暖が日用品や食料品以外のものを持ってきた。はじめてのことだった。
「なんだよそれ」
おれはマットレスの上に仰向けになったまま、家電量販店のロゴが入った箱を開封する暖を横目に見た。
「テレビかパソコンでも買ってきたのかよ」
「惜しい。これはね、タブレット。回線がないからテレビもネットも見られない」
A4程度の小型液晶タブレットをテーブルに設置する。
「じゃあなんのために持ってきたんだよ」
「おまえのためだよ。この前いったろ。オカズを持ってくるって」
羞恥心が甦り、頬が熱くなる。
「いらねえっつったろ」
「遠慮すんなって」
暖は楽しげで、口笛でも吹きかねない様子だった。よほどいいことがあったのだろう。おれには関係ないが。
「えーっと、おれのスマホとブリュートゥースでつないで……これでいいか」
暖が手元でスマホを操作すると、真っ黒だった液晶タブレットに映像が映し出された。
おれは飛び起きた。全身から汗が噴き出した。
「おまえ……」
画面に映っていたのは紗弓だった。天地がずれ、額より下しかフレームに収まっていなかったが、確かだった、自分の彼女を見間違えるはずがない。
「なんだよ、これ! 約束しただろ!」
「連絡しないって約束だろ。彼女からDMで誘われただけ。おれから近づいたわけじゃない」
「屁理屈いってんじゃねえぞ!」
殴りかかろうとしたが、相変わらず暖は絶妙な距離を保っていて、拳が空を切るだけだった。テーブルの端、壁にぴったり据え付けられた画面にも手が届かない。
「黙って見てろよ。おまえのために彼女の動画を撮ってきたんだぞ」
おれは目を背けた。しかし、画面から紗弓の笑い声が聞こえてくると、視線を向けずにはいられなくなった。
スマホのカメラを胸ポケットにでも仕込んでいるのか、画面は揺れ、乱れがちだった。それでも、紗弓の顔はよく見えた。色が白く、二重瞼の美人。ふだんより化粧が濃く、年上に見えた。
「暖さんって……あ、暖さんって呼んでもいいですか? 法学部なんですよね? ストレートで合格するなんてすごい。めっちゃ頭いいんですね」
紗弓の声は弾んでいた。暖とふたりで向かい合って話しているらしい。場所はカフェかレストランか……白いテーブルと細いグラスが映っている。グラスにはカットされたフルーツが浮かんでいる。カクテルのようだった。紗弓はほんのりと頬を赤らめている。周囲にひとの姿はない。
「紗弓ちゃんも東京の学校志望なんでしょ?」
画面のなかで暖が話す。おれは眉を顰めた。紗弓は県内の専門学校に進学すると聞いていたからだ。
「そうなんです。美容系の専門学校に行きたくて、今いろいろ調べてるとこなんですけど」
紗弓の声は高く、甘かった。おれに対するものとはちがう。付き合いはじめた当初のような、軽い羽根を思わせる声だった。
「今度オープンキャンパス行ってみようと思ってるんですけど、案内してもらえませんか。東京慣れてなくて、ひとりじゃ怖いんで」
「んー、おれはべつにいいけど、彼氏が怒るんじゃない?」
「だいじょうぶです。彼氏、今いないんで」
心臓が跳ね上がった。脈が速くなり、胃液がせり上がってくる。これは嘘だ。おれを動揺させるために暖が用意した紛いものだ。
「そうなの? インスタには彼氏いるって書いてた気したけど」
「前はいたんですけど別れちゃったんですよね」
「紗弓ちゃんが振ったの?」
「んー、なんか急に連絡取れなくなっちゃって。LINEも電話も無視されてるし、もう3か月くらいたつし、自然消滅ってことでいいかなって。いいですよね?」
「おれに聞かれてもなあ」
画面のなかの暖もふだんより饒舌だった。ふたりはまるで付き合いたてのカップルのように振る舞っていた。吐き気がこみ上げてきた。
「けどさ、その彼氏……元彼か。ふだんからあんま連絡しないひととかじゃないの?」
「全然。むしろ、けっこうまめなほうでした」
さっきからずっと紗弓はおれのことを過去形で話している。
「だったら、そんなに長いこと音信不通なのっておかしくない? 心配じゃないの?」
「べつに……もともとそんな深い付き合いじゃなかったし、高校卒業したら別れるつもりだったんで」
アイスティーに浮かんだ氷をストローの先で弄びながら、紗弓がいう。
「向こうもおんなじだったんじゃないですか。どこ行ったか知らないけど、連絡もしないってことは、その程度の気持ちだったってことですよね」
わずかに伸びた語尾。意識的にかそれとも無意識か、紗弓は相手に結論を委ねるような話し方をする癖がある。庇護欲をそそられた。守ってやらなければと男に感じさせるのがうまかった。
「どっちにしても、連絡もしないなんてありえないし。別れるにしても、男らしくはっきりいってほしかったですよ。もう忘れましたけど」
拗ねたように唇を尖らせ、紗弓は向かい合った暖を見つめた。
「暖さんも彼女いないんですよね?」
「いないよ」
「えー、かっこいいのに」
紗弓がテーブルに身を乗り出し、カメラに顔が近づく。その表情から、おれは思わず目をそらした。
「もういい」
「なにが?」
「だからもういいって! 消せよ!」
