「終わったら速攻帰るわ、がんばれ」
あんなに嫌がっていた古文が終わって、最終科目の数学前。
そう宣言した通り、ハチさんは試験時間の約半分で解き終えて、恐らく適当な言い訳をして帰っていった。
自らの柔らかい所を抉ってまで貰ってきてくれた過去問と、無駄のない解説のおかげで、解答用紙に書き込む手が止まることはなかった。
それでも制限時間目一杯まで使っても、最終設問は半分しか埋まらなかったけど。
「一ノ瀬、これ小暮に渡しておいて」
「…週明けでもいいですか?」
「いいけどスクショして今日送ってくれたほうが助かる」
「はい」
ホームルームで配られた、授業参観の文字が印字されたプリント。
小暮と書かれた付箋付き。
あの家に俺が入り浸っているというふたりの秘密を知られたくなくて、担任には卒のない返答をしておいた。
ハチさんが隣にいない試験時間45分。
自販機で間違った飲み物を買った休憩時間5分。
ホームルーム20分。
委員会で足止め食らった10分。
教室から玄関まで10分。
一般的なデート時間の半分も一緒にいられなかった。
だからといって親密度が下がる訳では無いけれど。
長過ぎて気が狂いそう。
「ハチさん、開けて」
回りっぱなしの換気扇から流れ出る、湿気を含んだよく知ったシャンプーの匂い。
玄関横の格子付き窓を叩く。
「水道メーターの所に鍵置いてる、早かったな」
その隙間から出てきた、水を滴らせたままの手が指差す方。
プラタグも2号も付いていない裸の鍵。
苛々しながら鍵穴に突っ込んで、古い扉を開ける。
ひんやりとした空気に、また居間の引戸を明け放しにしていたなとすぐに気付く。
「なんて言って早退したんですか」
シャワー浴びて、無香料の制汗剤付けて、歯磨いて、マウスウォッシュして、それから…。
そう思っていたのに。
荷物背負ったまま、靴すら揃えられなくて。
「動悸が酷いから帰りたいって言った」
「それ、ご実家に連絡行くやつですよ…」
できたのは辛うじてペットボトルで喉を湿らせるだけだった。
「どうしたモモ、めっちゃ汗かいてるじゃん」
「…チャリ学校に忘れた…」
「走ってきたの?」
ピンクのタオルを首から下げたまま、笑う濡れたハチさん。
パンイチはダメって言ったのに。
無断で扉を開けた俺の方がマナー違反だけど。
「おかえりモモ」
「ただいま、八朔さん、俺たち付き合おう」
「ん、大事にするからな、百」
「俺の台詞横取りしましたね」
震える指先をびしゃびしゃに濡れた髪の中に差し込んで、ほんの僅かに唇を重ねる。
「…何この匂い、ジャスミンティー?」
「間違えて買ったら口の中ミカン畑でもう理性が保てないけど風呂…」
「…このままでもオレは構わないけど」
意地悪く笑う唇が俺の唇に重なって、追いかけようとするも簡単に逃げられてしまう。
ちゅっ、と首筋に吸い付かれて身体が跳ねる。
「汗かいてるから…っ」
「別に嫌じゃないし、なんなら好き」
匂いは分子なので。
分かるってことは身体がソレを受容してるってことなのだけど。
自分の一部が、他人の身体の一部にされてしまうのが物凄く嫌だった。
でもこのひとになら。
「…一緒に入って」
また嫌だと言われてしまうだろうか。
俺の手からペットボトルをひったくり、喉を鳴らす俺の恋人は。
「いいよ、洗ったげるわ」
そう言って詰襟のホックを指先で外し、遠慮なく押し付けられた唇。
あのむせ返るようなミカン畑を舌先で反芻しながら、もっともっと、瑞々しさを求めてゆくしかできなかった。
