「暑いな」
ドアを開けるなり、暖は顔をしかめた。ネクタイを緩め、上着を脱ぐ。部屋の隅で膝を抱えているおれを見つけ、近寄ってきた。おれの足下に落ちていた医療施設のパンフレットを拾い上げる。パンフレットは湿気でぐしゃぐしゃになっていた。
「決まった?」
暖がおれの前で膝を折り曲げ、見下ろしてくる。おれは顔を上げなかった。床を見つめたまま、いった。
「メリットって……」
「え?」
「おまえのメリットってなに?」
掠れた小さな声。自分でもよく聞き取れないほどだった。
「いっただろ、メリットないことはやらないって」
暑さで頭がぼんやりしている。目がかすみ、喉が渇く。おれは乾いた声で呟いた。
「おれがいうこと聞いたら、おまえにどんな得があんの」
暖は黙っている。表情が見えず、なにを考えているのかわからなかった。顔を見たところで、わからないだろう。けっきょく、おなじことだ。
「おまえ、男が好きっていってたよな」
暖は答えない。構わずにいった。
「セックスが目的か? 男とやりたいわけ?」
暖は答えない。おれも俯いたままだ。汗の玉が額から顎にかけて縦断し、重力に負けて床に落ちるのを眺めていた。
「他の男じゃだめなの? おまえならだれとでもできるだろ」
暖はしばらくの間無言で、長い沈黙の後、いった。
「決めたのか、俊介?」
おれは絶望のため息をついた。顔を上げた。暖がこちらを見ている。真剣そのものといった表情。冗談も同情もなにも通じないと諦めるにはじゅうぶんだった。
「ほかの選択肢をくれよ」
「だめだ」
にべもない答え。暖は岩のように頑なだった。
「おまえに差し出せるものがほかにあんのかよ」
そんな場合ではないのに、思わず笑いそうになった。まったくもってそのとおりだ。
「おまえ、おれのこと好きなの?」
ほんの一瞬、暖が狼狽を見せた。眼球が左右に細かく揺れた。はじめてのことだった。
「……わからない」
想像していなかった答えだった。おれは眉を顰めた。
「わからないってなんだよ」
「好きとかそういう感情はわからない」
暖はひたすら真顔だった。ふざけているようには見えない。
「彼女も彼氏もいたことないのか、今まで?」
「ない」
「だれか好きになったことは?」
「ない」
「家族への愛情とかは? 両親とかじいちゃんばあちゃん……」
暖が笑った。嘲笑や自己憐憫ではなく、心から可笑しいというような笑いだった。
「ないよ」
暖が近づいてくる。伸ばした手がおれの腕に触れた。汗でじっとり湿った肌が吸いつく。暖も汗をかいていた。
暖の手がゆっくりと移動する。肘から手首。指先が絡んだ。暖の爪の先がおれの関節のやわらかい部分を搔いた。
「おまえ、なんでおれとやりてえの」
「忘れた」
「忘れた?」
おれの指を弄びながら、暖が頷く。
「なんだよ、それ。いつそれ思ったんだよ」
「だから忘れたんだよ。いつの間にか……」
暖の手がおれの脚に伸びる。おれは暑さのために短めのハーフパンツを穿いていた。裾の隙間から指先が潜り込もうとする。
おれは素早く脚を伸ばした。膝をついて迫ってくる暖の左肩に踵を押しつける。強く膝を伸ばすと、暖は重心を崩して顎を引いた。
おれは剣先を突きつけるかのように踵を暖の喉にあてた。それ以上近づけなくなり、暖はのけぞった体勢でおれを見下ろした。後ろ向きに倒れないのは身体能力と筋肉の力だろう。たいしたものだ。
「痛いんだけど」
「うるせえ。触っていいっていってねえだろ」
「早く決めろよ!」
暖が声を上げた。大きな声だった。部屋中に響く。
暖の手がおれの足首をつかむ。火傷するのではないかと思うほど熱い掌だった。ついさっきまでエアコンの効いた車中にいたはずの暖が、24時間以上灼熱の部屋に閉じ込められていたおれ以上に汗をかいていた。顔が紅潮し、息が荒くなっている。
