月曜の朝。教室に入った瞬間から、どこか空気が違った。
いつも通りのざわめきではある。誰かが眠そうに欠伸をして、誰かが昨日のテレビの話をして、誰かが机を寄せている。何も特別なことは起きていないはずなのに、時任には妙に視線の置き場が難しかった。
昨日のことを、まだ引きずっている。
映画を観て、ランチをして、服屋を回って。最後に見られそうになって、手を引かれた。
あのとき掴まれた手首の熱が、まだうっすら残っている気がする。帰宅してから届いた、あの短い返信まで。
(俺も)
たった二文字なのに、今も耳元で囁かれているみたいに生々しい。
「時任」
不意に名前を呼ばれて、肩が跳ねた。今村だった。
明るい笑顔で近づいてくるいつもの調子だが、今日はそれがやけに落ち着かない。
「……何」
「いやさ。昨日、駅前にいなかった?」
その一言で、心臓が嫌な音を立てた。
時任が固まるより先に、後ろで椅子を引く音がした。振り返らなくても分かる。琉生だ。
「何それ」
先に口を開いたのは琉生だった。あくまで軽い調子。けれど時任には、それが少しだけ「作られた軽さ」だと分かった。
「いや、似てるやつ見た気がしてさ。駅前で琉生がさ、なんか必死な顔で誰かの手引っ張って走ってたから。お、珍しって思って」
やっぱり、見られていた。
時任は何も言えなかった。今口を開いたら、声が震えてしまいそうだったからだ。
琉生は一拍だけ間を置いて、さらっと言い放った。
「ああ。ナンパされそうになってた知り合い見つけたから、先に引っ張っただけ」
「へえ。……知り合い?」
今村の返事は軽いが、その目は笑っていない。
「うん」
「ふーん……」
今村はそこでようやく時任の方を見た。真っ直ぐすぎない、けれど逃がさない視線。
「まあ、お前がそこまで必死になる『知り合い』って、誰なのかなって気になっただけ」
言い方は冗談めかしているが、そこにある疑念はもう具体的だった。
「別に。誰でもいいだろ」
「いいけどさ」
今村は小さく笑うと、深追いせずに自分の席へと戻っていった。
けれど、近くで聞いていた何人かが、ちらっとこちらを窺っていたのを時任は見逃さなかった。決定的な証拠はない。でも、もう前みたいに「ただのクラスメイト」には見えていない。その予感が、じわじわと肌を刺した。
***
放課後。耐えきれなくなったのは時任の方だった。
「……早見。ちょっと来て」
帰る支度をしていた琉生は、何も聞かずに頷いた。
向かったのは、使われていない空き教室だった。窓際に夕方の光が差し込み、積まれた机と椅子が長い影を作っている。
「……やっぱり勘づかれてる。今村、ほとんど見てるでしょ。もう普通にするの無理なんだけど」
焦りが声に出てしまう。琉生はしばらく黙って時任を見つめていたが、ゆっくりと一歩、距離を詰めた。
「時任。彰人に勘づかれるのが怖いのか?」
その声は低く、逃げ道を塞ぐような静かな強さがあった。
「……それは」
「それとも、俺と一緒にいたって思われるのが嫌なのか?」
時任は言葉を失った。
嫌なのはどっちだ。今村に探られるのは怖い。噂になるのも、秘密に触れられるのも嫌だ。
でも、それだけじゃない。この、言葉にしづらい危うい距離を、誰かに勝手に暴かれるのが嫌なのだ。壊されるのが、たまらなく嫌なのだ。
その独占欲に近い感情を自覚してしまい、余計に口が動かなくなる。
沈黙が、答えのように二人の間に落ちた。
琉生は少しだけ息を吐くと、ポケットから何かを取り出した。
「これ」
「……何」
差し出されたのは、小さなチャームだった。控えめな光沢のある、上品で可愛らしい飾り。昨日、服屋の雑貨コーナーで、時任が一瞬だけ目を止めたものだ。
