「ハチさん…?」
漸く起きたモモの第一声がソレ。
ペタペタと、オレの寝てた布団を探る手のひらが、本当に身体を撫でられているような錯覚に陥る。
「おはよ、モモ」
勢いに任せて身体を起こしたモモと目が合う。
昨日とは打って変わって、蒸し暑くなりそうな今日。
山の斜面を上がってくる少しだけひんやりとした空気が、髪を揺らす。
「オハヨウゴザイマス…」
歯ブラシを咥えたまま縁に腰掛け、起きるのを待っていた。
鴨居に吊るしていたジャージは畳んで座卓の上。
代わりに昨日洗った靴が風で揺れる。
「顔洗ってきな」
「はい…」
3泊4日のうち2夜も寝落ちしたこと、相当悔やんでるんだろ。
慣れない肉体労働と精神疲労。
よく頑張った方だと思うけどな。
「モモ」
「はい?」
「隙だらけだったな」
何が、とは言わない。
代わりにぴったりと寄せられた2つの枕を指差す。
「…もう!」
揶揄われたのが悔しい、と言わんばかりに部屋を出て行くモモ。
素足に擦り寄る猫を置き去りにして、行儀悪く歯を磨きながらその後を追う。
丁寧に磨かれた廊下、モモの足跡を辿るように向かった洗面所。
水の滴る顔を拭った指の隙間から覗く、切れ長の目と目が合う。
隈も浮腫もない、スッキリした顔になんだか腹立つ。
三大欲求の二つを制してこれだけなのだから、全てが満たされたらどうなるのだろう。
「ん」
「え、ちょ、垂れる」
洗面台を塞ぐモモの脇腹を、邪魔だと言わんばかりに押しやる。
「ハチさん早くして、肘まで伝ってきた」
歯磨き粉で泡立った唾液を吐き出し、口を濯ぐ。
水流であっけなく排されていったソレが、酷く卑猥なモノのような気がして。
見せるんじゃなかったと思ったがもう遅い。
「モモ、タオルそこ」
濡れた口元を首にかけたタオルで拭きながら、親指で背後の棚を指差す。
鏡越しにモモの膨れっ面と目が合う。
「冷たっ、何考えてんの…」
濡れそぼつ顔を肩口に押し付けられて、色を暗く変えた服。
「ハチさんのことしか考えてないですよ」
「…朝から煩悩まみれだな」
「ダメですか?昨日みたいに夜ならいいの?」
「もう忘れた、午前中作業してから帰るでいい?」
「…がんばります」
“好きになりかけてる or すでに好きだけど、まだ怖い状態”
昨日のAIの分析がリフレインする。
怖いって何だろうか。
首に巻いていたタオルをモモの顔に押し付け、ポケットに入れておいたクリップで重たい前髪を上げてやる。
「なにこれ、目玉クリップ…?雑すぎない…?」
「朝飯食べ行こ」
「誰かさんに邪魔されて歯磨きまだです、先行っててください」
雑と言う割に外さないクリップ。
変な跡つきそう。
微かにまだ新しい糊の匂いがする壁に凭れて、スマホをいじる。
「今日暑くなるって」
「明日は?」
「曇り。もう登校日か…」
「楽しいGWでしたね、明日から迎え行くんで一緒に登校しましょうね」
「え、なにそれ」
「出席日数も管理するって言ったじゃないですか」
オレンジ色の歯ブラシを咥えて、モモは目を細める。
「花弁落とすんだけど、カッパ着たい?」
「着たら絶対濡れないんですか?」
「濡れると思う。しかも暑くて蒸れるかも」
「着ません」
29センチの緩そうな長靴、胸元に大きく“小暮”と縫い付けられたダサいシャツ。
「濡らしても大丈夫なようにわざわざ服借りたんですから」
「似合ってるよ」
「中学でコレってハチさん身体大きかったんですね」
「人生のピークがそこだったんだよ」
押し入れから引っ張り出してきた体操服とヘアバンドを纏ったモモが、濡れた斜面に足を滑らせ転びそうになっている。
「あっぶな…って、何撮ってるんですか」
「広報資料撮ってる」
「こんなの載せるの?学校名晒したら苦情に繋がりますよ」
