FRESH(注:煩悩及び執着含む)


人の疎らな食堂の奥。
湿った風が吹き抜けるテラス席。

「ここ、間違ってる」
「気付かなかった…」

呼び方が変わったから何か変わるわけでもない。
ノートのだいぶ上の方、計算ミスを指摘するとモモは小さく溜息をつく。

「…消しゴムで消した数字の方が多くなってそうだな」
「後半丸々消したのでそうだと思いますよ」

凸凹とした、誤答を記憶する紙。
更に湿気を孕んだそれは、シャーペンの先が引っかかって、思うように右に流れていかず苛々しているようだった。

「薄っすい芯使ってるよな、硬度いくつ?」
「2H」
「製図かよ、書きにくくない?」
「図とか書き込みたいし…ハチさんはいつも数学、ボールペンですね」

こんな天気、こんな時間帯に、いつもの賑わいはなく。
それでも全く人が居ない訳ではないので、教室の隅に居る時と同じように俺たちは自然と肩を寄せ合い、小声で会話する。

「消す時間、もったいない気がすんだよ。解は一つしかないんだし」
「解がないときもあるじゃないですか」
「ないという解があるだろ」
「俺アレ嫌い。間違ったと思って消したのに、同じ結果になったりするから」

下敷きにしていた5mm方眼罫のレポートパッドを取り出す。

「真面目だな、オレだったらバツつけて新しい式書くよ…ここ、図説しようか?」
「…お願いします」

どうしても少し潰れ気味になる数字を書き殴りながら、真っ白に漂白されたパルプ繊維に、青いインクを滲ませていく。

直交させた2本線。
もう1本書き足すだけで空間まで表せる、優秀過ぎる図。

「間違いも軌跡なんだから、消さないで残しておいたら?…どこでズレたか分かんなくなるじゃん」
「あとで見返すときに、ノート綺麗な方がいいかなって…」
「はは、本当、ノート取るの好きだよな…その恩恵受けてるのはオレだけどさ」

呆けていても寝ていても、その日の放課後にはモモが丁寧に取ったノートで復習できる。
最初から真面目に聞いてれば良いんだろうけど。

「うん、でも数学はハチさんに見せる必要ないから…本当はどう思ってます?」
「んー?数学に関しては模範解答集作ってるみたいって思ってる」

ペンダコのできた中指の第一関節。
インクの乾かぬうちに急いで数字を綴ってしまうから、少し汚れてしまう小指の側面。

「曲線の方が直前より速くなるんだよな…まあ、μ=0の条件下だから机上の理論なんだけど」
「…楽しそうですね」
「うん、楽しい」

放物線を描くのも、数字を並べたり無限に飛ばしたりするのも、物凄く楽しい。
たった0-9までの10個で現される世界は終わりが見えない。

「楽しいって思えるから強いんですかね…」
「たぶんそう、古文は苦痛だし。グミ食べる?」
「ありがとうございます、…また桃味」
「もうすぐ旬だから」
「グミは通年売ってるの俺でも知ってますよ」

上手く開けられないパッケージは、いつだって右肩上がり。

「海開きしたら海行こうよ」
「俺多分泳げないです」
「オレもだよ、そういえばGWなんか予定ある?」
「いや特にないですけど…。波があるから泳げないの?元水泳部なのに?」
「いや、クラゲいるから」

嘘をついてしまった。
自分以上に泳げる人が隣にいないと、水が怖くなってしまった。

「じゃあオレの実家でバイトしない?」
「雑ですね、何のバイト?いつですか?」
「GW。みかん農家なんだよ」
「機械が入れない斜面で、ひたすら肉体労働するやつ?」

GWなんてほんの10日先くらい。

「少し遠いから移動大変なんだけど」
「山の中ですか?」
「そう、虫平気?できそうだったら今度、住所と生年月日と連絡先教えて」
「…俺だけ?」
「モモだけ」
「じゃあ、やりたいです」

綺麗であることに拘っていたノートを、躊躇なく破るモモ。

「ノートいいの?」
「ええ、気が変わらないうちに…保護者の氏名いります?」
「うん、ありがと。一応帰って家族の了承得てね」
「多分クラスメイトの家って言ったら泣いて喜ぶと思います」
「ちゃんと友達って伝えてな、先輩の搾取とかじゃないよって」

モモの綺麗な字が、真っさらなノートに行儀よく並んでゆく。
薄くて均一に細い数字。

「ハチさんアパート住まいでしたよね」
「そう、実家は片道1時間くらい…あ、食費も移動費もうち負担だから気軽に考えて。送迎はオレのバイクになるかな…」
「ハチさん免許持ってるんですね」
「少し前にね…あれ、モモ、誕生日過ぎてんの?」
「4月なので」
「18歳!最高!泊まり込みする?オレの部屋か客間なんだけど」

食い気味になってしまったオレに、モモが手を止めてチラリと伺ってくる。
佇まいを直そうかと思ったけど、ここで押して労働力確保した方が絶対いい。

「忙しくてさ、送迎の時間も惜しかったのが本音で…」
「いいですよ、何も予定無いですし」
「本当!助かる!二泊くらいしてくれると尚良いんだけど!」
「…都合いい時に迎えに来て下さい」
「モモ様々だわ…そういえば、いくらとか聞かないの?」
「…睡眠中も給金が発生するなら聞きます」
「残念、労働時間のみの発生だよ…24時間時給換算したら労働法違反になるな」

そっと差し出された紙。
並んだ一昨日の日付に、だから今週から筆箱が新しくなったのだと気付いた。

「誕生日少し前じゃん。おめでとう、なんか欲しいもんある?」
「…ハチさんの、連絡先がいいかな」
「そんなんでいいの?」

紙を半分にして、更に裂く。
癖のある青いインクの文字を、罫線を無視して並べてゆく。

「これ登録して、好きな食べ物送って。母さんに伝えるから」
「ありがとうございます…」
「ついでにこれもあげる」

食べかけの、右肩上がりのパッケージ。
いらないです、って言うと思っていたのだけど。

予想に反して、モモはそれすらも丁寧に両手を揃えて受け取った。