返却処理の済んだ本を台車に載せる。大判の書物が一冊と、文庫本が数冊。
紅葉が図書委員に入ったのは転校してきた先月からだ。同じ曜日に当番に入っているはずの副委員長は、今日の放課後も姿を見せない。
図書室ではなく図書館と呼ばれるこの別棟は、ほかの特別教室に比べ格段に広い。錆の浮いた台車は押すと軋んだ音を立て、歩き出すと足元からも重みに耐えかねるように床が鳴いた。
窓の外では激しく雨が降りしきっていた。返却された本の元の置き場所を探しながらも、気づくと雨音につられるように視線が窓を向く。
濁流のように雨水が伝う硝子の向こうは濛々としていた。緞帳のような雨景色に、時折風に吹かれてか波打つような影が現れては消える。今月に入ってからこのかた、学園にいて晴れ間を拝んだためしはなかった。雨月とは陰暦五月の異名だがその名にたがわず、雨雲は絶えることなく上空で渦巻いている。
ふと、外から何かが聞こえた気がした。
雨滴が木々や地面にたたきつけられる音。それらの合間。
呆っとしていたことに気づき、紅葉は慌てて書棚へと意識を戻した。利用する生徒がほとんどおらず仕事も少ないからと言って、いつまでもここでのんびりしていたいわけでもない。
それに。
梅雨の時期は、何か聞こえても窓の外をあまり見てはいけない。
そういったのはまだきちんと当番に来ていた頃の副委員長だ。紅葉に作業内容の説明をすると、彼自身は受付台の中で本を読んでいるのが常だった。必要なこと以外ではあまり口を開かない人なのだと思っていたため、珍しいことだと驚いたのを紅葉は覚えている。
そんな記憶がよみがえったのもあり、なおさら早く図書委員の仕事を終えたくなった。本の返却作業が終わっても所定の時間まで受付台にいなければいけないが、適当に何か本をめくっていたほうが少なくとも書架の立ち並ぶ薄暗い空間にいるよりかはましだろう。
そう思ってからは窓の外に気を取られることもなく迅速に本を棚に戻し、冊数も大してなかったため早々に紅葉は台車を押して受付台へと戻ってきた。いつものことだが、雨天だとしても利用者が来ることもなく図書館内はがらんとしている。
何気なく長机が配置された室内を見渡し、違和感に目が留まった。
入り口近くにある受付台とは反対の窓際で、向かって一番右。その一つの窓だけ塗りつぶされているように暗いのだ。悪天候の上風も強いため、近くの木から枝が折れて飛んできたのかもしれない。遠すぎて詳細は分からないものの、視界に入るため一度気づくとやたらと気になった.受付台のそばで迷うようにしばらく佇んでいたが、どうせなら窓掛も閉めてきてしまおうと思い立ち、紅葉は窓側のほうへ歩き出した。その時だ。
壁掛けの拡声器から点いたばかりの独特の低波周が流れ、次いでざざ、ざ、と雑音が混じった放送が始まった。
放課後は基本的に決まった時間にチャイムが流されるだけだ。何事だと紅葉は足を止め、受付台背後の壁を見上げる。
「紅葉ト鹿。直チニ特別教室ニテ召集セヨ」
「紅葉ト鹿。直チニ特別教室ニテ召集セヨ」
「紅葉ト鹿。直チニ特別教室ニテ召集セヨ」
男とも女ともつかない奇妙な声の放送は、同じ文言をきっかり三度繰り返すとぶつりと切れた。
紅葉と鹿。そのうち紅葉というのが、転校してきた初日に任命されたとある役職での名前だ。その時も大した説明はされなかったが、花骨牌になぞらえた名前の通り、紅葉に順番が回ってくるのは神無月だったはず。
浮かんでくる疑問と同時に、放送で呼ばれたもう一人―--鹿のことを思い出し、紅葉は小さくため息を漏らした。別の学級のため関わることはあまり無いが、彼との最初のやり取りは穏便とは言えないものだった。正直なぜそのような態度をとられたのか紅葉には心当たりもない。彼とともに役目をこなすのはまだ先になると踏んで、紅葉としてもそれまでにどうにかできればいいや、くらいに思っていたのだ。まさか一か月もしないうちに顔を合わさないといけないとは想像していなかった。
