2225日後

 その日、暖は機嫌がよかった。ハンバーガーとフライドチキンを手にやってきた。東京では名の知れた有名店らしい。最近オープンしたそうで、おれは名前さえ知らなかった。
「もしおまえが捕まったら……」
「捕まらないよ」
 部屋の反対側で床に座ってフライドチキンを囓りながら暖がいう。おれの前にもチキンの箱が置いてあったが、手をつける気にならなかった。
「もしもの話だよ。おまえが逮捕されたら、ここに食べものを持ってくる奴はいなくなるんだよな?」
「なに、心配?」
「いや。そうなったらそうなったでもういいかなとも思うけど……」
「なんで? 死にたいってこと?」
 指先についた脂を紙ナプキンで拭いながら、暖がこちらを向く。
「最近すこし食べるようになってきたと思ったら」
「おれに死んでほしいのはおまえだろ」
 フライドチキンの衣が乾いていくところを眺めながら、おれは無感動にいう。
「おれが?」
「おれが死んだら秘密が漏れる心配はなくなる」
「確かにね」
「殺す勇気がないだけだろ。腰抜けだからな、おまえは」
「いってくれんじゃん」
 暖が笑う。おれは笑わなかった。
「おれはべつに死んでもいい。なんかもう生きててもしょうがないって気になってきたしな。ただ……母親のことが気になるのと、それと……」
 言葉を切ったが、暖は見逃さなかった。
「彼女にも会いたいし?」
 おれは答えなかった。暖もとくに反応を求めていないようだった。芝居じみたしぐさで手を叩き、立ち上がる。
「思い出した。おれ、紗弓ちゃんにインスタフォローされちゃった」
「は……?」
 おれは唖然としたがすぐに身を乗り出していった。
「おまえ、ふざけんなよ。フォローすんなっつっただろが!」
「してないよ。いいね押しただけ。そしたら向こうからフォローしてくれた」
 ハンバーガーとフライドチキンの包みを片付けながら、暖は淡々と話す。おれは呼吸が乱れていくのを感じていた。
「暖、おまえ、紗弓になにかしようとか考えてないよな?」
「まさか。全然興味ないよ、あんな女」
 暖は呆れたように笑って煙草に火をつけた。おれを見つめて、首を窄める。
「怒んなよ。冗談だろ」
「怒ってない」
 おれは深呼吸して暖をにらんだ。
「とにかく、あいつに連絡するようなことは絶対すんな。わかったな?」
「おまえがおれに命令すんの?」
 言葉に詰まった。マットレスの上で拳を握りしめた。
「命令じゃない。頼んでる」
 声が震えた。感情を抑え込み、いった。
「あいつのことはほっといてくれ亅
「そんなに好きなの?」
 暖の声は笑っていなかった。唇だけは穏やかな稜線を描いてはいたが、目の奥にある感情を読み取ることはできなかった。
「なんでおまえに答えなきゃなんねえの」
「いいじゃん。答えてくれたら、彼女には近づかないって約束してもいいよ」
 おれは躊躇したが、やがて観念した。
「好きだよ。好きじゃなかったら3年も付き合わない」
「どれくらい?」
「どれくらいって……」
「結婚したいくらい?」
「そう……だな。向こうはわからないけど、おれはしたいと思ってる」
「あ、そう」
 自分で聞いておいて、関心なさげに暖はいう。
「わかったよ」
 暖は肩を竦めてまだ長い煙草をコーラの缶に押し込んだ。火が水分に消される音とともに煙が立ち上る。無性に煙草が吸いたくなった。しかし、これ以上暖に頼みごとをするくらいなら我慢したほうがずっとよかった。
「そんな顔すんなよ。連絡しないって約束するから」
 暖はため息をつき、スマホを取り出した。素早く操作し、おれの目前にかざす。
 最新型のスマホの画面には紗弓のインスタグラムが映し出されていた。今度はプロフィールだけでなくすべての投稿を見られるようになっている。
「見せてやろっか」
 暖はおれに見やすいようにスマホの角度を変え、最新の投稿から1件ごとに画像をタップして中身が見られるように表示させていく。
 あの事故の日から、紗弓の投稿数は減っていた。しかし、まったくないというわけではなかった。「彼氏と連絡がつかない」、「彼氏に無視されてムカつく」。そんな文面が数件アップロードされ、その後は再びカフェのメニューやバイト先の話題、女友達とのプリクラ画像などのいわゆる平常運転にもどっていた。ここ数日はおれの話はまったく出てきていなかった。過去の投稿からもおれと一緒に写った写真が削除されていた。
「鍵つきのアカウントってさ、むしろ公開されているアカウントよりも生々しいこと多いよね」
 おれの動揺に気づかないはずはないが、暖は平静そのものといった様子で機械的にスマホを操作する。
「これが裏アカにもなると、よけいにリアルな人間が見れちゃうんだろうな」
「うるせえんだよ。ちょっと黙ってろ」
「なんだよ。せっかく見せてやってんのに」
 暖は子どものように唇を尖らせ、スマホをポケットにもどした。
「おい……」
「なに? もっと見たいならお願いしてみる?」
 舌打ちした。暖は愉快そうに肩を揺らして笑った。
「さて、そろそろ東京に帰るかな。久しぶりに俊介とメシも食えたし」
「おれは食ってない」
「え? ああ、ほんとだ」
 おれの前に残ったままの食事を見下ろして、暖は息をついた。
「食えよ。並ばないと買えないんだぞ」
 ハンバーガーを買うために並んだのだろうか。ふと考え、すぐに打ち消した。暖がそんな無駄なことをするとは思えない。だれかに買わせたのだろう。父親の部下か大学の連中に。
 クラブで遊んでいたときも、暖の周りにはおなじような小金持ちのボンボンや取り巻きがくっついていた。あの連中は暖の正体を知っているのだろうか。爽やかな見た目の裏に隠された悪魔のような顔を。
「明後日またくるけど、なにかほしいもんある?」
 帰り支度を整えながら、暖がいう。
「あ、そうだ。オカズになるようなもの、なにか持ってこようか」
「食いもんなんか……」
「そうじゃなくて、AVとかさ。つらいんじゃないの、いろいろ」
 顔がかっと熱くなった。やはり気づかれていた。
「恥ずかしがることないだろ。みんなにあることなんだから。べつに特別なことじゃ……」
「うるせえ!」
 羞恥のあまりにおれは声を上げた。ハンバーガーとフライドチキンの箱を暖に投げつけた。
「もう黙れよ! なにもいらないから帰れ!」
「わかったわかった。あーあ、もったいない」
 床に散乱した食べものを拾い集め、ゴミ袋に入れてから、暖はドアを開けた。暖の体ごしに薄暗い廊下が見える。もし鎖がなければ、ドアに突進して暖を押しのけ、あの廊下をまっすぐに駆け抜けて脱出する。途方もない妄想。それこそ無駄な考えだった。
「じゃあな。おやすみ」
 重く軋みながらドアが閉じた。