おれは黙って足首を回転させた。親指と人差し指で暖の筋を締める。暖は顔をしかめた。怒りの灯った眼差しでおれをにらむ。いつもの無感動な眼とはちがう。抑えきれない感情があふれ出している。
「なんだよ。無理矢理レイプするか? また刺されんのが怖いかよ」
暖がおれの脚を強く引き寄せ、おれは仰向けに倒れた。視界が反転する。後頭部を床に打ちつけ、意識が飛びかけた。
暖はそのまま鞭を撓らせるかのようにおれの脚を引っ張ってマットレスに引きずりこんだ。おそろしい力だった。気づくと仰向けにされていた。
暖がおれの腹のうえに跨がって、股間の硬直がおれの腹筋を圧迫した。暖の顎から滴る汗がおれの胸に垂れた。かなり興奮している。ほとんど動物だ。
自尊心を棄てないと決めていなければ、恐怖の声を上げていたかもしれない。おれは全身に力をこめ、静かにいった。
「おれが死んだら?」
「……なに?」
暖の声は掠れていた。暖もぎりぎりのところで爆発を抑えている。
「おれがおふくろより先に死んだら? おふくろはどうなる?」
暖はすこし間を空けて、答えた。
「そうなったら費用を払い続ける理由がない」
肩で息をしながら汗だくで話すこととは思えないほど機械的な言葉だった。
「ただし、おまえが生きている限りはなにがあっても面倒を見る。約束する」
「……わかった」
おれは目を閉じ、いった。
「わかったってなに? どういう意味だよ」
「契約成立って意味だよ。早くやれよ」
おれは両手を投げ出し、全身を弛緩させた。いずれにしても避けられないのなら、母親のために条件を受け入れるしかない。顔を横に傾け、眼球だけを動かして横目に暖を見た。まるで飢えた獣だ。あからさまでなかっただけで、これまでにもおなじような居心地の悪さを感じることがあった。逃げ場はない。3年もなにもなかったのが奇跡だと思えるほどだ。
暖は黙っておれを見下ろしている。呼吸はまだ荒いがさっきまでほどではない。必死で抑えている。そうでなければ、とっくにめちゃくちゃにされていた。3年間無事でいられたのは、暖が自制していたからだろう。しかしそれももう限界だった。母親のことはただの建前で、それがなかったとしても結果はおなじだっただろう。
「どうした、さっさとやれよ。びびってんのか」
「うるさい。挑発しようとすんな」
暖は短くいって、上半身を起こした。おれに跨がったまま膝立ちになって、シャツを脱いだ。これまで意識したことがなかったが、肩幅がかなり広く、筋肉が浮き上がっている。おれは直視できず、しかし恐怖を読み取られないように、眉間に皺を寄せて首を捻った。
「こっち向け」
顎をつかまれ、顔の向きをもどされた。息の熱が近くなった。唇になにか触れ、驚いて目を開けた。
「おい……」
思わず口を開けると、舌を捻じこまれた。暖の唇は汗で濡れていた。顎をつかまれ、逃げられなかった。暖の肩に手をついて圧しのけようとしたが、暖の体もおれの手も濡れていて、うまくいかなかった。肩を滑った手が宙に浮いた。引き離そうとしたが、暖の髪は短くつかむことができない。指先が首の裏を搔いただけだった。
舌が絡み、唾液が混じりあった。あまりに長く、深かった。唇が離れた瞬間、酸素が一気に流れこみ、おれは咳きこんだ。
「……こんなのはいらないだろ」
かろうじて抗議したが、暖は笑っただけだった。
「いいから早くはじめて早く終わらせろ」
「焦るなよ。怪我させたくない」
そういって暖は一度おれから離れた。ドアの横に置いたバッグのなかに手を入れる。もどってきたときには、円筒型のボトルと避妊具を手にしていた。準備万端ということか。やはりおれに選択肢はなかったらしい。
再び唇が近づく。今度は軽く触れる程度で、徐々に移動していく。顎を辿り、首を通り、胸元へ。鎖骨の窪みに溜まった汗を啜る音。体がびくっと震えた。
「熱いな……」
おれの首元に顔を埋め、暖が呟く。
「おれも暑い……」
室温はさらに上がっているようだった。マットレスも湿気を含んでじっとり重い。