時計を確認すると、図書館の閉館には三十分ほど早い。しかし、このまま開けていても普段通り誰も来ないだろう。放送では直ちに来いと言われていたが、どれくらい時間がかかるか分からないなら先に閉めてしまったほうがいい。呼び出しに応じるのが億劫な気持ちを後押すようにそう結論付け、紅葉は閉館作業を開始する。とはいっても消灯と施錠するくらいなので大して時間稼ぎにはならない。
館内を簡単に見回り、誰もいないのを確認してから蛍光灯の電源を落とす。扉から出る前に一度振り返ったが、雨が降っていても尚、書架が濃く影を落とす室内よりも外のほうが僅かに明るかった。青みがかった仄暗い光が水底のように床や長机を照らしている。
先ほど一つだけ黒く塗りつぶされていたように見えた右端の窓も、今ではもうそのような異変は見えなかった。ほかの窓と変わらず外の雨景色を映し出している。
そのまま図書館の外に出て、後ろ手に扉を閉めた。心なしか雨音は遠くなった気がした。
学園は、本校舎の両端にそれぞれ体育館、旧校舎がコの字を書くように位置しており、図書館は本校舎と体育館の間に建っていた。
放送で呼び出されていた特別教室というのは旧校舎に存在し、図書館から本校舎へと入った紅葉は東西に長い回廊の反対側を目指して足を踏み出す。そのまま直行してもよかったが、中央階段に差し掛かると少し迷った末に二階へと上がることにした。
本校舎の二階は一年生の教室が並ぶ。先月、転校初日の放課後に鹿が紅葉の学級へとやってきて、二人で特別教室まで向かった。そこで公にはなっていないが存在するという委員会の役目を任命され、その帰りに何故か鹿からは、紅葉の転校生としての挨拶を跳ねのけられたわけだ。
あの時の鹿の態度から、今回は別々に向かったほうがいい気もするが、とりあえず学級にまだ鹿がいるかどうかくらいは見てから行ったほうがいいかと思ったのだ。
図書館からここに来るまではほとんど生徒を見かけなかったものの、二階に上がると廊下でも数人とすれ違った。各教室の扉上に掲げられた表札を見ながら紅葉は進む。一組、二組、三組。そして、鹿のいる四組。
四組の教室は消灯されていたが、屋外の雨音にまぎれて楽しそうなざわめきが廊下にいる紅葉にも聞き取れた。
雨天によって活動中止になった部活も多いのかもしれない。放課後とはいえ教室内にはまだ何人かが残っており、その集まりが孤島のように点在していた。
教卓側の入り口から中を覗いた紅葉は、尋ね人を無数の人影の中に探す。昼間とは違い、放課後はどこか遠慮したように生徒たちの喧騒も控えめになりがちだが、この学級は違う。特に窓際の集団は姦しく、さらにどっと沸き立ったため自然と紅葉の視線もそちらに引き寄せられた。
「…いた」
五、六人の男子生徒がたむろしており、整然と並んだ机と椅子がそこだけ無秩序に乱れていた。
その中心には、机に乗り上げ長い足を椅子の背もたれに投げ出している少年。ケラケラと大口を開けて笑う横顔を見とめ、紅葉はそっと教室の中へと足を踏み入れる。
一列机を挟んだところまで近づいても、くだんの集団は誰も紅葉には気づいていないようだった。
「…―--●●君」
喧騒の合間でも、どうしてか静かなその声はよく通った。途端、しんと集団の笑い声が止む。
名を呼ばれた鹿が振り返り、快活そうだった横顔からふっと表情が消えるのを紅葉は見た。
彼は紅葉と視線が合うなり学帽の下の双眸を歪ませる。続いて、「げっ」と嫌悪の混じった呻きが薄い口唇から吐き出された。ろくな反応をされないだろうと予測していた紅葉は、あからさまな態度も意に介さず再び彼に話しかける。
「先の放送、多分カキモト先生から呼び出しだよ。早く来て」
伝え終わるとさっさと身を翻す。背後から「行って来いよ」「何やらかしたんだよ」などと笑いの混じった囁きが届き、それらを遮るように舌打ちが一つ聞こえた。 鹿が渋々立ち上がったのだろう物音が聞こえ、紅葉が教室を出ていくころには足音が追ってきた。
廊下に出て歩き始めると、視界の端で鹿が隣に並んだのが分かった。あえて前を向いたままで紅葉は問う。
「放送聞こえなかったの」
鹿は肩をすくめる仕草をした。返ってきた声は少しばかりきまり悪げだった。
「俺とお前、本当に二人とも呼ばれてんのか」
「紅葉と鹿って僕らのことなんだろう?
