FRESH(注:煩悩及び執着含む)

突如自習となってしまった物理の時間。
担任が顔を出して、各自迷惑にならないよう静かに遊べ、とだけ残して行ってしまった。
実質、一コマ前倒しされた放課後みたいだ。

「ここ、間違ってる」

長く突き出た梁から滴り落ちる水音を遮るかのように、ハチさんの指摘が入る。

「うわ、気付かなかった…」

ノートのだいぶ上の方、縦線の入った爪の先がトントンと音を立てて示す。
出来上がった解答よりも、遥かに多くの数字を吸い込んだ黒い消しカスがあっという間に積もっていく。

凸凹とした、誤答を記憶する紙。
更に湿気を孕んだそれは、シャーペンの先が引っかかって、思うように右に流れていかず苛々する。

「薄っすい芯使ってるよな、硬度いくつ?」
「2H」
「製図かよ、書きにくくない?」
「図とか書き込みたいし…ハチさんはいつも数学、ボールペンだね」

湿った風が吹き抜ける、食堂のテラス席。
こんな天気、こんな時間帯に、いつもの賑わいはなく。
それでも全く人が居ない訳ではないので、教室の隅に居る時と同じように俺たちは自然と肩を寄せ合い、小声で会話する。

手元の計算を止めることなく、さらさらと課題の数式を刻んでゆくハチさん。

「消す時間、もったいない気がすんだよ。解は一つしかないんだし」

迷いのない青いインクの軌跡。
曲線が、修正液の出番を待たず、完璧な角度でノートの余白に描かれていく。

「解がないときもあるじゃないですか」
「ないという解があるだろ」
「俺アレ嫌い。間違ったと思って消したのに、同じ結果になったりするから」

ハチさんは少しだけ困った顔をする。
数字が大好きな彼は、たぶんあまりピンときてない。

「間違いも軌跡なんだから、消さないで残しておいたら?…どこでズレたか分かんなくなるじゃん」
「あとで見返すときに、ノート綺麗な方がいいかなって…」
「はは、本当、ノート取るの好きだよな…。まあオレもお世話になってるからなぁ」

視線を合わせないまま、下敷きにしていたレポート用紙を取り出すハチさん。
少し潰れた数字を豪快に書き殴りながら、真っ白に漂白されたパルプ繊維に、青いインクを滲ませていく。

ペンダコのできた中指の第一関節。
インクの乾かぬうちに迷いなく流れていくから、少し汚れてしまう小指の側面。

「うん、でも数学はハチさんに見せる必要ないから…本当はどう思ってる?」
「んー?数学に関しては模範解答集作ってるみたいって思ってる」

言われてああ、そうかも。と思った。

「グミ食べる?」

上着のポケットから出てきた、ポップなパッケージ。
切り口が右肩上がりのグラフの様になっている。
あんなに卒のない数式を好むのに、ハチさんは日常生活においてガサツであるというのが、これまでに得られた知見である。

差し出した手に積まれていく、ハチさんの体温で温まった桃のグミ。

「また桃味…」
「もうすぐ旬だから」
「グミは通年売ってるの俺でも知ってますよ」
「うん、海開きしたら海行こうよ」

この人の頭の中はどうなっているのだろう。
多分思考回路が爆速で回ってて、言葉として空気を震わせる頃には、既に違うことを考えている。
だから同じことを考えることも、ましてや思考の先回りをして驚かす、なんてことはできない。

「俺多分泳げないです」
「オレもだよ、そういえばGWなんか予定ある?」
「いや特にないですけど…。波があるから泳げないの?」
「クラゲいるから」

これ何の会話?

「じゃあオレの実家でバイトしない?」
「雑ですね、何のバイト?いつ?」
「GW。みかん農家なんだよ」
「機械が入れない斜面で、ひたすら肉体労働するやつ!」

めっちゃ大変って聞いてる。
ああ、だからこの人は毎日のように柑橘類食べてるのか。

「少し遠いから移動大変なんだけど」
「山ン中?」
「そう、虫平気?できそうだったら今度、住所と生年月日と連絡先教えて」

そしてやっと、俺たちはただの席が隣同士なだけの、連絡先すら交換していなかった関係であることに気付いた。

「俺だけ?」
「モモだけ」
「じゃあ、やりたい」

綺麗であることに拘っていたノートを、躊躇なく破る。
何書くんだっけ?
名前、住所、電話番号、生年月日…。

「保護者の氏名いる?」
「うん、ありがと。一応帰ってちゃんと家族の了承得てね」
「多分クラスメイトの家って言ったら泣いて喜ぶわ」

学校の話は事務連絡だけ、休日に出かける相手も中学の同級生。
そんな俺を心配していることは嫌でもわかる。

「食費も移動費も小暮農園負担だから気軽に考えて。送迎は俺のバイクになっちゃうかな…」

言われた事項を書き込んで、ハチさんに手渡す。

「ハチさん免許持ってるんですね」
「休学中にね…あれ、モモ、誕生日過ぎてんの?」
「4月18日なので」
「18歳!最高!泊まり込みする?オレの部屋か客間なんだけど」

パッと見開いた目。
それでも直ぐに鼻筋に皺を寄せるほど細められ、弧を描く唇から、綺麗に並んだ白い歯を覗かせて。
え、この人こんな悪ガキっぽい顔するんだ。って呆気に取られた。
頷くので精一杯。

「忙しくてさ、成人してると本当ありがたい…そういえば、いくらとか聞かないの?」
「…睡眠中も給金が発生するなら聞く」
「残念、労働時間のみの発生だよ…24時給換算したら労働法違反になるな」

耳打ちしてくれた、専門書が買える金額。

でもそれよりも、ハチさんのダイレクトに鼓膜を震わせる声に、思わず身を竦めてしまった。

「…耳ダメ?」
「いや、不意打ちだったから」
「はは、ごめんな」

俺が18になった事をこんなに喜んでくれたの、ハチさんくらいなんだけど。

「…誕生日おめでとう、モモ。お祝いに、なんか欲しいもんある?」

悪ガキみたいな顔をして、ずっとテンション上がってソワソワしてる。
でも、俺が欲しいものは、時給換算できるようなものじゃない。

「…ハチさんの、連絡先がいいかな」
「そんなんでいいの?」

ハチさんは俺が渡した紙を半分にして、更に割く。
癖のある、青いインクの文字が罫線を無視して並んでゆく。

「これ登録して、好きな食べ物送って。母さんに伝えるから」

手元に収まる、俺のノートだった紙。

あとこれもあげるわ、と言って差し出される切り口が右肩上がりの桃のグミ。

「ありがとうございます…」

俺の好物は八朔なのだけど。
伝えたらどんな表情をするのだろうか。
メッセージじゃそれが見られないから却下。

いつなら伝えても、いいだろうか。