脇腹の辺りをまさぐっていた暖の手が胸にかかり、思わず身を捩った。
「逃げんなよ」
「逃げてない。ただ……」
息を飲み込むと喉が鳴る音がした。暖はおれの乳首に舌を這わせている。腰が浮いた。
「なあ、エアコンをなおしてからでもよくないか。明日か……」
暖が目を上げる。視線が絡む。
「明後日か……」
「だめだ」
暖がおれの言葉を遮った。冷静さは残っていなかった。
「もう待てない」
腰の下に手を入れられた。体を持ち上げられ、ハーフパンツが下着ごと下ろされる。女のように扱われる屈辱に泣きそうになったが堪えた。
「後ろ向いて。そのほうが楽だから」
いわれたとおりにするしかなかった。おれは体を裏返し、暖の手に導かれるままに膝頭をマットレスにめりこませて腰を上げた。臀部に暖の息を感じる。割れめの部分に冷たい液体の感触。不快に感じるはずなのに、室内の暑さのせいで心地よいと感じてしまった。しかし、それは一瞬だけだった。
オイルマッサ―ジでもするように暖の指が臀部の肉を圧し、撫でる。おれはシーツを握りしめて耐えた。しかし、指先が内部に潜りこんでくると、思わず声が出た。
「だいじょうぶか」
答えなかった。口をひらくと意図しない言葉が出てきそうだった。
暖はおれの膝の両側に自分の膝をぴったりとつけていた。股が接着して動くたびに擦れる。暖は右手で臀部を摩りながら、もう片方の手を前に回した。前後の敏感な部分を動じに刺激され、おれは全身を震わせた。意識が散乱し、とどめられない。混乱しているうちに、後ろのほうの指が増やされた。ローションの力を借りて奥まで押し入ってくる。
「ちょ……痛……」
触れられた部分から痺れるような痛みがはしる。
「だいじょうぶ。めちゃくちゃ感じてる」
「嘘だろ。そん……」
陰茎を包んでいた手に力が込もった。前後に擦られて、おれは思わずのけぞった。呼応するように後ろの動きも烈しくなる。体が跳ねるほど強く刺激を与えられ、おれは全身をのたうたせた。
最後に自慰をしたのはいつか思い出せない。あっという間に絶頂を迎えた。マットレスに大量の白濁を撒き散らし、そのうえに突っ伏した。
肩をつかまれた。ゆっくり引かれ、仰向けにされる。全裸で、汗まみれで、自分の出したもので腹をびしょびしょにした姿を、おれは暖の前に晒していた。
「すげ……」
暖が呟く。眼球が素早く動いている。おれの全身を見ている。喉が鳴る音が響くようだった。頭が重い。かなり熱が上がっているようだ。
暖はおれの股を持ち上げ、裏側に膝頭を差し込んで腰を浮かせた。赤ん坊のおむつ交換のような姿勢を取らされ、おれは羞恥に唇を噛んだ。
暖が上半身をおれの上に落とす。熱い舌に唇をこじ開けられた。キスしながらまた尻をさぐられる。今度はさっきよりも奥へ。内部で間接が曲がり、内臓を掠めとられるような動きに、おれはまた声を上げた。口を開けると舌がさらに深くまで這い回る。
しつこく擦られて、腰が跳ね上がった。二度目は短く、少量だったが、深かった。頭頂部がマットレスに埋まるほど大きく身を捩った。天井を向いた胸を暖の手が包む。掌で刺激され、先端を爪の先で搔かれる。休みなく刺激を与えられ、声を我慢するのが難しくなっていた。
臀部の動きを続けながら、暖が股の内側に唇を這わせる。二度達して下を向いている陰茎を口に含んだ。
以前にも暖の手で達せられたことがあったが、比較にならないほど烈しく、執拗だった。あらゆる手法を用いて、暖はおれを限界に追いやった。
三度目の瞬間、ほんの数秒意識がとおのいた。気づくと暖が裸になりおれの上に重なっていた。全裸の肌が擦れあい、摩擦でよけいに熱が上がる。
股の間にもっとも熱い塊を感じた。あ、入れられるなと、霞がかった頭で考えた。
暖が短く息を吐いて、次の瞬間、先端が潜りこんできた。散々拡げられたせいか、最初のうちは予想よりもスムーズだった。しかし、もっとも膨張した箇所が通るときには引き攣れるような痛みがはしった。