特別教室に集まれって放送では言ってたよ」
「何でだよ。今の月は別のやつが担当のはずだ」
「僕だって呼ばれた理由までは知らない」
紅葉は堪えきれず憮然とした返答になる。横から不満げに鼻を鳴らす音が聞こえ、それきり鹿は口を噤んだ。
二人が向かっている旧校舎は、本校舎とは一階の渡り廊下でつながっている。階段を降り、蛍光灯に鈍く照らされた一階の廊下には他に人気も無く、紅葉と鹿の足音がてんでばらばらに響いた。
紅葉は何とはなしに 横目で鹿をそっと伺う。不本意そうに引き結ばれた口元は、級友に囲まれ大口を開けて笑っていた先ほどの人物と同じだとは思えない。稀に校内で見かける彼はいつも人に囲まれ、屈託のない陽気な人物のように見えた。だが、紅葉と顔を合わした数少ない機会では鹿はいつも不機嫌そうで愛想もない。大して関わりもないうえ、初対面の時ですらそうだったのでいっそ相性が悪いのだと思ったほうがいいのかもしれない。
そのまま目的地に着くまで二人の間に会話はなかった。
旧校舎はいくつかの教室は課外活動などに使用されることもあるが、半分以上は空き教室で普段は施錠されている。紅葉と鹿が集まるよう言われた特別教室とは、二階にある元は校長室や応接室であったと思われる部屋だ。
重厚な観音開きの扉の前にまで来ると、鹿はこの状況に納得がいかないように黙ったままであったので紅葉がノックをした。念のため自身の学年と組、そして『紅葉』ではなく一応本名を扉の奥に向かって告げる。
どうぞ、という声が扉越しに届き、それを聞いて紅葉は扉の把手に手をかけようとする。
しかし、かちゃりと音が鳴りひとりでに把手は回った。そのあと控えめに内側へと扉が開き、細い隙間が徐々に広がって部屋の中の様子が覗く。
誰かが内側から開けてくれたような動きに紅葉の動きは止まったが、横にいた鹿は扉が開くなり躊躇なく入室していった。
慌てて紅葉も続き、室内へと足を踏み入れる。
中の様子は、先月初めて訪れた時とそう変わっていないように見えた。本来ならあったであろう家具は処分されたのか、部屋の奥に卓と椅子が一つずつあるのみで、ほかはがらんとした空間が広がる。それなのに壁に一列に並ぶ額に入った写真は、被写体の顔もぼろぼろで判別もつかない状態であるのに未だに飾っているまま放置されていた。
後ろ手に扉を閉めた紅葉はさりげなく室内を見回し、今やってきた鹿と紅葉、そして正面の唯一存在する椅子に座り、卓に肘をついている人物の三人しかいないことを確認する。
「お早うございます。紅葉と鹿、急な招集に応じてくれて感謝します」
褪せた朱色の垂れ布で顔を覆っているカキモトが、果たして本当に教員であるのか紅葉は知らない。最初の召集の時にカキモトと名乗ったため、生徒ではないこの人物を紅葉は便宜上先生と呼ぶようにしているが、この部屋以外でカキモトを見かけたことは一か月程度の学生生活といえど一度もない。
「突然ですが、二人には今晩の夜行を執り行ってほしい」
垂れ布で口元が隠れているとはいえ、この空間に響く鹿でも紅葉でもない声はカキモトのものであるはずだ。しかしそれはカキモトから発せられているのではなく、姿の見えない第三者がこの場にいて、それがカキモトのふりをして話しているかのような不気味さを紅葉は感じていた。
