2225日後

 暖は大学を卒業した。就職先は県内の広告代理店らしい。一番の得意先は父親の運送会社だ。上司になる人間はさぞやりにくいことだろう。同情する。
「俊介……そろそろいくぞ。いいか?」
 背後で暖が囁く。声が上擦っている。切迫している。いいもなにもない。おれは四つん這いになり、マットレスに顔を埋めて、ひたすら終わりを待っていた。
 暖が声を上げて、尻のなかにじわりと熱を感じた。大きな体が被さってきて、胸が圧迫される。暖はおれに折り重なるように脱力して、全身を上下させ息をしている。自然と呼吸のタイミングが重なる。
 卒業式の夜、暖はスーツ姿のままやってきた。その夜はめちゃくちゃに抱かれた。どちらもわかっていた。4年前、高校の卒業式の夜。あのときにすべてがはじまったのだ。そのときはいつもより強引で、おれの体に無数の痕を残した。
 4年を過ぎると、おれにはもう逃げる気力はなくなっていた。唯一の肉親である母親を押さえられているのだ。監禁しているのではなく施設で安全に生活しているとはいえ、人質に取られているのも同然だ。たとえ隙を見て逃亡に成功したとしても、母を迎えに行き、施設から連れ出し、一緒に逃げなくてはならない。もしくは母を見捨ててひとりで逃げるか。どれも現実的とはいえなかった。けっきょくおれは年が明けてもこうして暖の性欲を処理する役割を果たし続けていた。
「……おれ、男ともやれんだな」
 行為後の処理をするためにウェットティッシュをつかう暖に協力して脚を上げながら、いった。
「なんかショックだわ」
「棒と穴があれば、だれでもなんでもできる」
 おれの体をていねいに拭きながら、暖の返事は身も蓋もない。
「そりゃそうだけどさ」
 背中に飛び散った精液の白を身を捩って眺めながら、おれはため息をついた。
「ほかの男ともおなじようにやれんのかな」
「おい」
 暖があからさまに顔をしかめる。不快そうに舌打ちして、丸めたウェットティッシュをおれの顔めがけて投げつけてきた。
「なんだよ。きたねえ」
「うるさい。冗談でもそういうこというな」
 頭を叩かれる。理不尽だった。
「おまえはおれのものだ。だれにもさわらせない」
「ふざけんな。やらせてるからっておまえのものってわけじゃねえから。勘違いすんな」
「おまえのほうこそ、おれがやさしくしてやってるから勘違いしてんじゃないのか」
 マットレスの上に転がったウェットティッシュの塊を投げ返す。
「……悪かったよ」
 しばらくして、暖がため息をついた。
「ごめんって。煙草吸うか」
 殊勝な態度をつくり、煙草を勧めてくる。腹は立ったが、煙草の誘惑には逆らえない。
「おまえはどうなの」
 暖が差し出す煙草を咥え、ジッポの火に顔を近づけながら、おれはいった。
「おれがなに?」
「男とやってんの」
 暖はきょとんとした顔になった。煙草の煙を吐くのとともに答えた。
「今やってる」
「じゃなくて、おれ以外ってことだよ」
「なんでそんなこと聞く?」
「べつに」
 フィルターをつまんで、おれは首をすぼめた。
「やってないんだったら、ほかでもやってくりゃいいんじゃないかと思って。そしたらおれも楽だし」
 卒業後、地元に帰って、仕事がはじまるまでの数週間は、文字どおりやりまくった。暖はほとんどの時間をこの部屋で過ごし、必要なものを買い足すための外出以外は食事するかシャワーを浴びるか性行為をするかしかなかった。
「セフレつくれってこと?」
「まあ、なんでもいいけど。彼氏でもセフレでも」
 ビールの空き缶に煙草を投げ入れ、おれはいった。暖はマットレスに肘を立てて頭を支えながらおれを見ている。
「なんだよ」
「べつに」
 暖が眉を上げる。18歳から22歳になり、暖の顔は大人の男のものに変化していた。おれの顔はどうなっているだろうか。鏡を見ることがほとんどないからわからない。
「セフレはいらない。おれセックス嫌いだし」
 噴き出しそうになった。
「変なこといったか?」
「見てみろよ、これ」
 おれは自分の体を示しながらいった。
「ひとの体痣だらけにしといて、セックス嫌いはないだろ」
「自分でも不思議なんだよな」
 暖は悪びれることもなくいってのけた。
「こんなふうにできるとは思ってなかった。セックスじたい一生したくないと思ってたし」
「なんだそれ」
 興味が湧いたわけではなかったが、なにげなく尋ねた。
「おまえ、最初は女だったんだろ。なんか失敗でもした?」
「そういうのじゃない」
 仰向けになったおれの髪を指先で弄りながら、暖が話す。
