靴音。規則正しく響く。階段を降り、ドアが開く。
「起きてたのか」
スーツ姿の段が眉を上げる。手には紙袋。テーブルの上に置き、開いた右手でネクタイを緩める。
テーブルの上には昨日用意された食事の袋が手つかずのまま放置されている。一瞥して、おれのほうを見た。
「また食べなかったな」
袋の中身を確認して、ため息をつく。
「期間限定メニューだったのに」
おれは答えなかった。壁の隅に左半身を圧しつけ、両腕で膝を抱えていた。
暖が近づく気配がして、床を這うように移動した。金属音。右の足首に嵌められた金具が床と擦れて甲高い音を立てた。
部屋の反対側に逃げようとするおれを暖の手がつかまえる。左腕をつかまれ、抵抗しようとしたが、体に力が入らない。
「痩せたな。何日食べてない?」
もう片方の腕もつかみ、おれの両手を纏め上げて、ペットの健康状態を確認するかのように暖がおれの全身に視線を這わせる。ぞっとした。すこしでも視線を避けようと身を捩る。
「暴れんな。包帯替えるだけだから」
暖はおれの体を押さえ込み、スーツのポケットから新しい包帯のパックを取り出した。必死で体を動かすと、両腕の拘束が解け、おれは残った力を振り絞って拳を振り上げた。暖は顔の前で難なく防いだが、手にしていた包帯のパックは吹き飛んだ。
「わかったよ」
暖は嘆息し、おれから離れた。床に散らばった包帯を集め、テーブルの上に置く。
「ここに置いとくから、自分でやれ」
頭の傷はかなり回復していて、痛みはほとんどなくなっていた。だからといって、気が晴れるわけではなかった。
暖が所有する地下シェルターに監禁されてから1か月以上。6畳程度の小さな部屋には、スマホやパソコンはもちろん、テレビや新聞もない。あの死体がどうなったのか、事故がどう処理されたのか、知るすべはなかった。暖に尋ねてもなにも答えない。
「昨日、お母さんの様子を見に行ったよ。かなり参ってるみたいだった」
「母親に近づくんじゃねえ」
「遠くから見てただけだよ。話しかけたりしない」
母はどうしているだろうか。おれが消えて、バイトの給料が入らなくなり、生活保護で支給されるわずかな金額だけではとても生活できないはずだ。ひとり息子が突然いなくなって、精神的なダメージも測り知れない。酒の量が増えているのではないかと思った。無事とはいえないがせめて生きている事実だけでも伝えたいと思った。
合格した大学のオリエンテーションには行けなかった。母は入学の手続きを済ませているだろうか。
あの事故の直前まで、未来には希望があると信じていた。ばら色とはいかないまでも、人並みに大学生活を謳歌して、友人をつくり、アルバイトをして、楽しい日々を過ごすのだと思い込んでいた。決して恵まれた環境ではなかったが、大学を卒業し、安定した職に就いて、母親を養うつもりだった。すべて無になってしまった。
おれは完全に気力を失っていた。食事が喉を通らなくなり、シャワーも浴びず着替えもしないため、体は饐えた匂いを放っていた。爪や髭も伸びて汚れていた。電動シェーバーが与えられていたが一度もつかっていなかった。
「ほかにほしいものあるか?」
手をつけていない料理の袋を覗き込みながら暖が尋ねる。
「……家に帰りたい」
「だめだ。ほかのにしろ」
「電話……」
「それもだめ」
「体調が悪いんだよ。病院に……」
「俊介」
うずくまっているおれの前にしゃがみこむと、暖は憐れみの眼差しでおれを見下ろした。
「病院には行かせない」
「死んだらどうすんだよ……」
「そうなったらしかたない」
「クソ野郎……」
「勝手に騒いでろ。どんなことがあってもおまえはここを出られない」
「いつまで……」
「一生。死ぬまで」
抑揚を欠いた口調。なんの感情も読み取れない。
「頼むよ、暖。もう警察行くなんていわないから」
唇を震わせながらいった。乾燥した唇が擦れてかすかな痛みを感じた。壁を向き、膝を抱えて縮こまった体勢で、おれは懇願した。
「おまえのことはだれにもいわない。あの事故のことも、ここのことも全部なかったことにする」
水もわずかしか口にしていなかったから、しゃべるだけで喉の奥が痛んだ。おれは老人のように喉を上下させ、呻くように続けた。
