市議選の選挙活動がはじまり、暖は文字どおり寝る暇もなく駆け回っているようだった。圧倒的な組織票を持ち、父親や周辺の有力者からのバックアップを受けているからには、まず当選間違いなしというところだろうが、とはいえ、初の選挙で手を抜くわけにもいかないのだろう。
食料の補充や掃除のために足を運びはするものの、おれが寝ている間に済ませて気づかないうちに出て行くことがほとんどだった。
性行為も強要されることなく、楽ではあったが、いっぽうで、おれはなんとなく不安になっていた。
すこし前に口論になってから、暖はまったくおれを一言も口をひらこうとしない。おれからも話しかけなかった。翌日にはいつものように軽口を叩いてくるものと思っていた。単に忙しくて余裕がないだけかもしれないが、もしかするとおれへの興味を失ったのかもしれない。
喜ばしいことではあったが、同時に、危機感も抱いた。暖は殺人を犯したくないからおれを殺さないといった。額面どおりに受け取ることはできないにしても、今のところはおれを放置して衰弱させるつもりはないようだ。しかし、立場が変われば状況も変わる。
暖はおそらく選挙に当選するだろう。政治家になれば自由に動ける時間が制限される。スキャンダルを狙う連中も増えるかもしれない。そうなればおれの存在がリスクに変わるかもしれなかった。
思ったよりも残り時間はすくないのかもしれない。永遠にこのままでいられるはずもない。おれは膨大なひとりきりの時間をつかって考えを巡らせた。
体調を崩して寝込んだとき、唯一暖の態度が軟化した。詐病が通じるかはわからないが、試してみる価値はあるだろう。しかしそう考えると、今の状況はいいとはいえない。体調不良を理由に医者を呼ばせるなり外部に連絡を取るなりするためには、暖がおれの身を案じることが条件だった。
不愉快ではあるが、自分の身を守り、逃亡を現実にするためには、ある程度暖の機嫌を取っておいたほうがいいだろう。
そしておれはこの日、考えてきた作戦を実行することにした。
「なあ」
思いがけず声をかけられて驚いたのか、暖は掃除をしていた手を止めた。
「なに」
「ちょっと話せるか」
おれはできうる限り穏やかな声をつくっていた。暖は振り向きもせず再び手を動かしている。
「ごめん。5分で出ないといけないから」
「5分でいい」
おれはマットレスを降り、立ち上がった。テーブルの上を拭いている暖の背後に立った。
おれの気配を察知しているはずだが、暖は無反応だった。無視されていることに苛立ったが、態度には出さなかった。代わりに、昨日ひと晩かけて考えた動作を実行した。
短く息を吐く。覚悟を決めて、一歩足を踏み出す。
暖の背中に額をあてた。触れるか触れないか。厚手の背広に隔てられて、体温を感じることはできない。しかし、暖の背筋が一瞬震えた。はっきりわかった。反応は予想とは異なっていた。
暖がゆっくり体の向きを変えた。目の前に暖のネクタイの結び目。喉仏が蠢く。
暖の左手がおれの右頬に触れる。ふだんなら顔を背けて逃げるが、この日は反対に自分の右手を暖の左手に添えた。何度も頭のなかで繰り返し予習した。うまくできたと思った。しかし、ひとつだけ、まったく予想していなかったことに気づいた。いつもとちがう……直感にちかい違和感。
おれは暖の手をつかんだ。互いの顔の間に持ってくる。暖の左手の薬指には無色透明の石が埋め込まれた指輪が嵌まっていた。
暖が咄嗟に手を引いた。おれの視線から隠すように背広のポケットに突っ込む。ふだんの暖なら、そうはしなかったはずだ。隠すなど、馬鹿のやることだ。
「おまえ……結婚すんの?」
想像もしていなかった。思わず尋ねた。
暖は無言で視線を逸らした。その態度に、おれは愕然とした。婚約指輪だと思った。ちがった。聞き直した。
