「なんで?」
背中に大きく刺繍された、学校名と水泳部の文字。
左腕のところのプリント、殆ど剥がれてしまった「H.SAKURAI」の残滓を目敏く見つけたモモは不快感を隠そうともしない。
「いや寒いかなって…コレくらいしか大きいやつないし…」
「癪ですがハチさんと俺の身長差は6cm以内です、着るならハチさんの服を所望します」
「オレの?じゃあ今着てるの脱ぐからソレ返して」
「究極の二択みたいなのやめて?」
散々喚いてたのに、結局嫌そうな顔して水泳部ジャージのチャックを上げるモモ。
服一つでそんな頭回るの凄いな、と思ったけど言わないでおく。
どうせまた墓穴掘るだけだし。
「居た堪れないXOサイズ…!」
「明後日には乾くよ」
乾燥機ガンガンかけるから、どうなってもいい服着てこいって言ったのに。
母さんの最大限の配慮によって、モモのジャージは鴨居から吊るされてる。
「アレは中学の時に作ったやつなのでもう外で着ないんですよ…」
「あんな新しいのに?」
「ネーム入りで外出する度胸ないです、袖も短いし」
「確かにモモは腕長いね」
机に広げた課題。
数字と向き合うモモの、良く見慣れたジャージ。その手に握っているのはゲルインクのペン。
「消しゴム貸して」
「あれだけカッコいいこと言っておいて…古文はシャーペンなの…」
「古文はエイリアン語だから理解の範疇外なの、そこ微分間違ってる」
「どこ?」
ここ、と指差すと、モモのペンが景気よくその後ろに線を引く。
「消すより効率的だろ」
「うん、早く終わらせないとハチさん揶揄う時間なくなっちゃうから」
「代わりにレポートやってくれんの?」
頭を付き合わせた広くもない机。
左に重ねた手付かずのノート。
「そこまでの不正はしてあげないです」
「古文丸写しだけど?」
「うん、だから適当に間違えといてくださいね」
「どこ間違えるべきかも分かんない…」
昼間の疲労もあって頭回んない。いや写すだけなんだけどさ。
あ、そういえば…。
「英訳…」
待っていたと言わんばかりに、意地悪そうな顔を上げるモモ。
「このジャージの彼とは未だ連絡取ってるんですか?」
「…黙秘で」
「じゃあ質問を変えますね、こうしてハチさんの実家にお泊りしてたんですか?」
「いや…車持ってたから日帰り」
少し口角が上がったかと思えば、すぐに眉間に寄せられる皺。
「優越感と一緒に敗北感がくる…」
「なんで張り合ってんだよ」
「…なんででしょうね…」
170時間理論とか、その態度とか。
鈍感を装う事もできるけれど。
「モモも今年の夏季休暇に車の免許取れば?」
話題をすり替えるくらいしかできない。
それでも。
「二輪も欲しいなら直接受験する?オレのバイク使って練習してもいいし…」
こうして少し遠い約束を取り付けようとしてしまう。
「二種類取るとお金必要だなあ…夏休みもバイトさせてくれます?」
「いいよ、親に言っとく。バイクの講師料は政経のレポートな」
「夏の課題の方がエグいのにいいんですか?」
「その頃には悟ってるかもしんないじゃん」
「うーん、期末前に泣いてるハチさんしか想像できない…」
外で、雨水が地面を叩く音がする。
…あれ?
