翌日の体育は、校庭だった。
五月の空は妙に高くて、日差しは強いのに風だけ少し冷たい。準備運動を終えた男子たちが、コートの端でぞろぞろと集まり始める。
「今日はドッジボールなー」
教師の声に、あちこちで気の抜けた返事が上がった。クラスを二つに分けて、適当に外野を決めて、すぐに試合が始まる。
時任はコートの後ろ寄りに立ちながら、ぼんやり手を上げた。
昨日の通話が、まだ耳の奥に残っている。
(会いたい。……声聞きたかった。……でも好き)
思い出したくないのに、こういうときほど勝手に蘇る。しかも通話だったぶん、声の近さまで妙に生々しい。
「おい時任、来るぞ」
誰かの声で、はっと顔を上げた。
けれど、一瞬遅かった。
勢いよく飛んできたボールが、避ける間もなく顔面にぶつかる。鈍い音がして、視界が一瞬揺れた。
「うわっ」
「時任!?」
周囲がざわつく。遅れて、つんとした痛みが鼻の奥を走った。
「……っ」
反射的に鼻を押さえると、手のひらに生ぬるい感触が広がる。血だ、と分かった瞬間、少しだけ気が遠くなりそうになった。
「鼻血出てる!」
「ティッシュ、ティッシュ!」
近くにいた何人かがわっと集まってくる。そのざわめきの中を割るみたいに、いちばん早く近づいてきたのは琉生だった。
「時任、上向くな」
低い声と同時に、ポケットから取り出したティッシュを押しつけられる。かなり近い距離で、琉生が眉を寄せていた。
「先生、保健室連れてっていいですか」
早口ではないのに、有無を言わせない響きだった。教師が「ああ、頼む」と頷く。
「歩ける?」
「……たぶん」
「たぶんじゃないだろ」
そう言いながら、琉生は時任の腕を軽く支えた。大げさすぎないけれど、逃がさない支え方で、時任は余計に落ち着かなくなる。
***
保健室に着くと、先生は時任の顔を見るなり「あらまあ」と言って、椅子へ座らせた。
「早見くん、ありがと。授業戻る?」
先生にそう言われて、一瞬だけ沈黙が落ちる。時任は顔を上げなかったけれど、その一拍で、琉生が迷ったのが分かった。
「……もう少しだけいます。落ち着いたら戻ります」
「じゃあ五分ね」
先生が奥へ行くと、室内は急に静かになった。
「痛い?」
近くの丸椅子に座った琉生が、小さく聞く。
「別に」
「鼻血出してるやつが言っても説得力ない」
「……うるさい」
ティッシュ越しに返すと、琉生が少しだけ笑った気配がした。でも、そのあとすぐに声色が落ち着いた。
「最近、ほんとぼーっとしてる」
「してない」
「してる。今日のあれとか、完全に考え事してただろ」
図星すぎて、時任は返事に詰まる。
「……してないって」
「じゃあ何で顔面で受けたの。……俺のこと考えてた?」
半分冗談みたいな口調だった。でも、その問いはまっすぐ耳に入ってくる。
思わずそちらを見ると、琉生は少しだけ口元を上げている。からかっているようで、目だけはちゃんと様子を見ていた。
「……違う」
「ふーん」
「その顔やめて」
「どの顔」
「分かってるくせに」
琉生は小さく息を吐いた。
「まあ、半分は冗談。でも、最近のお前、ほんと考え込みすぎ。……彰人のこと?」
「……それもある」
「『それも』?」
時任は口を閉じた。鼻の奥の痛みより、別のところがじわじわ熱い。
「昨日の通話のあとから、なんか変。お前」
「早見に言われたくない」
「俺も変だけど。お前の方が分かりやすい。今日の鼻血の時点で説得力ないって」
そこまで言われると、ぐうの音も出ない。時任は視線を落として、ティッシュを持つ手に少しだけ力を込めた。
「……ほんと最悪」
「何が」
「いろいろ」
