濡れたアスファルトにへばりつく、茶色くなった八重の桜。
4月下旬にしては蒸し暑い放課後。
「見過ぎじゃね?」
「また手順間違ってるって教えてあげたくて…」
「早く言えよー」
オレンジ色のバカでかいケースから取り出した三脚を前に、頭を突き合わせるオレたち。
「またそんなところに野帳置いて…濡れますよ」
「拾っといて、モモ、これ押さえて」
「人使いが荒い…設置できましたね?俺、向こう立ってるんで」
測量するためのポールを片手に、20m先辺りに走っていく重たい黒髪。
予定地点に立った、その作業着の裾に濃い染みができている。
水溜まりを避けていたのに。
雨上がりの散歩にはしゃぐ犬がフェンスの横を通り過ぎて行き、思わず既視感で笑ってしまう。
非常に高価な機械の高倍率レンズを覗いて、肉眼では捉えられていたモモの姿を探す。
「モモ、入っていいよ。んー、ピントこれで、合ってる…?」
手で合図しながら、思わず独り言が漏れる。
いつも半径2m以内にモモがいるから、オレの唇は締まりのない考え無しになってしまった。
神経質な程に測量ポールの気泡を見定める、長い睫毛。
春の突風に巻き込まれた前髪を、嫌そうに押さえる綺麗な爪を乗せた指先。
レンズ越しにモモと目が、合った気がした。
「めっちゃ嫌そうな顔しててうける」
測量ボタンを押してほんの数十秒。
弾き出された数字を書き込むために胸ポケットのボールペンを探すも、ない。
上着も、ズボンもガサガサ漁るも一向にない。
仕方ない、モモに借りようか…そう思って顔を上げると何やら首元を指差している。
そして、シャツの襟首に引っかけていたことを漸く思い出した。
「交代しよー」
「そこ濡れますよ」
雑に書いた数字をポケットに仕舞いながら、モモのところまで一直線に歩く。
指定の安全靴は汚すと後々面倒だけど、水溜りすら避けるの面倒。
「できました?」
「うん、休学する前に一回やってるし」
「それなのに手順間違うの…?」
「モモが教えてくれるから大丈夫だろ」
「他力本願ですね、重いけど持てます?」
「たぶんオレの方が体力あるぞ」
とは言え重いのは確かなので。
「早く終わらせてきて」
「わがまま!」
大股で水溜まりを避けながら、機器へと向かうモモ。
「曲がってる、ちゃんと持って、ハチさん」
指差した方向に少しだけ傾ける。
機械の向こう側に潜ったモモの、無駄のない動き。
なのに少しだけ手間取ってる。
もしかしてズレたかな…と思って試しにレンズに向かってウインクしてみた。
モモの肩が一瞬跳ねたから、たぶんズレてしまったのだと思う。
それでも暫くして、何もなかったかのように、胸ポケットからシャーペンを取り出し記録を書き込むモモ。
相変わらずの2Hで紙の裏側まで凹凸になってそうだけど、ドヤされるからオレも後で清書しないといけない。
「終わったー?」
「はーい」
少し掠れたモモの声。
普段腹から声出してないんだろうな、って感じの。
重たいポールを肩に立てかけ、手首をブラブラさせながらモモの方へと向かう。
「ザッと汚れ落として、残りは準備室で拭きましょう」
「そこまで付き合ってくれんの?」
「休学明けの小暮に測量の確認させとけって、よくよく担任から頼まれてるので…」
「だからもう終わったからいいってば」
「ハチさんに清掃任せられない気がするし?ああそれ重いですね、オレ持ちます?」
「優男だわ。でもいいよこれくらい持てるし…可愛いモモをパシってるみたいじゃんね?」
モモは帰宅部だからいいって引き受けてくれたけど、放課後割いてオレなんかに付き合わせてしまった。
…最近はいつも放課後一緒に宿題してるけどさ。
「サク!」
頭上から声がする。
「元気してるー?もう彼氏できたん!?」
「あー…元気元気、違うけどな!また連絡するわ!」
5年になった元同級生が、手を振りながら西日が反射する窓の向こう側に消えていく。
「…友達いたんですね」
「まあまあね」
安全靴を脱ぎ捨てて、犬走から校舎に入り込む。
靴下越しに伝わる床の冷たさと、不快感。
少し歩いた先の準備室に鍵を差し込んだのに、動かないモモ。
「やっぱ帰ろうかなって…」
「ここまで来てガサツなオレを放置?」
「いや、そうじゃなくて」
「嘘。いいよ、どうもありがとな」
「ね、ハチさん。隣にいてって言いましたよね?引き留めないのはどうしてですか?」
「うん?」
「さっき彼氏って言われてそんな顔して。俺のこと何だと思ってますか?」
「…とりあえず入って?」
誰もいない廊下、たぶん聞かれることはないだろうけど。
渋るモモにタオルを握らせ掃除するよう促して、漸く開き始めた口元。
「俺がボッチなのは性的嗜好が男だと噂を流されたからなのもあります」
「…そうなの?なんかごめんな」
「いや、別にもうどうでもいいんですけど」
「いいんだ?」
「人の嗜好なんて流動的ですからね」
艶々のピカピカになった器材。
たぶんオレの使用後、過去一綺麗。
「オレね、好きだった人が男だったんだよ。あいつらは皆知ってる」
「……はぁ」
「隠しててと言うか…誠実じゃなくてごめんな」
「いえ、別にそれもいいんですけど…」
「だからモモ云々じゃなくて、彼氏かって聞いただけだと思うよ。ノンデリだけど!」
「……うん、何となく把握しました」
少し饒舌過ぎたオレ。
気付けば外は薄暗く、慌てて職員室に鍵を返しに行ったけど少し怒られた。
インク滲みのある胸ポケットの、少し上。
自分のではない青い刺繍を指先で撫でる。
「もっと早めに伝えとけばよかったな」
「その辺はセンシティブなのでお気にせず」
「バイトも無理にとは言わないから、ダメだったら連絡して」
「あの!勝手に話進めないで下さい」
「…ごめん」
外に放置してた靴回収して教室戻って、正門出て。
2日後からGWだけど明日はもう学校サボっていいかな…なんて。
「なんでいつも通り待っててくれないんですか、自転車取りに行ってたのに…」
「反対方向だからいつもここで別れるじゃん」
「そうだけど…明日もちゃんと学校来てくださいねって、俺ハチさんいないと独りになるので」
「ん、また明日」
少しだけ不貞腐れたような顔でクロスバイクに跨って、小さくなるモモの背中。
一人暮らしの古いアパートへ向かう重たい足。
スマホにメッセージが来ていたことにやっと気付いた。
『明日からもたくさん話してもらえたら嬉しいです』
5分前の送信時刻。
駐輪場で送ってくれたのであろうモモからのメッセージ。
あのひとも、よく話すオレが好きだと、言ってくれた。