「相手ってどんなの?」
「さあ。名前も知らない」
「もしかしてプロ?」
「だったのかもしれない。よくわからない」
 暖は淡々といった。つかみどころがない。おれはさらに尋ねた。
「どこでやったんだよ。ホテル?」
「いや」
 暖が首を振る。
「ここ」
「は?」
 おれは体を起こして暖を見た。
「ここ? この部屋で?」
 形容しがたい感覚が全身を駆け巡り、おれは声を震わせた。
「おれの前にもここにだれか監禁してたのかよ?」
「おれじゃない。父親だよ」
 返事は思いがけないものだった。おれは絶句した。暖は変化のない口調で続けた。
「ここは父親から譲り受けたっていっただろ。もともとはその父親、おれの祖父がつくった地下室だった。祖父も父もみんなここをおなじ目的につかってた」
「監禁部屋……」
 口にするのもおぞましかった。地方の権力者が守り続けてきた暗い秘密。おれが考えている以上に邪悪で非人道的だった。
「高3の夏、おれ1カ月くらい消えてただろ」
 おぼえていた。暖と一緒でなければクラブに入れない。しかたなく居酒屋や公園で酒を飲んでいた記憶がある。
「たしか、海外に短期留学とか……」
「あれは嘘。ほんとはここにいたんだ。1カ月間」
 衝撃的な話だった。おれは混乱して眉を顰めた。
「え……じゃあ、おまえも監禁されてたってこと?」
「ちがう」
 暖は新しい煙草を咥えた。火をつけ、一口吸った。ゆっくりと煙を吐き出した。
「夏休みに入るすこし前、母親が勝手におれの部屋に入って、で、見つけた」
「なにを」
「男の裸が載った雑誌とか男のアイドルの写真集とか」
 暖は唇の端を歪めた。自虐的な笑いに見えた。
「母から父に伝わって、それで、ここに連れてこられた」
 暖はそういって首を捻り、部屋を見渡した。
「女がいた。今おまえがつけてるその鎖を脚につけて」
 ぞっとした。うすら寒いものが足首から頭の先まで駆け上ってきた。
「どういう素性の女かはわからない。ほとんど会話してないから。無理矢理連れてこられたというよりは、金を積まれた感じだったと思う。1カ月、閉じ込められた。その女とふたりで」
 おれはフェミニストではない。LGBTへの偏見もないが、無理に理解しようとも思わない。それでも持って生まれたものを他人が矯正するために人権を無視するのが間違いだということがわかる。
 裸の女と1カ月もの間ふたりきりで狭い部屋に押し込まれる。それだけ聞けば羨む男もいるかもしれない。しかし、性の経験がなく、しかも恋愛対象が男だと自認している高校生には、トラウマになりかねない。
「荒療治のつもりだったかもしれないけど、まあ、そんなんでどうにかなるもんでもないよな。何度もおなじことされたらたまらないから、治ったふりしたけど」
 暖は苦笑いしながらいった。筆舌に尽くしがたい苦痛だったはずだが、すくなくとも表面上はまるで気にしていないかのようだった。
「その女は……」
「知らない。いつの間にかいなくなってた。そのまま父からこの部屋を譲り受けて、今に至る」
 おとぎ話でも朗読するかのようにいって、暖は起き上がり体を伸ばした。
「おれがセックス嫌いな理由、わかっただろ」
 言葉を失っているおれの首を撫でて、笑顔をつくった。
「おまえがきついんだったら、我慢してすこしセーブする。それでいいよな?」
 だめだとはいえなかった。暖は自分が歪んでいるのは生まれつきだといったが、環境による影響もあっただろう。地元で尊敬を集める伝統ある家が裏では忌むべき犯罪に手を染め、しかも代々受け継いできたと知り、ぞっとした。
「おれはおまえがうらやましいんだよ、俊介」
「おれが? 母親は飲んだくれだし父親はいないのに」
「お父さんもお母さんもおまえのことちゃんと愛してると思うよ」
「それはないだろ」
 鼻で笑った。愛されていると感じたことはなかった。すくなくとも父親からの愛情を受けた記憶はない。
「愛情があったら不倫なんかしないだろ」
 暖は黙っていた。煙草の先を空き缶に押しつぶして、身を寄せてくる。ニコチンの味がするキス。過去のトラウマを打ち明けたせいか、暖は昂っているようだった。一瞬躊躇って、暖の胸に掌をあてたが、けっきょくは力を抜いてしまった。
 悲惨な目に遭ったからといって、暖がしたことが許されるわけではない。なにもかも家庭環境のせいにはできない。
 暖の唇が顎から首へと下降し、熱を帯びた指が下腹に伸びる。愛撫を受けながら、おれはぼんやりと天井を見つめていた。3世代にわたって、いったい何人がこの天井を眺めていたのだろうかと考えながら。