廊下側の一番後ろ、それが今年の定位置となる。
春は憂鬱だった。
いや、季節に限った話ではなく、休み明けはいつだって憂鬱なのだけど。
…どこからか、微かに、青味がかった甘い匂いがする。
「進級に伴い、少し顔ぶれにも変更があるが、上手くやるように」
3年の新学期、担任はそう言ってホームルームを終わらせた。
本来なら持ち上がりの学級で5年間。
面子が変わるということは、上が留まったか、上がれなかったか。どちらにせよ単位が足りなかったのだろう。
去年は廊下側から二番目の、一番前だった。
一人減ったことを、こういう形でしか知れない俺。
そして隣席に全く知らない顔が座っている事も、今日初めて俺は知った。
自己紹介という名の公開処刑。
それをさせない分、担任は扱いづらい年頃の俺らに対して誠実なのかもしれない。
ただ、隣席の俺には何かしら、一言くらい、あってもいいのではないだろうか。
息の詰まりそうな、騒がしくなった休み時間、ボッチな俺は新学期早々持ち込んだテキストを開くだけ。
何度読んだか分からない文字の羅列、それでも、俺と嫌々組んだペアに、無様な姿は見せられない。
だからこそ、気持ち悪いと影で言われる程に隅々まで頭に叩き込むのだ。
「ねえ」
廊下側から二番目の、一番後ろの席。
このクラス唯一の新しい顔である彼が、話しかけているのは、俺しかいない。
「担任変わったの?」
「あー…、そうッス。2年の時に。休職して大学院いってるらしいです」
そう言えば、この人。
去年の縦割りの体育祭でも見なかった。
「オレ休学してて、2学年下になっちゃってさ」
マジか、珍しい。学業不振なら大抵退学してるのに。
「浦島太郎状態なんだよね」
だから色々教えてな、という彼は、自身を小暮八朔と名乗った。
玉手箱の代わりに、俺の手のひらに艶々とした柑橘類を押し付けながら。
八朔と書いてヤサク、と読む彼の名前。
隣同士の席故に、自然と一緒に昼食をとるようになった俺たち。クラスメイト以上友達未満と言ったところだろうか。
そろそろ少し踏み込んでみてもいい頃のはず。
その珍しい名に、何か特別な由来があるのかと聞いてみた。
「いや、母さんが妊娠中、八朔しか受けつけなかったから」
「ああ…なるほど?」
「オレは柑橘類よりバラ科の果物が好きなんだけどさ」
そう言いながら小暮八朔は濃い橙色を頬張る。
バラ科。確か、プラムとか…?
そう思ってスマホをつつくと、彼は爽やかな匂いの唇を親指で拭いながら。
「ラズベリーとか、桃とかね」
と付け加えた。
「それで、君はなんでモモなの?」
「ひいじいちゃんが百寿の時に生まれたから」
「背負わされてんね」
「まじ笑えなくて、弟は危うく茶になるとこだったんスよ…」
一瞬きょとんとして、それから声をあげて笑う。いつも穏やかに下がっている目尻に乗った、艶々した眼球が細められて、こんな風に笑うんだ、と思った。
「いや不謹慎、笑ってごめんな」
「いえ別に…思い出すことが供養って言われてるんで」
「へえ、いい家族」
ぼっちな俺と、ダブりの異端。
そんな腫物扱いな俺らが談笑していることに、違和感を覚えたクラスの視線が集まるが、気にならなかった。
それでも、なんとなく、無防備に笑うこの人を見られたくない。
「そろそろ体育館行きます?」
「んー…昼休み後の体育って嫌いなんだよ…みかん出てきそう」
「今日の体力測定、50メートル走ですよ」
「詰んでるわ、手洗ってくる」
プラケースを片付けながら立ち上がる小暮さんの、俺より出来上がっているはずの骨格。なのに薄い。このまま果物ばかり摂り続けたら、いつか仙人になりそう。
人体の肉体的ピークは25歳らしいから、この人もいつか厚くなるのだろうか。
ならなさそう。
「櫻井…?誰?」
指定のダサいジャージ、そのウエストゴムの所に刺繍された、“櫻井”の二文字に違和感を覚える。