「昨日の?」
「……見てたのか」
「一瞬だけ。でも、お前ああいうの好きそうだったから」
琉生は少しだけ視線を逸らして続ける。
「報酬とかじゃない。プロデューサーへのお礼とか、そういうのでもなくて。……俺が勝手に、お前にあげたかっただけ」
名目が、消えた。
女装のためでも、偽装のためでもない。ただ、早見琉生から時任への贈り物。
時任はしばらく、そのチャームを見つめた。受け取ったら最後、もう「仕方なく巻き込まれている」という言い訳は通用しなくなる。
ゆっくり手を伸ばし、掌に乗せた。想像より少しだけひんやりとした金属の感触が、逆に熱を持って感じられた。
「……こういうの、ずるい」
「うん」
「『うん』じゃなくて……。でも、渡したかったからって言われたら、もう何も言えないじゃん」
手鏡につけたら、きっとちょうどいい。そんなことを考えてしまった時点で、もう負けている。
「……今村に何言われても、もう知らないから」
顔を上げないまま、観念したように呟く。琉生は小さく頷いた。
「ああ。何とかする」
その言葉が、危うくて、けれどひどく心強かった。
***
翌朝。教室の空気は、昨日よりもさらに密やかで、熱を帯びていた。
「最近さ、琉生って時任にだけ距離近くない?」
「分かる。なんか普通に時任の方見てる回数多いよね」
「時任も前より無視しないし……」
断片的に聞こえてくる声。二人の空気の違いが、教室の雑音の中で輪郭を持ち始めていた。
時任は机の下で、ポケットの中のチャームにそっと触れた。小さな金具の感触が指先に当たる。
秘密はまだ守られている。けれど、関係はもう完全には隠しきれない。
それが怖いのに、ほんの少しだけ嬉しいと思ってしまう自分がいて、時任は小さく息を吐いた。
たぶん、本当に変わり始めている。もう、元の「ただの二人」には戻れない。
いつも通りのざわめきではある。誰かが眠そうに欠伸をして、誰かが昨日のテレビの話をして、誰かが机を寄せている。何も特別なことは起きていないはずなのに、時任には妙に視線の置き場が難しかった。
昨日のことを、まだ引きずっている。
映画を観て、ランチをして、服屋を回って。最後に見られそうになって、手を引かれた。
あのとき掴まれた手首の熱が、まだうっすら残っている気がする。帰宅してから届いた、あの短い返信まで。
(俺も)
たった二文字なのに、今も耳元で囁かれているみたいに生々しい。
「時任」
不意に名前を呼ばれて、肩が跳ねた。今村だった。
明るい笑顔で近づいてくるいつもの調子だが、今日はそれがやけに落ち着かない。
「……何」
「いやさ。昨日、駅前にいなかった?」
その一言で、心臓が嫌な音を立てた。
時任が固まるより先に、後ろで椅子を引く音がした。振り返らなくても分かる。琉生だ。
「何それ」
先に口を開いたのは琉生だった。あくまで軽い調子。けれど時任には、それが少しだけ「作られた軽さ」だと分かった。
「いや、似てるやつ見た気がしてさ。駅前で琉生がさ、なんか必死な顔で誰かの手引っ張って走ってたから。お、珍しって思って」
やっぱり、見られていた。
時任は何も言えなかった。今口を開いたら、声が震えてしまいそうだったからだ。
琉生は一拍だけ間を置いて、さらっと言い放った。
「ああ。ナンパされそうになってた知り合い見つけたから、先に引っ張っただけ」
「へえ。……知り合い?」
今村の返事は軽いが、その目は笑っていない。
「うん」
「ふーん……」
今村はそこでようやく時任の方を見た。真っ直ぐすぎない、けれど逃がさない視線。
「まあ、お前がそこまで必死になる『知り合い』って、誰なのかなって気になっただけ」