「確かに…じゃあモモにお古着せたの失敗じゃん」
スマホをポケットに突っ込んでモモを手招きする。
「雨で散った花弁が蒸れてカビになるから、揺すって落としてくよ」
「せっかく残した蕾まで落ちそうですけど、いいんですか?」
「力加減して、こんなかんじ…」
木のなかに手を突っ込んで、湿った枝の根元を鋭く揺する。
葉に溜まっていた重たい水滴が、萎れて変色した花弁を巻き込んで一気に降り注いだ。
「想像の4倍は揺すってるんですけど」
「多少蕾が落ちてもいいよ。どうせそのうち風とかで落ちる弱いやつだから」
「あんなに気遣って摘蕾したのに…ハチさん既にびしょびしょですね」
「たぶんこのブロック終わる頃にはシャツ絞れるかな」
揺すっても尚、萼にへばりつく花弁を指先で弾く。
「凄い匂い…」
「そのうち鼻効かなくなるから今だけ我慢して」
「いえ、天然のフレーバーウォーターみたいでおいしそうだなって」
「飲むなよ?腹壊すよ?」
「俺を何だと思ってるんですか」
「…一緒にいたい人?」
頭に色々浮かんだけれど、これが最適解。
「またそういうことサラッと言う…」
「嬉しくない?」
「そんなわけないじゃん…ハチさんは?俺にどう思ってるか聞かないの?」
「ん、聞かない。モモ、そろそろ手動かして」
「なにそれ、生殺し…」
するりと茂みの間に伸びてゆく、モモの長い腕。
探るように、少し怖れるように、枝と共に揺れるシャツの袖。
「冷たっ」
そこから伸びる黒いアンダーシャツに染み込んでゆく、ジャスミンを思わせる芳醇な香りの雨水。
花粉や細かな汚れが行き場を無くして生地に留まる。
「棘気を付けて、もっと強くしていいよ」
「…折れそうじゃない?」
「そんなヤワじゃないし、しっかり掴んで」
「こんな?」
「もっと強く、うん、上手。これ終わったらコンテナ洗って帰ろ」
モモの血を吸った特級の樹があるこの場所が、一番見晴らしがいい。
漸く起きたモモの第一声がソレ。
ペタペタと、オレの寝てた布団を探る手のひらが、本当に身体を撫でられているような錯覚に陥る。
「おはよ、モモ」
勢いに任せて身体を起こしたモモと目が合う。
昨日とは打って変わって、蒸し暑くなりそうな今日。
山の斜面を上がってくる少しだけひんやりとした空気が、髪を揺らす。
「オハヨウゴザイマス…」
歯ブラシを咥えたまま縁に腰掛け、起きるのを待っていた。
鴨居に吊るしていたジャージは畳んで座卓の上。
代わりに昨日洗った靴が風で揺れる。
「顔洗ってきな」
「はい…」
3泊4日のうち2夜も寝落ちしたこと、相当悔やんでるんだろ。
慣れない肉体労働と精神疲労。
よく頑張った方だと思うけどな。
「モモ」
「はい?」
「隙だらけだったな」
何が、とは言わない。
代わりにぴったりと寄せられた2つの枕を指差す。
「…もう!」
揶揄われたのが悔しい、と言わんばかりに部屋を出て行くモモ。
素足に擦り寄る猫を置き去りにして、行儀悪く歯を磨きながらその後を追う。
丁寧に磨かれた廊下、モモの足跡を辿るように向かった洗面所。
水の滴る顔を拭った指の隙間から覗く、切れ長の目と目が合う。
隈も浮腫もない、スッキリした顔になんだか腹立つ。
三大欲求の二つを制してこれだけなのだから、全てが満たされたらどうなるのだろう。
「ん」
「え、ちょ、垂れる」
洗面台を塞ぐモモの脇腹を、邪魔だと言わんばかりに押しやる。
「ハチさん早くして、肘まで伝ってきた」
歯磨き粉で泡立った唾液を吐き出し、口を濯ぐ。
水流であっけなく排されていったソレが、酷く卑猥なモノのような気がして。
見せるんじゃなかったと思ったがもう遅い。
「モモ、タオルそこ」
濡れた口元を首にかけたタオルで拭きながら、親指で背後の棚を指差す。
鏡越しにモモの膨れっ面と目が合う。
「冷たっ、何考えてんの…」
