2225日後

 就職して1年半。暖はあっさりと会社を辞めた。どうやら市議選に出馬するらしい。既定路線だったようで、退職から選挙の準備まで滞りなくすすんでいるという。市議選はスタートラインに過ぎず、いずれは国政の場にも乗り出すつもりなのだろう。
 週末、暖はいつもより大荷物でやってきた。着替えが入った袋に仕事用のファイルまで持参している。
「なに、泊まんの」
「そう。嫌か?」
「嫌に決まってんだろ」
 おれはあからさまに顔をしかめた。
 暖のスーツからはいつもの香水の匂い。男を監禁して性奴隷にしていることを知ったら、香水の持ち主はどう思うだろうか。
「選挙で忙しいんだろ。帰れよ」
「冷たいな。最近構ってやってないから、たまには時間つくろうと思ったのに」
「キモいこというんじゃねえ。殺すぞ」
「はは。とりあえずメシ先にするか?」
 こういういいかたをするときは、すなわち食事の後にセックスするということだ。おれはため息をついた。すっかり慣れたとはいえ、やはり憂鬱であることにはちがいない。
 食事を済ませ、セックスして、3時間後にはマットレスの上に並んで寝そべっていた。暖が差し出す煙草を受け取り、肺に煙を入れ、吐き出す。
 はじめのうちは触れられるたびに嫌悪感で吐き気をもよおした。今となっては、歯を磨いたり髪を梳かしたりする作業と変わらない、日常のひとつになっていた。慣れというのはおそろしいものだ。
「おまえ、マジで帰れよ。忙しいんだろ」
「忙しいからだよ。ここだとよく眠れるから」
 冗談にもほどがある。自宅がどんなところか知らないが、ここより快適であることは間違いない。おれの表情を見て、暖が笑う。
「ほんとだよ。ここでだけ熟睡できる」
 煙草の煙を吐き出しながら、暖は独白のようにいった。
「ほかの場所では息が詰まるだけだからな」
「ここだと気楽ってか」
 全裸で煙草を吸いながら、おれは自嘲気味に笑った。
「おれが逆らえないってわかってるからだろ」
「外でもだれも逆らわない」
 暖は右手で煙草をつまみ、左手でおれの背中に指を這わせている。肩甲骨から背骨へと滑らせ、指先で肉を圧す。性的な意味があるものではない。単なる暇つぶしだ。
「最近ちょっと太ったんじゃないか」
 背中から腹に手を回し、暖がいう。
「しょうがねえだろ、トシなんだから」
「まだ若いだろ」
「若くない、もう」
 実際、暖が食事をつくるようになってから、あきらかに太っていた。体重計に乗ったわけではないが、見た目も変わっているだろう。ほんの数キロのはずだが、さすがに全身べたべた触って確認しているだけあって、すぐに気づいたようだ。
「いいんじゃないの。こういうふわふわした感触、おれ好き」
 脇腹の肉を軽くつまんで、暖がおれの肩に顎を載せる。
「うるせえ。厭味いってんじゃねえ」
 身を捩って避け、立ち上がった。全裸のまま冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターを飲む。
「おまえみたいにジムでトレーニングできたら筋肉だってつけられるんだよ」
「怒んなよ」
 暖が上半身だけ起こして首を窄める。
「なにイライラしてんだよ」
「べつにイライラしてねえよ。おまえがずっといるのが嫌なだけ」
 振り向かずにいって爪先で冷蔵庫のドアを閉める。思いがけず大きな音がした。
「……もういい。わかった。そんな嫌なら帰るわ」
 暖が大きくため息をついて立ち上がる。気怠い手つきで服を着る。
「服とかちゃんと持って帰れよ」
「わかってるよ。いちいちめんどくせえな」
 暖が勢いよくドアを閉める。おれは脱ぎっぱなしにしていたシャツをつかんでドアに向かって投げた。シャツは空中を舞って、ドアにたどり着く前に床に落下した。苛立ちが増しただけだった。
 コーラの空き缶、煙草の箱、ペットボトル、手の届くところにあるものを手当たり次第ひっつかんで投げた。ペットボトルの蓋は完全に閉まっていなかった。ドアにあたって床をバウンドし、中身が散乱した。
「くそっ……」
 足の踏み場もなくなった部屋の中心で、おれは膝を抱えた。