夢を見た。まだ幼い頃、母親に手を引かれて歩いている。母はいつになく楽しげで、ふだんは滅多にしない化粧をして、花柄のワンピースを着ている。大切なひとに会ってほしいとおれに告げ、輝くような笑顔で息子を抱え上げた。
「さあ、俊介。このひとよ」
母に促され、視線を移す。母が指さした先に男が立っていた。黒いジャンパーを羽織り、フードを深く被っている。
男がおれを抱き上げようとするかのように両腕を突き出してくる。その拍子にフードの下の顔があらわになった。男の顔は血だらけで、皮膚がめくれ、頬骨が突き出していた。目を見開き、恨みがましい眼差しでおれをにらんできた。
悲鳴。自分のものだった。飛び起きると、異質な金属音が耳に入った。右足首に嵌まった金属製の拘束具がおれの動きに合わせてじゃらと不快な音を立てていた。太い鎖で壁につながっている。
「起きたか」
いつの間にか暖がこちらを見ていた。おれの前に屈み込み、首を傾けてこちらを見ている。
反射的に飛び起きた。つかみかかろうとしたが、拘束具が邪魔をした。壁にしっかり固定された拘束具がおれの動きを止め、おれはつんのめって転倒した。
「だいじょうぶか」
「うるせえ!」
床に這いつくばったまま、おれは暖を見上げた。
「てめえ、冗談じゃねえぞ。いい加減ここから出せ」
「あきらめろよ。いつまでわめいてんだ」
暖は落ち着き払っていた。ゆったりとした動きで立ち上がり、ブルゾンのポケットから煙草を取り出した。
「暖、おまえ、わかってんのか。これ誘拐だぞ。誘拐プラス監禁。立派な犯罪。交通事故なんかとは比べもんになんないくらいの犯罪!」
「わかってるよ。おれは法学部に進学するんだぞ。法律に関してはおまえより詳しい」
暖はマッチを擦って煙草に火をつけた。慣れた手つきだった。暖がおれの前で煙草を吸うのははじめてだった。
6畳程度の小さな部屋。壁と床に固定されたテーブルと椅子だけが唯一の家具だった。厚みのあるマットレス。トイレとシャワーも壁と床に固定されており、隔てるものはなにもなかった。
あの事故の夜からずっとおれはここにいる。目が覚めたら足首に拘束具を嵌められており、携帯電話を含めた所持品は消えていた。
「くそっ、ふざけんな」
おれは足首の拘束具をはずそうと両手でつかみ力を込めたが、大型の手錠のように鍵穴がついており、解錠はおろか、力ずくで破壊することもできなさそうだった。おれは叫び声を上げて立ち上がった。自暴自棄になって手足をめちゃくちゃに振り回し、拳で壁を殴った。大声で助けを求めることでだれかに声が届くとはもう思えなかった。ここに連れてこられた日から何度も試したが、窓のない部屋で外の世界の音や匂いを感じることはいっさいなかった。
しばらく叫び、暴れて、精神的にも肉体的にも限界を迎え、おれは倒れ込んだ。床に手をつき、息を荒らげる。
「気は済んだ?」
「済むわけねえだろ……」
よろけながらも立ち上がり、暖をにらんだ。足を進める。暖は安全圏をしっかり確保していた。鎖の長さを熟知したうえで、おれが手を伸ばしても触れることのできないギリギリの距離に立ち、おれを嘲笑っている。
「暖。てめえマジで殺してやるからな」
「どうやって? そこから動けないのに?」
「すぐ警察がくるぞ。おれの親が通報してるに決まって……」
「知ってるよ」
暖は平然といった。
「お母さんとは今日も話した」
「おふくろと……?」
「かなり酔ってたみたいだったけど、明日、警察に相談するってさ。俊介のこと、すごく心配してる。しょっちゅう朝帰りするし、なにもいわずに出掛けることも多かったけど、1週間以上帰ってこないなんてことはなかったって」
「てめえ、おふくろになにかしやがったら……」
「しないよ。おれはサイコパスじゃない」
「だれが信じるかよ、そんな……」
母親の顔を思い浮かべ、眼球の奥が熱くなった。たったひとりの肉親に心配をかけている事実に、自己嫌悪で泣き出したくなった。そして、友人を殴り、拉致監禁するような異常な男が母親と会っている事実。不安と怒りで体が震えた。かろうじて、暖をにらみ続けていた。
「余裕こいてられんのも今のうちだぞ。警察がきたら、おまえを訴えて、一生ムショに入れてやるからな」
