2225日後

 暖は市議選に当選したらしい。直接聞いたわけではないが、スーツの胸に議員バッヂをつけるようになった。結婚指輪とちがい、隠す気はないようだ。
 再び一言も会話を交わさなくなるようになり、1カ月が経過した。正確にいうと、おれが一方的に無視している。はじめのうちは話しかけようとしていた暖も、諦めたのか、なにもいわずに食料や必要なものを置いて帰るだけになっていた。
 おれはもう暖の機嫌を取ろうとは考えなくなっていた。むしろ、徹底的に拒絶していた。この1カ月、シャワーを浴びず、歯も磨かず、服も着替えていない。髭が顔の半分を覆い、全身から悪臭を漂わせている。
 頭を搔いた。こまかい雲脂がさらさらと落ちてマットレスに点を残した。雪のようだと思った。まだ祖母が生きていた頃、母の実家に遊びに行ったことがある。はじめて見た雪は美しかった。もう何年も目にしていない。
 母はどうしているだろう。母に会いたいと思った。今の息子を見たらどんな顔をするだろうか。
 異臭には比較的すぐに慣れたが、体の痒みにはいまだに悩まされる。爪の間に垢が溜まり、指先が黒ずんでいる。伸びた爪で肌を引っ掻くためにあちこちに擦り傷ができていた。
 こんなことに意味はないのかもしれない。しかし、暖はおれに近づこうとはしなかった。たとえ怒りに身を任せても、欲望に煽られたとしても、この状態では食指が動くことはないだろう。防衛のためと、抵抗でもあった。おれにできる唯一の反抗。
 食事は最低限口をつけたがほとんど残した。暖はなにもいわずに余った食事と容器を持ち帰った。室内の悪臭にもおれの状態に対してもなんの反応も示さない。おれへの関心を失ったかのようにも見える。それでも構わないと思った。暖がある日突然こなくなっても、あるいはもっと直接的な手法でおれを排除しようとしたとしても、おれに止められるものではない。
 政治家の道を歩みはじめ、伴侶も得た暖の社会的立場はこれまでとちがう。いずれはおれやこの部屋が邪魔になるだろう。終わりは必ずくる。どんなかたちであれ。
 マットレスの上で寝返りを打った。眠りたいが、肌の痒みが気になって眠れない。何度も体勢を変え、伸びた爪の先で腕や足を搔きながら、眠りの尾をつかもうとしていた。
 ようやくまどろみはじめたとき、ドアが開く音がした。いつもどおり、マットレスに寝転んだまま、無視を決めこんだ。いつもなら、必要なものだけを置いてそのまま立ち去るはずだった。しかし、暖はなにも持ってこなかった。ドアからまっすぐおれのところへきた。背後で暖がしゃがみこむ気配がした。それでもおれは動かなかった。目を閉じたまま、眠ってしまいたいと思った。そうできないことも知っていた。
 暖の手が伸びてくる。体に触れる直前に避けた。狸寝入りではない。演技する必要はなかった。おれは暖に背を向けたまま体を丸め、全身で拒絶を表現していた。毛穴という毛穴から嫌悪感が噴き出しているように錯覚するほどだ。
 おれの意思を察してか、暖はそれ以上近づかなかった。ただじっと床に座っている。視線だけは背中に感じていた。
 どれほどの時間、互いに動かずにいただろうか。沈黙に耐えられなかった。眠ることもできず、動くこともできない。おれは丸まった姿勢のまま、壁に向かっていった。
「いつまでいるんだよ」
 返答はない。おれは焦れてもう一度いった。
「帰れよ。待ってるひといるんだろ」
 自分自身でさえかろうじて聞こえる程度のボリュームだった。
「だれもいない」
 おなじように静かに、暖がいった。
「離婚した」
 なにをいわれようと、なにをされようと、目を瞑り、無視を続けると決めていた。しかし、おれは目を開けた。ゆっくり起き上がった。
「なに?」
 暖は床にあぐらをかいて座っていた。若手政治家らしい濃い藍色のスーツを着て、胸には議員バッヂが光っている。
「……今、離婚って」
「別れた。今日、届けも出してきた」
 暖の表情には感情がない。おれは戸惑い、眉を顰めた。すぐには言葉が出てこなかった。暖は構わずにしゃべり続ける。
「ほんとはもっと早くと思ったんだけど、なかなか同意が得られなくて……」
 どうすればここまで心を殺せるのか。暖はまるでなにも感じていないようだった。しかし、肌は乾燥し、目の周辺は落ちくぼんで、あきらかに疲弊していた。俯き、膝の上で指を組んで、突然10も20も老けたような暖を、おれは呆然と見つめていた。
 おれの視線に気づいたのか、暖が顔を上げた。視線が絡む。目を合わせたのはいつ以来だろうか。おれたちはしばらくの間見つめ合ったままなにもいわなかった。
 今度は暖のほうが先に沈黙を破った。目を逸らしながらいった。
「勘違いするなよ。おまえのことは関係ない。最初から無理があった」
 わかっていた。責任を感じる必要などない。おれはマットレスを降り、後ろ向きに尻をずらしながら後ずさった。背中が壁にあたり、膝を抱える。狭い部屋の両端で、マットレスを挟んでおれたちは向かい合っていた。
 再び沈黙が流れた。暖が足首を返して膝を立てた。
「こっちくんなよ」
