2225日後

「すごい匂いだな」
 入ってくるなり、暖は露骨に顔をしかめた。鼻を蠢かせ、室内を見渡す。
「元気すぎだろ」
 揶揄するように笑う。おれは無言で床に横たわっていた。下半身を露出させ、足首にスラックスと下着が纏わりついている。身動きするのも億劫だった。
「止めろ……」
 かろうじてそれだけをいった。室内に紗弓の喘ぎ声が響き渡っていたい。自動的に連続再生するように設定された液晶ディスプレイが、もう何日も紗弓と暖のセックスを垂れ流し続けていた。
「いいの? 気に入ってたみたいなのに」
「いいからもう止めてくれ」
 これ以上耐えられなかった。部屋の反対側で目を閉じ、耳を塞いでいたが、完全にシャットアウトすることはできず、おれはひたすら紗弓の声を聞かされ続けた。
 不快なはずなのに、監禁されて刺激が与えられていない体は勝手に反応した。何度も絶頂を迎え、また漲らせる。その繰り返しだった。
 暖がディスプレイの停止ボタンを押すと、ようやく静けさがもどった。ここに連れられた当初はあまりの静けさに発狂しそうだった。今は沈黙に安堵していた。
 暖はリモコンを操作して換気扇を強めた。換気翼が回転する機械音が静かな室内に響く。
「人間を監禁してだれとも会話させずに食事だけ与え続け、毎日決まった時間にAVを見せると、おなじ時間に自慰をはじめるようになるらしい。言葉も忘れて狂ったようにあれを擦り続けるんだとさ」
 童話でも語るかのような口調で暖は話す。
「おれを狂わせたいのか?」
「べつにそういう意味じゃない」
「じゃなんだよ」
 仰向けになった。肩甲骨が床に擦れる。マットレスは湿気を帯びて不快だった。なにもかもが不快だった。
「おまえ、おれを殺したいんじゃねえの?」
 掌を床について重い体を持ち上げ、おれは暖を見た。暖は椅子にかけて足を組んでいる。膝の上で両手の指を組み、穏やかな表情でおれを見下ろしている。
「なんでそう思う?」
「おれが死んだら秘密が漏れる心配をしなくて済むだろ」
「たしかにそうだけど、殺人は犯さない」
「もうひとり殺してるだろ」
「殺してない」
「だって……」
「あれは殺人じゃない」
 ため息。あの日起きたことは事件ではなくあくまでも事故なのだと主張するつもりだろうが、議論してもしかたがない。
「わかったよ。自分では手を下さないってことだな。だったら、おれを自殺に追い込む気かよ?」
「まあ、そうなったらなったで、助かるのは確実だよな」
 つまり、食事や衣服を供給することで、生命を維持する権利は与える。そのうえで死を選ぶ自由も選択肢のひとつとして提示するわけだ。その場合、あくまでもおれ自身が選んだ結果であり、たとえそうなったとしても暖に責任はないといいたいのだ。身動きを制限し、社会とのつながりを断つことによって、生殺与奪の権を握っているというのに。
「おまえ、最悪だな。変態なだけじゃなくて、卑怯で臆病者だ」
「なんとでもどうぞ」
 内臓の奥から燃え上がるような怒り。ここへきたときには、どうにか脱出する方法だけを考えていた。それが不可能だと知ると、無気力になった。このまま死んでも構わないと思った。しかし、おれが死んでも暖を喜ばせるだけだった。それだけは耐えられなかった。
「悪いけどな」
 汚れた衣服のまま、おれは支配者をにらみつけた。
「おれは自殺なんかしない。絶対生きてここから出る」
 暖は微笑した。サディストの眼差しでおれを見つめた。やさしい声でいった。
「それでこそおまえだよ」