カキモトの異様な雰囲気に呑まれているうえ、そもそも夜行というものが何かよくわかっていない紅葉は答えあぐねたが、入室から一言も発していなかった鹿のほうがこれに反応を返した。
「それなら蝶と牡丹が担当だろ」
鹿の言葉に首肯するように、カキモトの垂れ布がかすかに波打つ。
「その通り。しかし、前回の夜行で蝶は消えました」
「消えた?」
「牡丹一人しか戻ってきていません。彼だけでは水無月の夜行は難しい。だから代わりとして君たちを呼びます」
「水無月の夜行に加えて、失踪した蝶のことも調べろってことかよ」
「いえ、蝶の消失は正常です」
「あ?」
鹿の訝しげな声を一切気にする様子もなく、初めから終わりまで変わりない平坦さでカキモトは話していた。
「二人には水無月の夜行を引き継いでもらえれば大丈夫です。蝶に関しての調査、報告は不要です」
紅葉はこのやり取りにおいて、鹿とカキモトの顔を交互に見つめることしかできなかった。辛うじてわかるのが、蝶と牡丹というのが花骨牌では水無月の札の絵柄であることくらいだ。
鹿はカキモトが話したことを最後に黙っていた。見ると、少し俯いて何やら考えているような表情を浮かべている。 対して、カキモトは台本でも読みあげるかのような滑らかな口調でこの場を締めくくった。
「では今晩からお願いします」
紅葉が図書委員に入ったのは転校してきた先月からだ。同じ曜日に当番に入っているはずの副委員長は、今日の放課後も姿を見せない。
図書室ではなく図書館と呼ばれるこの別棟は、ほかの特別教室に比べ格段に広い。錆の浮いた台車は押すと軋んだ音を立て、歩き出すと足元からも重みに耐えかねるように床が鳴いた。
窓の外では激しく雨が降りしきっていた。返却された本の元の置き場所を探しながらも、気づくと雨音につられるように視線が窓を向く。
濁流のように雨水が伝う硝子の向こうは濛々としていた。緞帳のような雨景色に、時折風に吹かれてか波打つような影が現れては消える。今月に入ってからこのかた、学園にいて晴れ間を拝んだためしはなかった。雨月とは陰暦五月の異名だがその名にたがわず、雨雲は絶えることなく上空で渦巻いている。
ふと、外から何かが聞こえた気がした。
雨滴が木々や地面にたたきつけられる音。それらの合間。
呆っとしていたことに気づき、紅葉は慌てて書棚へと意識を戻した。利用する生徒がほとんどおらず仕事も少ないからと言って、いつまでもここでのんびりしていたいわけでもない。
それに。
梅雨の時期は、何か聞こえても窓の外をあまり見てはいけない。
そういったのはまだきちんと当番に来ていた頃の副委員長だ。紅葉に作業内容の説明をすると、彼自身は受付台の中で本を読んでいるのが常だった。必要なこと以外ではあまり口を開かない人なのだと思っていたため、珍しいことだと驚いたのを紅葉は覚えている。
そんな記憶がよみがえったのもあり、なおさら早く図書委員の仕事を終えたくなった。本の返却作業が終わっても所定の時間まで受付台にいなければいけないが、適当に何か本をめくっていたほうが少なくとも書架の立ち並ぶ薄暗い空間にいるよりかはましだろう。