「あー…先輩のお下がり」
明らかにサイズが合ってないのは、この田舎あるあるなので別に変じゃない。
それより気になったのは、その、探らないで、とでも言いたげな口調だった。
「お待たせ、行こうか」
それでも手を洗って戻ってきた小暮さんは、いつも通りで少し安心した。
「雨だったらよかったのに」
体育館含む、移動教室は嫌いだった。
誰かと組むことを強制される授業の方が孤独感はあるけれど、一人で歩く廊下は俺がボッチであることをあらゆる人間に知られてしまうから。
「湿気の体育館の方が俺は嫌い」
それが、今は、小暮さんが、隣にいて。
俺がどんなに心細い2年間を過ごしてきたのか、それを自覚させられるのはしんどいものがある。けれど、それ以上に絶対的な安心感がある。
「それはあるけど、オレ走るのほんと無理」
元々勉強好きながり勉みたいなのが集まるこの特殊な環境で、がっつりスポーツに打ち込んできた生徒は少ない。
提出の必要がある体力テストは兎も角、基本的に好きなようにやらせてくれる体育。
「俺はそんなに嫌いじゃないんですよね…じゃあお先に」
最初に判断基準を明確にしてくれているので、そこさえクリアしていれば単位は確実にもらえる。GPAをあげるには、ここが一番効率的だ。
昨年まで俺は出席日数下限ギリギリだったけど。
「次、位置について」
出席番号順の測定。
静まる周囲と、フェンスの向こう側で聞こえる、自動車のエンジン音。
空気を切り裂く電子ホイッスル。
「速いじゃん、脚…」
「ぼちぼちですよ」
戻ってきた俺に小暮さんが嫌そうに言ってくる。
タイムを自己申告し、小暮さんどんなフォームで走るんだろうかと思いながら翻った瞬間。
「一ノ瀬君」
こっそりと呼ばれて振り返る。
オレのことを君付けで呼ぶのは教員しかいない。
「小暮君と仲いいの?」
「うん、まあ」
「よかった。一ノ瀬君運動得意でしょ、もっと楽しいこと考えるから出席してね」
良かった、というのは、俺に対してなのか、小暮さんに対してなのか。
兎も角、組む奴がいるなら出席日数で呼び出す手間が省ける…とでも言ったところだろうか。
「ダル…」
相変わらず響くホイッスル。
何回か後になって順番が来て、その合図で走り出す小暮さん。
出だしは滅茶苦茶速いのに、失速するのも早かった。
「大丈夫?」
「全然ダメ、若さが足りない」
「人間の体力的ピークは17歳らしいですね」
「人体の設計ミスってるよな」
ヨロヨロ戻ってきた小暮さんが、当たり前のように隣に腰を降ろす。
よくある柔軟剤と、汗の混じった、なんとも言えない、いい匂い。
匂いは分子なので、ソレが分かるということは俺の身体が分子レベルで小暮さんを受容しているということなのだけど。
「次、投球するって」
「肩ならなんとかいけるかも」
ジャージの上衣を脱ぎ捨てた小暮さんの、体操服から薄っすらと透ける黒いタンクトップ。
そして思っていたよりもしっかりとした上腕と肩幅。
「…水泳してた?」
「正解、凄いな」
「スタートだけめっちゃ速かったので」
「そう言う足の速い…いちのせ、くんは?」
小暮さんは滅多に俺を呼ばないけれど、呼ぶときはいつも必ず顔が引き攣る。
「モモでいいっスよ、好きなんでしょ?」
小暮さんが心底驚いた顔をする。
ああ、滅茶苦茶恥ずかしいこと言ってしまった俺。
「あの、桃、くだっ、果物のね?因みに俺はずっとバスケしてます…」
少し口角を上げた口元を、シャツの襟ぐりで隠しながら肩を揺らす小暮さん。
「オレのことも適当に呼んで」
前の同級生はサクって呼んでるよ、と言われたけれど。
なんか、別なのが、いい。
「…ハッサクさん?」
「それは正式名より圧倒的に呼ばれてきたヤツね」
まあそうだろうね。
「…じゃあハチさんで」
「お、いいよ」
その反応は、誰か他の人を思い浮かべたのだろう。