「モモの前で泣いたことあった?」
自慢じゃないが涙腺は雑魚い。
少し間をおいて、モモはこちらを見ることなく。
「比喩ですよ」
と言って最後の設問を迷うことなく解いていく。
ここで違和感に気付いた。
いつものモモの丁寧さはなく、初めから決まった軌跡を辿るような、解を知っているような…。
「…本当は数学も終わらせてたな?」
「黙秘です、終わったので布団敷きます、どいてください」
「机のそっち側がモモのテリトリーって言っただろ!?」
「それは昨日までの話ですね」
結局根負けして、頭合わせで布団が敷かれた。
「修学旅行みたい、ハチさんまだ?」
「政経手付かず…」
「明日も時間ありますよ」
その上に転がるモモの、枕に半分埋まった顔。
「なんでこのご時世に手書きなんだよ」
「AI対策じゃないですか?あまり変わらない気もしますけどね」
「なんか簡単な題材ない?」
「ご実家の経営じゃだめなんですか?」
「何回擦ったと思ってんだよ…」
「アルバイトによる企業の損失と期待値とか…」
「そんなこと考えながら仕事してたの!?」
真面目過ぎて怖いんだけど。
「ええまあ…失望させるわけにはいかないし」
「…しんどくない?」
「いいえ、楽しかったですよ。ただのデートより相当親密度上がった感あるし…ね、ハチさん?」
「まあ極限環境といえばそうかもだけど…なんか夜食持ってくる?」
「明日浮腫むのでやめときます、早く電気消して欲しいな?」
「姉ちゃんと同じこと言うなよ」
まあ、準備して食べてもう一回歯磨いて…面倒。
どうせこの後寝るだけなのだから。
この空腹感は多分、バグ。
モモがジャージのチャックを下げる。
ああ、モモは左手で降ろすのか。
「…何見てるんですか?」
「いや…」
「一緒に寝てもいいですよ?」
「それはいい、電気消すぞ」
暗くなった部屋の中、モモが布団に潜る音がする。
「寒くない?」
「寒くなったら布団入れてくれます?」
「多分外に猫いるから呼んでやろうか?」
「今日ハウスにいた肩幅がしっかりした猫だったらいいな…」
「幻覚じゃね?」
やることなすこと弱みを握られていくのだけど。
「ハチさん」
「なに?」
「今日は一緒に素数、数えましょう」
「アレは頭の中で数えるんだわ」
「はい、ハチさんからどうぞ」
「……2」
「3」
「5」
交互に重なる、低い声。
誰かとこんな風に数字を分かち合うことなんて、今までなかった。
「367」
「379」
「…一つ抜かしてる」
「あ、ほんとだ…373」
「379」
「…383、もしかして100番目まで覚えてる…?」
「うろ覚えだけど」
雨音と、数字。
モモはいつまで付き合ってくれるだろうか。
「……787」
「797」
「…809」
……。
数十秒の沈黙。
少しだけ眠たそうなモモの呼吸が、深くなった気がして、押し黙ってしまった。
シーツの擦れる音がして、瞼越しに感じていた常夜灯がふっと暗くなる。
「…811、…次」
重い瞼と顎を上げると、モモと逆さまに目が合う。
暗がりのなか、覗き込まれて居た堪れない。
「モモ、次は?」
「…821。…寝たのかと思ったのに」
逆さまの視界。
頭の上から手がゆっくり伸びてきて、思わずその手首を掴む。
「823…何してんの」
「…昼間の仕返し、827」
そもそも勝てない腕力と、重力まで相まって、殆ど無意味な抵抗。
モモは意に介する事なくオレの額を撫でる。
「…829」
「839、俺の好きな素数がきたからおしまい」
「…なんで?」
「ハチさんの数字だから」
遠くで、掛け時計の深夜を告げる音が鳴る。
今日…いや、もう昨日。
あの甘くて苦い八朔を頬張ったあの時より、確実に近い距離。
「朔は月のはじめ、という意味がありますね…だからハチさんは、櫻井一(サクライハジメ)さんに運命を感じた。当たり?」
「…黒歴史掘り返すのやめて?」
「1って嫌なんですよ、掛けても割っても変わらないのに、なんで割り切ったつもりになってるの、みたいな」
「一ノ瀬がよく言う…早く寝ろ」
「キスしたい」
「ダメ」
思わず顔を背けたオレの耳に、ひたりと額を押しつけてくるモモ。側頭の皮膚が自分の耳朶の冷たさに驚いて、思わず肩を揺らす。
完全に塞がれて、自分の音しか聞こえない。
心臓が、太い動脈のある首筋が、うるさい。
触れているのは耳なのに、眉間から鼻の辺りに一気に熱が集まった様な気がして息が止まる。