裏切られたとは思わなかった。なにもいわないまま姿を消して、3カ月もの間連絡ひとつしなかった。裏切られたと考えているのは向こうのほうだろう。まさか変態に監禁されているとは想像さえできないはずだ。紗弓のせいじゃない。そう思おうとした。それでも、胸が痛い。心臓が裂けてばらばらになりそうだった。おれはディスプレイから逃げるようにマットレスに寝転がり、壁を向いて背中を丸めた。
「おれもう寝るから。それ持って帰れ」
「なにいってんの。まだはじまってないよ」
暖の声は笑っていた。おれは振り返った。いつの間にか画面が切り替わっていた。POV映画のようにカメラが揺れる。どこかの建物の廊下。両側にドアが並んでいる。そのうちひとつの前で動きが止まった。
「おい……」
冗談だと思いたかった。自分が見ているものが信じられなかった。
ドアが開き、画面が部屋のなかの様子を映し出す。あきらかにホテルの部屋だった。安いラブホテルではなく、見るからに高級そうなホテルのスイートルーム。紗弓のはしゃぐ声が聞こえる。
「なんでだよ……」
おれは呆然と画面を見つめ、いった。
「なんでこんなことすんだよ……」
「いったろ。オカズを提供するって」
暖の表情は穏やかだった。いつもどおりの爽やかな微笑をたたえておれを見つめている。おれの反応を観察している。
「ふざけんな!」
「見ないのか? 今からいいとこだぞ」
画面のなかでは紗弓がシャワーを浴びるためにバスルームに入ったところだった。映像が大きく揺れ、やがて固定された。テーブルかなにかに置いたようで、室内がすべて画面に入るようになっている。
暖の顔が画面に大映しになった。画角を確認しているらしい。手で左右にずらしながら位置を調整し、満足できる状態になると、にっこり笑った。おそろしい笑顔で、画面に向かって指を指してみせた。
もうひとりの暖は椅子に腰掛け、だらしなくへたりこむおれを見下ろしている。
「あいつには興味ないっていってただろ……」
情けない声。暖は嘲笑った。
「好みじゃないけど、誘われたんだもん。見てただろ、彼女からおれを誘ってきた。おれは乗っただけ」
画面のなかで、暖は口笛を吹きながらジャケットを脱いでいる。直視できなかった。おれは両手で耳を塞ぎ、防衛する小動物のように体を丸めた。
「おい。なにしてる。ちゃんと見ろって」
暖が立ち上がり、近づいてくる。
「おまえのためにわざわざ苦労して撮ってきた作品だぞ。ほら……」
暖の手が肩に触れる。おれは咆哮しながら勢いよく頭を振って起き上がった。覗き込むようにおれの体の上になっていた暖の顔面におれの後頭部が直撃した。暖が怯む。体を引こうとする。させなかった。身を低くして暖の両脚に突っ込み、抱え込むようにして引き倒した。
「ぶっ殺してやる!」
唾液を飛ばしながら叫んだ。暖に馬乗りになって、拳を振り下ろす。固めた拳が暖の顔をとらえ、鼻血が噴き出た。すぐに2発目を狙って上体を起こしたが、次はなかった。暖がおれの体を撥ねのけるように上体を起こし、おれはバランスを崩してよろめいた。体勢を整える前に、暖が拳を繰り出してきた。きつい一発をこめかみに食らい、視界が揺れた。足首の鎖ががしゃがしゃと烈しい音を立てた。
無理な姿勢だったが、防御の代わりに拳を握った。暖が素早く折り曲げた腕で防御したため、おれのストレートは暖の顔をとらえることはできなかった。代わりにもう一発顔面の中心に拳を受けた。頭蓋骨が振動するような衝撃。一瞬、意識が飛びそうになった。
おれが動きを止めた数秒の間に、暖は完全に優位な体勢になっていた。体を反転させ、おれを俯せにして、背後から腕を回す。太い腕が首に回り、筋肉が気管を圧迫する。おれの喉から空気が漏れる音がした。身を捩って逃げようとしたが、いつの間にか暖の右脚がおれの両脚に巻きついていて身動きができない。暖は全体重をかけ、左腕でおれの腕を捻り、首に回した腕に力を込めた。あきらかに慣れた動作だった。格闘技の心得があるのかもしれない。とても歯が立たなかった。首に回された腕を解こうと手で掻き毟り、渾身の力でもがいたが、びくともしない。草食動物のようにただ体を震わせることしかできなかった。
意識が奪われる。限界を感じたとたん、首を絞めていた腕が緩められた。急激に入り込んできた酸素を処理できず、おれは咳き込んだ。
「寝ようとしてんじゃねえぞ」
暖もさすがに息を荒くしていた。密着した体が熱い。
「……くそっ、離せよ!」
「離さない。ちゃんと見るんだよ、ほら」
暖は腕と脚でおれを拘束したまま、体の角度を変えておれの顔が液晶ディスプレイに向くようにした。画面上のドラマは佳境に入っていた。シャワーを終えた紗弓が猫のようにベッドに乗り、暖ににじり寄っていく。
顔を背けると、暖に顎をつかまれた。指先が頬の肉に食い込んで痛みを感じるほど強くつかまれ、無理矢理画面を見せられる。
ディスプレイの向こう側で、暖と紗弓が抱き合っていた。舌を絡ませる音まではっきり聞こえた。
「どうよ。見えるか?」
耳の裏で暖が囁く。荒い息が首元に絡み、不快さに肌が粟立った。思わずぎゅっと目を瞑った。
「目閉じてんじゃねえよ。よく見ろって。結婚したい女がおれとやってるとこ」
腕を捻られ、声を上げた。痛みに目を開けてしまう。
紗弓は盗撮されていることに気づく様子もなく、自分から服を脱ぎはじめた。暖の体に馬乗りになって、腰をくねらせながらもったいぶったしぐさで下着を取り去る。
「いい体だよな。やりたくなってきただろ?」
