「なんでボッチやってんの?去年から?」
「正確には1年と半年前からですね」
「え、1年の頃から?よく頑張ってんな…」
理由まで聞いてこないけど、顔が知りたがってるそれ。
留年と休学のコンボを決めた新しいクラスメイトの彼は、学年の事情に疎い。
「クラスのあの綺麗な子、元カノなんですけど」
「おお…あの子…」
「試しでいいからと言われたけれど好きになれず、協議を重ねて別れてもらいました」
「情報量がやばい」
「以降クラスの腫物扱いですね」
「やっちまった感あるな」
埃一つもない、しっかりと管理された準備室。
「…そんでゲイだって噂流されたの?」
「もう知ってるんですね…でも強ち間違いじゃないかもしれなくて」
「うん?」
「男が好きなのかもしれない」
高価な器具をガサツに扱う彼、小暮八朔の顔はよく見えない。
「ふーん…」
「引きました…?」
「いや、別にいいんじゃね?」
彼は、そのくたびれた作業着の襟に隠れるようにしながら。
「俺も彼氏いたし…」
空調に揺れる傷んだ毛先を、暗幕から差し込んだ光で頼りなさげに輝かせた。
廊下側の1番後ろ、それが今年の定位置。
去年は廊下側から2番目の最前席だった。
一人減ったことを、こういう形でしか知れない俺。
本来なら持ち上がりの学級で5年間。
面子が変わるということは、上が留まったか、上がれなかったか。
どちらにせよ単位が足りなかったのだろう。
「柑橘類好き?」
「好きです」
「じゃあお裾分け」
八朔と書いてヤサク、と読む彼の名前。
隣同士の席。しかも浮いてる。
自然と一緒に昼食をとるようになった俺たち。
「ありがとうございます」
手のひらに収まる小ぶりなみかん。
彼からいつも、青味がかった匂いがする理由はこれだった。
「名前…珍しいですよね」
「まず一発じゃ読まれないからな」
「何か特別な由来があるんですか?」
そのしっかりとした厚みのある指先が、みかんの背中に深く差し込まれる。
途端に広がる、刺激のある甘い匂い。
「そんなんないよ。母さんが妊娠中、ハッサクしか受けつけなかったからだって」
「ああ…なるほど?」
「オレは柑橘類よりバラ科の果物が好きなんだけどさ」
笑う彼の口元に、濃い橙色が幾度も消えていく。
バラ科。確か、プラムとか…?
検索しようとスマホをつつくと、彼は爽やかな匂いの唇を親指で拭いながら。
「ラズベリーとか、桃とかね」
と付け加えた。
その親指も恐らく、とてもいい匂いがするのだろう。
「それで、君はなんでモモなの?」
「ひいじいちゃんが百寿の時に生まれたから」
「背負わされてんね」
「まじ笑えなくて、弟は危うく茶になるとこだったんスよ…」
一瞬きょとんとして、それから声をあげて笑う彼。
いつも穏やかに下がっている目尻に乗った、艶々した眼球が細められて、薄っすらと潤む。
「いや不謹慎、笑ってごめんな」
「いえ別に…思い出すことが供養って言われてるんで」
「へえ、いい家族」
ぼっちな俺と、ダブりの異端。
そんな腫物扱いな俺らが談笑していることに、違和感を覚えたクラスの視線が集まるが、気にならなかった。
それでも、なんとなく、無防備に笑うこの人を見られたくない。
「そろそろ体育館行きます?」
「んー…昼休み後の体育って嫌いなんだよ…みかん出てきそう」
「今日の体力測定、50メートル走ですよ」
「詰んでるわ、手洗ってくる」
プラケースを片付けながら立ち上がる小暮さんの、俺より出来上がっているはずの骨格。
なのに薄い。
このまま果物ばかり摂り続けたら、いつか仙人になりそう。
人体の肉体的ピークは25歳らしいから、この人もいつか厚くなるのだろうか。
ならなさそう。
「櫻井…?誰?」
ふと、気付いてしまった。
指定のダサいジャージ、そのウエストゴムの所に刺繍された、“櫻井”の二文字に違和感を覚える。
「あー…先輩のお下がり」
明らかにサイズが合ってないのは、この田舎あるあるなので別に変じゃない。
それより気になったのは、その、探らないで、とでも言いたげな口調だった。
何か気に障ることを言ってしまっただろうか?