曖昧な返事に、琉生はそれ以上追及しなかった。代わりに、少しだけやわらかい声で言う。
「でも、無理すんなよ。考えすぎてボール直撃は笑えないし」
「笑ってるじゃん」
「ちょっとだけ」
「最低」
「うん」
***
その日の放課後、琉生は本当に時任をまっすぐ帰らせた。「今日のお前は信用ならない」と真顔で言われ、結局言い返せなかった。
ベッドに転がって、スマホを開く。琉生からはすでにメッセージが来ていた。
『鼻どう』
見た瞬間に、少しだけ口元がゆるむのが悔しい。
『平気。ちょっと痛いけど』
『そりゃ顔面だったしな。次からちゃんと避けろよ』
時任は少しだけ考えてから返す。
『考え事してたから無理』
送ってしまってから、しまったと思う。これでは、自分で認めたようなものだ。
案の定、すぐ既読がつく。
『何の』
何の、なんて。言えるわけがない。
『……いろいろ』
曖昧な返事に、琉生は少し間を置いてから返してきた。
『じゃあそのいろいろの気分転換に。今度ちゃんと出かけるか』
『映画と』
『飯と』
『服屋ぶらぶら』
『今回は時任が俺のコーデ考えなくていいやつ。ただ見るだけのやつ』
それを見た瞬間、少しだけ笑ってしまった。きっと琉生なりに、かなり考えたのだろう。
映画、ランチ、服屋めぐり。
それはもう、かなり普通のデートみたいだった。
そう思った瞬間に顔が熱くなる。でも、嫌ではない。むしろ少しだけ、想像してしまう自分がいた。
『嫌なら別のにする』
その一文に、時任は小さく息を吐いた。本当に、ずるい。
『……映画、何見るの』
送って数秒後、すぐに既読がつく。
その返事を待ちながら、時任は胸の奥が少しだけ浮つくのを感じていた。
今村のことも、自分の気持ちのことも、まだ消えていない。
それでも、次の休みの日を少しだけ楽しみにしてしまう。
もうたぶん、そこからは逃げられなかった。
五月の空は妙に高くて、日差しは強いのに風だけ少し冷たい。準備運動を終えた男子たちが、コートの端でぞろぞろと集まり始める。
「今日はドッジボールなー」
教師の声に、あちこちで気の抜けた返事が上がった。クラスを二つに分けて、適当に外野を決めて、すぐに試合が始まる。
時任はコートの後ろ寄りに立ちながら、ぼんやり手を上げた。
昨日の通話が、まだ耳の奥に残っている。
(会いたい。……声聞きたかった。……でも好き)
思い出したくないのに、こういうときほど勝手に蘇る。しかも通話だったぶん、声の近さまで妙に生々しい。
「おい時任、来るぞ」
誰かの声で、はっと顔を上げた。
けれど、一瞬遅かった。
勢いよく飛んできたボールが、避ける間もなく顔面にぶつかる。鈍い音がして、視界が一瞬揺れた。
「うわっ」
「時任!?」
周囲がざわつく。遅れて、つんとした痛みが鼻の奥を走った。
「……っ」
反射的に鼻を押さえると、手のひらに生ぬるい感触が広がる。血だ、と分かった瞬間、少しだけ気が遠くなりそうになった。
「鼻血出てる!」
「ティッシュ、ティッシュ!」
近くにいた何人かがわっと集まってくる。そのざわめきの中を割るみたいに、いちばん早く近づいてきたのは琉生だった。
「時任、上向くな」
低い声と同時に、ポケットから取り出したティッシュを押しつけられる。かなり近い距離で、琉生が眉を寄せていた。
「先生、保健室連れてっていいですか」
早口ではないのに、有無を言わせない響きだった。教師が「ああ、頼む」と頷く。
「歩ける?」
「……たぶん」
「たぶんじゃないだろ」
そう言いながら、琉生は時任の腕を軽く支えた。大げさすぎないけれど、逃がさない支え方で、時任は余計に落ち着かなくなる。
***
保健室に着くと、先生は時任の顔を見るなり「あらまあ」と言って、椅子へ座らせた。