「どうかな。失踪届が出されたところで、そう簡単には見つけられないと思う」
まるで他人ごとのように滑らかな口調で暖はいった。狭い部屋をゆっくり横断しながら、緩く結んだ拳で壁を軽く叩く。
「ここはおれんちが持っている別宅のひとつの地下で、管理会社が1年に何回か様子を見にくる以外はだれも寄りつかない。地下シェルターがあることを知っているのは家族だけだし、鍵を持っているのはおれだけ」
「なんでおまえがそんな……」
「高校生のおれが鍵を持たされているのが意外? そうだよな。でもまあそれは今はいいや。とにかく、ここはおれと父親だけが知っている秘密の場所。警察にも見つけられない」
全身が冷えていく。暖の言葉が耳をすり抜けて背後の壁に吸い込まれていくようだった。
「わかったか、俊介。抵抗しても無駄なんだよ」
膝から力が抜け、おれはその場にへたり込んだ。頭蓋骨が揺さぶられているようで、視界がぼやけた。
「おまえのせいだぞ。おまえがよけいなこというから」
暖の声が降り注ぐ。もう顔を上げる気力が残っていなかった。床を見つめたまま、いった。
「ここまでするかよ……ここまで……」
「おまえだっておれの人生を台無しにしようとしただろ」
「おれはただ……」
「おれを告発しようとした。警察に突き出そうとした」
「だからってここまですることないだろ!」
叫んだ。これ以上耐えられず、涙がこぼれ、床に滴った。
「おれの人生はどうなるんだよ。たしかにおまえみたいなエリートじゃない。政治家にもならないしだれの役にも立たないかもしれない。けど、おれにだって親がいて、彼女もいる。大学に行って、就職して、結婚して家族をつくって……そういう未来を奪うってのかよ……」
「俊介」
涙を抑えられないおれの前で膝を折り、暖は静かにいった。
「本当にごめん。心の底から申し訳ないと思ってる」
「だったら……」
「でも外には出さない。絶対に。あきらめてくれ」
おれは叫んだ。だれにも届かないと知っていても、叫ばずにはいられなかった。床に額を擦りつけて、叫び続けた。
暖が立ち上がる気配がした。ドアが開き、そしてゆっくりと閉じた。
「さあ、俊介。このひとよ」
母に促され、視線を移す。母が指さした先に男が立っていた。黒いジャンパーを羽織り、フードを深く被っている。
男がおれを抱き上げようとするかのように両腕を突き出してくる。その拍子にフードの下の顔があらわになった。男の顔は血だらけで、皮膚がめくれ、頬骨が突き出していた。目を見開き、恨みがましい眼差しでおれをにらんできた。
悲鳴。自分のものだった。飛び起きると、異質な金属音が耳に入った。右足首に嵌まった金属製の拘束具がおれの動きに合わせてじゃらと不快な音を立てていた。太い鎖で壁につながっている。
「起きたか」
いつの間にか暖がこちらを見ていた。おれの前に屈み込み、首を傾けてこちらを見ている。
反射的に飛び起きた。つかみかかろうとしたが、拘束具が邪魔をした。壁にしっかり固定された拘束具がおれの動きを止め、おれはつんのめって転倒した。
「だいじょうぶか」
「うるせえ!」
床に這いつくばったまま、おれは暖を見上げた。
「てめえ、冗談じゃねえぞ。いい加減ここから出せ」
「あきらめろよ。いつまでわめいてんだ」
暖は落ち着き払っていた。ゆったりとした動きで立ち上がり、ブルゾンのポケットから煙草を取り出した。
「暖、おまえ、わかってんのか。これ誘拐だぞ。誘拐プラス監禁。立派な犯罪。交通事故なんかとは比べもんになんないくらいの犯罪!」
「わかってるよ。おれは法学部に進学するんだぞ。法律に関してはおまえより詳しい」
暖はマッチを擦って煙草に火をつけた。慣れた手つきだった。暖がおれの前で煙草を吸うのははじめてだった。
6畳程度の小さな部屋。壁と床に固定されたテーブルと椅子だけが唯一の家具だった。厚みのあるマットレス。トイレとシャワーも壁と床に固定されており、隔てるものはなにもなかった。
あの事故の夜からずっとおれはここにいる。目が覚めたら足首に拘束具を嵌められており、携帯電話を含めた所持品は消えていた。