嫌な汗が、手のひらにじんわりと滲んで思わず、きつく握り締める。
「お待たせ、行こうか」
それでも手を洗って戻ってきた小暮さんは、いつも通りで少し安心した。
「雨だったらよかったのに」
甘酸っぱい匂いがしていたはずの小暮さんの指先が、地面の砂に筋を描く。
午前中にチラッと教師が話してたフーリエ級数の数式だと、解説されてやっと分かった。
「…延期になるか体育館で走らされるだけですよ」
体育館含む、移動教室は嫌いだった。
誰かと組むことを強制される授業の方が孤独感はある。
けれど一人で歩く廊下は、俺がボッチであることをあらゆる人間に知られてしまうから。
「湿気の体育館の方が俺は嫌いですね」
それが、今は、小暮さんが、隣にいて。
移動教室も、ペア組のある授業も、なんの苦にもならなくなった。
「それはそうだけどさ」
心細い学校生活だったこと、それを自覚させられるのはしんどい。
でもそれ以上に絶対的な安心感がある。
「オレ走るのほんと無理なんだよ…」
元々勉強好きなガリ勉みたいなのが集まるこの特殊な環境、スポーツに打ち込んできた生徒は元より少ない。
基本的に好きなようにやらせてくれる体育。
「俺はそんなに嫌いじゃないんですよね…じゃあお先に」
最初に判断基準を明確にしてくれているので、そこさえクリアしていれば単位は確実にもらえる。
昨年まで俺は出席日数下限ギリギリだったけど。
「次、位置について」
出席番号順の測定。
静まる周囲と、フェンスの向こう側で聞こえる、自動車のエンジン音。
空気を切り裂く電子ホイッスル。
脚がダルくなるまで走るのも嫌いじゃない。
「一ノ瀬君」
走り終わって一息吐いていた所、呼ばれて振り返る。
俺のことを君付けで呼ぶのは教員しかいない。
「小暮君と仲いいの?」
「うん、まあ」
「よかった。一ノ瀬君運動得意でしょ、もっと楽しいこと考えるから出席してね」
良かった、というのは、俺に対してなのか、小暮さんに対してなのか。
兎も角、組む奴がいるなら出席日数で呼び出す手間が省ける…とでも言ったところだろうか。
「ダル…」
相変わらず響くホイッスル。
何回か後になって順番が来て、その合図で走り出す小暮さん。
出だしは滅茶苦茶速いのに、失速するのも早かった。
ゴール手前で諦めてるなって感じに上を向いた頭。
ここからだとその旋毛がよく見える。
「速いじゃん、脚…オレ恥ずかしいんだけど」
レーンの中腹あたり、日陰になったフェンスの基礎。
ヨロヨロと歩いてきた小暮さんが、当たり前のように俺の隣に腰を降ろす。
「ぼちぼちですよ、最後以外は頑張って走ってましたね」
「見透かすなよ…」
ジャージの上衣を脱ぎ捨てた小暮さんの、体操服から薄っすらと透ける黒いタンクトップ。
大きく上下する胸板。
「大丈夫?」
「全然ダメ、若さが足りない」
「人間の体力的ピークは17歳らしいですよ」
「人体の設計ミスってるよな」
よくある柔軟剤と、汗の混じった、なんとも言えない、いい匂い。
匂いは分子なので、ソレが分かるということは俺の身体が分子レベルで小暮さんを受容しているということなのだけど。
「次、投球するって」
「肩ならなんとかいけるかも」
立ち上がって伸びる背中。
思っていたよりもしっかりとした上腕と肩幅。
「…水泳してた?」
「正解、凄いな」
「スタートだけめっちゃ速かったので」
「そう言う足の速い…いちのせ、くんは?」
彼は滅多に俺を呼ばないけれど、呼ぶときはいつも必ず顔が引き攣る。
「モモでいいっスよ、好きなんでしょ?」
小暮さんが心底驚いた顔をする。
ああ、滅茶苦茶恥ずかしいこと言ってしまった俺。
「あの、桃、くだっ、果物のね?因みに俺はずっとバスケしてました…」
少し口角を上げた口元を、シャツの襟ぐりで隠しながら肩を揺らす小暮さん。
「オレのことも適当に呼んで」
前の同級生はサクって呼んでるよ、と言われたけれど。
なんか、別なのが、いい。
「…ハッサクさん?」
「それは正式名より圧倒的に呼ばれてきたヤツね」
まあそうだろうね。
「…じゃあハチさんで」
「お、いいよ」
その反応は、誰か他の人を思い浮かべたのだろう。
