FRESH(注:煩悩及び執着含む)

脱衣場脇の勝手口に転がる、泥だらけになったスニーカー。
それの踵に指を引っ掛け、小雨の外界へと再び出る。

バケツに張った水の中に、モモがついさっきまで履いていたソレを浸す。
確かにあったその温もりが、手から離れて水に溶けていく。

浮かび上がる灰色がかった泥。
水の中で靴紐を抜くと、するすると、擦れた部分から更に滲み出る泥。

中敷きを外すとカツン、という音が響く。
バケツの底には剥がれ落ちた泥と一緒に小さな石も混じっていて、こんな状態でよく履いてたなと思ってしまう。

付いたばかりの汚れは、荒く濯ぐだけでだいぶ綺麗になる。けれども、どうせ洗うのなら綺麗にしてやろうって気持ち。
靴の中に手を差し込み、近くにあったブラシで撫でてやる。
汚れなんて知りもしなかったように綺麗に落ちていくのが楽しい。

暗がりの中、何度も消えかかるセンサーライト。その度に立ち上がって手を伸ばす。

浴室の小窓から、モモの影が見えた。
小さな頭が更に小さく見えて、なんとも心許ない。
長い腕の影がゆっくり伸びてきて、そっと鍵を開けた。

「…何してんの、ハチさん。覗き?」
「靴洗ってる」
「え、俺の?自分でやるからいいですって、濡れてんじゃん」
「これはさっき濡れたやつだから気にしなくて大丈夫」
「もうすぐ、もうすぐ出るんで待っててください」
「いいよゆっくり入ってて」

慌ただしく窓を閉めて、バシャバシャと湯を流し始める音がする。

汚れて何も見えなくなった泥水を捨てて、そこに溜まった石を掻き出すように手で叩く。

靴と中敷きと紐の水気を軽く切って、さて、どうしたものか。
脱衣所に桶は置いてきてしまったし、モモに声を掛けようと思ってもシャワーの音に掻き消されるだろうし。

元より濡れてるのは同じなので。
八朔を受け止めたシャツで、モモのスニーカーを包み込む。
剥がれかけた27.5cmのプリント、踵と指の辺りが少しだけすり減ったソール。
たぶん付属品じゃない、ビビットカラーな靴紐。
少しだけ踏んだであろう、踵の皺。
水を含んだずっしりとした重みが、存在感を更に増す。

浴室の明かりが消えたのを見計らって、家に入る。

「モモ、着替えたら開けて」
「どうぞ」
「上がるの早くない?」
「ハチさん寒いかなって…」

こういう気の遣い方するから先に入ってもらったの失敗だったかなって思ったり。

湿った靴下とつっかけを脱いで、モモが開けてくれた脱衣所に入り込む。
室内の温度、湯気の湿度、すぐ近くにいるほかほかのモモの体温。
冷たくなった剥き出しの素肌がじわじわと浸食されていく。

「ビショビショじゃん、ちゃんと拭きな」
「人のこと言えないですよ」

モモの白いシャツに垂れた水滴が、肌色を滲ませる。
薄い肌は今日一番良い血色をしていて、柔らかそうだった。

「脱水したら風呂入るからいいの、今更なんだけどコレ型崩れしたらマズい?」
「普段履きなので大丈夫です」
「良かった、明日履いていけるかも…でもこれめっちゃうるさいんだよな」

小型の脱水機にスニーカーを入れて、ボタンを押す。
相変わらずガタガタうるさい。

「ドライヤー場所教えたろ、使ったら?」
「いや、いいです。タオルドライしたらもう行きます」
「寝癖酷くなるって自分で言ってたのに」
「…俺ここにいたらハチさん風呂入れないじゃん」
「なんで?」

元々水泳部だし更衣室使えない大会とか普通にあったし。
ちょっと意地悪してやろうって気持ちはあった。

「ちょっと待って躊躇なく脱ぐのやめてください」

シャツは張り付いて気持ち悪いし、下着に染み込んだ水分が脚を伝った感覚があるし。

「気にしなくていいよ、勝手に入るから」
「…襲われても文句言わないでくださいね」

それはあの銀色に関係することだろうか。
うるさい脱水機、聞こえないフリをしてもよかったのだけど。

「…何?準備してこいってこと?」
「違っ!潤滑剤もないのにできるわけないじゃん!」

隠れたいと言わんばかりに、水の滴る前髪を懸命に撫で付けながら、出て行こうとするモモのシャツを掴む。
耳が赤い。

「はい、居間か部屋でドライヤーしてて」
「…もうっ!」

渡したドライヤーを片手にさっさと出て行ってしまった、モモの少し怒った顔が見られて満足だった。
意趣返しにはなったかな。

濡れて張り付く衣類を脱ぎ捨て、洗濯機に放り込む。
湿った足の指先がプール後のようにダルい。


リフォームしたばかりのこの浴室の中。
綺麗に流されて泡の一つも残っていない、樹脂タイルの床。
古ぼけた冷たいタイルの床も好きだったけど。
剥き出しだったコンクリートの壁もつるつるとした壁に変わり、どことなく寂しさも滲む。

あのひとの思い出が一つずつこの家からもなくなっている。

なのに微かに残る湯気の中に、オレの気に入っているシャンプーの匂いがする。
塵一つ浮かない湯船。
モモはシャワーだけで済ましてしまったのだろう、オレもそうしよう。

濡れた髪の隙間から、温かい湯が染み込んでくる。
最後に髪を切ったのはいつだったろうか。
洗うのも乾かすのも面倒なこの髪。
たぶん、この傷んだ毛先は、あのひとを覚えてる。

