歯を磨いて戻ってきて、当然のように隣同士に並べられた布団にもう何も言わなかった。
「レポート終わらせましょう、送ったやつ見ました?」
「まだ。オレのスマホ開いておいて、0804ね」
「誕生日じゃん、リテラシーの低さ…」
「普段は指紋認証だからいいの」
布団に座るモモの反対側、障子と座卓の僅かな隙間に着座する。
「…なんでそんな狭い方行くんですか?」
「モモ横にいたら肘ぶつかるだろ」
隣にいたら何するか分かんないし。
モモが。…オレが。
「ね、将来どうしたいんですか?」
「なに、急に…」
「退屈だから真面目な話したい」
「寝てていいよ」
「いやだ」
目が据わってるんだよ。
「…どっか適当なところ就職して、クビ切られたら実家継ぐかな」
「向上心ないですね、せっかく受験したのに」
特別な思いがあって高専に進学した訳じゃない。
そもそもそんな真面目だったら留年してないし。
「モモは?」
「模索中ですね」
「なにそれ、ズルい」
モモが用意してくれたレポートのテーマと概要をコピペしてAIにぶん投げる。
出てきたのを写して終わり。
「統合性とれてるか確かめてくださいね」
「うん、ありがと。政経は提出物厳しいからマジ助かる」
「…ハチさん卒業したい?」
「そりゃね、ダブってるしもう後ないし」
提出用紙の一番上、名前を書き終わるよりも前に、モモの手がそれを遮る。
「これからも一緒に勉強してくれます?」
「え、うん。…なんで?」
「知っての通り、俺は赤点の一つも取らずに卒業する自信があります」
モモはこちらを見ることもしない。
前髪の影を頬に落としたまま、じっと、オレの手元だけを観察しているようだった。
「ハチさんが単位を落としたのは何故ですか?」
「…出席日数と提出物、と補講のサボり」
「思っていたより役満ですね…」
「今年はたぶん大丈夫…ちゃんと補講行くし」
空きコマに合わせて授業サボったり。
誰もいない研究室でずっとその横顔を見てて補講忘れたり。
そうしてまで一緒に居たいと思った人は、もういないし。
「というか赤点は取る前提ですか」
「ん、不可抗力的な?」
「試験勉強してなかったからですよね」
モモの視線が突き刺さる手がムズムズする。
シャーペンの持ち方変だったかな、とか、爪の間の土ちゃんと落としきれてたかな、とか。
見られてるの凄く居心地悪い。
「2年生までは何の問題もなく通えてたそうで」
「うん」
「…大変癪に障りますが、理由は皆まで言わずとも分かります」
いつにも増して饒舌なのは、眠いから、じゃないのだろう。
「俺ならハチさんを卒業させてあげられる」
これまでの成績に裏付けられた自信と、傲慢さ。
「だから一緒にいて」
オレなんかよりよっぽど暴君じゃん。
「…そう言うなら手、どかして」
シャーペンを握ったままの人差し指で、モモの手をつつく。
誂うような態度のオレに怒ったのだろう。
威嚇するように指先を伸ばしてきたが、捕まったら面倒なことになりそうでサッと手を引く。
「…いやです」
白いコピー用紙の上に取り残された、どの角度から見ても美しい、とても邪魔な五本の指。
その少し低い体温が心地よいのは、もう知っている。
そして何を欲しているのか、気付かない程鈍感でもない。
「困った奴…」
その指の間に、左手の指先を差し込んでみた。
一瞬強張ったのを見計らって、そのままきつく握り締める。
ほんの少しできた隙間から提出用紙を抜き取って、朔、と記名欄に最後の一文字を書き込んだ。
…はじめ、という意味のそれ。
「モモと一緒にいるのは、楽しいよ」
おずおずと、握り返される指先には気付かないフリをして。
震える指先でシャーペンを強く握りしめて、平然を装ってモモのお膳立てしてくれた文字を写してゆく。
…苺、杏、梨、そして桃。
好物を目前にした時のように、口腔内が溺れそう。
「…だから、何ですか?」
唐揚げの下で圧をかけてきた左手とは打って変わって、慎重で優しい右手。
その手の甲から浮き出た中手骨の、柔らかい手触り。
指が細いから、絡めたオレの指の股も痛くならないのだと、気付いてしまった。
恐らく、ずっと繋いでいても圧迫感のない、収まりの良いモモの手。
「…モモが一緒にいるメリットもあるといいなって」
「ズルい、分かってて言ってますね」
モモが。
オレが好きだということ?
オレと一緒にいたいのだということ?
