彼は俺の目を強く見据えた。
「俺、あの中途半端なまま終わらせたくない。お前に避けられた時、本気で焦った。今村のことがあっても、お前にだけは距離を置かれたくなかったんだ」
​ 聞きながら、胸の奥がじわじわと熱くなる。
「俺、お前といる時が一番楽しい。……だから、もう誤魔化したりしない」
 昨日も聞いた言葉。けれど、遮るもののない場所で改めて言われると、心臓への響き方がまるで違った。
​「……俺も」
 やっと出た声は、やっぱり小さかった。
「俺も、早見といる時が一番……。どうしたらいいか分からなくて避けたけど、避けてる時の方が、ずっと嫌だった」
 顔が熱い。それでも、言葉を止めることはできなかった。
「今村に見られるのも、噂になるのも嫌だ。でも、早見と離れる方が……もっと、嫌だ」
​ 言ってしまった。
 戻れない。けれど、不思議と後悔は一欠片もなかった。
 琉生は目を見開いたあと、ものすごく静かに、噛みしめるように笑った。
「……それ、告白って受け取っていいか?」
「勝手に決めるな。……でも、否定はしない……」
​ ようやくそれだけ返すと、琉生が一歩だけ近づいた。
「じゃあ、付き合ってるってことでいい?」
「……まあ。いいよ」
 言った瞬間、自分でも信じられなかった。けれど、目の前の琉生の顔を見たら、もうどうでもよくなった。
 いつもの余裕なんてどこにもない、本気で安堵したような、子供みたいな顔。
​「やばい。うれしいわ」
「……いちいち言わなくていい」
「言う。お前、放っておくとまたどこか行きそうだし」
「行かないって……たぶん」
「そこは言い切れよ」
 そう言って笑う琉生に、俺も気づけば釣られて笑っていた。
​ ***
​ 数日後。今村は本当に何も言いふらさなかった。
 むしろ、誰かが「最近、琉生と時任って……」と勘繰り始めると、さりげなく別の話題をぶつけて流してくれている。
 そのくせ、すれ違いざまにだけ、にやっと笑う。
「……何だよ」
 廊下で睨むと、今村は肩をすくめた。
「いや。よかったなって思って。……いろいろさ」
 最後まで分かったような顔なのが最高に腹立たしい。けれど、それがあいつなりの祝福なのだと、今は素直に受け取れた。

​ 放課後の教室。残っているのは俺たちだけだった。
 琉生が窓際でスマホをいじっている。俺は自分の席で、バッグの中から手鏡を取り出した。
 チャームは、ちゃんと付いている。小さく揺れる飾りを見るたび、あの日、間違えて送ってしまった写真から始まったすべてを思い出す。
​ ふと、窓硝子に映った俺たちの姿が、同じ画面の中に入った。
 並んでいるわけでもないのに、妙に自然な距離。俺は気づけば、スマホを取り出していた。
​「何してんの」
「別に」
「その『別に』、最近信用できない」
​ 琉生が笑う。俺は構わず、窓に映る二人を一枚だけ撮った。
 少し暗くて、輪郭も曖昧な写真。けれど、その曖昧さこそが、今の俺たちらしく思えた。
 そのまま、琉生のトーク画面を開く。
 始まりは、ただの事故だった。けれど、今は違う。
 俺はその写真を、自分の意思で選んで、送信した。
​ すぐにスマホが震える。
 窓際の琉生が、目を見開いて固まった。
「……これ、俺に送ったの?」
「他に誰がいるんだよ」
​ 琉生がゆっくりと、ものすごく嬉しそうに笑った。
「……やばい。これ保存する」
「勝手にすれば」
「今度は、間違いじゃないんだな」
​ その一言に、少しだけ息が詰まる。けれど、もう目は逸らさなかった。
「……お前には、わざと送ってる」
​ 言った瞬間、教室の空気がしんとした気がした。琉生は言葉を失ったように俺を見つめ、やがて顔を覆った。
「……そういうの、急に言うなよ。無理。普通にニヤける」
