翼芽に話を持ちかけたとき、最初に返ってきたのは沈黙ではなく、思いきり弾んだ声だった。
「え、あのイケメンくんと?」
リビングで雑誌をめくっていた翼芽が、顔を上げる。その瞬間に、時任はもう後悔し始めていた。
「……学校でちょっと誤解されてて。一回だけ、写真の協力をしてほしいっていうか」
「へえ。それで私? 雰囲気が近いからって?」
そこまで言うと、翼芽の口元がニヤリと吊り上がった。その顔を見た瞬間、時任は直感した。――あ、これ、絶対面白がられる。
「何その顔」
「いやあ。やっぱりあの子絡みなんだな、と思って。しかも写真? 何それ、青春じゃん」
「青春じゃない。……本当に、困ってるだけだから」
できるだけ低い声で釘を刺しても、翼芽はまったく怯まなかった。むしろ楽しそうにソファから立ち上がる。
「いいよ。あのイケメンくんとツーショット撮るだけでしょ? 条件は終わった後のパフェ奢りね」
「それは早見に言えば……」
「もちろん。本人に奢ってもらうわ。話、通しておいてね」
***
結局その日の夕方、三人で駅前のファミレスに集まることになった。
店に着くまでのあいだ、時任の胃はずっと重かった。隣を歩く翼芽は妙に機嫌がいいし、早見からは「了解」と短い返信が来ている。それだけなのに、逃げ出したい衝動に駆られる。
先に来ていたのは琉生だった。入り口の近くで待っていた彼は、時任と並んで歩く翼芽を見た瞬間、一拍だけ目を止めた。
「こんばんは」
琉生が丁寧に応対すると、翼芽はやけに社交的な笑みを浮かべる。
「こんばんは。弟がいつもお世話になってます」
「姉ちゃん」
「え、事実でしょ?」
席につき、琉生がパフェを奢る流れになると、翼芽はさらに上機嫌になった。
「ちゃんと甘いものを分かってるの、偉い。ポイント高いわ」
「何の採点だよ」
「秘密」
琉生が笑い、翼芽も笑う。その光景を見ながら、時任はドリンクのストローを無意味にいじった。
別に、翼芽が悪いわけじゃない。琉生だって礼儀を通しているだけだ。これは「守るための作戦」で、必要なやり取り。それ以上でも以下でもない。
分かっているのに、なぜだか胸の奥がざらつく。
「で、どんな感じの写真にしたいの?」
パフェのスプーンを手に、翼芽が聞いた。琉生は少しだけ真面目な顔に戻る。
「彼女が別にいるって分かれば。でも、わざとらしすぎないやつがいいです」
「休日にたまたま撮った、自然なツーショット……みたいな?」
「はい。そんな感じで」
「了解」
翼芽の返事があまりにも軽くて、時任は逆に不安になった。
「……ちょっと待って。そんな簡単にいくかな。近すぎても不自然だし、笑いすぎない方がいい」
「お」
琉生がわずかに目を細める。
「時任、もう監督に入ってる?」
「違う。……ただ、変だと思っただけ」
結局、いちばん細かく調整を始めたのは時任だった。
テーブルの位置、座る向き、スマホを構える角度。翼芽の髪の流れから、琉生の肩の力の抜き方まで。
「姉ちゃん、ちょっとだけこっち。……笑いすぎ。彼女役なんだから、もっと普通にして」
「厳しー……」
「当たり前でしょ。今のままだと、いかにも『撮りました』って感じがする」
自分の席から立ち上がり、スマホを持つ琉生の手の角度まで直してしまってから、時任はふと我に返った。
――何で、自分はこんなに本気でやってるんだろう。
作戦を成功させたいから? 彰人の疑いを晴らしたいから?