卒業という餌を使ってまでオレを支配したいのだということ…?
「…分かってるつもりなのかも?」
違ったらめっちゃ自意識過剰じゃん。
恥ずかしすぎる。
「…たぶん正解ですよ」
「だとしたらモモの見返りが少ないなって」
「そんなに俺に貢ぎたいんですか?なら元同級生から過去問でも強請ってきてください…」
「はは、いいよ」
わしゃわしゃと、モモが頭を掻く音がした。
同じシャンプーの匂いと、昼に嗅いだのと違う制汗剤の匂い。
「…寝る前に制汗剤すんの?」
「恥ずかしいから指摘しないで。そこ漢字間違えてます」
「本当だ。手、離して」
いつもより熱いモモの体温。
籠る湿度を逃がしたくて隙間を開けると、縋るように追いかけてくる。
「いやだ…」
「イヤイヤ期みたいになってる」
「俺は今反抗期真っ盛りですよ」
「随分と幼稚な反抗期だな」
間違えた漢字にバツつけて、そのままガリガリ写していく。
モモの頭が机に沈んで、繋がれた手を飽きもせずに眺めているようだ。
「…寝たら?」
「最後の夜なのに寝たら勿体ない…あと何文字あるんですか?」
統合性なんて確認してられない。
最早写経みたいな…、でも背徳感に塗れた無駄な時間。
左手から全身に伝わってくるのは、煩悩以外の何物でもないから。
「分かんない」
「手書きじゃなければコピペで終わるのに…俺もAIで遊ぼうかな」
「寝なよ」
机に頬を乗せたまま、繋いだ手と顔の間にスマホを放り投げるモモ。
音声コマンドでアプリを立ち上げ、何を言うのかと少し聞き耳を立ててしまう。
「今片想いしてる人と手を繋いで課題をしているのですが、彼が自分を受け入れる理由はなんでしょうか」
まって、何してんの?
「…本人いる前でそれ聞くの?」
「ハチさんも理解してなさそうだから回答読み上げで聞きます?」
「もう手繋ぐのおしまい、布団入って」
「え、ちょ、なんで」
「集中させて。終わんねーよ」
手首を反らして手を振り解いて、しっとり湿った左手を腰のあたりで拭い取る。
「えー…これ絶対ハチさんに読ませたい」
「AIに恋愛相談すんなよ」
「生身の友人がいないので仕方ないですね…」
「なんかごめんな」
「…今日お泊まりなんですが、課題を始めてから目が合ってないんです。なぜ?」
そう言えばそうだった。
顔を上げると、スマホに口元を寄せて話すモモとバチッと目が合う。
「…返答が来る前に解決しちゃいましたね」
眠たそうな目で勝ち誇ったような顔するから。
「モモ」
「…なんですか?」
「布団で、待ってて」
それだけ言ってわざとらしく課題に戻る。
提出用紙を押さえるという本来の仕事に戻ったオレの左手を、再び握りそうになったモモの手は少しだけ彷徨って逃げていった。
布切れの音がして、ほんの少し経った頃。
少しだけ盗み見るとモモはスマホ片手に枕に突っ伏している。
ガリガリとシャーペンが紙を凹ませる音と、柔らかな皮膚が硝子面を叩く音が響くだけの空間。
雨はいつの間にか止んでいた。
あと三行で終わる、というタイミングで、部屋にゴトッという異音がした。
大方、モモがスマホを落としたのだろう。
「…おわった」
統合性も整合性も、そんなの知らない。
多少ヤバくても期限内に出せばいい。
思惑通りに寝落ちたモモの、筆箱に手を伸ばす。
付箋の間に挟まれた銀色。
そこにポケットから取り出した仕返しを挟み込んでおく。
バキバキと鳴る身体を伸ばして、ついでに常夜灯にしてしまう。
足元に畳まれたままの肌掛けをモモに被せ、やけに近い枕に頭を乗せる。
温かいオレンジ色を反射させる、モモのきめ細やかな肌。
深い影を落とす鼻。
安心しきったように少しだけ開いた唇。
そう言えば。
「…今日中のキスはどうしたんだよ」
少しだけ荒れた唇に、そっと、指先を押し付ける。
思ったよりも硬い感触の、無防備な薄い皮膚。
中々タイムアウトにならず、煌々と明かりを放つ、モモのスマホ。
“好きになりかけてる or すでに好きだけど、まだ怖い 状態”
と浮かび上がった文字は見なかった事にして、画面を落とす。
AIにすら見透かされたオレ。
賢いモモが、オレに直に触れているモモが、気付いていない訳が、ないのに。
「レポート終わらせましょう、送ったやつ見ました?」