「おれとおまえは昔からの友達ってわけじゃない。たまたま知り合っただけ。だからだれにも詮索されない。おれはおまえを知らないし、おまえもおれとは一度も会ったことない。これからも会うことはない。それでいいだろ。おまえの邪魔はしないし、おまえのことは全部忘れるから」
暖はなにもいわない。おれは重い頭を動かして暖を見ようとした。
「暖……」
「メシを食えよ、俊介」
機械が震える音がして、暖がデニムのポケットからスマホを取り出した。暖は立ち上がり、ディスプレイを確認した。親指をつかって素早く操作する。メールかLINEの返信文を作成しているらしい。室内を歩き回りながらタップしている。おれは無意識にその動きを目で追った。スマホから視線を逸らせなくなっていた。
「なに」
おれの視線に気づき、暖が顔を上げた。おれは逡巡したが、意を決していった。
「連絡はしないから、インスタを見せてほしい」
「インスタ?」
暖は訝しげに眉を寄せたが、すぐに納得したように大きく頷いた。
「ああ、彼女か。紗弓ちゃんだっけ」
おれは答えなかった。答える必要はなかった。暖はすべてを知っている。これまでに話していないこともすべて。おれを監禁したときに、おれのことを調べ上げたのだろう。父親を早くに亡くし、親戚付き合いがすくないこと。友人や恋人のこと。
「彼女のこと、気になるんだな。心配してるかどうか」
「心配してるに決まってんだろ」
「どうかな。案外、もう他の相手見つけてたりして」
スマホを操作しながら、暖はどこか楽しげだった。おれは反駁しかけたが、暖がもう片方のポケットからべつのスマホを抜き出したのを見て言葉を飲み込んだ。
特徴的なキャラクターがデザインされたケース。間違いなくおれのスマホだった。
「アカウント名、おぼえてる? わけないか。おまえのアカウントのフォロワー探したほうが早いな」
暖は独白のようにいって、おれの前にもどり、スマホをかざした。
「パスワード、教えて」
「……」
「教えないと探せないよ」
「もういい」
スマホのなかには親や友達の連絡先だけではなくSNSのアカウントや写真、動画とあらゆる情報が入っている。その気になれば解読されるかもしれないが、教えたくはなかった。
「わかった。おれのアカウントから探してやる」
おれのスマホをしまって、暖は再び自分の機器を操作する。からかわれたのだ。悔しさに唇を噛んだ。
暖はおれのアカウントをフォローしている。知り合ったその日に教えた。田舎町では珍しいセレブの暖とはちがい、おれのフォロワーはごくわずかだ。数分と待たないうちに、紗弓のアカウントを見つけ出した。
「鍵アカみたいだな。フォローしてみようか」
「やめろ!」
暖が母親と連絡を取り合っているのは知っていたが、彼女まで巻き込みたくはなかった。だからこそ今日まで彼女の名は口にしなかったのだ。会いたいという気持ちが高まり、自制がきかなかった。
「冗談だって。おまえがパス教えないのが悪いんだろ」
暖は苦笑いしながらスマホをおれの目前にかざした。反射的に手を伸ばしたが、届かなかった。
「おっと、見るだけ。プロフィールしか見られないけどね。ほら」
フォローされているアカウントしか閲覧できない設定になっているため、確認できるのは短いプロフィール文とプロフィール画像だけだった。画像の顔写真は紗弓が去年友達とUSJに出掛けたときに撮ったもので、画像加工アプリで処理されてはいるが、たしかに紗弓だった。1カ月ぶりに見る紗弓の顔。おれは懐かしさで泣きそうだった。目の前に彼女がいるかのように、画面を見つめ続けた。
「……はい、終わり」
暖がスマホをひっくり返し、立ち上がる。おれは無様にもその動きを視線で追ってしまった。もう一度彼女の顔が見たいと願ったが、叶わなかった。
「来週からすこし忙しくなる」
なにごともなかったかのように、暖がしゃべりはじめる。ポケットではなく持ってきたバッグのなかに2台のスマホを放り込んだ。
「明後日から1週間東京に行くんだ。大学の準備で。マンションも契約しないといけないし」
「東京に住むのかよ……」