「結婚してんの?」
暖はまだなにもいわない。もう演技はできなかった。声が震えた。
「いつ」
「……去年の夏」
足が震えた。衝撃で舌が縺れた。
「おまえ、男が好きなんじゃなかったの」
「そうだけど、それは……」
「嘘ついたのかよ」
無意識に責める口調になっていた。暖が素早く首を振る。
「ちがう」
「おれにいわなかったじゃねえかよ」
「聞かれなかったからいわなかった。嘘はついてない」
「屁理屈いってんじゃねえよ」
おれは両手で暖の胸を突いた。ふだんならびくともしない。このときは後ずさってテーブルの端に腰をぶつけた。離れようとするおれの腕をつかんで、暖が早口に弁解する。
「ちょっと待てって。今説明するから」
「なんの説明だよ」
振り払おうとしたが無駄だった。どうせこの部屋のなかで逃げる場所などない。話を聞きたくなければ耳を塞ぐしかなかった。そのための両腕は暖にしっかり拘束されている。
「離せって、この……」
「いわなかったのは、おまえが怒ると思ったから……」
「怒ってねえよ」
「怒ってるだろ」
「怒ってねえって。なんでおれが……」
「父親に棄てられたと思ってるんだろ」
想定していない言葉に、おれは戸惑った。予想すらできないことばかりが立て続けに起きて、パニックに陥りかけている。
「思ってるんじゃない、事実なんだから」
「ちがう」
暖ははっきりいった。おれは眉を顰めて暖を見た。
「おまえ、おふくろになんか聞いたのかよ」
抑えていた苛立ちが怒りに変わった。
「おふくろと話すなっていっただろ。なんでおまえはおれが……」
「愛情はない」
おれの言葉を遮って、暖がいう。まっすぐにおれの目を見て、いった。
「相手は資産家の娘で、親同士で決められてた。家柄がよくても、うちにはそれほど軍資金があるわけじゃない。相手は地元の建設業の成金で、うちとは反対に家柄を欲しがってた。互いの目的が一致しただけの政略結婚だよ。よくある話だろ」
「ねえよ。いつの時代だよ」
「いっただろ、おまえにはわからないんだって」
「どうせおれにはわからねえよ、金持ちの都合なんか」
吐き棄てるようにいった。暖の手から逃れようと暴れた。足が暖のスーツの脛を蹴り、一瞬拘束の手が緩んだ隙に抜け出した。シャワースペースの隅に駆け込み、しゃがみこんだ。逃げ場がないのはわかっていたが、最大限の距離を取りたかった。とにかく暖から離れたかった。
「……悪かったよ」
暖が呟く。暖が謝ったのははじめてだった。
「黙っててごめん」
ふだんなら噴き出すような殊勝な態度。暖は親に叱責された少年のように肩を丸めていた。まるで本気で悪いと思っているようだとおれは思った。かえって苛立ちが増した。
「どうしたら許してくれる?」
「うるせえ。こっちくんな」
足を踏み出しかける暖を牽制した。暖は素直に動きを止め、そのままの姿勢でおれを見ている。まるで主人の命令を待つ飼い犬だ。
怒っているわけではない。怒る理由がない。ただ、暖に触れられるのが嫌だった。これまで以上に。絶対に触られたくなかった。
「おまえがしてること、奥さん、知ってるのかよ」
「知るわけない」
「そりゃそうだよな」
おれは壁に背中を擦りつけながら暖をにらみつけた。
「家でもセックスしてんのか」
暖は答えない。肯定したのとおなじだった。おれは笑った。
「父親とおなじだな。家族に内緒で地下室でやりまくってる。おまえの子どももその子どももみんなここにだれかを監禁してレイプするんだろ」
「子どもはつくらない」
暖がいった。張り詰めた声だった。
「子どもなんかつくれない。おれで終わりにする」
暖の目の奥は暗かった。生きている人間のものには思えなかった。
苛立ちを超えて、無感動になっていた。おれはバスルームのタイルの上で膝を抱えた。
