FRESH(注:煩悩及び執着含む)

障子を隔てただけの部屋に差し込む陽は、いつだって早い。
南東から突き出したこの部屋は、北側の寒さも南側の暖かさも受け止めて、ただただ静かだ。

今日みたいな雨でなければ。

雨戸を閉めなかったせいで、思ったより強い雨が窓を叩いてうるさい。庭に放置されたドラム缶の上で、バラバラと跳ねる音もする。

それでも灰色の陽は確かにあって、鴨居に干されたモモのジャージは逆光でよく見えない。

そして思い出す。
モモがこの部屋にいるのだと。

伸ばしたままの腕を辿るように、布団に沈んだまま顎をあげれば、すぐに視界に入る艶々な黒髪。

指先を少しだけ動かせば、簡単に顔に触れてしまう、そんな距離にいたモモ。

「ヤサク、起きてる?」
「今起きた…」

ふすま越しに聞こえる母さんの声。

839の後ろから素数を数え直して、2どころか600台に戻る前に寝てしまった。
普通によく寝た。

「モモくんは?」

身体を起こしてモモを見遣る。

離れてしまった手首に指先を押し付けると、昨日の事が嘘のように冷たい。

オレの枕を奪って小さく寝息を立てるモモに、布団を掛け直す。

「昨日働かせ過ぎたかも、課題も教えてもらってたし」

いつものジャージに袖を通し、そっとその場を離れる。

「あらぁ、親族一同甘えてしまってるわね」
「少し寝かせてやって、午後はフルでいけるはずだから」

受け取った洗濯物をその辺に置いて、母さんの後に付いていく。
狭い廊下の、積まれたミカン箱が、歩き難さを助長する。

あの人だったらたぶん、迂回するかそれこそカニ歩きだ。

「いいのかしら、明日まで居てもらって」
「課題全部終わってたし、いいんじゃね?」
「あのね、課題だけじゃなくて貴重なお休みなの、それこそ身体を休めたりご両親と出掛けたり…」
「オレも同じ学生なんだけど」
「あんたは去年十分休んだでしょ」
「感謝してます…」

ゴンゴン音を立てるガス乾燥機を尻目に、古い洗面台で顔を洗う。
瞼が少しだけ腫れぼったい。

「ごはん食べる?お部屋持っていく?」
「置いておいて。様子見てくる」
「あ、ついでにコレ済ましておいて、あとSNSの更新もお願いね」

百くん顔出ししてくれないかしら、と言いながら手渡された大量の印字済み伝票。

パラパラとめくりながら、そういえばあの朝しかモモの写真撮ったことないなって思った。

軋む廊下、少しだけ摺り足になる。
起きていて欲しいような、寝ていて欲しいような。
引手に手を掛け、スッと開ける。

「…モモ?」

手の甲を顔に乗せ、不自然な体勢になっていた。
東からの日差しが眩しかったのだと思う。
…冬場、土間で眠る猫が同じような格好をしていた気がする。

伝票の束を机に放りながら、スマホを取り出す。

ピピッ

と電子音を鳴らすも、昨日同様、モモは起きない。

モモの使う筈だった枕を押しやり、丁度オレの背中で陽が少しでも遮られるように、机に向かう。

昨夜の課題と、細かな消しカス、数本のペン。
それらを適当にまとめて、机の角に几帳面に乗っていたモモのノートと筆箱の上に積む。
ペンは転がって行ったけど届かないので、あとで拾おう。