この爪も肌もとっくに生まれ変わってしまった。
何度も反芻してきた、肌に触れられたあの感覚も、信憑性は低くなったなと、思うのだけど。

喧しい脱水機が、軽快な音と共に止まった。
首筋に乗せた泡がパチパチ弾ける向こう側で、ドライヤーの音がする。


もう何も考えたくない。
何か楽しい事だけ考えたい。
あ、そうだ課題…どうしようか…。

泡という泡を流し切り、タオルで雑に身体を拭う。
結局今の自分にとって大事なのは、楽しい事ではなく課題なのだという、なんとも言えない虚無感だけが残ってしまった。


モモの服は明日までに乾かさなければいけない。
洗濯してしまおうと、洗濯機にかけられていたモモの服をドラムに突っ込んで違和感を覚えた。
濡れたジャージ生地の向こう側に、カラカラという音がする。

「…こんなん食ってたのかよ」

小さな缶に大きく書かれたCAFFEINの文字。
ミントタブレットだと思い込んでいた。
一粒100mg程度、今日モモは何回食べてた?

そんな事も覚えていない自分の間抜けさに腹立つ。
古い廊下が軋む音がして間もなく、ドアが叩かれた。

「開けていいですか?」
「いいよ」
「…服着て!」
「着てんじゃん」
「下着は服に含まれねーんだよ」

押し付けてきたドライヤーを受け取る。

「んな事言ったら水泳は地上波で放送されなくない?夏場パンイチで過ごさないの?」
「水着と下着は違うし、絶対ない」
「まじか…タオルもういい?ついでに洗う」

仕方ないから短パン履いて、モモから渡された湿ったタオルを洗濯機に放り込んで。

「夕飯準備できたから呼んできてって言われたんです」
「ありがと、靴干したら行くから先食べてて…って、気まずい?」
「…まあぼちぼち。俺が靴干すから一緒に行きましょう」
「髪乾かしてないんだよなぁ」
「居間で乾かして」

シューズハンガーを指差せば、モモは勝手に脱水機から靴を取り出して、オレのしてやりたかったことを完結させてしまう。

「勝手口のとこに下げといて」

長い廊下は静かで暗い。
居間の方から家族の声は聞こえるけれど、どこか取り残された気分になる。

「ここでいいですか?」

古い蛍光灯で照らされた、勝手口。
ドアの明り取りから見える向こう側は漆黒。

その上に設置された簡易の物干しに、モモは片方だけ突っかけを履いて靴を干す。

横着してるな、と思いつつ。
その靭やかに伸びる手足が、陸の生き物であることを造形から訴えてくる。

「モモ、これ返しとく」

無防備に晒される膝裏の筋が、なぜか見てはいけないような気にさせて。

モモのポケットへ、カフェインタブレットの缶を滑り込ませてやる。
カランと小さく音を立てたそれに、モモは何だか気付いたようだった。

「忘れてた、ありがとうございます」
「…昨日何時間寝られた?」
「さあ?ハチさんの枕が合わなかったので」
「よく言うわ、そこ電気消しておいて」

踵を返して居間に向かう。

「ハチさん、コード引き摺ってますよ」
「拾って」
「わがまま」

いつもならオレの後をついて歩く奴なんていないし、なんならドライヤーを持ち歩くこともない。

「そう、オレ基本自己中なんだわ」
「…それは構ってちゃんって言うんですよ」


居間に揃う家族。
母さんがモモを引っ張ってパパっと座らせる。

モモがコードを手放さなかったからオレも着座してしまった。

「モモくんありがとうねぇ、本当に助かった!」

バイト最終日の夕飯、モモが好きだと言っていた唐揚げが乗った座卓。
明日帰る前に保存容器に入れて少し持たせてもらおう、そう思う程の量。
モモはたくさん食べるのでさぞ母さんは楽しかったのだろう。

「合宿みたいですね」
「ほんとにな、見てるだけで胃もたれしそう」

とは言え他は、あまり代わり映えもないいつもの食卓。
両親と祖父母は繋げたもう一方の座卓で早々に酒盛りし始めた。

「美味しい」
「良かったな」

モモの背筋は育ちの良さが伺える。
学校の昼休みとは違う、いかにも好青年みたいな丁寧な所作。

一方のオレは目元はまだ怠いし、失った水分を求めるように水ばかり飲んでしまう。

「モモ眠い?」
「ハチさんも目が死んでますよ」
「課題終わらない絶望」
「仕方ないなぁ」

年季の入った紫檀の下でスマホを弄るモモ。
オレのズボンが振動したので確認したかったのだけど。

「俺です。後で見て下さい」

そう言って畳に縫い留められる手。

「食べらんないんだけど」
「ほとんど食べてないくせに」
「なに送ったの?」
「レポートのテーマと概要まとめたやつ」
「最高」

いつもはオレの方が体温が高いのに。

「トマト取って」
「何個?」
「ぜんぶ」

茶碗も汁椀も寄せて、艶々の赤が入っただけの硝子の皿を目の前で独占する。

「子供みたいなことして…」
「右手が使えないから仕方なくない?そら豆とベビーコーンとアスパラも取って」
「お皿ごと?」
「うん、ぜんぶ」
「暴君じゃん」

右手が熱い。
振り払えないから只管食べるしかない。
余計なこと言いそうだから。

「ハチさんは食に対する興味が薄いんだと思ってました」
「そう?」
「逆なんですね」
「偏食気味なのは認める」

モモの指先が、少し欠けた爪をなぞって、そのまま押し潰すように圧をかけてくる。
何してんの?

「ヤサク!またトマト囲ってるの!」

母さんの呆れ声にふたりで肩を揺らす。

モモは姿勢を少しだけ正して、何事もなかったかのように茶碗を持ち上げる。
その左手がほんの少し前までオレの手を支配していたのだと、知ってるのはたぶん、ふたりだけ。

なのにどうして、誰か、気付いて欲しい。