男子校のバレンタインは、戦場です。

 勉強会が始まって三十分。
 長方形の机に冴島と対面で座って数学の問題を解いていると、行き詰ってしまった。
 この問題は、先日席替えをしたばかりの時に習ったものだ。冴島に気を取られて聞いていなかった授業。あれだ。
「ごめん、冴島。聞いて良い?」
「ん? 俺の好きな食べ物?」
「は、聞いてないよ。そうじゃなくて、この問題。どうやって解けば良いの?」
 問題集を百八十度回転させながら冴島にそれを見せると、その問を一読してから腰を上げた。そして、隣に座ってきた。
「ノート、貸して」
「はい」
 ノートを少しだけ冴島の方へ寄せると、そこに流れるように数字が書き出されていく。
「この公式に当てはめる前に、先にこっちを計算して、その出た答えがxの部分に、そして、こっちのyの部分にこれを当てはめれば……」
「おー、なるほど」
「次の問題、やってみて」
 ノートが僕の前に戻ってきたので、同じように次の問を解いていく――。
「解けた!」
 問題が解けてすっきりした僕の頭を冴島が子供にするように撫でてきた。
「良く出来ました」
「あ、ありがとう……」
「一つ問題が解けるようになったことだし、休憩しよっか」
「え、でもまだ……」
 冴島が、僕の参考書とノートをパタンと閉じた。
「病み上がりなんだから、無理しちゃダメだよ」
「ありがとう」
「なんなら、寝室で休む?」
 こんな豪華なマンションを息子の一人暮らし用に購入するくらいだ。さぞかし、ふかふかのベッドなのだろう。
 そんなところに冴島と二人になるのはいけないと思いながらも、こんな機会はまたとないかもしれない。僕は、好奇心に負けた。
「ちょっとだけ、休みたい……かも」
「意外。全力で断られるかと思った。やっぱ、体調万全じゃないんだね」
 心配そうに寝室に案内する冴島には、言えない。ふかふかのベッドに寝てみたかっただけなんて。
 軽く咳をしてみる。
「コホ、コホ。実は、そうなんだよね。冴島には、移ってない? 大丈夫?」
「残念なことに、超元気」
 本気で残念がる冴島は、もしかしたら、僕に看病してもらいたいのかもしれない。前に、夜の公園でそんな話をした気がする。 
 寝室の前に着けば、「ちょっとだけ待ってね」と言われ、冴島だけ中に入って行った。
(もしかして、エッチなもの隠してたりして……)
 そんなことを考えながら、ダークブラウンの扉をじっと見ていると、それが再び開いた。
「お待たせ」
「あ、うん。迷惑だったら、無理にとは……」
「大丈夫。おいで」
 冴島に促され、僕は中へと入った――。
 中は遮光カーテンで光は遮られ、キングサイズのベッドが置いてあった。頭元の横の方には、小さな丸テーブルに照明が置かれ、正に寝室だ。
「うわぁ、大きい!」
 感嘆の声を漏らせば、冴島が小さく笑った。
「じゃ、ゆっくりしてて」
「え、冴島は?」
「俺は、あっちにいるよ」
「そっか」
 なんだか拍子抜けだ。押し倒されないにしても、昨日のように手を繋がれて横になるのかと思っていた。
 何もないことは良いことなのに、胸の辺りがモヤッとするのは、何故だろうか。
「じゃ、良い時にまた出てきて。なんなら、泊まっていっても良いからね」
 最後に冗談を交えてから、冴島は扉からそっと出て行った。
 ――パタン。
 シンと静まり返った寝室に一人残された僕は、キングサイズのベッドに飛び込みたい気分を抑えつつ、ゆっくりとその上に上がった。流石に、ベッドに飛び込んで壊してしまったら困る。
「うわぁ、やっぱ、ふかふかだ」
 羽毛布団を捲ってその中に入り、これまたふかふかの枕に頭を乗せた。
「冴島の匂いがする……」
 部屋に入った時から思っていたが、部屋中、冴島の匂いでいっぱいだ。しかも、布団なんてそれが濃く染みついている。
 冴島に抱きしめられているような気分になり、落ち着かない。