たぶんほんの少しの間だったと、思う。
硬くて真っ直ぐな髪が、目尻を撫で上げながらじわじわと離れてゆく。
音を拾えるようになったのに、あの日の体力測定よりもうるさい心臓しか、理解できない。
そのままオレの髪を巻き込みながら枕にボスン、と額を落としたであろうモモ。
「ハチさん」
くっついたままの頭頂部がその低い声を、振動として伝えてくる。
離しそびれた手首をそっと離そうとした瞬間、手首を返されて逆に捕まってしまう。
「ハチさんの名前、俺の名前と足してみて」
「…、120」
「俺はハチさんって呼んでる」
「108…」
ハチ(八)とモモ(百)の方ね…。
「煩悩の数だね」
「うわぁ…」
今言うことではない…。
知ってたけど。
「運命なんかより煩悩に従って欲しいんですけど…」
ああ、もう、どうしようか。
モモの誕生日は元旦から108日目だとか、閏年でなければさらにそこから108日目がオレの誕生日だとか。
そんな事を考えてしまうオレは末期なのだけど。
「…考えとくわ」
そう喉から絞り出した声。
離してくれない手首を諦めて、そっと、モモの手首を掴み返す。
108/mよりも更に早いリズムに、寝られそうにもない。
背中に大きく刺繍された、学校名と水泳部の文字。
左腕のところのプリント、殆ど剥がれてしまった「H.SAKURAI」の残滓を目敏く見つけたモモは不快感を隠そうともしない。
「いや寒いかなって…コレくらいしか大きいやつないし…」
「癪ですがハチさんと俺の身長差は6cm以内です、着るならハチさんの服を所望します」
「オレの?じゃあ今着てるの脱ぐからソレ返して」
「究極の二択みたいなのやめて?」
散々喚いてたのに、結局嫌そうな顔して水泳部ジャージのチャックを上げるモモ。
服一つでそんな頭回るの凄いな、と思ったけど言わないでおく。
どうせまた墓穴掘るだけだし。
「居た堪れないXOサイズ…!」
「明後日には乾くよ」
乾燥機ガンガンかけるから、どうなってもいい服着てこいって言ったのに。
母さんの最大限の配慮によって、モモのジャージは鴨居から吊るされてる。
「アレは中学の時に作ったやつなのでもう外で着ないんですよ…」
「あんな新しいのに?」
「ネーム入りで外出する度胸ないです、袖も短いし」
「確かにモモは腕長いね」
机に広げた課題。
数字と向き合うモモの、良く見慣れたジャージ。その手に握っているのはゲルインクのペン。
「消しゴム貸して」
「あれだけカッコいいこと言っておいて…古文はシャーペンなの…」
「古文はエイリアン語だから理解の範疇外なの、そこ微分間違ってる」
「どこ?」
ここ、と指差すと、モモのペンが景気よくその後ろに線を引く。
「消すより効率的だろ」
「うん、早く終わらせないとハチさん揶揄う時間なくなっちゃうから」
「代わりにレポートやってくれんの?」
頭を付き合わせた広くもない机。
左に重ねた手付かずのノート。
「そこまでの不正はしてあげないです」
「古文丸写しだけど?」
「うん、だから適当に間違えといてくださいね」
「どこ間違えるべきかも分かんない…」
昼間の疲労もあって頭回んない。いや写すだけなんだけどさ。
あ、そういえば…。
「英訳…」
待っていたと言わんばかりに、意地悪そうな顔を上げるモモ。
「このジャージの彼とは未だ連絡取ってるんですか?」
「…黙秘で」
「じゃあ質問を変えますね、こうしてハチさんの実家にお泊りしてたんですか?」
「いや…車持ってたから日帰り」
少し口角が上がったかと思えば、すぐに眉間に寄せられる皺。
「優越感と一緒に敗北感がくる…」
「なんで張り合ってんだよ」
「…なんででしょうね…」
170時間理論とか、その態度とか。
鈍感を装う事もできるけれど。
「モモも今年の夏季休暇に車の免許取れば?」
話題をすり替えるくらいしかできない。
それでも。
「二輪も欲しいなら直接受験する?オレのバイク使って練習してもいいし…」
こうして少し遠い約束を取り付けようとしてしまう。
「二種類取るとお金必要だなあ…夏休みもバイトさせてくれます?」
「いいよ、親に言っとく。バイクの講師料は政経のレポートな」
「夏の課題の方がエグいのにいいんですか?」
「その頃には悟ってるかもしんないじゃん」
「うーん、期末前に泣いてるハチさんしか想像できない…」
外で、雨水が地面を叩く音がする。
…あれ?