そう思ってからは窓の外に気を取られることもなく迅速に本を棚に戻し、冊数も大してなかったため早々に紅葉は台車を押して受付台へと戻ってきた。いつものことだが、雨天だとしても利用者が来ることもなく図書館内はがらんとしている。
何気なく長机が配置された室内を見渡し、違和感に目が留まった。
入り口近くにある受付台とは反対の窓際で、向かって一番右。その一つの窓だけ塗りつぶされているように暗いのだ。悪天候の上風も強いため、近くの木から枝が折れて飛んできたのかもしれない。遠すぎて詳細は分からないものの、視界に入るため一度気づくとやたらと気になった.受付台のそばで迷うようにしばらく佇んでいたが、どうせなら窓掛も閉めてきてしまおうと思い立ち、紅葉は窓側のほうへ歩き出した。その時だ。
壁掛けの拡声器から点いたばかりの独特の低波周が流れ、次いでざざ、ざ、と雑音が混じった放送が始まった。
放課後は基本的に決まった時間にチャイムが流されるだけだ。何事だと紅葉は足を止め、受付台背後の壁を見上げる。
「紅葉ト鹿。直チニ特別教室ニテ召集セヨ」
「紅葉ト鹿。直チニ特別教室ニテ召集セヨ」
「紅葉ト鹿。直チニ特別教室ニテ召集セヨ」
男とも女ともつかない奇妙な声の放送は、同じ文言をきっかり三度繰り返すとぶつりと切れた。
紅葉と鹿。そのうち紅葉というのが、転校してきた初日に任命されたとある役職での名前だ。その時も大した説明はされなかったが、花骨牌になぞらえた名前の通り、紅葉に順番が回ってくるのは神無月だったはず。
浮かんでくる疑問と同時に、放送で呼ばれたもう一人―--鹿のことを思い出し、紅葉は小さくため息を漏らした。別の学級のため関わることはあまり無いが、彼との最初のやり取りは穏便とは言えないものだった。正直なぜそのような態度をとられたのか紅葉には心当たりもない。彼とともに役目をこなすのはまだ先になると踏んで、紅葉としてもそれまでにどうにかできればいいや、くらいに思っていたのだ。まさか一か月もしないうちに顔を合わさないといけないとは想像していなかった。
時計を確認すると、図書館の閉館には三十分ほど早い。しかし、このまま開けていても普段通り誰も来ないだろう。放送では直ちに来いと言われていたが、どれくらい時間がかかるか分からないなら先に閉めてしまったほうがいい。呼び出しに応じるのが億劫な気持ちを後押すようにそう結論付け、紅葉は閉館作業を開始する。とはいっても消灯と施錠するくらいなので大して時間稼ぎにはならない。
館内を簡単に見回り、誰もいないのを確認してから蛍光灯の電源を落とす。扉から出る前に一度振り返ったが、雨が降っていても尚、書架が濃く影を落とす室内よりも外のほうが僅かに明るかった。青みがかった仄暗い光が水底のように床や長机を照らしている。
先ほど一つだけ黒く塗りつぶされていたように見えた右端の窓も、今ではもうそのような異変は見えなかった。ほかの窓と変わらず外の雨景色を映し出している。
そのまま図書館の外に出て、後ろ手に扉を閉めた。心なしか雨音は遠くなった気がした。
学園は、本校舎の両端にそれぞれ体育館、旧校舎がコの字を書くように位置しており、図書館は本校舎と体育館の間に建っていた。
