男子校のバレンタインは、戦場です。

 一時限目の授業が終わるなり、僕は机に突っ伏そうと思った。が、出来なかった。冴島が後ろを振り返ったからだ。
 ただ、冴島は僕に用があるのではなく、後ろの黒板を見たかっただけのようだ。視線は僕の向こう側にある。
 後ろの黒板は、主に時間割などが書いてあるのだが、二月末から学期末試験があるので、その試験範囲も書かれている。
(バレンタインも気になるけど、その後はテストかぁ……)
 誰かが僕の名前を書いたことで、試験勉強に支障が出そうだ。
 冴島が前に向き直ったかと思えば、田中が話しかけてきた。
「結城、良いなぁ。一番後ろ。しかも、冴島の後ろ」
「はは……」
 悪口を言っているわけではないが、当の本人が目の前にいるので、苦笑いで誤魔化す。
「田中は、見事に一番前だね。しかも、真ん中」
「そうなんだよ。代わってくれよぉ」
 正直、僕も代わりたい。一番前で、授業にだけ集中したい。
「てかさ、結城。あれ、回ってきた? さっきの」
「さっきのって、バレンタインの?」
「誰か、結城の名前書いてたよな」
「はは、揶揄われてるだけだよ」
 そう自分に言い聞かせないと、平常でいられない。
「けど、誰だろうな。俺んとこ回って来た時には書いてあったし……」
「そもそも誰発信なんだろうね。菅野(かんの)辺りかな?」
「だろうな」
「僕のところに来た時には、クラスの大半が書いてそうだったから、前の方に向かって回したのかな?」
 窓際の後ろから二番目の席の菅野から、迷路のように目だけで前や後ろ、クネクネと机を辿っていく。そして、冴島のところで目が合った。
「ねぇ、今のって、なんの話?」
 冷めた目で見られ、肩が跳ねる。
 対して、田中は話しかけられたことが嬉しかったよう。前のめり気味に言った。
「実はさ、結城にバレンタインでチョコ贈るやつがいるらしいんだって。冴島のところに回って来た時は、書いてあった?」
「ちょ、田中」
 実は、冴島には手紙を回すな命令が下っている。
 冴島に手紙を回すと、百パーセントの確率で手紙がストップする。冴島が次に回さないか、若しくは受け取ってもらえず、まごまごしている間に先生にバレてしまうのだ。故に、冴島はスルーすることに決まっている。つまり、本人目の前にして、手紙の話はNGだ。
 それを田中も思い出したよう。
「あ、いや、なんでもない。次、古典だな。寝ないようにしないと」
 慌てた様子で、自分の席に戻って行った。僕も逃げたいが、ここが自分の席なので、物理的に逃げられない。
「結城、どういうこと?」
「あー、えっと……」
「教えて」
「……はい」
 僕は、手紙について白状した。
 そして、机に頭を付けながら謝罪した。
「ごめん……仲間外れにするつもりは無かったんだけど。その……」
「ふぅーん。つまり、菅野から田中の間に、結城のことを好きな奴がいるってことね」
 少し頭を上げて冴島を見ると、顎に手をあてて窓際の前の方の席を眺めていた。
「怒って……る、よね?」
「まぁね」
「ごめんね。クラスを代表して謝罪するよ」
 再び頭を机に付ける。
 ただ、僕がクラスを代表して冴島に謝罪したとして、他のクラスメイトには、どう説明すべきだろうか。これからは、冴島にも手紙を回すように言った方が良いのだろうか。
(はぁ……僕なんかの言うこと、誰も聞いてくれなさそう)
 それに、冴島は、そもそも手紙のやり取りをしたくないから、次に回さなかったり、受け取りもしないのだ。今更、手紙を回される方が迷惑かもしれない。
 そこで、僕は閃いた。
 僕にも手紙を回さないよう、皆に言えば良いのではないだろうか。そうすれば、冴島だけが仲間外れというわけではなくなる。うん。それが良い。
 冴島から許しは貰っていないが、僕は頭を上げた。すると、冴島は既に前に向き直っていた。相当怒っているようだ。
「冴じ」
 ――キーンコーンカーンコーン。キーンコーンカーンコーン。
 声をかけようとしたところで、授業開始のチャイムが鳴った。
 僕は、黙って古典の教科書とノートを取り出した。