「ふざけんな……」
「素直になれよ。何回も抱いた体だろ。懐かしいんじゃないの?」
紗弓が上半身を折り曲げる。細い指が暖のシャツをたくし上げる。紗弓は暖のベルトをはずした。股間に顔を埋める。おれのときは何度も頼んで不承不承してくれた行為を自ら積極的に行っている。
まるで拷問だった。おれは低く呻きながらどうにか拘束を解こうと暴れたが、体勢を変えることはできなかった。3カ月の間ろくに運動もせず、わずかな食事を摂取するだけで筋肉の衰えたおれと、あきらかに格闘技の経験がある暖とでは勝負にならなかった。
画面の向こうでは、暖と紗弓が全裸で絡み合っている。惨めだった。これほど自分のことを小さく弱く薄汚く感じたことはなかった。
「俊介?」
おれの首に顎を圧しつけながら、暖が背後から囁く。
「泣いてんのか?」
答えられなかった。嗚咽が漏れた。強く目を閉じると、瞼に押し出された涙が溢れた。暖に気づかれたくはなかったが、止められなかった。涙はおれのこめかみをつたって暖の肘を濡らした。
「おいおい、なにも泣くことないだろ。あんな女にまだこだわってんのかよ」
「うるせえ……」
紗弓が憎いわけでも、奪われたことが悔しいわけでも、まして大切な女を失ったことが悲しいわけでもない。ただ、惨めだった。男として、人間としての尊厳が音を立てて崩れていくような感覚だった。
ホテルのベッドでは暖が紗弓の上にのしかかっていた。烈しく動く背中と臀部がはっきり見える。紗弓は暖の腰に両脚を絡ませ、派手な声を上げて体を弾ませている。
「サイコ野郎……殺してやる……」
「殺す? おれを?」
暖が笑う。喉が鳴る音と胸の筋肉が上下する動きが密着した体を通して伝わってくる。
「やってみろよ、ほらほら」
必死で体をばたつかせるおれを嘲笑うかのように、暖は拘束の力を緩めたり強めたりして弄ぶ。体をのたうたせるおれと、画面の向こうで快感に身を跳ねさせる紗弓の姿が重なった。暖に組み敷かれ、紗弓は髪の毛を振り乱している。すさまじい声。完全に我を忘れているようだった。おれとしているときにそんなふうになったことは一度もなかった。おれは紗弓以外の女を知らない。ベッドの上で女があのような姿になってしまうとは想像したこともなかった。体が冷え、また熱を持った。おれは唇を噛み、紗弓の痴態を見つめるしかなかった。
「静かだな。なんかいえよ」
左腕を強く捻られ、おれは反射的に体を折り曲げた。臀部に違和感をおぼえた。
「おまえ……」
暖の性器は固く屹立し、おれの臀部の肉を押し上げていた。こめかみを掠める息が熱い。間違いない。暖はこの状況下で興奮していた。紗弓との行為を思い返しているのか、それとも暴力による熱狂か。いずれにしても、不気味だった。
「本物の変態かよ……」
「おまえだろ」
「なんでおれが……」
暖が低く笑った。絡んでいた脚がおれの膝を擦り、爪先が股の裏を擽る。痛みとは異なる刺激に、おれはびくっと体を震わせた。
「勃ってる」
「はあ? そんなわけ……」
「見せてみろよ」
「ふざけんな!」
「いいじゃん。見せろって」
暖の左手がおれの下半身に伸びる。
「やめろよ!」
わずかに自由になった左腕を振った。肘が暖の脇腹に食い込み、暖の拘束が緩む。その隙に逃げようとしたが、甘かった。髪をつかまれ、頭を壁に叩きつけられた。強烈な衝撃。視界が白くなり、体の支えを失って倒れた。朦朧としているおれを暖が仰向けにした。脱ぎ捨てられたおれのシャツをつかって、両腕を纏め縛り上げる。頭を打った影響でほとんど昏倒しかけていたおれに抵抗する力はなかった。
「暴れんなっつってんのに、まったく……」
暖もさすがに息を荒くしていた。自分のTシャツの裾を引っ張って汗を拭う。荒い呼吸に合わせて腹筋が上下していた。
「勃ってるかどうか確認させれば済む話だろ。それを馬鹿みたいに騒いで……」
ため息をついて、おれの膝に跨がった。穿いていたトレーニングパンツを下着ごと一気に下ろす。
「ほら、やっぱ勃ってんじゃん」
暖はうれしそうに笑う。母親にプレゼントを渡す子どものようにはしゃいだ笑顔だった。
恐ろしいことに、顔面から出血し、脳震盪を起こしかけている状態でも、おれの下半身は反応していた。男とはなんと情けなく惨めなのだろう。また目の奥が熱くなった。表情を歪めるおれを、暖が瞬きもせずに見つめていた。おれはその視線を遮るように拘束された両手を顔の前に持ち上げた。
「なんだよ。泣くなって」
暖の笑い声が紗弓の喘ぎ声と重なる。耳を塞ぎたかった。紗弓の声が烈しくなった。ベッドが軋む音。紗弓が絶叫した。耳を塞ぐことはできなかった。
「……もういいだろ。満足したなら帰れよ」
「これはどうすんだよ」
暖がおれの陰茎をつかむ。半勃ちの陰茎を指先で弄びながら、喉の奥で笑う。
「そのままか?」
「おまえがこれはずして出て行ったら自分でする」
「はずす?」
暖はおれの両肘を持ち上げた。腕の間からおれの顔を覗き込んでくる。
「はずすわけないだろ」
「……いいから、早く鍵出せよ」
脚に繋がった鎖をじゃらじゃらいわせる。たまらなく不快な音だが、暖にとっては愉快に聞こえるようだ。
「持ち歩いてると思うか? 馬鹿か、おまえ」