「ちょっと……待て、ちょっ……」
「待てないって……」
暖が腰を進める。強烈な圧迫感に、おれは声を上げた。
最奥までたどり着くと、暖はおれの首の両脇に手をついて、一度止まった。荒く息を継ぎながら見下ろしてくる。
「暖……」
なにかいおうとしたが、なにをいいたいのかわからなかった。おれを待たずに、暖が動きはじめた。もう考える余裕はなかった。おれは暖の動きに合わせて声を出した。無意識に体が逃げようとしてマットレスのうえをずり上がっていた。後頭部が床にあたり、頭がぐらつく。暖が手を伸ばし、おれの頭をつかんで引き寄せた。そのまま唇を貪られる。
暖も我を忘れたように夢中で腰を打ちつけている。右手でおれの頭を固定し、左手で腰をつかんでいる。肉が衝突する音が響く。体のあちこちが密着していて、汗と体液が混じり合う。もうどちらのものかわからない。
暖の動きが烈しくなり、大きく揺さぶられて、おれは暖の首に埋め、両腕を背中に回してしがみついた。そうしなければ振り飛ばされてしまいそうなほどめちゃくちゃな動きだった。
暖も声を上げた。低いうめき声が咆哮に近いものに変わる。ふたりぶんの声と皮膚を叩く音、泡だったローションが跳ねる音、おれの足首から伸びる鎖が床をのたうつ音が奇妙なコントラストを生んでいる。
「俊介……やばい、いく……俊介っ」
「だめだめ、やめろ、馬鹿、もう……」
もっとも奥まできて、止まった。次の瞬間、内部での膨らみが限界を超えた。内蔵の奥で弾ける感覚とともに、熱が拡がった。放出しながらも暖は緩やかに腰を打ちつけた。小刻みに奥を叩かれて、おれは体を揺らした。自分も達していたことに気づかなかった。
間の抜けた音がして、暖が出て行った。受け入れていた部分がじんじんと痺れている。
暖が深く息を吐いた。おれの上に体を預けてくる。全身脱力して、重みを増していた。文句をいう代わりに、上半身を捻った。暖は案外素直におれの体を滑り降りた。
体中熱が充満して、小刻みに震えている。動けそうになかったが、せめて暖の視線から逃れようと体を横に倒した。距離を取る間もなく、背後から抱き竦められた。耳の裏に唇を圧しつけられる。首や肩にも。体に纏わりつく手がいたわるように腕を撫でる。
「すごかったな……」
「……くっつくな。キモい」
体に回された腕を解こうとして手をかけたが、力が入らない。代わりに指をつかまれ、絡め取られる。抵抗する気力もない。したいようにさせてやった。自分を監禁している張本人と性交したうえ手を繋いで寝ているなど、まともな思考では受け入れられない。
体が重い。身じろぐと、体の奥に鈍い痛みが灯る。すでに終わっているはずなのに、まだ中に存在しているかのような感覚。強烈な余韻が残っていて、体が順応できない。
男同士の行為というものがこうなのか、それとも暖だからなのか。はじめて体験する身で判別することはできない。ただ……
覚悟を決めてから、3年前に見させられたお手製のハメ撮り動画を思い出していた。付き合っていた女と暖がセックスしている映像をひと晩中見ることになった。忘れようと思っても忘れられるものではない。
紗弓の姿に自分を重ねるのは楽しいものではなかったが、考えないわけにはいかなかった。しかし、実際にはまるでちがった。
紗弓としているときの暖は最後まで冷静で、ほとんど表情を変えることなく作業を進めていた。相手の反応を見ながら、計算して動いていた。しかし、今のは……おなじ人間とは思えない。
暖が脚を絡めてきて密着が濃くなる。終わった後も、紗弓のときはすぐにシャワーを浴びた。こんなふうに体を寄せあって余韻を共有するなど、まるで……
「……おい」
胸元にあったはずの暖の手がいつの間にか背後に回って、腰の周辺を蠢いている。
「……もう1回したい」
冗談だろとはもう聞かなかった。暖がやるといえば必ずやると知っていたからだ。