放送で呼び出されていた特別教室というのは旧校舎に存在し、図書館から本校舎へと入った紅葉は東西に長い回廊の反対側を目指して足を踏み出す。そのまま直行してもよかったが、中央階段に差し掛かると少し迷った末に二階へと上がることにした。
本校舎の二階は一年生の教室が並ぶ。先月、転校初日の放課後に鹿が紅葉の学級へとやってきて、二人で特別教室まで向かった。そこで公にはなっていないが存在するという委員会の役目を任命され、その帰りに何故か鹿からは、紅葉の転校生としての挨拶を跳ねのけられたわけだ。
あの時の鹿の態度から、今回は別々に向かったほうがいい気もするが、とりあえず学級にまだ鹿がいるかどうかくらいは見てから行ったほうがいいかと思ったのだ。
図書館からここに来るまではほとんど生徒を見かけなかったものの、二階に上がると廊下でも数人とすれ違った。各教室の扉上に掲げられた表札を見ながら紅葉は進む。一組、二組、三組。そして、鹿のいる四組。
四組の教室は消灯されていたが、屋外の雨音にまぎれて楽しそうなざわめきが廊下にいる紅葉にも聞き取れた。
雨天によって活動中止になった部活も多いのかもしれない。放課後とはいえ教室内にはまだ何人かが残っており、その集まりが孤島のように点在していた。
教卓側の入り口から中を覗いた紅葉は、尋ね人を無数の人影の中に探す。昼間とは違い、放課後はどこか遠慮したように生徒たちの喧騒も控えめになりがちだが、この学級は違う。特に窓際の集団は姦しく、さらにどっと沸き立ったため自然と紅葉の視線もそちらに引き寄せられた。
「…いた」
五、六人の男子生徒がたむろしており、整然と並んだ机と椅子がそこだけ無秩序に乱れていた。
その中心には、机に乗り上げ長い足を椅子の背もたれに投げ出している少年。ケラケラと大口を開けて笑う横顔を見とめ、紅葉はそっと教室の中へと足を踏み入れる。
一列机を挟んだところまで近づいても、くだんの集団は誰も紅葉には気づいていないようだった。
「…―--●●君」
喧騒の合間でも、どうしてか静かなその声はよく通った。途端、しんと集団の笑い声が止む。
名を呼ばれた鹿が振り返り、快活そうだった横顔からふっと表情が消えるのを紅葉は見た。
彼は紅葉と視線が合うなり学帽の下の双眸を歪ませる。続いて、「げっ」と嫌悪の混じった呻きが薄い口唇から吐き出された。ろくな反応をされないだろうと予測していた紅葉は、あからさまな態度も意に介さず再び彼に話しかける。
「先の放送、多分カキモト先生から呼び出しだよ。早く来て」
伝え終わるとさっさと身を翻す。背後から「行って来いよ」「何やらかしたんだよ」などと笑いの混じった囁きが届き、それらを遮るように舌打ちが一つ聞こえた。 鹿が渋々立ち上がったのだろう物音が聞こえ、紅葉が教室を出ていくころには足音が追ってきた。
廊下に出て歩き始めると、視界の端で鹿が隣に並んだのが分かった。あえて前を向いたままで紅葉は問う。
「放送聞こえなかったの」
鹿は肩をすくめる仕草をした。返ってきた声は少しばかりきまり悪げだった。
「俺とお前、本当に二人とも呼ばれてんのか」
「紅葉と鹿って僕らのことなんだろう?