唇の端を歪め、暖は笑った。口調は静かだったが、顔は紅潮し、おれの反撃で追った傷から滲んだ血が汗と混じって額にこびりついていた。なによりもおそろしいのは眼だった。狂気を孕んだ眼差しはここにきてから何度も見ていたが、それとはちがう粘ついた嫌な視線だった。おれは全身が冷たくなるほどの恐怖をおぼえた。
暖の手がおれの股の内側を撫でる。触れられた部分から全身にかけて鳥肌がはしった。
「やめろって……」
「なにを?」
「それだよ」
「手伝ってやろうとしてんじゃん」
「いらねえよ」
「遠慮すんなって」
暖がおれの股間に手を伸ばす。両脚が固定され、逃げられなかった。血の散った掌に握りこまれて、おれはびくっと体を震わせた。
嫌悪と羞恥、恐怖で萎縮しかけていたおれのものを暖は執拗に刺激した。掌に唾液を吐き、烈しく上下に擦る。
こんな状況で、こんな変態の手で、反応できるわけがないと思った。そうあってほしかった。しかし、おれの体はいとも簡単におれの希望を打ち砕いた。他人はおろか自分の手さえつかっていないまま数か月を過ごしていた。頂点はあっという間だった。
遠くに紗弓の声が聞こえる。第2ラウンドがはじまったらしい。
「ほら、俊介。見ろよ」
両肘を擦りつけるようにして顔を隠していたおれの腕を暖がつかむ。力づくで引っ張り、横を向かせた。視線の先に液晶ディスプレイ。紗弓は体勢を変え、暖に背中を向けて跨がっていた。カメラのほうに顔を向けているが、相変わらず撮られていることには気づいていない。
紗弓の姿に気を取られ、暖がファスナーを下ろして自身を取り出そうとする動きに気づくのが遅れた。下腹部に擦りつけられ、はっとした。
「てめえ、なにやってんだよ!」
おれの腹の上で脈打つものを凝視しながら怒鳴った。暴れようとするおれの上半身を押さえ、暖が体重をかけてくる。重みで呼吸がくるしくなり、おれは酸素を求めて喘いだ。
「おまえだけすっきりするのはずるいだろ」
耳元に暖の熱い息が絡む。全身が震えた。
「ふざけんな……どけよ!」
「おとなしくしろって。いい子だから」
暖は左手でおれの腕をつかみ、右手で自分のものを擦った。おれが出した白濁が腹の上に飛んで、その表面を暖の先端が前後し、ぬめって音を立てる。耳元を掠める息がどんどん熱を孕んでいく。
「やめろよ……」
強く目を瞑った。あまりにもひどい現実。彼女の性行為を見ながら男の陰茎を擦りつけられている。
「……やべ。いきそう」
小さく呟いて、暖は素早く上半身を起こした。おれの胸に跨り、顔の真上で烈しく自身を擦った。
低い息とともに、顔に生ぬるい感触。目を開けると、暖がおれを見下ろしていた。肩で息をしている。顔が紅潮して、汗が浮いている。
強烈な匂いにおれは噎せた。顔を背けると、白い液体が頬を滑り落ちてマットに跳ねた。額から胸元にかけて、大量に飛び散っていた。精液まみれになりながら、おれはマットの上に嘔吐した。胃液が逆流して喉を焼いた。
「だいじょうぶか」
暖は平然としていた。おれの体を降りて、テーブルの上の水を飲む。手早くファスナーを上げ、乱れたシャツを伸ばして身なりを整えながら、煙草をくわえた。
「飲むか?」
暖が投げたミネラルウォーターのペットボトルがマットの上に転がる。おれは円柱のボトルが床に落ちて回転していくのをぼんやりと眺めていた。
「おまえ……最悪だな」
「いまさら?」
暖が喉の奥で笑う。おれは縛られたままマットレスに横になって動けなかった。撒き散らされた精液が冷えてさらに不快だった。
「こんなことして楽しいのかよ」
怒鳴る力も失って、おれは小さく掠れた声でいった。
「楽しむつもりはないよ」
煙を吐き出しながら暖が答えた。
「じゃなんのためだよ。おれを黙らせたいなら閉じ込めておくだけでじゅうぶんだろ。こんなことする必要あるのかよ?」
暖は黙っていた。いつもの乾いた視線をおれに向けている。
「そんなにおれが嫌いかよ……」
「嫌い?」
独白のような言葉を耳ざとくとらえて、暖が眉を上げる。
「嫌いじゃない」
「嘘つけ。死ぬほど嫌いじゃなかったらこんなことしないだろ」
「ほんとだよ。むしろ、こんなことになって申し訳ないと思ってる」
話す気にもなれない。暖がなにを考えているのか、まったく理解できなかった。
不快なBGMがいつの間にか消えていた。液晶ディスプレイに目を向けると、行為が終わったようで、紗弓が暖にすり寄っていた。口元が動いているように見えるが、なにを話しているかまではわからない。
「終わったと思うだろ。このあと2回もした」
暖が呆れたように笑う。
「おまえがいなくても問題なさそうでよかったな」
「……そうだな」
楽しげに笑う紗弓を画面ごしに見ながら、おれはいった。
「心配してた。おれのことでつらい思いしてんじゃないかって。だからよかったよ」
昨日までは、ほとぼりが冷めたら解放されるはずだというかすかな希望を持っていた。しかし、今ははっきりわかっていた。暖は嘘をついていない。おれが死ぬまでここに監禁し続けるつもりだ。希望などない。紗弓がおれを待っていたとしても無駄だ。それよりも吹っ切って他の相手を見つけるほうが彼女のためになる。
半分以上が強がりだった。しかし、そう考えるより他になかった。暖がおれを見ている。視線は感じたが、どんな表情をしているのか確認はしなかった。すでにどうでもよくなっていた。おれは苦痛から逃げるように意識を手放した。