ドアを開けるなり、暖は顔をしかめた。ネクタイを緩め、上着を脱ぐ。部屋の隅で膝を抱えているおれを見つけ、近寄ってきた。おれの足下に落ちていた医療施設のパンフレットを拾い上げる。パンフレットは湿気でぐしゃぐしゃになっていた。
「決まった?」
暖がおれの前で膝を折り曲げ、見下ろしてくる。おれは顔を上げなかった。床を見つめたまま、いった。
「メリットって……」
「え?」
「おまえのメリットってなに?」
掠れた小さな声。自分でもよく聞き取れないほどだった。
「いっただろ、メリットないことはやらないって」
暑さで頭がぼんやりしている。目がかすみ、喉が渇く。おれは乾いた声で呟いた。
「おれがいうこと聞いたら、おまえにどんな得があんの」
暖は黙っている。表情が見えず、なにを考えているのかわからなかった。顔を見たところで、わからないだろう。けっきょく、おなじことだ。
「おまえ、男が好きっていってたよな」
暖は答えない。構わずにいった。
「セックスが目的か? 男とやりたいわけ?」
暖は答えない。おれも俯いたままだ。汗の玉が額から顎にかけて縦断し、重力に負けて床に落ちるのを眺めていた。
「他の男じゃだめなの? おまえならだれとでもできるだろ」
暖はしばらくの間無言で、長い沈黙の後、いった。
「決めたのか、俊介?」
おれは絶望のため息をついた。顔を上げた。暖がこちらを見ている。真剣そのものといった表情。冗談も同情もなにも通じないと諦めるにはじゅうぶんだった。
「ほかの選択肢をくれよ」
「だめだ」
にべもない答え。暖は岩のように頑なだった。
「おまえに差し出せるものがほかにあんのかよ」
そんな場合ではないのに、思わず笑いそうになった。まったくもってそのとおりだ。
「おまえ、おれのこと好きなの?」
ほんの一瞬、暖が狼狽を見せた。眼球が左右に細かく揺れた。はじめてのことだった。
「……わからない」
想像していなかった答えだった。おれは眉を顰めた。
「わからないってなんだよ」
「好きとかそういう感情はわからない」
暖はひたすら真顔だった。ふざけているようには見えない。
「彼女も彼氏もいたことないのか、今まで?」
「ない」
「だれか好きになったことは?」
「ない」
「家族への愛情とかは? 両親とかじいちゃんばあちゃん……」
暖が笑った。嘲笑や自己憐憫ではなく、心から可笑しいというような笑いだった。
「ないよ」
暖が近づいてくる。伸ばした手がおれの腕に触れた。汗でじっとり湿った肌が吸いつく。暖も汗をかいていた。
暖の手がゆっくりと移動する。肘から手首。指先が絡んだ。暖の爪の先がおれの関節のやわらかい部分を搔いた。
「おまえ、なんでおれとやりてえの」
「忘れた」
「忘れた?」
おれの指を弄びながら、暖が頷く。
「なんだよ、それ。いつそれ思ったんだよ」
「だから忘れたんだよ。いつの間にか……」
暖の手がおれの脚に伸びる。おれは暑さのために短めのハーフパンツを穿いていた。裾の隙間から指先が潜り込もうとする。
おれは素早く脚を伸ばした。膝をついて迫ってくる暖の左肩に踵を押しつける。強く膝を伸ばすと、暖は重心を崩して顎を引いた。
おれは剣先を突きつけるかのように踵を暖の喉にあてた。それ以上近づけなくなり、暖はのけぞった体勢でおれを見下ろした。後ろ向きに倒れないのは身体能力と筋肉の力だろう。たいしたものだ。
「痛いんだけど」
「うるせえ。触っていいっていってねえだろ」
「早く決めろよ!」
暖が声を上げた。大きな声だった。部屋中に響く。
暖の手がおれの足首をつかむ。火傷するのではないかと思うほど熱い掌だった。ついさっきまでエアコンの効いた車中にいたはずの暖が、24時間以上灼熱の部屋に閉じ込められていたおれ以上に汗をかいていた。顔が紅潮し、息が荒くなっている。