◇◇◇◇

 それから三十分。
 一時限目と同様。僕は、また授業に集中できないでいる。
 冴島の名前シールを触りながら、心の中で溜め息を吐く。
(はぁ……せっかく友達になれたかもしれないのに)
 冴島から話しかけてきたり、授業中に助け舟を出してくれたり、少なくとも嫌われてはいなかった。それなのに、完全に嫌われてしまった。
 元々交わることのなかった相手。三年生に進級すれば、クラス替えもある。その後は、金輪際関わることもないかもしれない。そう割り切って、残りの二か月を過ごせば良いのだろうが、人から嫌われていると思うと、気持ちが沈んでしまう。
(はぁ……真面目に授業聞こう)
 パラパラッと最新のページまでノートを捲って、シャーペンを持った。板書しようと顔を前に向けると、違和感を覚えた。
 違和感の正体は、冴島だ。
 さっきまでシャーペンを動かしたり、左の方にある教科書に目をやったりと、小さく頭や腕が動いていたのに、今は、やや下を向いたまま微動だにしていない。
 もしかして、眠っているのだろうか。後ろからなので分からないが、妙に気になって、消しゴムを斜め前に落としてみた。
 コロコロと転がる消しゴムを拾おうと立ち上がり、急いで消しゴムを追いかける。
「ごめん。消しゴム落ちた」
 誰に言うでもなく呟きながら、冴島の机の横に落ちた消しゴムを屈んで拾う。そして、腰を上げだ時、冴島が何をしているのか分かった。
 冴島は、ノートを閉じて、僕と昨日交換したパンダのプニプニシールをプニプニしていた。
 その不思議な光景に目が離せなくなった。ずっと見ていたいと思った。けれど、今は授業中。
「結城、何か落としたのか?」
「あ、はい。消しゴムを。見つかりました」
 先生の声で、席に着く。
(冴島が、シールを触ってた。プニプニしてた。無表情で、プニプニと……)
 さっきまでの落ち込んでいた僕はどこへやら。高揚感に包まれた。冴島のことをもっと知りたいと思った。
 僕は、机の中からルーズリーフを取り出し、四分の一に折り畳んだ。それを線に合わせて手で切り、そこに筆を走らせた。
『さっきの話だけど、ごめん。もし良かったら、友達に』
 そこまで書いて、我に返った。
 これまで何人も冴島とお近付きになろうとして撃沈しているのは、僕も知っている。謝罪までは良いが、友達になりたいなんて書いて、断られた時が立ち直れない。
 僕は、クシャッとその紙切れを握り潰し、ポケットに突っ込んだ。
 再度板書に集中しようと、僕はノートに向かった――。

 先生が書いているところまで書き終えると、ノートの上に、ポンッと丁寧に折り畳まれたルーズリーフの切れ端が置かれた。
 顔を上げると、それを置いたのは冴島だった。すぐに前に向き直ったので、その顔は見えなかった。
 怪訝に思いながら、僕はその手紙を先生に見えないよう、冴島の背で隠しながら広げた。
(……え?)
 僕は、目を疑った。だって、そこには、こう書かれていたから。
『放課後、テスト勉強一緒にしない?』
 これは、やはり友達になれたのだろうか。さっきのことも、許してくれたということだろうか。
 考えても分からないが、返事を書かなければ。僕は、すぐさまシャーペンを手に取った。そして、こう書いた。
『今日はバイトだから。明日なら』
 冴島の背中をツンツンすれば、肩の上から手が伸びてきた。そこに、僕は手紙を乗せた。
 手紙の中身を確認した冴島は、再び何か書き込んだ。そして、さりげなく僕の机の上に置いた。それを開いた僕は、またもや目を疑った。
『バイト先まで、送る』
(送る……? 何故?)
 首を傾げていると、ちょうど二時限目の終了を知らせる鐘が鳴った。
「規律」
 学級委員長の一ノ瀬(いちのせ)の合図で、クラスメイトが一斉に立ち上がる。
「礼」
 軽くお辞儀をした時に、冴島のブレザーの裾をクイクイと引っ張ってみる。すると、着席したと同時に、冴島が顔だけ振り返った。
「なに?」
「えっと、送る……って、どういうこと?」
「まんまだけど。迷惑だった?」
「あ、いや……迷惑では、ないかな」
 そう言うと、冴島は再び前に向き直った。
 これ以上深く聞くことも出来ない僕は、ひとまずその紙を小さく折りたたんで、筆箱の中に入れた。