「大学が向こうだからな。……ああ、心配すんなよ。2、3日に1回はこっちにくるから。でないとおまえ餓死するだろ」
東京までは車で3時間はかかる。しかし、冗談だとは思えなかった。
「エアコンは自動設定にしておくし、水と食料は欠かさないようにしておくよ。ちょっと寂しいかもしれないけど我慢しろよな」
だれが寂しいものか。おれは文句をいう気にもなれず唇を歪めた。気づくと、暖が呆けた表情でこちらを見ていた。
「……なんだよ」
「おまえ……今、笑った?」
「はあ? 笑ってねえよ!」
咄嗟に否定した。笑ったつもりはなかった。暖を怒らせるのは面倒だと思ったが、暖はとくに機嫌を悪くするでもなく、手で顎のあたりを撫でている。
「そうだよな。久しぶりに見たから驚いた」
「だから笑ってねえって」
笑える状況ではない。おれは半ば呆れて壁を向いた。暖の気まぐれにはついていけない。
「じゃ、明後日までに1週間ぶんの食いもん持ってくるから。今日と明日のぶんはここに置いとく」
気を取り直すように早口にまくしたてて、暖は荷物をまとめドアに向かった。
「ちゃんと食えよ。それから、シャワーも浴びろ。匂うぞ」
生きているか死んでいるかもわからない状態で、体臭に気を遣う余裕などない。おれは無言で壁に向かって寝転がった。
目を瞑るとさっき見た紗弓の笑顔が瞼の裏に甦った。
紗弓とは中学3年のときに出会った。遊び友達の紹介で、ひとつ年下だった。すぐに交際に発展し、もう4年付き合っている。はじめてできた彼女だった。相手がどうかは聞いたことがないが、すくなくともおれはずっと一緒にいたいと望んでいた。
こんなことになって、きっと死ぬほど心配しているだろう。おれは心のなかで詫びた。そして彼女に会いたいと強く願った。向こうもきっとおなじ気持ちでいると信じて。
おれはゆっくりと上半身を起こした。テーブルの上に紙袋が2つ並んでいた。なかにはリゾットとパスタが入った箱。木製のスプーンをつかみ、リゾットを口にはこんだ。暖に従うのではなく、生きるためだ。どんな状況でも希望を捨てたくない。そう思った。
「起きてたのか」
スーツ姿の段が眉を上げる。手には紙袋。テーブルの上に置き、開いた右手でネクタイを緩める。
テーブルの上には昨日用意された食事の袋が手つかずのまま放置されている。一瞥して、おれのほうを見た。
「また食べなかったな」
袋の中身を確認して、ため息をつく。
「期間限定メニューだったのに」
おれは答えなかった。壁の隅に左半身を圧しつけ、両腕で膝を抱えていた。
暖が近づく気配がして、床を這うように移動した。金属音。右の足首に嵌められた金具が床と擦れて甲高い音を立てた。
部屋の反対側に逃げようとするおれを暖の手がつかまえる。左腕をつかまれ、抵抗しようとしたが、体に力が入らない。
「痩せたな。何日食べてない?」
もう片方の腕もつかみ、おれの両手を纏め上げて、ペットの健康状態を確認するかのように暖がおれの全身に視線を這わせる。ぞっとした。すこしでも視線を避けようと身を捩る。
「暴れんな。包帯替えるだけだから」
暖はおれの体を押さえ込み、スーツのポケットから新しい包帯のパックを取り出した。必死で体を動かすと、両腕の拘束が解け、おれは残った力を振り絞って拳を振り上げた。暖は顔の前で難なく防いだが、手にしていた包帯のパックは吹き飛んだ。
「わかったよ」
暖は嘆息し、おれから離れた。床に散らばった包帯を集め、テーブルの上に置く。
「ここに置いとくから、自分でやれ」
頭の傷はかなり回復していて、痛みはほとんどなくなっていた。だからといって、気が晴れるわけではなかった。
暖が所有する地下シェルターに監禁されてから1か月以上。6畳程度の小さな部屋には、スマホやパソコンはもちろん、テレビや新聞もない。あの死体がどうなったのか、事故がどう処理されたのか、知るすべはなかった。暖に尋ねてもなにも答えない。
「昨日、お母さんの様子を見に行ったよ。かなり参ってるみたいだった」
「母親に近づくんじゃねえ」
「遠くから見てただけだよ。話しかけたりしない」