「なんだよそれ」
おれはマットレスの上に仰向けになったまま、家電量販店のロゴが入った箱を開封する暖を横目に見た。
「テレビかパソコンでも買ってきたのかよ」
「惜しい。これはね、タブレット。回線がないからテレビもネットも見られない」
A4程度の小型液晶タブレットをテーブルに設置する。
「じゃあなんのために持ってきたんだよ」
「おまえのためだよ。この前いったろ。オカズを持ってくるって」
羞恥心が甦り、頬が熱くなる。
「いらねえっつったろ」
「遠慮すんなって」
暖は楽しげで、口笛でも吹きかねない様子だった。よほどいいことがあったのだろう。おれには関係ないが。
「えーっと、おれのスマホとブリュートゥースでつないで……これでいいか」
暖が手元でスマホを操作すると、真っ黒だった液晶タブレットに映像が映し出された。
おれは飛び起きた。全身から汗が噴き出した。
「おまえ……」
画面に映っていたのは紗弓だった。天地がずれ、額より下しかフレームに収まっていなかったが、確かだった、自分の彼女を見間違えるはずがない。
「なんだよ、これ! 約束しただろ!」
「連絡しないって約束だろ。彼女からDMで誘われただけ。おれから近づいたわけじゃない」
「屁理屈いってんじゃねえぞ!」
殴りかかろうとしたが、相変わらず暖は絶妙な距離を保っていて、拳が空を切るだけだった。テーブルの端、壁にぴったり据え付けられた画面にも手が届かない。
「黙って見てろよ。おまえのために彼女の動画を撮ってきたんだぞ」
おれは目を背けた。しかし、画面から紗弓の笑い声が聞こえてくると、視線を向けずにはいられなくなった。
スマホのカメラを胸ポケットにでも仕込んでいるのか、画面は揺れ、乱れがちだった。それでも、紗弓の顔はよく見えた。色が白く、二重瞼の美人。ふだんより化粧が濃く、年上に見えた。
「暖さんって……あ、暖さんって呼んでもいいですか? 法学部なんですよね? ストレートで合格するなんてすごい。めっちゃ頭いいんですね」
紗弓の声は弾んでいた。暖とふたりで向かい合って話しているらしい。場所はカフェかレストランか……白いテーブルと細いグラスが映っている。グラスにはカットされたフルーツが浮かんでいる。カクテルのようだった。紗弓はほんのりと頬を赤らめている。周囲にひとの姿はない。
「紗弓ちゃんも東京の学校志望なんでしょ?」
画面のなかで暖が話す。おれは眉を顰めた。紗弓は県内の専門学校に進学すると聞いていたからだ。
「そうなんです。美容系の専門学校に行きたくて、今いろいろ調べてるとこなんですけど」
紗弓の声は高く、甘かった。おれに対するものとはちがう。付き合いはじめた当初のような、軽い羽根を思わせる声だった。
「今度オープンキャンパス行ってみようと思ってるんですけど、案内してもらえませんか。東京慣れてなくて、ひとりじゃ怖いんで」
「んー、おれはべつにいいけど、彼氏が怒るんじゃない?」
「だいじょうぶです。彼氏、今いないんで」
心臓が跳ね上がった。脈が速くなり、胃液がせり上がってくる。これは嘘だ。おれを動揺させるために暖が用意した紛いものだ。
「そうなの? インスタには彼氏いるって書いてた気したけど」
「前はいたんですけど別れちゃったんですよね」
「紗弓ちゃんが振ったの?」
「んー、なんか急に連絡取れなくなっちゃって。LINEも電話も無視されてるし、もう3か月くらいたつし、自然消滅ってことでいいかなって。いいですよね?」
「おれに聞かれてもなあ」
画面のなかの暖もふだんより饒舌だった。ふたりはまるで付き合いたてのカップルのように振る舞っていた。吐き気がこみ上げてきた。
「けどさ、その彼氏……元彼か。ふだんからあんま連絡しないひととかじゃないの?」
「全然。むしろ、けっこうまめなほうでした」
さっきからずっと紗弓はおれのことを過去形で話している。
「だったら、そんなに長いこと音信不通なのっておかしくない? 心配じゃないの?」
「べつに……もともとそんな深い付き合いじゃなかったし、高校卒業したら別れるつもりだったんで」
アイスティーに浮かんだ氷をストローの先で弄びながら、紗弓がいう。
「向こうもおんなじだったんじゃないですか。どこ行ったか知らないけど、連絡もしないってことは、その程度の気持ちだったってことですよね」
わずかに伸びた語尾。意識的にかそれとも無意識か、紗弓は相手に結論を委ねるような話し方をする癖がある。庇護欲をそそられた。守ってやらなければと男に感じさせるのがうまかった。
「どっちにしても、連絡もしないなんてありえないし。別れるにしても、男らしくはっきりいってほしかったですよ。もう忘れましたけど」
拗ねたように唇を尖らせ、紗弓は向かい合った暖を見つめた。
「暖さんも彼女いないんですよね?」
「いないよ」
「えー、かっこいいのに」
紗弓がテーブルに身を乗り出し、カメラに顔が近づく。その表情から、おれは思わず目をそらした。
「もういい」
「なにが?」
「だからもういいって! 消せよ!」
裏切られたとは思わなかった。なにもいわないまま姿を消して、3カ月もの間連絡ひとつしなかった。裏切られたと考えているのは向こうのほうだろう。まさか変態に監禁されているとは想像さえできないはずだ。紗弓のせいじゃない。そう思おうとした。それでも、胸が痛い。心臓が裂けてばらばらになりそうだった。おれはディスプレイから逃げるようにマットレスに寝転がり、壁を向いて背中を丸めた。