「モモの前で泣いたことあった?」
自慢じゃないが涙腺は雑魚い。
少し間をおいて、モモはこちらを見ることなく。
「比喩ですよ」
と言って最後の設問を迷うことなく解いていく。
ここで違和感に気付いた。
いつものモモの丁寧さはなく、初めから決まった軌跡を辿るような、解を知っているような…。
「…本当は数学も終わらせてたな?」
「黙秘です、終わったので布団敷きます、どいてください」
「机のそっち側がモモのテリトリーって言っただろ!?」
「それは昨日までの話ですね」
結局根負けして、頭合わせで布団が敷かれた。
「修学旅行みたい、ハチさんまだ?」
「政経手付かず…」
「明日も時間ありますよ」
その上に転がるモモの、枕に半分埋まった顔。
「なんでこのご時世に手書きなんだよ」
「AI対策じゃないですか?あまり変わらない気もしますけどね」
「なんか簡単な題材ない?」
「ご実家の経営じゃだめなんですか?」
「何回擦ったと思ってんだよ…」
「アルバイトによる企業の損失と期待値とか…」
「そんなこと考えながら仕事してたの!?」
真面目過ぎて怖いんだけど。
「ええまあ…失望させるわけにはいかないし」
「…しんどくない?」
「いいえ、楽しかったですよ。ただのデートより相当親密度上がった感あるし…ね、ハチさん?」
「まあ極限環境といえばそうかもだけど…なんか夜食持ってくる?」
「明日浮腫むのでやめときます、早く電気消して欲しいな?」
「姉ちゃんと同じこと言うなよ」
まあ、準備して食べてもう一回歯磨いて…面倒。
どうせこの後寝るだけなのだから。
この空腹感は多分、バグ。
モモがジャージのチャックを下げる。
ああ、モモは左手で降ろすのか。
「…何見てるんですか?」
「いや…」
「一緒に寝てもいいですよ?」
「それはいい、電気消すぞ」
暗くなった部屋の中、モモが布団に潜る音がする。
「寒くない?」
「寒くなったら布団入れてくれます?」
「多分外に猫いるから呼んでやろうか?」
「今日ハウスにいた肩幅がしっかりした猫だったらいいな…」
「幻覚じゃね?」
やることなすこと弱みを握られていくのだけど。
「ハチさん」
「なに?」
「今日は一緒に素数、数えましょう」
「アレは頭の中で数えるんだわ」
「はい、ハチさんからどうぞ」
「……2」
「3」
「5」
交互に重なる、低い声。
誰かとこんな風に数字を分かち合うことなんて、今までなかった。
「367」
「379」
「…一つ抜かしてる」
「あ、ほんとだ…373」
「379」
「…383、もしかして100番目まで覚えてる…?」
「うろ覚えだけど」
雨音と、数字。
モモはいつまで付き合ってくれるだろうか。
「……787」
「797」
「…809」
……。
数十秒の沈黙。
少しだけ眠たそうなモモの呼吸が、深くなった気がして、押し黙ってしまった。
シーツの擦れる音がして、瞼越しに感じていた常夜灯がふっと暗くなる。
「…811、…次」
重い瞼と顎を上げると、モモと逆さまに目が合う。
暗がりのなか、覗き込まれて居た堪れない。
「モモ、次は?」
「…821。…寝たのかと思ったのに」
逆さまの視界。
頭の上から手がゆっくり伸びてきて、思わずその手首を掴む。
「823…何してんの」
「…昼間の仕返し、827」
そもそも勝てない腕力と、重力まで相まって、殆ど無意味な抵抗。
モモは意に介する事なくオレの額を撫でる。
「…829」
「839、俺の好きな素数がきたからおしまい」
「…なんで?」
「ハチさんの数字だから」
遠くで、掛け時計の深夜を告げる音が鳴る。
今日…いや、もう昨日。
あの甘くて苦い八朔を頬張ったあの時より、確実に近い距離。
「朔は月のはじめ、という意味がありますね…だからハチさんは、櫻井一(サクライハジメ)さんに運命を感じた。当たり?」
「…黒歴史掘り返すのやめて?」
「1って嫌なんですよ、掛けても割っても変わらないのに、なんで割り切ったつもりになってるの、みたいな」
「一ノ瀬がよく言う…早く寝ろ」
「キスしたい」
「ダメ」
思わず顔を背けたオレの耳に、ひたりと額を押しつけてくるモモ。側頭の皮膚が自分の耳朶の冷たさに驚いて、思わず肩を揺らす。
完全に塞がれて、自分の音しか聞こえない。
心臓が、太い動脈のある首筋が、うるさい。
触れているのは耳なのに、眉間から鼻の辺りに一気に熱が集まった様な気がして息が止まる。
たぶんほんの少しの間だったと、思う。
硬くて真っ直ぐな髪が、目尻を撫で上げながらじわじわと離れてゆく。
音を拾えるようになったのに、あの日の体力測定よりもうるさい心臓しか、理解できない。
そのままオレの髪を巻き込みながら枕にボスン、と額を落としたであろうモモ。
「ハチさん」
くっついたままの頭頂部がその低い声を、振動として伝えてくる。
離しそびれた手首をそっと離そうとした瞬間、手首を返されて逆に捕まってしまう。
「ハチさんの名前、俺の名前と足してみて」
「…、120」
「俺はハチさんって呼んでる」
「108…」
ハチ(八)とモモ(百)の方ね…。
「煩悩の数だね」
「うわぁ…」
今言うことではない…。
知ってたけど。
「運命なんかより煩悩に従って欲しいんですけど…」
ああ、もう、どうしようか。
モモの誕生日は元旦から108日目だとか、閏年でなければさらにそこから108日目がオレの誕生日だとか。
そんな事を考えてしまうオレは末期なのだけど。
「…考えとくわ」
そう喉から絞り出した声。
離してくれない手首を諦めて、そっと、モモの手首を掴み返す。
108/mよりも更に早いリズムに、寝られそうにもない。