「出ようかな。けど、早いよな……」
 元々本気で休むつもりもないのだが、ここまで早く出て行くつもりでもなかった。出て行くタイミングに悩む。
 落ち着かないので、右に左にと寝返りを打ってみる。しまいには、うつ伏せになって枕に顔を埋めた。それがまずかった。一番冴島の匂いが染みついているのは、枕だったよう。冴島とのキスを思い出してしまった。
 冴島のファーストキスが僕だったのと同様に、僕も昨日のあれが初めてだった。それ以外を知らない僕は、頭の中が冴島でいっぱいになってしまう。
 悶々としてしまった僕は、ベッドから出ることにした。
「あ……」
 ベッドから出ることにしたのは良いものの、コンタクトレンズが外れてしまったようだ。視界がぼやけた。
 おそらく枕の上だろうが、遮光カーテンのおかげで部屋は薄暗く、すぐには見当たらない。
 コンタクトレンズがなくとも日常生活に支障が出る程ではないが、これから勉強をするのに、何もないのは厳しい。それに、あれは今日開封したばかりのツーウィークのコンタクトレンズ。諦めるのも惜しい。故に、探すことにした。

 ――それから、探すことおよそ二十分。
「まさか、枕カバーの間に入り込んでいるとは……」
 何だかんだ、寝室から出るには丁度いい時間になった。
 僕は寝室から出て、冴島がいるであろうリビングの方へと向かった。
 にしても、何部屋あるのだろうか。一、二、三……と、部屋数を数えていると、ふと思った。
(冴島と付き合ったら、このマンションで同棲したりするのかな)
 僕の部屋も用意され、一緒にご飯を食べて、夜には先程のベッドで二人……。
 妙な妄想をしてしまった僕は、熱くなった顔を両手で押さえ、開いたままのリビングの扉からヒョコッと顔を出した。
「冴島、ごめん。流し借りて……冴島?」
 冴島は、大きな黒いソファの上で座ったまま眠っていた。本を読んでいたようで、片手には本が握られている。
 起こすのも悪いので、僕は小声で声をかけた。
「ごめん。流し、借りるね。コンタクト外れちゃって」
 案内されていない場所に勝手に踏み込むのは悪いので、キッチンの流しで軽くコンタクトレンズを洗い、スマホのカメラを鏡代わりにしてコンタクトレンズを装着した。
 冴島を起こさずに一連の流れを行えたことで、妙な達成感に包まれる。
 そして、冴島の寝顔はレアなので、クリアになった視界で覗き見ることにした。
 起こさないようにそっと近づき、僕も黒いソファの上にそっと座る。
(セーフ)
 ほぼ揺れることなく座れ、冴島はまだ夢の中だ。
 斜め下から冴島の顔を覗き込むように見る。
(うわぁ、まつげ長ッ、肌とか白すぎ。毛穴一つ見えないし。てか、僕は、これに好かれてるのか……)
 その理由は未だに聞けていないが、家柄といい、この顔といい、僕とは到底釣り合わない。ただ、この短期間で、冴島がかけがえのない存在になりつつあるのは確かだ。
 冴島が何の本を読んでいたのか気になり、その手元に目線を持っていく。
 開かれているページに書かれた文字を追っていくと、法律系のもののようだ。僕には難しくて良く分からなかった。
 もう一度、冴島の美しすぎる顔を拝んでおこうと思って上を向いた瞬間、僕の視界は一変した。僕は冴島に押し倒され、目の前に拝む予定だったその顔がある。
「冴島、お、起きてたんだ?」
「まだ正式に付き合ってないからさ、俺は必死に我慢してんのに、わざとやってんの?」
 真顔で前髪をかきあげる姿が、何とも男らしくて美しいと思った。
 素直な感想が先に出たが、どうやら僕は墓穴を掘ってしまったようだ。
 とはいえ、これは完全に僕が悪い。冴島の気持ちを知っていながら、パーソナルスペースに自ら飛び込んでしまったのだから。何をされても文句は言えない。
 僕は、覚悟を決めて目を瞑った――――。