裏アカ彼女は、クラスの地味男子

 観覧車のゴンドラ内は、耳が痛くなるほど静かだった。
 重厚なドアが閉まり、ゆっくりと地上を離れていく。さっきまで園内に響いていた賑やかな喧騒が遠のき、代わりに駆動系の小さな機械音だけが、やけに鮮明に鼓膜を叩く。
​ 向かい合って座るには近すぎて、けれど隣に詰めるほどでもない、中途半端な距離。
 琉生はふと足元に視線を落としたあと、とりとめのない様子で窓の外へ目を向けた。
​ 鴎もつられて外を見る。遊園地の景色が少しずつ、ジオラマのように小さくなっていく。さっき歩いた花壇も、シナモンの香りがした売店も、パステルカラーの屋根も、すべてが足元に沈んでいく。
​「……すご」
 思わず零れた独り言に、隣で琉生が小さく笑った。
​「今の、ちょっと素だったな」
「うるさい」
「いや、普通に可愛いと思っただけ」
「……もう、それいいってば」
​ ぶっきらぼうに返しつつ、鴎は窓の外へ視線を固定した。
 逃げ場のない密室。空気の密度が、地上にいる時よりずっと濃い気がする。
​「……時任」
 不意に、琉生のトーンが落ちた。ふざけた調子でも、からかう感じでもない、静かな響き。
​「今日はさ。付き合ってくれてありがとな。……マジで、来てくれてよかった」
​ 真っ直ぐすぎる言葉に、鴎は心臓の奥がキュッと締め付けられた。
「……別に。思ってたよりは、まあ……悪くなかったし」
​ 口に出してから、あまりに素直すぎたと後悔する。けれど、完全に嘘にはできなかった。「楽しかった」という事実は、もう否定しようのないほど胸に居座っている。
​「へえ。そっか」
 琉生の声が、さらに優しく弾んだ。
​「……また、同じようなのなら。付き合ってあげなくも、ないけど」
 言い終えるなり、鴎は自分の回りくどさに呆れた。けれど、琉生はそれを正しく――あるいはそれ以上に受け取ったらしい。
​「ほんとに? うれし。……じゃあ、次も期待していいんだな」
「期待しすぎ。……大げさなんだよ、あんたは」
​ 照れ隠しの毒舌も、今の琉生には心地よいBGMにしかならないようだった。
 ゴンドラが頂上付近に達したとき、差し込む午後の光が琉生の瞳を透き通らせる。その真っ直ぐな眼差しが自分に向けられていることに、鴎は逃げ出したくなるほどの高揚と、少しの恐怖を感じていた。
​ ***
​ 月曜日の朝。
 校門をくぐる前から、空気の変質に気づいた。
​「ねえ、早見に彼女できたってマジ?」「黒髪の清楚系らしいよ」「遊園地で目撃談あったって」
​ 廊下でも教室でも、断片的な噂が耳に飛び込んでくる。
 鴎は席についても、シャーペンを持つ指先が冷たくなるのを感じていた。
​(黒髪の清楚系彼女。……まさか、俺だなんて誰も思わないはずだけど)
​ バレてはいない。けれど、そのワードが出るたびに、内臓がせり上がるような緊張感に襲われる。
 一方で、当の琉生はといえば。
 朝から周囲に「彼女いんの?」と冷やかされても、否定も肯定もせずに、ただ口元に微かな笑みを浮かべて受け流している。その余裕が、鴎にはたまらなく不可解で、そして――少しだけ、癪だった。
​ ***
​ 午後の掃除時間。担当は校舎裏の庭掃除。
 担当表に並んだ「早見・時任」の文字を見て、鴎は運命を呪いたくなった。
​ 案の定、植え込みの影には二人きり。
「うまくいったな、作戦」
 琉生がほうきを動かしながら、楽しげに声を潜める。
​「……まあ、噂はちゃんと回ってるみたいだけど」
「お前のコーディネートのおかげだよ。最近、服考えるのも、選んでもらうのも……マジで前よりずっと楽しいし」
​「……楽しい、って」
「うん。本音」
​ また、それだ。
 さらりと言ってのけるくせに、目は笑っていない。本気なんだと、無言で訴えかけてくる。
 鴎が返事に詰まった、その瞬間。
​ ゴミ捨て場の方から、乾いた足音が聞こえた。
 そこには、ゴミ袋を両手に下げた今村彰人が立っていた。彼は一瞬、こちらを見て首を傾げ、そのまま無言で立ち去った。
 だが、その耳には確かに「コーディネート」という単語が残っていた。
​ ***
​ 翌日。選択授業への移動中、廊下のロッカー前で彰人に呼び止められた。
​「時任。……時任ってさ、琉生と仲良いの?」
​ 心臓がドクリと跳ねた。
「……別に」
「えー、でも。琉生の服、時任が見てるんでしょ?」
​ 鴎の手が、ロッカーの扉にかけたまま止まった。
「……どこで、そんな話聞いたの」
 自分でも驚くほど、声が低く、鋭くなる。
​「いや、なんとなく! 最近の琉生、めっちゃ垢抜けたし。時任がアドバイスしてるなら、俺も頼みたいなーと思ってさ」
​ 彰人はいつもの軽いノリで笑っている。けれど、その目がどこまで見透かしているのか、鴎には判断がつかなかった。
「……無理。そんなの、してないから」
​「え、でも琉生は?」
「知らない。本人に聞けば」
​ 逃げるようにロッカーを閉め、早足で歩き出す。背後から「ごめん、変なこと聞いた?」という彰人の声が追いかけてくるが、振り返る余裕なんて一ミリもなかった。
​(バレた……? どこまで? あの掃除の時の会話か?)
​ 疑心暗鬼が頭の中を支配する。
 教室へ向かう人混みの中で、無意識に琉生の姿を探した。
 見つけた瞬間、ほんの少しだけ安堵した自分に気づき、さらに自己嫌悪が募る。
​ 凪いでいた日常が、少しずつ、けれど確実に歪み始めていた。