濡れそぼつ顔を肩口に押し付けられて、色を暗く変えた服。
「ハチさんのことしか考えてないですよ」
「…朝から煩悩まみれだな」
「ダメですか?昨日みたいに夜ならいいの?」
「もう忘れた、午前中作業してから帰るでいい?」
「…がんばります」
“好きになりかけてる or すでに好きだけど、まだ怖い状態”
昨日のAIの分析がリフレインする。
怖いって何だろうか。
首に巻いていたタオルをモモの顔に押し付け、ポケットに入れておいたクリップで重たい前髪を上げてやる。
「なにこれ、目玉クリップ…?雑すぎない…?」
「朝飯食べ行こ」
「誰かさんに邪魔されて歯磨きまだです、先行っててください」
雑と言う割に外さないクリップ。
変な跡つきそう。
微かにまだ新しい糊の匂いがする壁に凭れて、スマホをいじる。
「今日暑くなるって」
「明日は?」
「曇り。もう登校日か…」
「楽しいGWでしたね、明日から迎え行くんで一緒に登校しましょうね」
「え、なにそれ」
「出席日数も管理するって言ったじゃないですか」
オレンジ色の歯ブラシを咥えて、モモは目を細める。
「花弁落とすんだけど、カッパ着たい?」
「着たら絶対濡れないんですか?」
「濡れると思う。しかも暑くて蒸れるかも」
「着ません」
29センチの緩そうな長靴、胸元に大きく“小暮”と縫い付けられたダサいシャツ。
「濡らしても大丈夫なようにわざわざ服借りたんですから」
「似合ってるよ」
「中学でコレってハチさん身体大きかったんですね」
「人生のピークがそこだったんだよ」
押し入れから引っ張り出してきた体操服とヘアバンドを纏ったモモが、濡れた斜面に足を滑らせ転びそうになっている。
「あっぶな…って、何撮ってるんですか」
「広報資料撮ってる」
「こんなの載せるの?学校名晒したら苦情に繋がりますよ」
「確かに…じゃあモモにお古着せたの失敗じゃん」
スマホをポケットに突っ込んでモモを手招きする。
「雨で散った花弁が蒸れてカビになるから、揺すって落としてくよ」
「せっかく残した蕾まで落ちそうですけど、いいんですか?」
「力加減して、こんなかんじ…」
木のなかに手を突っ込んで、湿った枝の根元を鋭く揺する。
葉に溜まっていた重たい水滴が、萎れて変色した花弁を巻き込んで一気に降り注いだ。
「想像の4倍は揺すってるんですけど」
「多少蕾が落ちてもいいよ。どうせそのうち風とかで落ちる弱いやつだから」
「あんなに気遣って摘蕾したのに…ハチさん既にびしょびしょですね」
「たぶんこのブロック終わる頃にはシャツ絞れるかな」
揺すっても尚、萼にへばりつく花弁を指先で弾く。
「凄い匂い…」
「そのうち鼻効かなくなるから今だけ我慢して」
「いえ、天然のフレーバーウォーターみたいでおいしそうだなって」
「飲むなよ?腹壊すよ?」
「俺を何だと思ってるんですか」
「…一緒にいたい人?」
頭に色々浮かんだけれど、これが最適解。
「またそういうことサラッと言う…」
「嬉しくない?」
「そんなわけないじゃん…ハチさんは?俺にどう思ってるか聞かないの?」
「ん、聞かない。モモ、そろそろ手動かして」
「なにそれ、生殺し…」
するりと茂みの間に伸びてゆく、モモの長い腕。
探るように、少し怖れるように、枝と共に揺れるシャツの袖。
「冷たっ」
そこから伸びる黒いアンダーシャツに染み込んでゆく、ジャスミンを思わせる芳醇な香りの雨水。
花粉や細かな汚れが行き場を無くして生地に留まる。
「棘気を付けて、もっと強くしていいよ」
「…折れそうじゃない?」
「そんなヤワじゃないし、しっかり掴んで」
「こんな?」
「もっと強く、うん、上手。これ終わったらコンテナ洗って帰ろ」
モモの血を吸った特級の樹があるこの場所が、一番見晴らしがいい。