「おれもう寝るから。それ持って帰れ」
「なにいってんの。まだはじまってないよ」
暖の声は笑っていた。おれは振り返った。いつの間にか画面が切り替わっていた。POV映画のようにカメラが揺れる。どこかの建物の廊下。両側にドアが並んでいる。そのうちひとつの前で動きが止まった。
「おい……」
冗談だと思いたかった。自分が見ているものが信じられなかった。
ドアが開き、画面が部屋のなかの様子を映し出す。あきらかにホテルの部屋だった。安いラブホテルではなく、見るからに高級そうなホテルのスイートルーム。紗弓のはしゃぐ声が聞こえる。
「なんでだよ……」
おれは呆然と画面を見つめ、いった。
「なんでこんなことすんだよ……」
「いったろ。オカズを提供するって」
暖の表情は穏やかだった。いつもどおりの爽やかな微笑をたたえておれを見つめている。おれの反応を観察している。
「ふざけんな!」
「見ないのか? 今からいいとこだぞ」
画面のなかでは紗弓がシャワーを浴びるためにバスルームに入ったところだった。映像が大きく揺れ、やがて固定された。テーブルかなにかに置いたようで、室内がすべて画面に入るようになっている。
暖の顔が画面に大映しになった。画角を確認しているらしい。手で左右にずらしながら位置を調整し、満足できる状態になると、にっこり笑った。おそろしい笑顔で、画面に向かって指を指してみせた。
もうひとりの暖は椅子に腰掛け、だらしなくへたりこむおれを見下ろしている。
「あいつには興味ないっていってただろ……」
情けない声。暖は嘲笑った。
「好みじゃないけど、誘われたんだもん。見てただろ、彼女からおれを誘ってきた。おれは乗っただけ」
画面のなかで、暖は口笛を吹きながらジャケットを脱いでいる。直視できなかった。おれは両手で耳を塞ぎ、防衛する小動物のように体を丸めた。
「おい。なにしてる。ちゃんと見ろって」
暖が立ち上がり、近づいてくる。
「おまえのためにわざわざ苦労して撮ってきた作品だぞ。ほら……」
暖の手が肩に触れる。おれは咆哮しながら勢いよく頭を振って起き上がった。覗き込むようにおれの体の上になっていた暖の顔面におれの後頭部が直撃した。暖が怯む。体を引こうとする。させなかった。身を低くして暖の両脚に突っ込み、抱え込むようにして引き倒した。
「ぶっ殺してやる!」
唾液を飛ばしながら叫んだ。暖に馬乗りになって、拳を振り下ろす。固めた拳が暖の顔をとらえ、鼻血が噴き出た。すぐに2発目を狙って上体を起こしたが、次はなかった。暖がおれの体を撥ねのけるように上体を起こし、おれはバランスを崩してよろめいた。体勢を整える前に、暖が拳を繰り出してきた。きつい一発をこめかみに食らい、視界が揺れた。足首の鎖ががしゃがしゃと烈しい音を立てた。
無理な姿勢だったが、防御の代わりに拳を握った。暖が素早く折り曲げた腕で防御したため、おれのストレートは暖の顔をとらえることはできなかった。代わりにもう一発顔面の中心に拳を受けた。頭蓋骨が振動するような衝撃。一瞬、意識が飛びそうになった。
おれが動きを止めた数秒の間に、暖は完全に優位な体勢になっていた。体を反転させ、おれを俯せにして、背後から腕を回す。太い腕が首に回り、筋肉が気管を圧迫する。おれの喉から空気が漏れる音がした。身を捩って逃げようとしたが、いつの間にか暖の右脚がおれの両脚に巻きついていて身動きができない。暖は全体重をかけ、左腕でおれの腕を捻り、首に回した腕に力を込めた。あきらかに慣れた動作だった。格闘技の心得があるのかもしれない。とても歯が立たなかった。首に回された腕を解こうと手で掻き毟り、渾身の力でもがいたが、びくともしない。草食動物のようにただ体を震わせることしかできなかった。
意識が奪われる。限界を感じたとたん、首を絞めていた腕が緩められた。急激に入り込んできた酸素を処理できず、おれは咳き込んだ。
「寝ようとしてんじゃねえぞ」
暖もさすがに息を荒くしていた。密着した体が熱い。
「……くそっ、離せよ!」
「離さない。ちゃんと見るんだよ、ほら」
暖は腕と脚でおれを拘束したまま、体の角度を変えておれの顔が液晶ディスプレイに向くようにした。画面上のドラマは佳境に入っていた。シャワーを終えた紗弓が猫のようにベッドに乗り、暖ににじり寄っていく。
顔を背けると、暖に顎をつかまれた。指先が頬の肉に食い込んで痛みを感じるほど強くつかまれ、無理矢理画面を見せられる。
ディスプレイの向こう側で、暖と紗弓が抱き合っていた。舌を絡ませる音まではっきり聞こえた。
「どうよ。見えるか?」
耳の裏で暖が囁く。荒い息が首元に絡み、不快さに肌が粟立った。思わずぎゅっと目を瞑った。
「目閉じてんじゃねえよ。よく見ろって。結婚したい女がおれとやってるとこ」
腕を捻られ、声を上げた。痛みに目を開けてしまう。
紗弓は盗撮されていることに気づく様子もなく、自分から服を脱ぎはじめた。暖の体に馬乗りになって、腰をくねらせながらもったいぶったしぐさで下着を取り去る。
「いい体だよな。やりたくなってきただろ?」
「ふざけんな……」