母はどうしているだろうか。おれが消えて、バイトの給料が入らなくなり、生活保護で支給されるわずかな金額だけではとても生活できないはずだ。ひとり息子が突然いなくなって、精神的なダメージも測り知れない。酒の量が増えているのではないかと思った。無事とはいえないがせめて生きている事実だけでも伝えたいと思った。
合格した大学のオリエンテーションには行けなかった。母は入学の手続きを済ませているだろうか。
あの事故の直前まで、未来には希望があると信じていた。ばら色とはいかないまでも、人並みに大学生活を謳歌して、友人をつくり、アルバイトをして、楽しい日々を過ごすのだと思い込んでいた。決して恵まれた環境ではなかったが、大学を卒業し、安定した職に就いて、母親を養うつもりだった。すべて無になってしまった。
おれは完全に気力を失っていた。食事が喉を通らなくなり、シャワーも浴びず着替えもしないため、体は饐えた匂いを放っていた。爪や髭も伸びて汚れていた。電動シェーバーが与えられていたが一度もつかっていなかった。
「ほかにほしいものあるか?」
手をつけていない料理の袋を覗き込みながら暖が尋ねる。
「……家に帰りたい」
「だめだ。ほかのにしろ」
「電話……」
「それもだめ」
「体調が悪いんだよ。病院に……」
「俊介」
うずくまっているおれの前にしゃがみこむと、暖は憐れみの眼差しでおれを見下ろした。
「病院には行かせない」
「死んだらどうすんだよ……」
「そうなったらしかたない」
「クソ野郎……」
「勝手に騒いでろ。どんなことがあってもおまえはここを出られない」
「いつまで……」
「一生。死ぬまで」
抑揚を欠いた口調。なんの感情も読み取れない。
「頼むよ、暖。もう警察行くなんていわないから」
唇を震わせながらいった。乾燥した唇が擦れてかすかな痛みを感じた。壁を向き、膝を抱えて縮こまった体勢で、おれは懇願した。
「おまえのことはだれにもいわない。あの事故のことも、ここのことも全部なかったことにする」
水もわずかしか口にしていなかったから、しゃべるだけで喉の奥が痛んだ。おれは老人のように喉を上下させ、呻くように続けた。
「おれとおまえは昔からの友達ってわけじゃない。たまたま知り合っただけ。だからだれにも詮索されない。おれはおまえを知らないし、おまえもおれとは一度も会ったことない。これからも会うことはない。それでいいだろ。おまえの邪魔はしないし、おまえのことは全部忘れるから」
暖はなにもいわない。おれは重い頭を動かして暖を見ようとした。
「暖……」
「メシを食えよ、俊介」
機械が震える音がして、暖がデニムのポケットからスマホを取り出した。暖は立ち上がり、ディスプレイを確認した。親指をつかって素早く操作する。メールかLINEの返信文を作成しているらしい。室内を歩き回りながらタップしている。おれは無意識にその動きを目で追った。スマホから視線を逸らせなくなっていた。
「なに」
おれの視線に気づき、暖が顔を上げた。おれは逡巡したが、意を決していった。
「連絡はしないから、インスタを見せてほしい」
「インスタ?」
暖は訝しげに眉を寄せたが、すぐに納得したように大きく頷いた。
「ああ、彼女か。紗弓ちゃんだっけ」
おれは答えなかった。答える必要はなかった。暖はすべてを知っている。これまでに話していないこともすべて。おれを監禁したときに、おれのことを調べ上げたのだろう。父親を早くに亡くし、親戚付き合いがすくないこと。友人や恋人のこと。
「彼女のこと、気になるんだな。心配してるかどうか」
「心配してるに決まってんだろ」
「どうかな。案外、もう他の相手見つけてたりして」
スマホを操作しながら、暖はどこか楽しげだった。おれは反駁しかけたが、暖がもう片方のポケットからべつのスマホを抜き出したのを見て言葉を飲み込んだ。
特徴的なキャラクターがデザインされたケース。間違いなくおれのスマホだった。
「アカウント名、おぼえてる? わけないか。おまえのアカウントのフォロワー探したほうが早いな」
暖は独白のようにいって、おれの前にもどり、スマホをかざした。
「パスワード、教えて」
「……」
「教えないと探せないよ」
「もういい」