……違う。琉生の隣に立つのが自分じゃないという事実を、完璧な「仕事」として塗りつぶしてしまいたいだけじゃないのか。
「鴎」
不意に翼芽が小さく呼んだ。
「……何」
「顔。ちょっと怖いよ」
その一言に、指先が止まる。琉生が吹き出しそうになっているのが分かって、余計に腹が立った。
「怖くないし」
「いや、怖い怖い。そんな本気の監督みたいな顔しなくても、彼女役は私がちゃんとやるから」
「そういう問題じゃない」
「……ふーん。そういう問題じゃないんだ」
翼芽の返しがあまりにも的確すぎて、時任は言葉を失った。
琉生は口元を押さえて横を向いていたが、肩が微かに揺れている。
「……笑わないで」
「ごめん。でも、分かりやすすぎる」
「うるさい」
最終的に撮れたのは、パフェが置かれたテーブル越しに二人がやわらかく笑い合っている写真だった。近すぎず、けれど他人には見えない。休日のひとときを切り取ったような、非の打ち所がない一枚だ。
***
ファミレスを出るとき、琉生がもう一度翼芽に礼を言った。
「本当に助かりました」
「いえいえ。その代わり、うちの弟のことはちゃんと大事にしてあげてね」
「姉ちゃん!」
時任が真っ赤になって遮ると、翼芽はけろっとした顔で肩をすくめた。
駅前で琉生と別れ、帰り道は翼芽と二人きりになった。夕方の風が少しだけぬるく、街の音も昼間より静かに感じる。
しばらく無言で歩いたあと、翼芽が横目で時任を覗き込んできた。
「で」
「何」
「分かりやすすぎ。途中から顔に出すぎてたよ。私があの子の隣にいるの、ちょっと面白くなかったでしょ?」
心臓が大きく跳ねた。図星すぎて、言葉が喉に詰まる。
「……別に、そんなことない」
「その否定の速さがもう答え。……安心しなよ」
「何を」
「あの子、ちゃんとあんたしか見てなかったから」
一瞬、足が止まりそうになった。
「……何それ」
「そのまんま。隣にいたのは私なのに、見てたのはずっと、指示出してるあんたの方だったよ」
翼芽は前を向いたまま、どこか遠くを見るような目で続けた。
「変にビビって逃げるくらいなら、ちゃんと向き合いな。ああいうの、後で欲しくなっても戻ってこないからさ」
時任は何も言えなかった。
否定したかったのに、それ以上に、心の奥にじわりと染み渡る温度があった。
さっきのざらつきの正体。それがただの苛立ちではなく、もっと身勝手で切実な独占欲だったのだと、姉の言葉が暴いていく。
「……姉ちゃん、本当に余計」
「褒め言葉?」
「違う……けど、もういい」
翼芽は楽しそうに笑い、時任はそれ以上何も言わずに歩いた。
ポケットの中には、琉生からもらったチャームが入っている。指先でそっと触れると、小さな金具の感触がした。
彰人の疑惑、教室の噂、そしてこの「代役の写真」。
何も解決していないはずなのに、自分の中に芽生えた確かな熱だけは、もう誤魔化しようがなかった。
「え、あのイケメンくんと?」
リビングで雑誌をめくっていた翼芽が、顔を上げる。その瞬間に、時任はもう後悔し始めていた。
「……学校でちょっと誤解されてて。一回だけ、写真の協力をしてほしいっていうか」
「へえ。それで私? 雰囲気が近いからって?」
そこまで言うと、翼芽の口元がニヤリと吊り上がった。その顔を見た瞬間、時任は直感した。――あ、これ、絶対面白がられる。
「何その顔」
「いやあ。やっぱりあの子絡みなんだな、と思って。しかも写真? 何それ、青春じゃん」
「青春じゃない。……本当に、困ってるだけだから」
できるだけ低い声で釘を刺しても、翼芽はまったく怯まなかった。むしろ楽しそうにソファから立ち上がる。
「いいよ。あのイケメンくんとツーショット撮るだけでしょ? 条件は終わった後のパフェ奢りね」
「それは早見に言えば……」
「もちろん。本人に奢ってもらうわ。話、通しておいてね」
***
結局その日の夕方、三人で駅前のファミレスに集まることになった。
店に着くまでのあいだ、時任の胃はずっと重かった。隣を歩く翼芽は妙に機嫌がいいし、早見からは「了解」と短い返信が来ている。それだけなのに、逃げ出したい衝動に駆られる。
先に来ていたのは琉生だった。入り口の近くで待っていた彼は、時任と並んで歩く翼芽を見た瞬間、一拍だけ目を止めた。
「こんばんは」
琉生が丁寧に応対すると、翼芽はやけに社交的な笑みを浮かべる。
「こんばんは。弟がいつもお世話になってます」
「姉ちゃん」
「え、事実でしょ?」
席につき、琉生がパフェを奢る流れになると、翼芽はさらに上機嫌になった。
