2225日後

 ドアが開いた。入ってきたのは暖だった。ふつうの状態ではない。ネクタイが緩み、髪が乱れていた。顔は蒼ざめ、表情は緊迫している。
「あ……」
 入ってきたのがあの男でも警察でもなく暖だったことに、おれは落胆した。しかし、同時に安堵してもいた。
「俊介。だいじょうぶか」
 おれはまだ服を着ていなかった。裸のおれを暖は力強く抱きしめた。
「暖……」
「わかってる。なにもいうな。おれがなんとかする」
 昨日のことを暖はすでに知っているようだった。それは、ここにきた男がだれかを明白にしていた。
「やっぱ父親か……」
 暖を除いて、この場所を知る人間はひとりしかいない。背格好だけでなく、面差しも、今思えばどことなく暖に似ていた。他者を見下すような眼差しや感情が欠落した冷たい声も。
 暖以外の人間がここへくることを何度も夢見ていた。希望を持っていたのに、実際には最悪な状況が増えただけだった。ようやく解放されると歓喜に震えた一瞬を体験しただけに、失望も大きかった。
「で?」
 抵抗する気力もなく抱き竦められながら、おれは投げ遣りにいった。
「どうすんだよ。おれを飼ってること、内緒にしてたんだろ」
 暖がおれの顔を見る。頬に手が触れ、おれは顔を背けた。
「どうなるんだよ、おれは」
 あの父親の様子を見る限り、警察への通報はおろか、おれを外に出す意思があるとは思えない。おれの存在は父親だけでなく家族にとってリスクでしかないはずだ。
「心配しなくていい。おれがなんとかするから」
「なんとかって?」
 笑いがこみ上げた。暖が持つトラウマを知っているからこそ、信じることはできなかった。
「おまえがどうなんとかすんだよ。父親を黙らせきれんの? それともおれを処分するか?」
「そんなことしない」
「信じられるかよ、おまえがいうことなんか」
 おれは暖の手から離れ、服を着た。濡れた体で何時間も床に寝ていたせいか、体が冷え、筋肉が痛んだ。顔をしかめて下着を履き、洗濯されたパーカーを頭から被った。襟から頭を出すと、暖が背後から抱きしめてきた。
「おまえに嘘をついたことは一回もない」
 暖の言葉はおれの耳朶を掠め、脇を通り過ぎて霧散した。
「いい加減にしろよ」
 胸の前で交差する暖の腕をつかみ、おれはため息をついた。
「嘘ばっかじゃん。最初からずっと」
「ちがう」
「じゃなんで昨日こなかったんだよ」
 顔の横で暖が戸惑う気配がした。
「それは……」
「おまえがくるっていったから、おれは……」
 言葉が途切れた。なにをいいたいのか、自分でもわからなかった。
「……おれのこと待ってたのか」
「待ってねえよ。ただ……くるっていったのにこないから……」
 体を包む力が強くなって、おれは自分が震えていることに気づいた。暖の父親の眼。おそろしい眼だった。ほんの一瞬だったのに、まだ怖くてたまらない。暖が高校の頃に実の父親にされたことを思い出した。どこかでつくり話ではないかと疑っていたが、おそらく真実だろうと思えた。それほどに感情のない機械のような冷たさと独裁者の威圧感を伴っていた。本能的に嫌悪と恐怖をおぼえた。暖に感じる嫌悪感とはまったくべつのものだった。これから自分がどうなるのか、想像するだけでおそろしかった。無意識に、暖の腕をつかむ手に力をこめていた。
「俊介」
 暖がおれを抱きしめる。強い力だった。その力がかろうじておれを正気にさせていた。
「だいじょうぶ。あいつにはなにもさせない。ここにもこさせない。約束する」
「……どうやって」
「おまえは知らなくていい」
 まだ聞きたいことはあったが、唇を塞がれて言葉が出なくなった。暖はおれをきつく抱きながらキスを深めた。熱い唇だった。
「暖……」
「いいから。なにもいうな」
「けど、もし……」
 もう一度キスされた。今度はごく浅く、素早く離れていった。
「心配しないで待ってろ」
 おれの目をまっすぐに見て、暖はいった。有無をいわせない口調だった。
 きたときとおなじように慌ただしく、暖は去っていった。再び静かになった部屋のなかで、おれは途方に暮れていた。次にドアが開くとき、そこにいるのがだれなのか、考えていた。