スマホのなかには親や友達の連絡先だけではなくSNSのアカウントや写真、動画とあらゆる情報が入っている。その気になれば解読されるかもしれないが、教えたくはなかった。
「わかった。おれのアカウントから探してやる」
おれのスマホをしまって、暖は再び自分の機器を操作する。からかわれたのだ。悔しさに唇を噛んだ。
暖はおれのアカウントをフォローしている。知り合ったその日に教えた。田舎町では珍しいセレブの暖とはちがい、おれのフォロワーはごくわずかだ。数分と待たないうちに、紗弓のアカウントを見つけ出した。
「鍵アカみたいだな。フォローしてみようか」
「やめろ!」
暖が母親と連絡を取り合っているのは知っていたが、彼女まで巻き込みたくはなかった。だからこそ今日まで彼女の名は口にしなかったのだ。会いたいという気持ちが高まり、自制がきかなかった。
「冗談だって。おまえがパス教えないのが悪いんだろ」
暖は苦笑いしながらスマホをおれの目前にかざした。反射的に手を伸ばしたが、届かなかった。
「おっと、見るだけ。プロフィールしか見られないけどね。ほら」
フォローされているアカウントしか閲覧できない設定になっているため、確認できるのは短いプロフィール文とプロフィール画像だけだった。画像の顔写真は紗弓が去年友達とUSJに出掛けたときに撮ったもので、画像加工アプリで処理されてはいるが、たしかに紗弓だった。1カ月ぶりに見る紗弓の顔。おれは懐かしさで泣きそうだった。目の前に彼女がいるかのように、画面を見つめ続けた。
「……はい、終わり」
暖がスマホをひっくり返し、立ち上がる。おれは無様にもその動きを視線で追ってしまった。もう一度彼女の顔が見たいと願ったが、叶わなかった。
「来週からすこし忙しくなる」
なにごともなかったかのように、暖がしゃべりはじめる。ポケットではなく持ってきたバッグのなかに2台のスマホを放り込んだ。
「明後日から1週間東京に行くんだ。大学の準備で。マンションも契約しないといけないし」
「東京に住むのかよ……」
「大学が向こうだからな。……ああ、心配すんなよ。2、3日に1回はこっちにくるから。でないとおまえ餓死するだろ」
東京までは車で3時間はかかる。しかし、冗談だとは思えなかった。
「エアコンは自動設定にしておくし、水と食料は欠かさないようにしておくよ。ちょっと寂しいかもしれないけど我慢しろよな」
だれが寂しいものか。おれは文句をいう気にもなれず唇を歪めた。気づくと、暖が呆けた表情でこちらを見ていた。
「……なんだよ」
「おまえ……今、笑った?」
「はあ? 笑ってねえよ!」
咄嗟に否定した。笑ったつもりはなかった。暖を怒らせるのは面倒だと思ったが、暖はとくに機嫌を悪くするでもなく、手で顎のあたりを撫でている。
「そうだよな。久しぶりに見たから驚いた」
「だから笑ってねえって」
笑える状況ではない。おれは半ば呆れて壁を向いた。暖の気まぐれにはついていけない。
「じゃ、明後日までに1週間ぶんの食いもん持ってくるから。今日と明日のぶんはここに置いとく」
気を取り直すように早口にまくしたてて、暖は荷物をまとめドアに向かった。
「ちゃんと食えよ。それから、シャワーも浴びろ。匂うぞ」
生きているか死んでいるかもわからない状態で、体臭に気を遣う余裕などない。おれは無言で壁に向かって寝転がった。
目を瞑るとさっき見た紗弓の笑顔が瞼の裏に甦った。
紗弓とは中学3年のときに出会った。遊び友達の紹介で、ひとつ年下だった。すぐに交際に発展し、もう4年付き合っている。はじめてできた彼女だった。相手がどうかは聞いたことがないが、すくなくともおれはずっと一緒にいたいと望んでいた。
こんなことになって、きっと死ぬほど心配しているだろう。おれは心のなかで詫びた。そして彼女に会いたいと強く願った。向こうもきっとおなじ気持ちでいると信じて。
おれはゆっくりと上半身を起こした。テーブルの上に紙袋が2つ並んでいた。なかにはリゾットとパスタが入った箱。木製のスプーンをつかみ、リゾットを口にはこんだ。暖に従うのではなく、生きるためだ。どんな状況でも希望を捨てたくない。そう思った。