配送する商品ごとに伝票を並べ替え、ついでに配送料が高額な順に重ねていく。
これのお陰で都道府県パズルはかなり得意だけど、どんな場所かは知らない。

知っている世界はこの山と、海に近い下の学校、そして水の中。
それなのにこの地で育まれた柑橘類は、オレを置いてオレの知らない土地へと運ばれる。
取り残された気分。

背後で布切れの音がする。

気付かないふりをして、伝票を机にトントン叩きつけて端を揃える。

それでも耳に入り込んでくる布団のはだける音、尻越しに感じる振動に、思わず息が止まる。

「…いつから起きてたんですか」
「さっき」

気怠げな声と、背中に押し付けられる頭。

「早起きすぎ…顔洗ってきますね」
「言動が一致してないけど」
「…コレ俺が借りたやつだし、寒いし」

オレの腕をなぞる様に伸びてくる、モモの手の甲。
伝票を持ったままの手に一瞬触れそうになって、少し躊躇したように袖口のリブを引っ張ってくる。

「脱いで」

促されて紙の束を手放すと、更に遠慮なく引かれるジャージ。
すっぽりと左手が覆われて、反対の脇がきつくなる。

モモは手首を返して更に引こうとするのだけど、脱げるわけもなく。

後ろから抱き締められているのと変わらない、そんなゼロ距離。

「引っ張る方向逆だろ…」
「このまま引いたらこっち向かないかなって」
「向かねーよ」

その熱から少し離れるように姿勢を倒し、左腕を抜く。

モモの大きな手のひらが、長い指が。

未練がましく思い続けた8つのアルファベットを、握り潰すように絡め取って、オレから引き剥がす。

「寒いんだけど」
「自分の着て」

剥き出しになったシャツ1枚の背中。
外に出る時に作業着に着替えるから、アンダーシャツすら着てなくて、心許ない。

「それもオレのじゃん…」

モモは何も言わず立ち上がって、右袖のリブにも手をかける。
XOサイズのジャージはスルスルと、微かな摩擦音を立てながら、オレを無防備にして、その手の中へ収まった。

「モモ、農園のSNSに写真載せていい?」

ソレを羽織った左手はスッとチャックを上げ、オレの寝ていた方の布団を畳み始める。

「…何で俺?」
「広報部長から打診があった」

落ちてきた、パーカーの塊を当たり前のように拾い上げて、バサバサと皺を伸ばすモモ。

「ああ、ハナちゃん…」

少しだけ考えた素振りを見せて、オレの服を投げて寄越す。

「高く付きますよ」
「寝癖付けながら言う台詞じゃない」

揺れる寝癖の頭上で手を組みながら、パキパキと音を立てる身体。
弧を描く口角に少しだけ押された、明らかに寝不足で気怠げな目元。

「分かってないな、これが隙があるってやつですよ」

自称隙のある男の、ハーフパンツから少しだけ覗いた、ロゴ入りのウエストバンド。
よく男優が履いてるやつ。
隙なんてどこにあるんだって話。

「…鉄壁じゃん」
「ハチさんのガードの方が異常ですけど…何?何見てそう思ったの?俺の勝負下着?」

少し遠くで乾燥終了の通知音が響いてる。

「気軽に乾燥機かけられないパンツ履くなよ、縮むんだよマジで」
「だってもしもがあるかもしれないし…」
「ねーよ!ここ実家だよ!?」
「えっ」
「え」

え?なんか言った?
実家じゃなければいいよみたいな、そんなアレに捉えられた?
だとしたら絶対上げ足取ってくるから、多分違うし…?

目に見えて機嫌の良くなったモモ。
畳んだ布団をぴっちり壁につけて、ひとりニヤニヤしてる。

「…何?」
「いえ別に、こちらの話なので…顔洗ってきますね」
「怖いんだけど。そのまま朝飯とってきて、行ってていいよ。靴下そこに乾いてる」
「はい」

まとめた紙の束の、枚数を確認する。
今日これ全部用意するの、結構大変。
箱に緩衝材に梱包材、ザッと必要分を書き出して付箋に貼りたいんだけど…。

「モモ付箋もらうわ」
「ご自由にどうぞー」

出ていったモモに、ふすま越しに声を掛ける。
モモの良く通る声は思ったよりもずっと音漏れしてた。

真新しい革の、丁寧に作り込まれた筆箱を開ける。
そういえば財布も同じやつ使ってたな…。

「…は…」

ダブルクリップで留められた、2つの付箋。
その間に、明らかに場違いな銀色のパウチが挟まっている。

いつもオレがモモの付箋パクってるから、絶対見るって踏んでた?
なんてトラップ?

今日も一晩あるのにどうする?
いやどうもしないけど。

めっちゃ働かせて夜爆睡させるしかなくね?

「…馬鹿なやつ」

こんな性欲ありでオレなんかに好意を寄せてくるモモが、じゃないわ。


このパウチを扱う、あの塩素の匂いがする太い指先を思い出すオレが、だわ。

水温に負けない分厚い身体、弾力のある上皮の下に詰まった岩みたいな筋、泳ぎながら球を奪いにいく太過ぎる腕。
荒々しい試合の後の、オレを壊さない様に撫でる震えた指先。
いつだって優しく厳しく正しくあった、あのひとの特別になれた、選ばれたという恍惚。
全部全部、正真正銘のはじめての、気持ち。

いつもみたいにあのXOのジャージの陰に隠れてしまいたいのに、どうして、手元にない。
…ああ、モモが着ているんだ。

剥がした付箋に文字は書けるけど数字が書けない。
0から9まで、全部あのひとと関連付けてしまった。

外で降りしきる雨と違って、このpH約7.4の液体は何の役にも立たないのに。