「早見くん、ありがと。授業戻る?」
先生にそう言われて、一瞬だけ沈黙が落ちる。時任は顔を上げなかったけれど、その一拍で、琉生が迷ったのが分かった。
「……もう少しだけいます。落ち着いたら戻ります」
「じゃあ五分ね」
先生が奥へ行くと、室内は急に静かになった。
「痛い?」
近くの丸椅子に座った琉生が、小さく聞く。
「別に」
「鼻血出してるやつが言っても説得力ない」
「……うるさい」
ティッシュ越しに返すと、琉生が少しだけ笑った気配がした。でも、そのあとすぐに声色が落ち着いた。
「最近、ほんとぼーっとしてる」
「してない」
「してる。今日のあれとか、完全に考え事してただろ」
図星すぎて、時任は返事に詰まる。
「……してないって」
「じゃあ何で顔面で受けたの。……俺のこと考えてた?」
半分冗談みたいな口調だった。でも、その問いはまっすぐ耳に入ってくる。
思わずそちらを見ると、琉生は少しだけ口元を上げている。からかっているようで、目だけはちゃんと様子を見ていた。
「……違う」
「ふーん」
「その顔やめて」
「どの顔」
「分かってるくせに」
琉生は小さく息を吐いた。
「まあ、半分は冗談。でも、最近のお前、ほんと考え込みすぎ。……彰人のこと?」
「……それもある」
「『それも』?」
時任は口を閉じた。鼻の奥の痛みより、別のところがじわじわ熱い。
「昨日の通話のあとから、なんか変。お前」
「早見に言われたくない」
「俺も変だけど。お前の方が分かりやすい。今日の鼻血の時点で説得力ないって」
そこまで言われると、ぐうの音も出ない。時任は視線を落として、ティッシュを持つ手に少しだけ力を込めた。
「……ほんと最悪」
「何が」
「いろいろ」
曖昧な返事に、琉生はそれ以上追及しなかった。代わりに、少しだけやわらかい声で言う。
「でも、無理すんなよ。考えすぎてボール直撃は笑えないし」
「笑ってるじゃん」
「ちょっとだけ」
「最低」
「うん」
***
その日の放課後、琉生は本当に時任をまっすぐ帰らせた。「今日のお前は信用ならない」と真顔で言われ、結局言い返せなかった。
ベッドに転がって、スマホを開く。琉生からはすでにメッセージが来ていた。
『鼻どう』
見た瞬間に、少しだけ口元がゆるむのが悔しい。
『平気。ちょっと痛いけど』
『そりゃ顔面だったしな。次からちゃんと避けろよ』
時任は少しだけ考えてから返す。
『考え事してたから無理』
送ってしまってから、しまったと思う。これでは、自分で認めたようなものだ。
案の定、すぐ既読がつく。
『何の』
何の、なんて。言えるわけがない。
『……いろいろ』
曖昧な返事に、琉生は少し間を置いてから返してきた。
『じゃあそのいろいろの気分転換に。今度ちゃんと出かけるか』
『映画と』
『飯と』
『服屋ぶらぶら』
『今回は時任が俺のコーデ考えなくていいやつ。ただ見るだけのやつ』
それを見た瞬間、少しだけ笑ってしまった。きっと琉生なりに、かなり考えたのだろう。
映画、ランチ、服屋めぐり。
それはもう、かなり普通のデートみたいだった。
そう思った瞬間に顔が熱くなる。でも、嫌ではない。むしろ少しだけ、想像してしまう自分がいた。
『嫌なら別のにする』
その一文に、時任は小さく息を吐いた。本当に、ずるい。
『……映画、何見るの』
送って数秒後、すぐに既読がつく。
その返事を待ちながら、時任は胸の奥が少しだけ浮つくのを感じていた。
今村のことも、自分の気持ちのことも、まだ消えていない。
それでも、次の休みの日を少しだけ楽しみにしてしまう。
もうたぶん、そこからは逃げられなかった。