 おれは即座にいって、壁づたいに移動した。足首の鎖をじゃらじゃらいわせながら部屋の隅までたどり着く。暖はその場から動かずに視線だけで追いかけてきた。
「俊介」
「うるせえ。黙ってろ」
 おれは壁に背中と右半身を圧しつけ、膝を折り曲げた。両股をしっかりくっつけて、顔を埋めた。何日も履いたままのスウェットからは饐えた匂いがした。両手で頭を抱え、首の後ろで指を組んだ。手首が耳を塞ぐかたちになった。目を閉じると、なにも見えず、聞こえない。おれは貝のようにすべてを遮断した。なにも感じたくなかった。それなのに、暖が近づいてくる気配がわかる。ほとんど音を立てず、床を滑るようにして数センチずつ距離を縮めてくる。洞窟のなかの蝙蝠のように、間にある空間が狭くなっていくのを肌の表面に感じる。
 暖の吐く息が掠めるほどの距離になったとき、おれは動いた。壁の反対側へ逃げようとした。うまく隙をついたと思った。しかし、足首に繋がった鎖をつかまれた。暖が鎖を引いて、おれはつんのめった。マットレスに俯せに倒れる。不意をつかれて受け身を取れず、額をマットレスに圧しつけた。床だったら顔面を強かに打ちつけていただろう。マットレスが衝撃を吸収した。
 仰向けになって起き上がろうとするおれを暖が押さえつけた。折り重なって縺れ合う。暖の手がシャツの裾を捲る。
「やめろ。さわんなよ」
「さわりたい」
「嫌だって……」
「なんで」
 おれの耳の裏に唇を寄せて、暖が囁く。淡々としてはいたが、欲望を伴っているのは明白だった。暖が息を吸い込む音が聞こえて、おれは顔を紅潮させた。
「さわったらだめな理由いえよ」
「それは……」
 声が上擦る。
「おれが嫌だからに決まってんだろ」
 理由になっていないのはわかっていた。拒絶しない契約だ。これまでも嫌々ながら受け容れてきた。
 暖が下腹部をおれの股に圧しつけてくる。物理的な欲望を示され、おれは狼狽した。慌てていった。
「おまえこそなんでだよ」
「なにが」
 暖の声に熱い息が混じっている。おれは身を捩った。体の向きが変わり、意図せず暖と正面から顔を合わせるかたちになった。うまく焦点が合わないほどの距離で、暖がおれを見つめている。
「男でも女でもだれでも抱けるだろ。なんでおれなの」
「おまえしか抱きたくない」
「だからなんで……」
 暖の視線から逃れようとしておれは眼球を揺らした。洗っていないせいでべとつく肌を暖が掌で擦った。
「やめろって。汚い……」
 無精髭に覆われた顎を暖が舐める。舌が熱い。興奮している。
「変態かよ、おまえ……」
「いまさら……」
「じゃなくて……」
 おれは暖の体重を圧し返せず、マットレスの上で足をばたつかせた。
「今のおれでその気になれるの、おかしいだろ」
 掃除の徹底ぶりや乱れのない着衣などから、暖は潔癖症に近いのではと思っていた。だからこそ不潔にしていることで拒否しようと考えたのだが、どうやら甘かったようだ。暖は完全にスイッチが入った状態だった。息を荒くして、垢と汗にまみれたおれの体をまさぐっている。
 顎をつかまれ、くちづけられた。暖が愛用しているブレスケアミントの味が腔内に拡がる。おれのほうは何日も歯を磨いていない。
「ちょ、暖……」
「おかしくない」
 鼻先を擦れ合わせながら、暖はおれの目を見た。
「どういう状態でもおれはおまえが……」
 不自然に言葉を切って、口を開いた状態のまま暖はおれを見つめ続けている。
「……おれがなんだよ」
「いや……」
 暖は視線を逸らした。早口にいった。
「おまえのこと、べつに汚いとかは思わない」
 やはり汚いものに興奮する性質なのではないだろうか。そう思いながら、おれは暖の胸に掌を圧しあてた。油断していたらしく、今度は案外簡単に圧しのけることができた。
「なあ、待てってば」
 右手で服の乱れをなおし、もう片方の手を暖のほうに突き出して見せ、おれは慌てていった。
「なんだよ。約束だろ」
「わかってるよ。やらせないとはいってない。ただ……」
 どう説明すべきか判断に迷った。おれのほうもかなり混乱している。
「恥ずかしいんだよ。わかるだろ」
 頬が熱い。紅潮した顔を隠すためにまた膝を抱えた。
「明日……」
「え?」
 さすがに声が小さすぎたようだ。暖が顔を近づけようとするのを遮って、おれはもう一度繰り返した。
「明日ならいい」
 暖がおれを見ている。視線を返すことができなかった。
「……わかった。明日だな」
 一度口にしたものを引っ込めるわけにもいかず、おれは頷いた。
「じゃ、明日またくるから……準備しとけよ」
 頷くしかなかった。暖が立ち上がる。皺の寄ったスーツを気にしながら、床に落としたバッグを拾い上げる。
「俊介」
 顔を上げると、暖がおれを見下ろしていた。なんとも形容しがたい眼差しだった。
「なんだよ」
「いや……なんでもない。明日な」
 暖がドアを開ける。一度姿を消しかけ、もう一度もどっておれのほうを指さした。
「逃げんなよ」
 どこに逃げられるというのか。ドアが閉じる音を聞きながら、おれはマットレスに顔を伏せた。
 暖がなにをいおうとしたのか、自分がなにをいいたかったのかわからなかった。おれは汚れたマットレスに額を擦りつけながら、再び頭を抱えた。