「まだ。オレのスマホ開いておいて、0804ね」
「誕生日じゃん、リテラシーの低さ…」
「普段は指紋認証だからいいの」
布団に座るモモの反対側、障子と座卓の僅かな隙間に着座する。
「…なんでそんな狭い方行くんですか?」
「モモ横にいたら肘ぶつかるだろ」
隣にいたら何するか分かんないし。
モモが。…オレが。
「ね、将来どうしたいんですか?」
「なに、急に…」
「退屈だから真面目な話したい」
「寝てていいよ」
「いやだ」
目が据わってるんだよ。
「…どっか適当なところ就職して、クビ切られたら実家継ぐかな」
「向上心ないですね、せっかく受験したのに」
特別な思いがあって高専に進学した訳じゃない。
そもそもそんな真面目だったら留年してないし。
「モモは?」
「模索中ですね」
「なにそれ、ズルい」
モモが用意してくれたレポートのテーマと概要をコピペしてAIにぶん投げる。
出てきたのを写して終わり。
「統合性とれてるか確かめてくださいね」
「うん、ありがと。政経は提出物厳しいからマジ助かる」
「…ハチさん卒業したい?」
「そりゃね、ダブってるしもう後ないし」
提出用紙の一番上、名前を書き終わるよりも前に、モモの手がそれを遮る。
「これからも一緒に勉強してくれます?」
「え、うん。…なんで?」
「知っての通り、俺は赤点の一つも取らずに卒業する自信があります」
モモはこちらを見ることもしない。
前髪の影を頬に落としたまま、じっと、オレの手元だけを観察しているようだった。
「ハチさんが単位を落としたのは何故ですか?」
「…出席日数と提出物、と補講のサボり」
「思っていたより役満ですね…」
「今年はたぶん大丈夫…ちゃんと補講行くし」
空きコマに合わせて授業サボったり。
誰もいない研究室でずっとその横顔を見てて補講忘れたり。
そうしてまで一緒に居たいと思った人は、もういないし。
「というか赤点は取る前提ですか」
「ん、不可抗力的な?」
「試験勉強してなかったからですよね」
モモの視線が突き刺さる手がムズムズする。
シャーペンの持ち方変だったかな、とか、爪の間の土ちゃんと落としきれてたかな、とか。
見られてるの凄く居心地悪い。
「2年生までは何の問題もなく通えてたそうで」
「うん」
「…大変癪に障りますが、理由は皆まで言わずとも分かります」
いつにも増して饒舌なのは、眠いから、じゃないのだろう。
「俺ならハチさんを卒業させてあげられる」
これまでの成績に裏付けられた自信と、傲慢さ。
「だから一緒にいて」
オレなんかよりよっぽど暴君じゃん。
「…そう言うなら手、どかして」
シャーペンを握ったままの人差し指で、モモの手をつつく。
誂うような態度のオレに怒ったのだろう。
威嚇するように指先を伸ばしてきたが、捕まったら面倒なことになりそうでサッと手を引く。
「…いやです」
白いコピー用紙の上に取り残された、どの角度から見ても美しい、とても邪魔な五本の指。
その少し低い体温が心地よいのは、もう知っている。
そして何を欲しているのか、気付かない程鈍感でもない。
「困った奴…」
その指の間に、左手の指先を差し込んでみた。
一瞬強張ったのを見計らって、そのままきつく握り締める。
ほんの少しできた隙間から提出用紙を抜き取って、朔、と記名欄に最後の一文字を書き込んだ。
…はじめ、という意味のそれ。
「モモと一緒にいるのは、楽しいよ」
おずおずと、握り返される指先には気付かないフリをして。
震える指先でシャーペンを強く握りしめて、平然を装ってモモのお膳立てしてくれた文字を写してゆく。
…苺、杏、梨、そして桃。
好物を目前にした時のように、口腔内が溺れそう。
「…だから、何ですか?」
唐揚げの下で圧をかけてきた左手とは打って変わって、慎重で優しい右手。
その手の甲から浮き出た中手骨の、柔らかい手触り。
指が細いから、絡めたオレの指の股も痛くならないのだと、気付いてしまった。
恐らく、ずっと繋いでいても圧迫感のない、収まりの良いモモの手。
「…モモが一緒にいるメリットもあるといいなって」
「ズルい、分かってて言ってますね」
モモが。
オレが好きだということ?
オレと一緒にいたいのだということ?
卒業という餌を使ってまでオレを支配したいのだということ…?