「……だから、そういう顔するなって」
​ 俺の声も、たぶん少しだけ笑っていた。
 最初は、見せたくない写真だった。隠すべき秘密だった。
 でも今は、自分から渡したいと思う。その変化だけで、迷った日々が報われた気がした。
​ 琉生が画面を見つめたまま、小さく呟く。
「これ、めちゃくちゃ好きだ。ずっと消せないわ」
「……勝手にすれば」
「そうする」
​ そこで会話が途切れた。
 窓の外は、もう夕焼けがだいぶ薄くなっている。教室内は静かで、少しだけ気まずくて、けれど心地よい沈黙が流れていた。
 琉生がスマホを置き、ゆっくりと俺を振り返った。
​「……時任」
「何」
「今、すげえ嬉しい。……何度も言うけど、まだ足りないわ」
​ そう言って、琉生が一歩、俺のパーソナルスペースへ踏み込んできた。
 今までなら、反射的に身構えていたはずの距離。けれど今は、逃げ出したい衝動よりも先に、心臓の鼓動が耳の奥で跳ねた。
​「近い」
「うん」
「うん、じゃなくて」
「嫌ならやめる」
​ その言い方が、たまらなくずるい。
 触れたいくせに、最後の一線を越えるかどうかをこっちに委ねてくる。
 俺は少しだけ視線を伏せ、それから、消え入りそうな声で答えた。
​「……嫌じゃ、ない」
​ その返事を聞いた琉生が、微かに息を呑むのが分かった。
 次の瞬間、ためらうように顔が寄る。
 キスをされる。そう悟った時にはもう、逆らう気なんてどこにもなかった。
​ そっと触れただけの、短く、静かなキスだった。
 ほんの一瞬。けれど、そこだけ世界の時間が止まったような錯覚に陥る。
 離れたあとも、どこを見ればいいのか分からなくて、俺はしばらく硬直したまま立ち尽くした。
​「……っ」
​ 頬が熱い。耳まで赤くなっているのが自分でも分かる。
 何か、何か言わなきゃ。けれど言葉が形にならない。
 琉生もまた、少しだけ気まずそうに視線を逸らした。けれど、その横顔は隠しきれないほどの喜びに満ちていて。
​「……ごめん」
「何で謝るんだよ」
「いや。……止まんなかったわ」
​ その真っ直ぐな返答に、また胸の奥が熱くなる。
「……ずるい」
「何が」
「そういうの、先にやるの」
「じゃあ次は時任からしてよ」
「しない」
「今の間、ちょっと考えただろ」
「考えてない!」
​ 反射的に否定したけれど、今の俺に説得力がないことくらい自分でもわかっていた。琉生が、ふっと柔らかく笑う。
「でも、逃げなかったな」
「……うるさい」
​ 憎まれ口を叩きながらも、もう前みたいに目を逸らし続けることはできなかった。
 窓硝子に映る二人の姿は、さっきよりも、ほんの少しだけ距離が縮まっていた。
​ 学校ではまだ、堂々と肩を並べて歩けるわけじゃない。
 秘密も、噂も、冷やかしも、これからもきっと消えはしないだろう。
 でも、もう怖くない。
 自分で選んで、自分で届けて、自分でこの人の隣にいたいと思った。
 その事実だけで、俺には十分だった。
​ ふと視線を外に向けると、窓硝子を叩いていた雨はいつの間にか止んでいた。
 半開きになった窓から、6月特有の湿り気を帯びた風が入り込み、放課後の熱をゆっくりと冷やしていく。校庭の隅に咲く紫陽花の、雨に濡れて重くなった匂いが微かに鼻を掠めた。
​ 雲の切れ間から差し込んだ夕陽が、水たまりだらけのアスファルトを反射して、誰もいない教室の天井に波のような光の紋様を描き出している。
 その淡い光の中に、窓に映る二人の姿を、もう一度だけ見た。
​ 少し照れていて、少し笑っていて。
 雨上がりの、どこか頼りなくて、けれど透き通った季節の真ん中で。
​ 俺たちは、確かに並んでいた。
​ 間違いなく、俺たちはそこにいた。
 降り続いた雨がすべてを洗い流したあとの、この静かな、二人だけの世界で。