「帰れ」
それだけをいった。暖はなにかいいたげに口をひらいたが、けっきょくは黙り込んだ。そのまま踵を返し、出て行った。
食料の補充や掃除のために足を運びはするものの、おれが寝ている間に済ませて気づかないうちに出て行くことがほとんどだった。
性行為も強要されることなく、楽ではあったが、いっぽうで、おれはなんとなく不安になっていた。
すこし前に口論になってから、暖はまったくおれを一言も口をひらこうとしない。おれからも話しかけなかった。翌日にはいつものように軽口を叩いてくるものと思っていた。単に忙しくて余裕がないだけかもしれないが、もしかするとおれへの興味を失ったのかもしれない。
喜ばしいことではあったが、同時に、危機感も抱いた。暖は殺人を犯したくないからおれを殺さないといった。額面どおりに受け取ることはできないにしても、今のところはおれを放置して衰弱させるつもりはないようだ。しかし、立場が変われば状況も変わる。
暖はおそらく選挙に当選するだろう。政治家になれば自由に動ける時間が制限される。スキャンダルを狙う連中も増えるかもしれない。そうなればおれの存在がリスクに変わるかもしれなかった。
思ったよりも残り時間はすくないのかもしれない。永遠にこのままでいられるはずもない。おれは膨大なひとりきりの時間をつかって考えを巡らせた。
体調を崩して寝込んだとき、唯一暖の態度が軟化した。詐病が通じるかはわからないが、試してみる価値はあるだろう。しかしそう考えると、今の状況はいいとはいえない。体調不良を理由に医者を呼ばせるなり外部に連絡を取るなりするためには、暖がおれの身を案じることが条件だった。
不愉快ではあるが、自分の身を守り、逃亡を現実にするためには、ある程度暖の機嫌を取っておいたほうがいいだろう。
そしておれはこの日、考えてきた作戦を実行することにした。
「なあ」
思いがけず声をかけられて驚いたのか、暖は掃除をしていた手を止めた。
「なに」
「ちょっと話せるか」
おれはできうる限り穏やかな声をつくっていた。暖は振り向きもせず再び手を動かしている。
「ごめん。5分で出ないといけないから」
「5分でいい」
おれはマットレスを降り、立ち上がった。テーブルの上を拭いている暖の背後に立った。
おれの気配を察知しているはずだが、暖は無反応だった。無視されていることに苛立ったが、態度には出さなかった。代わりに、昨日ひと晩かけて考えた動作を実行した。
短く息を吐く。覚悟を決めて、一歩足を踏み出す。
暖の背中に額をあてた。触れるか触れないか。厚手の背広に隔てられて、体温を感じることはできない。しかし、暖の背筋が一瞬震えた。はっきりわかった。反応は予想とは異なっていた。
暖がゆっくり体の向きを変えた。目の前に暖のネクタイの結び目。喉仏が蠢く。
暖の左手がおれの右頬に触れる。ふだんなら顔を背けて逃げるが、この日は反対に自分の右手を暖の左手に添えた。何度も頭のなかで繰り返し予習した。うまくできたと思った。しかし、ひとつだけ、まったく予想していなかったことに気づいた。いつもとちがう……直感にちかい違和感。
おれは暖の手をつかんだ。互いの顔の間に持ってくる。暖の左手の薬指には無色透明の石が埋め込まれた指輪が嵌まっていた。
暖が咄嗟に手を引いた。おれの視線から隠すように背広のポケットに突っ込む。ふだんの暖なら、そうはしなかったはずだ。隠すなど、馬鹿のやることだ。
「おまえ……結婚すんの?」
想像もしていなかった。思わず尋ねた。
暖は無言で視線を逸らした。その態度に、おれは愕然とした。婚約指輪だと思った。ちがった。聞き直した。
「結婚してんの?」
暖はまだなにもいわない。もう演技はできなかった。声が震えた。
「いつ」
「……去年の夏」