言い方は冗談めかしているが、そこにある疑念はもう具体的だった。
「別に。誰でもいいだろ」
「いいけどさ」
今村は小さく笑うと、深追いせずに自分の席へと戻っていった。
けれど、近くで聞いていた何人かが、ちらっとこちらを窺っていたのを時任は見逃さなかった。決定的な証拠はない。でも、もう前みたいに「ただのクラスメイト」には見えていない。その予感が、じわじわと肌を刺した。
***
放課後。耐えきれなくなったのは時任の方だった。
「……早見。ちょっと来て」
帰る支度をしていた琉生は、何も聞かずに頷いた。
向かったのは、使われていない空き教室だった。窓際に夕方の光が差し込み、積まれた机と椅子が長い影を作っている。
「……やっぱり勘づかれてる。今村、ほとんど見てるでしょ。もう普通にするの無理なんだけど」
焦りが声に出てしまう。琉生はしばらく黙って時任を見つめていたが、ゆっくりと一歩、距離を詰めた。
「時任。彰人に勘づかれるのが怖いのか?」
その声は低く、逃げ道を塞ぐような静かな強さがあった。
「……それは」
「それとも、俺と一緒にいたって思われるのが嫌なのか?」
時任は言葉を失った。
嫌なのはどっちだ。今村に探られるのは怖い。噂になるのも、秘密に触れられるのも嫌だ。
でも、それだけじゃない。この、言葉にしづらい危うい距離を、誰かに勝手に暴かれるのが嫌なのだ。壊されるのが、たまらなく嫌なのだ。
その独占欲に近い感情を自覚してしまい、余計に口が動かなくなる。
沈黙が、答えのように二人の間に落ちた。
琉生は少しだけ息を吐くと、ポケットから何かを取り出した。
「これ」
「……何」
差し出されたのは、小さなチャームだった。控えめな光沢のある、上品で可愛らしい飾り。昨日、服屋の雑貨コーナーで、時任が一瞬だけ目を止めたものだ。
「昨日の?」
「……見てたのか」
「一瞬だけ。でも、お前ああいうの好きそうだったから」
琉生は少しだけ視線を逸らして続ける。
「報酬とかじゃない。プロデューサーへのお礼とか、そういうのでもなくて。……俺が勝手に、お前にあげたかっただけ」
名目が、消えた。
女装のためでも、偽装のためでもない。ただ、早見琉生から時任への贈り物。
時任はしばらく、そのチャームを見つめた。受け取ったら最後、もう「仕方なく巻き込まれている」という言い訳は通用しなくなる。
ゆっくり手を伸ばし、掌に乗せた。想像より少しだけひんやりとした金属の感触が、逆に熱を持って感じられた。
「……こういうの、ずるい」
「うん」
「『うん』じゃなくて……。でも、渡したかったからって言われたら、もう何も言えないじゃん」
手鏡につけたら、きっとちょうどいい。そんなことを考えてしまった時点で、もう負けている。
「……今村に何言われても、もう知らないから」
顔を上げないまま、観念したように呟く。琉生は小さく頷いた。
「ああ。何とかする」
その言葉が、危うくて、けれどひどく心強かった。
***
翌朝。教室の空気は、昨日よりもさらに密やかで、熱を帯びていた。
「最近さ、琉生って時任にだけ距離近くない?」
「分かる。なんか普通に時任の方見てる回数多いよね」
「時任も前より無視しないし……」
断片的に聞こえてくる声。二人の空気の違いが、教室の雑音の中で輪郭を持ち始めていた。
時任は机の下で、ポケットの中のチャームにそっと触れた。小さな金具の感触が指先に当たる。
秘密はまだ守られている。けれど、関係はもう完全には隠しきれない。
それが怖いのに、ほんの少しだけ嬉しいと思ってしまう自分がいて、時任は小さく息を吐いた。
たぶん、本当に変わり始めている。もう、元の「ただの二人」には戻れない。