特別教室に集まれって放送では言ってたよ」
「何でだよ。今の月は別のやつが担当のはずだ」
「僕だって呼ばれた理由までは知らない」
紅葉は堪えきれず憮然とした返答になる。横から不満げに鼻を鳴らす音が聞こえ、それきり鹿は口を噤んだ。
二人が向かっている旧校舎は、本校舎とは一階の渡り廊下でつながっている。階段を降り、蛍光灯に鈍く照らされた一階の廊下には他に人気も無く、紅葉と鹿の足音がてんでばらばらに響いた。
紅葉は何とはなしに 横目で鹿をそっと伺う。不本意そうに引き結ばれた口元は、級友に囲まれ大口を開けて笑っていた先ほどの人物と同じだとは思えない。稀に校内で見かける彼はいつも人に囲まれ、屈託のない陽気な人物のように見えた。だが、紅葉と顔を合わした数少ない機会では鹿はいつも不機嫌そうで愛想もない。大して関わりもないうえ、初対面の時ですらそうだったのでいっそ相性が悪いのだと思ったほうがいいのかもしれない。
そのまま目的地に着くまで二人の間に会話はなかった。
旧校舎はいくつかの教室は課外活動などに使用されることもあるが、半分以上は空き教室で普段は施錠されている。紅葉と鹿が集まるよう言われた特別教室とは、二階にある元は校長室や応接室であったと思われる部屋だ。
重厚な観音開きの扉の前にまで来ると、鹿はこの状況に納得がいかないように黙ったままであったので紅葉がノックをした。念のため自身の学年と組、そして『紅葉』ではなく一応本名を扉の奥に向かって告げる。
どうぞ、という声が扉越しに届き、それを聞いて紅葉は扉の把手に手をかけようとする。
しかし、かちゃりと音が鳴りひとりでに把手は回った。そのあと控えめに内側へと扉が開き、細い隙間が徐々に広がって部屋の中の様子が覗く。
誰かが内側から開けてくれたような動きに紅葉の動きは止まったが、横にいた鹿は扉が開くなり躊躇なく入室していった。
慌てて紅葉も続き、室内へと足を踏み入れる。
中の様子は、先月初めて訪れた時とそう変わっていないように見えた。本来ならあったであろう家具は処分されたのか、部屋の奥に卓と椅子が一つずつあるのみで、ほかはがらんとした空間が広がる。それなのに壁に一列に並ぶ額に入った写真は、被写体の顔もぼろぼろで判別もつかない状態であるのに未だに飾っているまま放置されていた。
後ろ手に扉を閉めた紅葉はさりげなく室内を見回し、今やってきた鹿と紅葉、そして正面の唯一存在する椅子に座り、卓に肘をついている人物の三人しかいないことを確認する。
「お早うございます。紅葉と鹿、急な招集に応じてくれて感謝します」
褪せた朱色の垂れ布で顔を覆っているカキモトが、果たして本当に教員であるのか紅葉は知らない。最初の召集の時にカキモトと名乗ったため、生徒ではないこの人物を紅葉は便宜上先生と呼ぶようにしているが、この部屋以外でカキモトを見かけたことは一か月程度の学生生活といえど一度もない。
「突然ですが、二人には今晩の夜行を執り行ってほしい」
垂れ布で口元が隠れているとはいえ、この空間に響く鹿でも紅葉でもない声はカキモトのものであるはずだ。しかしそれはカキモトから発せられているのではなく、姿の見えない第三者がこの場にいて、それがカキモトのふりをして話しているかのような不気味さを紅葉は感じていた。
カキモトの異様な雰囲気に呑まれているうえ、そもそも夜行というものが何かよくわかっていない紅葉は答えあぐねたが、入室から一言も発していなかった鹿のほうがこれに反応を返した。
「それなら蝶と牡丹が担当だろ」
鹿の言葉に首肯するように、カキモトの垂れ布がかすかに波打つ。
「その通り。しかし、前回の夜行で蝶は消えました」
「消えた?」
「牡丹一人しか戻ってきていません。彼だけでは水無月の夜行は難しい。だから代わりとして君たちを呼びます」
「水無月の夜行に加えて、失踪した蝶のことも調べろってことかよ」
「いえ、蝶の消失は正常です」
「あ?」
鹿の訝しげな声を一切気にする様子もなく、初めから終わりまで変わりない平坦さでカキモトは話していた。
「二人には水無月の夜行を引き継いでもらえれば大丈夫です。蝶に関しての調査、報告は不要です」
紅葉はこのやり取りにおいて、鹿とカキモトの顔を交互に見つめることしかできなかった。辛うじてわかるのが、蝶と牡丹というのが花骨牌では水無月の札の絵柄であることくらいだ。
鹿はカキモトが話したことを最後に黙っていた。見ると、少し俯いて何やら考えているような表情を浮かべている。 対して、カキモトは台本でも読みあげるかのような滑らかな口調でこの場を締めくくった。
「では今晩からお願いします」