春は憂鬱だった。
いや、季節に限った話ではなく、休み明けはいつだって憂鬱なのだけど。
…どこからか、微かに、青味がかった甘い匂いがする。
「進級に伴い、少し顔ぶれにも変更があるが、上手くやるように」
3年の新学期、担任はそう言ってホームルームを終わらせた。
本来なら持ち上がりの学級で5年間。
面子が変わるということは、上が留まったか、上がれなかったか。どちらにせよ単位が足りなかったのだろう。
去年は廊下側から二番目の、一番前だった。
一人減ったことを、こういう形でしか知れない俺。
そして隣席に全く知らない顔が座っている事も、今日初めて俺は知った。
自己紹介という名の公開処刑。
それをさせない分、担任は扱いづらい年頃の俺らに対して誠実なのかもしれない。
ただ、隣席の俺には何かしら、一言くらい、あってもいいのではないだろうか。
息の詰まりそうな、騒がしくなった休み時間、ボッチな俺は新学期早々持ち込んだテキストを開くだけ。
何度読んだか分からない文字の羅列、それでも、俺と嫌々組んだペアに、無様な姿は見せられない。
だからこそ、気持ち悪いと影で言われる程に隅々まで頭に叩き込むのだ。
「ねえ」
廊下側から二番目の、一番後ろの席。
このクラス唯一の新しい顔である彼が、話しかけているのは、俺しかいない。
「担任変わったの?」
「あー…、そうッス。2年の時に。休職して大学院いってるらしいです」
そう言えば、この人。
去年の縦割りの体育祭でも見なかった。
「オレ休学してて、2学年下になっちゃってさ」
マジか、珍しい。学業不振なら大抵退学してるのに。
「浦島太郎状態なんだよね」
だから色々教えてな、という彼は、自身を小暮八朔と名乗った。
玉手箱の代わりに、俺の手のひらに艶々とした柑橘類を押し付けながら。
八朔と書いてヤサク、と読む彼の名前。
隣同士の席故に、自然と一緒に昼食をとるようになった俺たち。クラスメイト以上友達未満と言ったところだろうか。
そろそろ少し踏み込んでみてもいい頃のはず。
その珍しい名に、何か特別な由来があるのかと聞いてみた。
「いや、母さんが妊娠中、八朔しか受けつけなかったから」
「ああ…なるほど?」
「オレは柑橘類よりバラ科の果物が好きなんだけどさ」
そう言いながら小暮八朔は濃い橙色を頬張る。
バラ科。確か、プラムとか…?
そう思ってスマホをつつくと、彼は爽やかな匂いの唇を親指で拭いながら。
「ラズベリーとか、桃とかね」
と付け加えた。
「それで、君はなんでモモなの?」
「ひいじいちゃんが百寿の時に生まれたから」
「背負わされてんね」
「まじ笑えなくて、弟は危うく茶になるとこだったんスよ…」
一瞬きょとんとして、それから声をあげて笑う。いつも穏やかに下がっている目尻に乗った、艶々した眼球が細められて、こんな風に笑うんだ、と思った。
「いや不謹慎、笑ってごめんな」
「いえ別に…思い出すことが供養って言われてるんで」
「へえ、いい家族」
ぼっちな俺と、ダブりの異端。
そんな腫物扱いな俺らが談笑していることに、違和感を覚えたクラスの視線が集まるが、気にならなかった。
それでも、なんとなく、無防備に笑うこの人を見られたくない。
「そろそろ体育館行きます?」
「んー…昼休み後の体育って嫌いなんだよ…みかん出てきそう」
「今日の体力測定、50メートル走ですよ」
「詰んでるわ、手洗ってくる」
プラケースを片付けながら立ち上がる小暮さんの、俺より出来上がっているはずの骨格。なのに薄い。このまま果物ばかり摂り続けたら、いつか仙人になりそう。
人体の肉体的ピークは25歳らしいから、この人もいつか厚くなるのだろうか。
ならなさそう。
「櫻井…?誰?」
指定のダサいジャージ、そのウエストゴムの所に刺繍された、“櫻井”の二文字に違和感を覚える。