「…分かってるつもりなのかも?」
違ったらめっちゃ自意識過剰じゃん。
恥ずかしすぎる。
「…たぶん正解ですよ」
「だとしたらモモの見返りが少ないなって」
「そんなに俺に貢ぎたいんですか?なら元同級生から過去問でも強請ってきてください…」
「はは、いいよ」
わしゃわしゃと、モモが頭を掻く音がした。
同じシャンプーの匂いと、昼に嗅いだのと違う制汗剤の匂い。
「…寝る前に制汗剤すんの?」
「恥ずかしいから指摘しないで。そこ漢字間違えてます」
「本当だ。手、離して」
いつもより熱いモモの体温。
籠る湿度を逃がしたくて隙間を開けると、縋るように追いかけてくる。
「いやだ…」
「イヤイヤ期みたいになってる」
「俺は今反抗期真っ盛りですよ」
「随分と幼稚な反抗期だな」
間違えた漢字にバツつけて、そのままガリガリ写していく。
モモの頭が机に沈んで、繋がれた手を飽きもせずに眺めているようだ。
「…寝たら?」
「最後の夜なのに寝たら勿体ない…あと何文字あるんですか?」
統合性なんて確認してられない。
最早写経みたいな…、でも背徳感に塗れた無駄な時間。
左手から全身に伝わってくるのは、煩悩以外の何物でもないから。
「分かんない」
「手書きじゃなければコピペで終わるのに…俺もAIで遊ぼうかな」
「寝なよ」
机に頬を乗せたまま、繋いだ手と顔の間にスマホを放り投げるモモ。
音声コマンドでアプリを立ち上げ、何を言うのかと少し聞き耳を立ててしまう。
「今片想いしてる人と手を繋いで課題をしているのですが、彼が自分を受け入れる理由はなんでしょうか」
まって、何してんの?
「…本人いる前でそれ聞くの?」
「ハチさんも理解してなさそうだから回答読み上げで聞きます?」
「もう手繋ぐのおしまい、布団入って」
「え、ちょ、なんで」
「集中させて。終わんねーよ」
手首を反らして手を振り解いて、しっとり湿った左手を腰のあたりで拭い取る。
「えー…これ絶対ハチさんに読ませたい」
「AIに恋愛相談すんなよ」
「生身の友人がいないので仕方ないですね…」
「なんかごめんな」
「…今日お泊まりなんですが、課題を始めてから目が合ってないんです。なぜ?」
そう言えばそうだった。
顔を上げると、スマホに口元を寄せて話すモモとバチッと目が合う。
「…返答が来る前に解決しちゃいましたね」
眠たそうな目で勝ち誇ったような顔するから。
「モモ」
「…なんですか?」
「布団で、待ってて」
それだけ言ってわざとらしく課題に戻る。
提出用紙を押さえるという本来の仕事に戻ったオレの左手を、再び握りそうになったモモの手は少しだけ彷徨って逃げていった。
布切れの音がして、ほんの少し経った頃。
少しだけ盗み見るとモモはスマホ片手に枕に突っ伏している。
ガリガリとシャーペンが紙を凹ませる音と、柔らかな皮膚が硝子面を叩く音が響くだけの空間。
雨はいつの間にか止んでいた。
あと三行で終わる、というタイミングで、部屋にゴトッという異音がした。
大方、モモがスマホを落としたのだろう。
「…おわった」
統合性も整合性も、そんなの知らない。
多少ヤバくても期限内に出せばいい。
思惑通りに寝落ちたモモの、筆箱に手を伸ばす。
付箋の間に挟まれた銀色。
そこにポケットから取り出した仕返しを挟み込んでおく。
バキバキと鳴る身体を伸ばして、ついでに常夜灯にしてしまう。
足元に畳まれたままの肌掛けをモモに被せ、やけに近い枕に頭を乗せる。
温かいオレンジ色を反射させる、モモのきめ細やかな肌。
深い影を落とす鼻。
安心しきったように少しだけ開いた唇。
そう言えば。
「…今日中のキスはどうしたんだよ」
少しだけ荒れた唇に、そっと、指先を押し付ける。
思ったよりも硬い感触の、無防備な薄い皮膚。
中々タイムアウトにならず、煌々と明かりを放つ、モモのスマホ。
“好きになりかけてる or すでに好きだけど、まだ怖い 状態”
と浮かび上がった文字は見なかった事にして、画面を落とす。
AIにすら見透かされたオレ。
賢いモモが、オレに直に触れているモモが、気付いていない訳が、ないのに。