「素直になれよ。何回も抱いた体だろ。懐かしいんじゃないの?」
紗弓が上半身を折り曲げる。細い指が暖のシャツをたくし上げる。紗弓は暖のベルトをはずした。股間に顔を埋める。おれのときは何度も頼んで不承不承してくれた行為を自ら積極的に行っている。
まるで拷問だった。おれは低く呻きながらどうにか拘束を解こうと暴れたが、体勢を変えることはできなかった。3カ月の間ろくに運動もせず、わずかな食事を摂取するだけで筋肉の衰えたおれと、あきらかに格闘技の経験がある暖とでは勝負にならなかった。
画面の向こうでは、暖と紗弓が全裸で絡み合っている。惨めだった。これほど自分のことを小さく弱く薄汚く感じたことはなかった。
「俊介?」
おれの首に顎を圧しつけながら、暖が背後から囁く。
「泣いてんのか?」
答えられなかった。嗚咽が漏れた。強く目を閉じると、瞼に押し出された涙が溢れた。暖に気づかれたくはなかったが、止められなかった。涙はおれのこめかみをつたって暖の肘を濡らした。
「おいおい、なにも泣くことないだろ。あんな女にまだこだわってんのかよ」
「うるせえ……」
紗弓が憎いわけでも、奪われたことが悔しいわけでも、まして大切な女を失ったことが悲しいわけでもない。ただ、惨めだった。男として、人間としての尊厳が音を立てて崩れていくような感覚だった。
ホテルのベッドでは暖が紗弓の上にのしかかっていた。烈しく動く背中と臀部がはっきり見える。紗弓は暖の腰に両脚を絡ませ、派手な声を上げて体を弾ませている。
「サイコ野郎……殺してやる……」
「殺す? おれを?」
暖が笑う。喉が鳴る音と胸の筋肉が上下する動きが密着した体を通して伝わってくる。
「やってみろよ、ほらほら」
必死で体をばたつかせるおれを嘲笑うかのように、暖は拘束の力を緩めたり強めたりして弄ぶ。体をのたうたせるおれと、画面の向こうで快感に身を跳ねさせる紗弓の姿が重なった。暖に組み敷かれ、紗弓は髪の毛を振り乱している。すさまじい声。完全に我を忘れているようだった。おれとしているときにそんなふうになったことは一度もなかった。おれは紗弓以外の女を知らない。ベッドの上で女があのような姿になってしまうとは想像したこともなかった。体が冷え、また熱を持った。おれは唇を噛み、紗弓の痴態を見つめるしかなかった。
「静かだな。なんかいえよ」
左腕を強く捻られ、おれは反射的に体を折り曲げた。臀部に違和感をおぼえた。
「おまえ……」
暖の性器は固く屹立し、おれの臀部の肉を押し上げていた。こめかみを掠める息が熱い。間違いない。暖はこの状況下で興奮していた。紗弓との行為を思い返しているのか、それとも暴力による熱狂か。いずれにしても、不気味だった。
「本物の変態かよ……」
「おまえだろ」
「なんでおれが……」
暖が低く笑った。絡んでいた脚がおれの膝を擦り、爪先が股の裏を擽る。痛みとは異なる刺激に、おれはびくっと体を震わせた。
「勃ってる」
「はあ? そんなわけ……」
「見せてみろよ」
「ふざけんな!」
「いいじゃん。見せろって」
暖の左手がおれの下半身に伸びる。
「やめろよ!」
わずかに自由になった左腕を振った。肘が暖の脇腹に食い込み、暖の拘束が緩む。その隙に逃げようとしたが、甘かった。髪をつかまれ、頭を壁に叩きつけられた。強烈な衝撃。視界が白くなり、体の支えを失って倒れた。朦朧としているおれを暖が仰向けにした。脱ぎ捨てられたおれのシャツをつかって、両腕を纏め縛り上げる。頭を打った影響でほとんど昏倒しかけていたおれに抵抗する力はなかった。
「暴れんなっつってんのに、まったく……」
暖もさすがに息を荒くしていた。自分のTシャツの裾を引っ張って汗を拭う。荒い呼吸に合わせて腹筋が上下していた。
「勃ってるかどうか確認させれば済む話だろ。それを馬鹿みたいに騒いで……」
ため息をついて、おれの膝に跨がった。穿いていたトレーニングパンツを下着ごと一気に下ろす。
「ほら、やっぱ勃ってんじゃん」
暖はうれしそうに笑う。母親にプレゼントを渡す子どものようにはしゃいだ笑顔だった。
恐ろしいことに、顔面から出血し、脳震盪を起こしかけている状態でも、おれの下半身は反応していた。男とはなんと情けなく惨めなのだろう。また目の奥が熱くなった。表情を歪めるおれを、暖が瞬きもせずに見つめていた。おれはその視線を遮るように拘束された両手を顔の前に持ち上げた。
「なんだよ。泣くなって」
暖の笑い声が紗弓の喘ぎ声と重なる。耳を塞ぎたかった。紗弓の声が烈しくなった。ベッドが軋む音。紗弓が絶叫した。耳を塞ぐことはできなかった。
「……もういいだろ。満足したなら帰れよ」
「これはどうすんだよ」
暖がおれの陰茎をつかむ。半勃ちの陰茎を指先で弄びながら、喉の奥で笑う。
「そのままか?」
「おまえがこれはずして出て行ったら自分でする」
「はずす?」
暖はおれの両肘を持ち上げた。腕の間からおれの顔を覗き込んでくる。
「はずすわけないだろ」
「……いいから、早く鍵出せよ」
脚に繋がった鎖をじゃらじゃらいわせる。たまらなく不快な音だが、暖にとっては愉快に聞こえるようだ。
「持ち歩いてると思うか? 馬鹿か、おまえ」