「あー…先輩のお下がり」
明らかにサイズが合ってないのは、この田舎あるあるなので別に変じゃない。
それより気になったのは、その、探らないで、とでも言いたげな口調だった。
「お待たせ、行こうか」
それでも手を洗って戻ってきた小暮さんは、いつも通りで少し安心した。
「雨だったらよかったのに」
体育館含む、移動教室は嫌いだった。
誰かと組むことを強制される授業の方が孤独感はあるけれど、一人で歩く廊下は俺がボッチであることをあらゆる人間に知られてしまうから。
「湿気の体育館の方が俺は嫌い」
それが、今は、小暮さんが、隣にいて。
俺がどんなに心細い2年間を過ごしてきたのか、それを自覚させられるのはしんどいものがある。けれど、それ以上に絶対的な安心感がある。
「それはあるけど、オレ走るのほんと無理」
元々勉強好きながり勉みたいなのが集まるこの特殊な環境で、がっつりスポーツに打ち込んできた生徒は少ない。
提出の必要がある体力テストは兎も角、基本的に好きなようにやらせてくれる体育。
「俺はそんなに嫌いじゃないんですよね…じゃあお先に」
最初に判断基準を明確にしてくれているので、そこさえクリアしていれば単位は確実にもらえる。GPAをあげるには、ここが一番効率的だ。
昨年まで俺は出席日数下限ギリギリだったけど。
「次、位置について」
出席番号順の測定。
静まる周囲と、フェンスの向こう側で聞こえる、自動車のエンジン音。
空気を切り裂く電子ホイッスル。
「速いじゃん、脚…」
「ぼちぼちですよ」
戻ってきた俺に小暮さんが嫌そうに言ってくる。
タイムを自己申告し、小暮さんどんなフォームで走るんだろうかと思いながら翻った瞬間。
「一ノ瀬君」
こっそりと呼ばれて振り返る。
オレのことを君付けで呼ぶのは教員しかいない。
「小暮君と仲いいの?」
「うん、まあ」
「よかった。一ノ瀬君運動得意でしょ、もっと楽しいこと考えるから出席してね」
良かった、というのは、俺に対してなのか、小暮さんに対してなのか。
兎も角、組む奴がいるなら出席日数で呼び出す手間が省ける…とでも言ったところだろうか。
「ダル…」
相変わらず響くホイッスル。
何回か後になって順番が来て、その合図で走り出す小暮さん。
出だしは滅茶苦茶速いのに、失速するのも早かった。
「大丈夫?」
「全然ダメ、若さが足りない」
「人間の体力的ピークは17歳らしいですね」
「人体の設計ミスってるよな」
ヨロヨロ戻ってきた小暮さんが、当たり前のように隣に腰を降ろす。
よくある柔軟剤と、汗の混じった、なんとも言えない、いい匂い。
匂いは分子なので、ソレが分かるということは俺の身体が分子レベルで小暮さんを受容しているということなのだけど。
「次、投球するって」
「肩ならなんとかいけるかも」
ジャージの上衣を脱ぎ捨てた小暮さんの、体操服から薄っすらと透ける黒いタンクトップ。
そして思っていたよりもしっかりとした上腕と肩幅。
「…水泳してた?」
「正解、凄いな」
「スタートだけめっちゃ速かったので」
「そう言う足の速い…いちのせ、くんは?」
小暮さんは滅多に俺を呼ばないけれど、呼ぶときはいつも必ず顔が引き攣る。
「モモでいいっスよ、好きなんでしょ?」
小暮さんが心底驚いた顔をする。
ああ、滅茶苦茶恥ずかしいこと言ってしまった俺。
「あの、桃、くだっ、果物のね?因みに俺はずっとバスケしてます…」
少し口角を上げた口元を、シャツの襟ぐりで隠しながら肩を揺らす小暮さん。
「オレのことも適当に呼んで」
前の同級生はサクって呼んでるよ、と言われたけれど。
なんか、別なのが、いい。
「…ハッサクさん?」
「それは正式名より圧倒的に呼ばれてきたヤツね」
まあそうだろうね。
「…じゃあハチさんで」
「お、いいよ」
その反応は、誰か他の人を思い浮かべたのだろう。