「くそっ、ふざけんな」
おれは足首の拘束具をはずそうと両手でつかみ力を込めたが、大型の手錠のように鍵穴がついており、解錠はおろか、力ずくで破壊することもできなさそうだった。おれは叫び声を上げて立ち上がった。自暴自棄になって手足をめちゃくちゃに振り回し、拳で壁を殴った。大声で助けを求めることでだれかに声が届くとはもう思えなかった。ここに連れてこられた日から何度も試したが、窓のない部屋で外の世界の音や匂いを感じることはいっさいなかった。
しばらく叫び、暴れて、精神的にも肉体的にも限界を迎え、おれは倒れ込んだ。床に手をつき、息を荒らげる。
「気は済んだ?」
「済むわけねえだろ……」
よろけながらも立ち上がり、暖をにらんだ。足を進める。暖は安全圏をしっかり確保していた。鎖の長さを熟知したうえで、おれが手を伸ばしても触れることのできないギリギリの距離に立ち、おれを嘲笑っている。
「暖。てめえマジで殺してやるからな」
「どうやって? そこから動けないのに?」
「すぐ警察がくるぞ。おれの親が通報してるに決まって……」
「知ってるよ」
暖は平然といった。
「お母さんとは今日も話した」
「おふくろと……?」
「かなり酔ってたみたいだったけど、明日、警察に相談するってさ。俊介のこと、すごく心配してる。しょっちゅう朝帰りするし、なにもいわずに出掛けることも多かったけど、1週間以上帰ってこないなんてことはなかったって」
「てめえ、おふくろになにかしやがったら……」
「しないよ。おれはサイコパスじゃない」
「だれが信じるかよ、そんな……」
母親の顔を思い浮かべ、眼球の奥が熱くなった。たったひとりの肉親に心配をかけている事実に、自己嫌悪で泣き出したくなった。そして、友人を殴り、拉致監禁するような異常な男が母親と会っている事実。不安と怒りで体が震えた。かろうじて、暖をにらみ続けていた。
「余裕こいてられんのも今のうちだぞ。警察がきたら、おまえを訴えて、一生ムショに入れてやるからな」
「どうかな。失踪届が出されたところで、そう簡単には見つけられないと思う」
まるで他人ごとのように滑らかな口調で暖はいった。狭い部屋をゆっくり横断しながら、緩く結んだ拳で壁を軽く叩く。
「ここはおれんちが持っている別宅のひとつの地下で、管理会社が1年に何回か様子を見にくる以外はだれも寄りつかない。地下シェルターがあることを知っているのは家族だけだし、鍵を持っているのはおれだけ」
「なんでおまえがそんな……」
「高校生のおれが鍵を持たされているのが意外? そうだよな。でもまあそれは今はいいや。とにかく、ここはおれと父親だけが知っている秘密の場所。警察にも見つけられない」
全身が冷えていく。暖の言葉が耳をすり抜けて背後の壁に吸い込まれていくようだった。
「わかったか、俊介。抵抗しても無駄なんだよ」
膝から力が抜け、おれはその場にへたり込んだ。頭蓋骨が揺さぶられているようで、視界がぼやけた。
「おまえのせいだぞ。おまえがよけいなこというから」
暖の声が降り注ぐ。もう顔を上げる気力が残っていなかった。床を見つめたまま、いった。
「ここまでするかよ……ここまで……」
「おまえだっておれの人生を台無しにしようとしただろ」
「おれはただ……」
「おれを告発しようとした。警察に突き出そうとした」
「だからってここまですることないだろ!」
叫んだ。これ以上耐えられず、涙がこぼれ、床に滴った。
「おれの人生はどうなるんだよ。たしかにおまえみたいなエリートじゃない。政治家にもならないしだれの役にも立たないかもしれない。けど、おれにだって親がいて、彼女もいる。大学に行って、就職して、結婚して家族をつくって……そういう未来を奪うってのかよ……」
「俊介」
涙を抑えられないおれの前で膝を折り、暖は静かにいった。
「本当にごめん。心の底から申し訳ないと思ってる」
「だったら……」
「でも外には出さない。絶対に。あきらめてくれ」
おれは叫んだ。だれにも届かないと知っていても、叫ばずにはいられなかった。床に額を擦りつけて、叫び続けた。
暖が立ち上がる気配がした。ドアが開き、そしてゆっくりと閉じた。


