2225日後

 1カ月ぶりにシャワーを浴び、服を着替えて、歯を磨いた。髭を剃り、すっきりすると、突然、生きているという実感が湧いてきた。
 奇妙なものだ。だれにも知られず、だれにも影響を与えず、影響を受けず、死んでいるのとほとんど変わらないというのに、体を洗い、身を整えるだけで、生きて存在していると感じる。
 ドライヤーはなく、タオルで髪を拭って自然に乾燥させる。最後に髪を切ったのはいつだったか。いつの間にかかなり伸びていて、濡れた毛先が首に纏わりつく。
 暖に髪を切られるときのことを思い出した。うなじを掠める指先。こめかみをくすぐる息。
 指の腹で首の皮膚を擦る。肩口に鼻先を寄せてみる。ボディソープの匂いがした。体臭は消えていた。
 マットレスはまだ汚れているが、暖が替えを持ってくるだろう。髪を拭いながら、おれは裸足で床を歩き回っていた。
 落ち着かない気分。暖は不定期に足を運んでおり、前もって予告することはあるが、基本的には突然やってきて好き勝手に犯し、気が済んだら帰っていく。こんなふうに、いつなにをされるのかわかっている状態で待っているのははじめてだった。
 べつに待っているわけじゃない。壁沿いを何度も往復しながら、おれは心のなかだけで呟いた。
 暖を待っているというわけではない。逃げられないだけだ。体の自由を奪われ、母親を人質に取られて心も捕らわれている。
 右往左往しているのに飽き、床の上にしゃがみこんだ。足首に嵌まった拘束具とそこから伸びる鎖を確認する。金属製の鎖は時間の経過とともにいたんでかなり錆びていたが、壊せるかといえばそれは無理だろう。
 身動きすると、鎖が床上を滑って神経質な音を立てる。暖がおれの上で動くとき、おなじ音を立てる。ただしもっと烈しく、もっと甲高い。
 体の熱が上昇していることに気づき、再び立ち上がった。あと数時間もすれば暖がここへくるだろう。そしてまた音を立てる。鎖が床の上でバウンドするあの不愉快な音。想像したくはないが、他に考えることがない。
 両掌を壁につき、下を向く。前髪の先から滴が落ちるのを見つめた。熱を鎮めようと深呼吸したが、うまくいかなかった。
 思い出すまいとするが、快感が体の奥まで刻み込まれ、消すことができない。
 いつもそうだった。体が心を裏切って反応してしまう。生物としてしかたないと達観することはできなかった。今も、暖に触れられる感触を思い出しただけで、体の奥が痺れる。
 うめき声のようなため息とともに、座り込んだ。体の向きを変え、壁に背中を預けて両脚を投げ出す。股の間がじくじく疼いている。
 いっそのこと早くきてくれればいいと思った。さっさと済ませてしまえば、すくなくとも今のような背徳感からは逃れられる。
 しかし、暖はいつまでたってもあらわれなかった。時計がなくても、何時間も経過していることはわかる。おそらく夜になっているはずだが、ドアが開くことはなかった。
 なにをされるかを考えれば、安堵すべきだった。だが、おれは苛立っていた。逃げるなといっておきながら、なんのつもりなのか。それとも、故意に焦らして楽しんでいるのか。
 べつに待っているわけじゃない。こないというのならそのほうがいいに決まっている。それでも、おれは落ち着かない気分で部屋を歩き回っていた。気を紛らわせようと腹筋や腕立てと運動をしてみたが、苛立ちが増しただけだった。
 なぜ暖に振り回されなくてはならないのか。暖のことを考える時間が長ければ長いほど、惨めさが募った。
 ほとんど自暴自棄になって体を動かしていた。気づくと汗だくになっていた。
 服を脱いだ。シャツを丸めて放り投げる。汗を吸った布の塊が壁にあたって落下し、かたちを崩した。汚れた雑巾のように無様に拡がっている布が自分自身のように思え、視線を逸らした。
 全裸になり、今日3度目のシャワーをつかった。水のまま浴びて、体の熱を冷ます。
 しばらく運動していなかったためか、疲労が烈しかった。筋肉が悲鳴を上げている。脇腹に手をやる。すこし前に暖に指摘されたように、わずかだが贅肉がついていた。暖がしたように指でつまんでみた。陰鬱な気分。
 暖は約束を反故にする気だろうか。必ずくるといったのは嘘だったのかもしれない。おれだけを抱きたいといったのも、汚くても気にならないといったのも、この腹の肉のさわり心地が好きだといったのも、すべて嘘だったのかもしれない。
「くそ……」
 思わず呟いた。信じていたわけではない。暖の言葉を信用したことなどなかった。それなのに、腹が立ってしかたがない。
 そのとき、背後で音がした。鍵が回る音。そしてドアが開けられる音。
 おれは振り向かなかった。拗ねているわけではないが、素直に応対する気になれなかった。シャワーを浴びたまま、振り向かずにいった。
「いくらなんでも遅すぎだろ」
 舌打ちする。反応はないが、背後に気配を感じる。
 ドアが閉まる音。床を叩いて靴音が近づいてくる。平然と行為に移ろうという気なのだろうが、そう簡単にはいかせない。おれはシャワーを止め、全裸のまま体を反転させた。
「どんだけ待たせんだよ、おまえ」
 振り向き、立ち竦んだ。
 なにが起きているのか、わからなかった。
 男が立っていた。暖ではない。知らない男だった。年齢は50くらいか。白髪で、上質なスーツを着ている。胸には議員バッヂ。背格好も着衣も暖に似ていて、一瞬、暖かと思った。しかしちがった。
 まったく想像していなかったことに、すぐには反応できなかった。一瞬置いて、おれは叫んだ。
「助けてください!」
 全裸でずぶ濡れの状態であることも忘れ、おれは来訪者に駆け寄った。
「お願いします、警察呼んでください! 監禁されてるんです!」
 鎖に引き留められ、おれはつんのめった。床の上に倒れる。男のスーツの裾をつかもうと手を伸ばしたが、男が後ずさったために届かなかった。
 おれの勢いに驚いたのかもしれない。どういう理由か知らないが、ここにおれがいるとは知らず、戸惑っているのだろう。おれは逸る気持ちを抑えて必死に訴えた。
「信じられないかもしれないけど、本当です。もうずっと……何年もここに閉じ込められてるんです。携帯持ってますよね。警察を……」
 顔を上げ、言葉を切った。男がおれを見下ろしていた。夜道の繁華街で道路に飛び散った吐瀉物を見るような眼差しだった。ぞっとした。
 男が舌打ちした。おれの髪から散った水滴を拭うために、革靴の足を雑に振った。野犬に小便でも引っかけられたかのようなしぐさだった。
「馬鹿が」
 男が一言いった。氷のように冷たい声だった。
「あの……」
 男はもうおれを見なかった。迷いなく踵を返し、乱暴な手つきでドアを開ける。
「ちょっと待って……待てよ、おい!」
 おれは男の背中に向けて必死に叫んだ。
「行くなよ! なあ、置いてくなって! 助けてくれよ! 助けて!」
 男が振り返ることはなく、無情にもドアが閉まった。大股な足音が遠ざかっていく。
「助けて……」
 全身の力が脱け、へたりこんだ。
「助けてくれ……」
 何度も繰り返しながら、おれは泣いた。どれだけ叫んでも、だれも聞いてくれない。おれは打ちのめされ、立ち上がる気力さえ失っていた。