足が震えた。衝撃で舌が縺れた。
「おまえ、男が好きなんじゃなかったの」
「そうだけど、それは……」
「嘘ついたのかよ」
無意識に責める口調になっていた。暖が素早く首を振る。
「ちがう」
「おれにいわなかったじゃねえかよ」
「聞かれなかったからいわなかった。嘘はついてない」
「屁理屈いってんじゃねえよ」
おれは両手で暖の胸を突いた。ふだんならびくともしない。このときは後ずさってテーブルの端に腰をぶつけた。離れようとするおれの腕をつかんで、暖が早口に弁解する。
「ちょっと待てって。今説明するから」
「なんの説明だよ」
振り払おうとしたが無駄だった。どうせこの部屋のなかで逃げる場所などない。話を聞きたくなければ耳を塞ぐしかなかった。そのための両腕は暖にしっかり拘束されている。
「離せって、この……」
「いわなかったのは、おまえが怒ると思ったから……」
「怒ってねえよ」
「怒ってるだろ」
「怒ってねえって。なんでおれが……」
「父親に棄てられたと思ってるんだろ」
想定していない言葉に、おれは戸惑った。予想すらできないことばかりが立て続けに起きて、パニックに陥りかけている。
「思ってるんじゃない、事実なんだから」
「ちがう」
暖ははっきりいった。おれは眉を顰めて暖を見た。
「おまえ、おふくろになんか聞いたのかよ」
抑えていた苛立ちが怒りに変わった。
「おふくろと話すなっていっただろ。なんでおまえはおれが……」
「愛情はない」
おれの言葉を遮って、暖がいう。まっすぐにおれの目を見て、いった。
「相手は資産家の娘で、親同士で決められてた。家柄がよくても、うちにはそれほど軍資金があるわけじゃない。相手は地元の建設業の成金で、うちとは反対に家柄を欲しがってた。互いの目的が一致しただけの政略結婚だよ。よくある話だろ」
「ねえよ。いつの時代だよ」
「いっただろ、おまえにはわからないんだって」
「どうせおれにはわからねえよ、金持ちの都合なんか」
吐き棄てるようにいった。暖の手から逃れようと暴れた。足が暖のスーツの脛を蹴り、一瞬拘束の手が緩んだ隙に抜け出した。シャワースペースの隅に駆け込み、しゃがみこんだ。逃げ場がないのはわかっていたが、最大限の距離を取りたかった。とにかく暖から離れたかった。
「……悪かったよ」
暖が呟く。暖が謝ったのははじめてだった。
「黙っててごめん」
ふだんなら噴き出すような殊勝な態度。暖は親に叱責された少年のように肩を丸めていた。まるで本気で悪いと思っているようだとおれは思った。かえって苛立ちが増した。
「どうしたら許してくれる?」
「うるせえ。こっちくんな」
足を踏み出しかける暖を牽制した。暖は素直に動きを止め、そのままの姿勢でおれを見ている。まるで主人の命令を待つ飼い犬だ。
怒っているわけではない。怒る理由がない。ただ、暖に触れられるのが嫌だった。これまで以上に。絶対に触られたくなかった。
「おまえがしてること、奥さん、知ってるのかよ」
「知るわけない」
「そりゃそうだよな」
おれは壁に背中を擦りつけながら暖をにらみつけた。
「家でもセックスしてんのか」
暖は答えない。肯定したのとおなじだった。おれは笑った。
「父親とおなじだな。家族に内緒で地下室でやりまくってる。おまえの子どももその子どももみんなここにだれかを監禁してレイプするんだろ」
「子どもはつくらない」
暖がいった。張り詰めた声だった。
「子どもなんかつくれない。おれで終わりにする」
暖の目の奥は暗かった。生きている人間のものには思えなかった。
苛立ちを超えて、無感動になっていた。おれはバスルームのタイルの上で膝を抱えた。
「帰れ」
それだけをいった。暖はなにかいいたげに口をひらいたが、けっきょくは黙り込んだ。そのまま踵を返し、出て行った。