「ちゃんと甘いものを分かってるの、偉い。ポイント高いわ」
「何の採点だよ」
「秘密」
琉生が笑い、翼芽も笑う。その光景を見ながら、時任はドリンクのストローを無意味にいじった。
別に、翼芽が悪いわけじゃない。琉生だって礼儀を通しているだけだ。これは「守るための作戦」で、必要なやり取り。それ以上でも以下でもない。
分かっているのに、なぜだか胸の奥がざらつく。
「で、どんな感じの写真にしたいの?」
パフェのスプーンを手に、翼芽が聞いた。琉生は少しだけ真面目な顔に戻る。
「彼女が別にいるって分かれば。でも、わざとらしすぎないやつがいいです」
「休日にたまたま撮った、自然なツーショット……みたいな?」
「はい。そんな感じで」
「了解」
翼芽の返事があまりにも軽くて、時任は逆に不安になった。
「……ちょっと待って。そんな簡単にいくかな。近すぎても不自然だし、笑いすぎない方がいい」
「お」
琉生がわずかに目を細める。
「時任、もう監督に入ってる?」
「違う。……ただ、変だと思っただけ」
結局、いちばん細かく調整を始めたのは時任だった。
テーブルの位置、座る向き、スマホを構える角度。翼芽の髪の流れから、琉生の肩の力の抜き方まで。
「姉ちゃん、ちょっとだけこっち。……笑いすぎ。彼女役なんだから、もっと普通にして」
「厳しー……」
「当たり前でしょ。今のままだと、いかにも『撮りました』って感じがする」
自分の席から立ち上がり、スマホを持つ琉生の手の角度まで直してしまってから、時任はふと我に返った。
――何で、自分はこんなに本気でやってるんだろう。
作戦を成功させたいから? 彰人の疑いを晴らしたいから?
……違う。琉生の隣に立つのが自分じゃないという事実を、完璧な「仕事」として塗りつぶしてしまいたいだけじゃないのか。
「鴎」
不意に翼芽が小さく呼んだ。
「……何」
「顔。ちょっと怖いよ」
その一言に、指先が止まる。琉生が吹き出しそうになっているのが分かって、余計に腹が立った。
「怖くないし」
「いや、怖い怖い。そんな本気の監督みたいな顔しなくても、彼女役は私がちゃんとやるから」
「そういう問題じゃない」
「……ふーん。そういう問題じゃないんだ」
翼芽の返しがあまりにも的確すぎて、時任は言葉を失った。
琉生は口元を押さえて横を向いていたが、肩が微かに揺れている。
「……笑わないで」
「ごめん。でも、分かりやすすぎる」
「うるさい」
最終的に撮れたのは、パフェが置かれたテーブル越しに二人がやわらかく笑い合っている写真だった。近すぎず、けれど他人には見えない。休日のひとときを切り取ったような、非の打ち所がない一枚だ。
***
ファミレスを出るとき、琉生がもう一度翼芽に礼を言った。
「本当に助かりました」
「いえいえ。その代わり、うちの弟のことはちゃんと大事にしてあげてね」
「姉ちゃん!」
時任が真っ赤になって遮ると、翼芽はけろっとした顔で肩をすくめた。
駅前で琉生と別れ、帰り道は翼芽と二人きりになった。夕方の風が少しだけぬるく、街の音も昼間より静かに感じる。
しばらく無言で歩いたあと、翼芽が横目で時任を覗き込んできた。
「で」
「何」
「分かりやすすぎ。途中から顔に出すぎてたよ。私があの子の隣にいるの、ちょっと面白くなかったでしょ?」
心臓が大きく跳ねた。図星すぎて、言葉が喉に詰まる。
「……別に、そんなことない」
「その否定の速さがもう答え。……安心しなよ」
「何を」
「あの子、ちゃんとあんたしか見てなかったから」
一瞬、足が止まりそうになった。
「……何それ」
「そのまんま。隣にいたのは私なのに、見てたのはずっと、指示出してるあんたの方だったよ」
翼芽は前を向いたまま、どこか遠くを見るような目で続けた。
「変にビビって逃げるくらいなら、ちゃんと向き合いな。ああいうの、後で欲しくなっても戻ってこないからさ」
時任は何も言えなかった。
否定したかったのに、それ以上に、心の奥にじわりと染み渡る温度があった。
さっきのざらつきの正体。それがただの苛立ちではなく、もっと身勝手で切実な独占欲だったのだと、姉の言葉が暴いていく。
「……姉ちゃん、本当に余計」
「褒め言葉?」
「違う……けど、もういい」
翼芽は楽しそうに笑い、時任はそれ以上何も言わずに歩いた。
ポケットの中には、琉生からもらったチャームが入っている。指先でそっと触れると、小さな金具の感触がした。
彰人の疑惑、教室の噂、そしてこの「代役の写真」。
何も解決していないはずなのに、自分の中に芽生えた確かな熱だけは、もう誤魔化しようがなかった。



