2225日後

「紗弓ちゃん、結婚したみたいだな」
 冷蔵庫の前にしゃがみこんで食品の整理をしながら、暖が振り向かずにいった。おれは暖が買ってきたカルボナーラを口に運んでいるところだった。一拍置いて、顔を上げた。
「……まだ連絡取ってんの」
「いや。インスタに載せてた」
 暖が立ち上がる。差し出されたスマホ。紗弓のインスタグラムにはウエディングドレスを着て幸せそうな笑顔が投稿されていた。相手の男は知らない顔だが、爽やかでいかにも高スペックという印象だ。
「外資系金融会社の営業だって」
「イケメンだな」
 スマホを返して、食事にもどる。視線を感じ、目だけを向けた。
「なんだよ」
「べつに」
 暖は目を逸らした。床にあぐらをかいて、冷蔵庫に保管している食品の賞味期限を確認しながら、暖がいう。
「ショックだったんじゃないかと思って」
「おれが?」
 思わず笑ってしまった。
「正直、忘れてた」
「ほんとに?」
「嘘ついてどうすんだよ」
 実際に、紗弓の名前を聞いたとき、すぐには顔が浮かんでこなかった。最後に会ったのは5年近く前だ。結婚したと知っても、心が動くことはなかった。
「お嫁さんになるのが夢だっていってたからな。よかったんじゃねえの。相手もいいひとそうだし」
 紗弓と過ごした日々。明確に思い出すのが難しくなっていた。ここにくる前の自分がどんな生活を送っていたか、なにを考えていたか、すこしずつ朧になっている。
 冷蔵庫の整理を済ませ、暖が立ち上がった。コートを着て、身支度を整える。
「帰んの?」
「ああ」
 以前までは性行為をせずに帰ることはほとんどなかったが、ここ数カ月は忙しいらしく、食料品を置いてすぐに去ることも多かった。
「これから会議だから」
「ああ……今、朝なのか」
 暖は腕時計に目をやって、バッグを持ち上げた。パスタを食べているおれの背後にきて、後ろから首を伸ばし、軽くキスした。
「行ってくる」
 おれは反応しなかったが、暖は気にしていないようで、ドアを閉めて出て行った。靴音が遠ざかっていく。
 食欲が湧かない。パスタの表面が乾きはじめている。おれは食事を中断してマットレスに寝転がった。ここのところ体が重くなっている。運動しなくては。
 冷蔵庫の底部分の隙間に脚をかけ、膝を曲げた。両手を後頭部に回し、上半身を持ち上げる。胸が膝頭につくまで体を折り曲げ、次は左右に振る。10セットを5回。毎日継続している。
 監禁されてからもうすぐ5年になる。紗弓だけでなく、高校時代の友人やアルバイトをしていた店の仲間もおれのことなど忘れてしまっただろう。
 ペットだと思っているのか、それとも恋人気分なのか、暖は気味が悪いほどやさしい。逃亡を謀ったり反抗したりしなければ、1日3食与えられ、平和に過ごせる。性行為を求められることは苦痛ではあったが、目を閉じて耐えていれば、母親も高級医療施設でアルコール依存症の治療を受けながら快適な生活を堪能できる。
 それでも、おれの心が晴れることはない。胸の奥の影を取り払おうとするかのように、おれはトレーニングに没頭した。汗が噴き出し、心臓が跳ねる感覚が狭まっていく。生きていることを実感できる数すくない時間だった。