唇の端を歪め、暖は笑った。口調は静かだったが、顔は紅潮し、おれの反撃で追った傷から滲んだ血が汗と混じって額にこびりついていた。なによりもおそろしいのは眼だった。狂気を孕んだ眼差しはここにきてから何度も見ていたが、それとはちがう粘ついた嫌な視線だった。おれは全身が冷たくなるほどの恐怖をおぼえた。
暖の手がおれの股の内側を撫でる。触れられた部分から全身にかけて鳥肌がはしった。
「やめろって……」
「なにを?」
「それだよ」
「手伝ってやろうとしてんじゃん」
「いらねえよ」
「遠慮すんなって」
暖がおれの股間に手を伸ばす。両脚が固定され、逃げられなかった。血の散った掌に握りこまれて、おれはびくっと体を震わせた。
嫌悪と羞恥、恐怖で萎縮しかけていたおれのものを暖は執拗に刺激した。掌に唾液を吐き、烈しく上下に擦る。
こんな状況で、こんな変態の手で、反応できるわけがないと思った。そうあってほしかった。しかし、おれの体はいとも簡単におれの希望を打ち砕いた。他人はおろか自分の手さえつかっていないまま数か月を過ごしていた。頂点はあっという間だった。
遠くに紗弓の声が聞こえる。第2ラウンドがはじまったらしい。
「ほら、俊介。見ろよ」
両肘を擦りつけるようにして顔を隠していたおれの腕を暖がつかむ。力づくで引っ張り、横を向かせた。視線の先に液晶ディスプレイ。紗弓は体勢を変え、暖に背中を向けて跨がっていた。カメラのほうに顔を向けているが、相変わらず撮られていることには気づいていない。
紗弓の姿に気を取られ、暖がファスナーを下ろして自身を取り出そうとする動きに気づくのが遅れた。下腹部に擦りつけられ、はっとした。
「てめえ、なにやってんだよ!」
おれの腹の上で脈打つものを凝視しながら怒鳴った。暴れようとするおれの上半身を押さえ、暖が体重をかけてくる。重みで呼吸がくるしくなり、おれは酸素を求めて喘いだ。
「おまえだけすっきりするのはずるいだろ」
耳元に暖の熱い息が絡む。全身が震えた。
「ふざけんな……どけよ!」
「おとなしくしろって。いい子だから」
暖は左手でおれの腕をつかみ、右手で自分のものを擦った。おれが出した白濁が腹の上に飛んで、その表面を暖の先端が前後し、ぬめって音を立てる。耳元を掠める息がどんどん熱を孕んでいく。
「やめろよ……」
強く目を瞑った。あまりにもひどい現実。彼女の性行為を見ながら男の陰茎を擦りつけられている。
「……やべ。いきそう」
小さく呟いて、暖は素早く上半身を起こした。おれの胸に跨り、顔の真上で烈しく自身を擦った。
低い息とともに、顔に生ぬるい感触。目を開けると、暖がおれを見下ろしていた。肩で息をしている。顔が紅潮して、汗が浮いている。
強烈な匂いにおれは噎せた。顔を背けると、白い液体が頬を滑り落ちてマットに跳ねた。額から胸元にかけて、大量に飛び散っていた。精液まみれになりながら、おれはマットの上に嘔吐した。胃液が逆流して喉を焼いた。
「だいじょうぶか」
暖は平然としていた。おれの体を降りて、テーブルの上の水を飲む。手早くファスナーを上げ、乱れたシャツを伸ばして身なりを整えながら、煙草をくわえた。
「飲むか?」
暖が投げたミネラルウォーターのペットボトルがマットの上に転がる。おれは円柱のボトルが床に落ちて回転していくのをぼんやりと眺めていた。
「おまえ……最悪だな」
「いまさら?」
暖が喉の奥で笑う。おれは縛られたままマットレスに横になって動けなかった。撒き散らされた精液が冷えてさらに不快だった。
「こんなことして楽しいのかよ」
怒鳴る力も失って、おれは小さく掠れた声でいった。
「楽しむつもりはないよ」
煙を吐き出しながら暖が答えた。
「じゃなんのためだよ。おれを黙らせたいなら閉じ込めておくだけでじゅうぶんだろ。こんなことする必要あるのかよ?」
暖は黙っていた。いつもの乾いた視線をおれに向けている。
「そんなにおれが嫌いかよ……」
「嫌い?」
独白のような言葉を耳ざとくとらえて、暖が眉を上げる。
「嫌いじゃない」
「嘘つけ。死ぬほど嫌いじゃなかったらこんなことしないだろ」
「ほんとだよ。むしろ、こんなことになって申し訳ないと思ってる」
話す気にもなれない。暖がなにを考えているのか、まったく理解できなかった。
不快なBGMがいつの間にか消えていた。液晶ディスプレイに目を向けると、行為が終わったようで、紗弓が暖にすり寄っていた。口元が動いているように見えるが、なにを話しているかまではわからない。
「終わったと思うだろ。このあと2回もした」
暖が呆れたように笑う。
「おまえがいなくても問題なさそうでよかったな」
「……そうだな」
楽しげに笑う紗弓を画面ごしに見ながら、おれはいった。
「心配してた。おれのことでつらい思いしてんじゃないかって。だからよかったよ」
昨日までは、ほとぼりが冷めたら解放されるはずだというかすかな希望を持っていた。しかし、今ははっきりわかっていた。暖は嘘をついていない。おれが死ぬまでここに監禁し続けるつもりだ。希望などない。紗弓がおれを待っていたとしても無駄だ。それよりも吹っ切って他の相手を見つけるほうが彼女のためになる。
半分以上が強がりだった。しかし、そう考えるより他になかった。暖がおれを見ている。視線は感じたが、どんな表情をしているのか確認はしなかった。すでにどうでもよくなっていた。おれは苦痛から逃げるように意識を手放した。


