FRESH(注:煩悩及び執着含む)


ぱつん、と音が響く。

腕の限界ギリギリを伸ばして、漸く取れた、鮮やかなオレンジ色。
天板に座って、張り付く汗を袖で拭う。

「ハチさん、タオルいります?」
「んーん、大丈夫」

昨夜、一緒に寝ましょうと駄々をこねるモモを置いて、帳簿をつけるために1時間程不在にして。
戻って来た時、部屋は静かだった。
布団を取り払った炬燵の上に、投げ出された数字の課題。
その横で、見た事ないくらい毒気の抜けた寝顔を晒すモモが落ちていた。

「…何撮ってるの、やめて」
「昨日の仕返しです」

その写真を撮って、モモにも送っておいた。
それをずっと根に持ってる。

「モモ、これ終わったら帰る?」
「戦力外通告!?まだ24時間も経過してないのに!?」
「いや違うけど、明日バイク出せないんだよ、雨で」

予報がいろいろ変わって、雨になってしまった明日。

不安定な脚立。手には鋏。

「…ハチさんは?」

ぱつん。
この重さを支えていた、丈夫な枝を更に切り落とす。

「明後日帰る予定」

自分のアパートに帰るのは、3日後の登校日に間に合えばいいから、明後日でも良い。
寧ろ家族的にはそのほうが助かる。

「この日のために走り込みもしたのに…?」
「そんな事してたの?はい、受け取って」
「せっかくバイク練習したのに…?」

突き付けた濃い橙色。

天気予報をチェックしてたスマホをポケットに突っ込んで、モモは俺に向けて両手を差し出す。

「父さん直売所行くから、送ってもらえるよ」

手首を返して、その真ん中へと押し込む。
モモに触れた指先が、少しだけ自分より体温が低い事を教えてくれる。

とにかくよく働いてくれてたし、お手当ては渡す予定だった金額そのままでいいよ、って言ったんだけど。

「…雨の日は作業ないんですか?」
「いや、出荷調整あるから今から死ぬ程忙しいかも」

浅い採果コンテナに、丁寧に、これでもかと綺麗に並ぶ柑橘類。
モモの几帳面さがよく表れている。
この畑の稼ぎ頭と言っても差支えない、さながら宝珠だ。

「と言うことは…、猫の手でも?」
「…借りたい」
「にゃん?」
「借りたいにゃん」

え、モモが振ってきたのになんでそんな、怪訝な顔すんの?

「暑さで頭やられてますね」
「モモがそれ言う?」
「つまりハチさんの分まで俺が働かなきゃいけないということ…!」

幅広のヘアバンドに隠れた額。
オレの昔使ってたお古なんだけど、緩いと言われて少し腹立った、頭小さいんだよ。

眉の位置から真っ直ぐに伸びた線が、太陽光を受けて更に際立つ。

「明後日帰宅したら、次の日すぐ学校だぞ?」
「課題終わってないハチさんのほうがヤバいと思うんだけど、どうでしょう?」

モモは全体的に顔のパーツが大きいから、表情一つで随分印象が変わる。

やけに長い睫毛が扇情的だと思うのは、少し上から見ているからだろう。

「…大丈夫じゃないな」
「じゃあ決まりじゃないですか?」

得意げな表情をしてみせる、細められた瞳。

目元は教室で見るソレと同じなのに、他を拒絶するような冷やかさがない分、ここにいると随分と幼げに見える。

「これもう持っていきます?」
「うん、落とすなよ」

いつもならもう一面ほど重ねるけれど、モモという労働力がいるので、早々に持って行ってもらう。

「分かってます。…モモさん場所変えます?手掴まります?」
「いいから早く置いてきて」

汚れるのも気にしないで片膝ついて。
長い腕はコンテナの対角に沿わせても、まだ余る。
持ち上げる瞬間の、湿っぽいシャツ越しに見える肩甲骨の隆起。

「モモ」

丁度腰の高さに戻って来た、頭を払ってやる。

「枝、頭に落ちてたわ…ごめんな」

体勢的に振り返れないモモは甘えるように、少しだけ頭を寄せる。

汗の球の浮く皮膚を押し上げる、胸鎖乳突筋の太い筋。

「これで24時間…2ヶ月分の信頼関係が追加ですね」
「ほんと、バグってるわ」
「あ、ちょっと!」

リストバンドの中に手突っ込んで、前髪ごと引っ張り上げて暑そうな肌を露出させてやる。

汗でモモの髪が指先にじっとりと絡む。
同じシャンプー使ってるはずなのに、全く違う匂いがする。

「何が恥ずかしいの?」
「えー…みんな目じゃなくてデコ見るから…」
「それ、目合わせらんないだけじゃね?」
「なんで」
「目力強いから」

適当に髪を整えてやると、モモは小さく、そうかも…と呟いていた。

「明後日、朝イチで帰ろ」
「昼でも夕方でいいですよ」

天板から足を回し、下に降りる。
隣で待っていたモモを、少しだけ見上げる。

首が痛くなるほど見上げなくていいから、ずっと見てられるな、なんて思ったり。

「ちょっと親にも連絡してきます。気が変わらないうちに」
「誰の?」
「ハチさんの」

そう言ってニヤニヤする、モモの脇腹に肘打ちししてやった。

「もうすぐ昼だと思うから、コンテナ置くついでに聞いてきて」
「はーい」

少し大きい長靴をカポっと鳴らし、それでもしっかりと地を踏みしめる。

その後ろ姿が思ったより細くて。
また、腰痛めないかなって、なって…また無意識に別の影を追っていた。

キュッと気道が狭まる感じがしたけど、気の所為だって自分に言い聞かせる。

脚立を掴んで隣の樹に寄せて、モモがいない間に樹の下の方へと手を伸ばす。
同じ樹の果実なのにこうも差がついてしまう、運の悪かった個体。

ぱつん、ぱつん。

広い空間に響く、枝を落とす音。
下へと散る小さな枝の破片が、長靴を叩く。

オレしかいない畑は静かで、一体自分は何をしているのだろう…と思う事も忘れて只管に鋏を動かす。



「…ハチさん?」
「ああ、ごめん気付かなかった」
「大丈夫ですか?本当に熱にやられてます?」

洗ってきたのだろう、冷たい手の甲を耳の下に押し付けられる。
モモを見上げると僅かに口元が動いていた。
…また餌付けされてきたな。

「ハチさん、はい、あーん」

唇に押し付けられる甘酸っぱい匂い。
言われるがまま口を開ける。

サクサクと歯の上で弾ける粒と、滴る苦味のある果汁。

「…八朔じゃん、どこにあったの」

少しだけ伏せたモモの視線の先。
外皮の上に乗った、薄皮を剥いた実が、その内側の潤いを主張するように光を反射させる。

「たくさん種類あるけど何が好きって聞かれて、答えたらハナちゃんがくれました」

そして再びオレの口元へ。

「俺、八朔が一番好きなんです。おいしいね?」

そう、笑うのだ。