おれは黙って足首を回転させた。親指と人差し指で暖の筋を締める。暖は顔をしかめた。怒りの灯った眼差しでおれをにらむ。いつもの無感動な眼とはちがう。抑えきれない感情があふれ出している。
「なんだよ。無理矢理レイプするか? また刺されんのが怖いかよ」
暖がおれの脚を強く引き寄せ、おれは仰向けに倒れた。視界が反転する。後頭部を床に打ちつけ、意識が飛びかけた。
暖はそのまま鞭を撓らせるかのようにおれの脚を引っ張ってマットレスに引きずりこんだ。おそろしい力だった。気づくと仰向けにされていた。
暖がおれの腹のうえに跨がって、股間の硬直がおれの腹筋を圧迫した。暖の顎から滴る汗がおれの胸に垂れた。かなり興奮している。ほとんど動物だ。
自尊心を棄てないと決めていなければ、恐怖の声を上げていたかもしれない。おれは全身に力をこめ、静かにいった。
「おれが死んだら?」
「……なに?」
暖の声は掠れていた。暖もぎりぎりのところで爆発を抑えている。
「おれがおふくろより先に死んだら? おふくろはどうなる?」
暖はすこし間を空けて、答えた。
「そうなったら費用を払い続ける理由がない」
肩で息をしながら汗だくで話すこととは思えないほど機械的な言葉だった。
「ただし、おまえが生きている限りはなにがあっても面倒を見る。約束する」
「……わかった」
おれは目を閉じ、いった。
「わかったってなに? どういう意味だよ」
「契約成立って意味だよ。早くやれよ」
おれは両手を投げ出し、全身を弛緩させた。いずれにしても避けられないのなら、母親のために条件を受け入れるしかない。顔を横に傾け、眼球だけを動かして横目に暖を見た。まるで飢えた獣だ。あからさまでなかっただけで、これまでにもおなじような居心地の悪さを感じることがあった。逃げ場はない。3年もなにもなかったのが奇跡だと思えるほどだ。
暖は黙っておれを見下ろしている。呼吸はまだ荒いがさっきまでほどではない。必死で抑えている。そうでなければ、とっくにめちゃくちゃにされていた。3年間無事でいられたのは、暖が自制していたからだろう。しかしそれももう限界だった。母親のことはただの建前で、それがなかったとしても結果はおなじだっただろう。
「どうした、さっさとやれよ。びびってんのか」
「うるさい。挑発しようとすんな」
暖は短くいって、上半身を起こした。おれに跨がったまま膝立ちになって、シャツを脱いだ。これまで意識したことがなかったが、肩幅がかなり広く、筋肉が浮き上がっている。おれは直視できず、しかし恐怖を読み取られないように、眉間に皺を寄せて首を捻った。
「こっち向け」
顎をつかまれ、顔の向きをもどされた。息の熱が近くなった。唇になにか触れ、驚いて目を開けた。
「おい……」
思わず口を開けると、舌を捻じこまれた。暖の唇は汗で濡れていた。顎をつかまれ、逃げられなかった。暖の肩に手をついて圧しのけようとしたが、暖の体もおれの手も濡れていて、うまくいかなかった。肩を滑った手が宙に浮いた。引き離そうとしたが、暖の髪は短くつかむことができない。指先が首の裏を搔いただけだった。
舌が絡み、唾液が混じりあった。あまりに長く、深かった。唇が離れた瞬間、酸素が一気に流れこみ、おれは咳きこんだ。
「……こんなのはいらないだろ」
かろうじて抗議したが、暖は笑っただけだった。
「いいから早くはじめて早く終わらせろ」
「焦るなよ。怪我させたくない」
そういって暖は一度おれから離れた。ドアの横に置いたバッグのなかに手を入れる。もどってきたときには、円筒型のボトルと避妊具を手にしていた。準備万端ということか。やはりおれに選択肢はなかったらしい。
再び唇が近づく。今度は軽く触れる程度で、徐々に移動していく。顎を辿り、首を通り、胸元へ。鎖骨の窪みに溜まった汗を啜る音。体がびくっと震えた。
「熱いな……」
おれの首元に顔を埋め、暖が呟く。
「おれも暑い……」
室温はさらに上がっているようだった。マットレスも湿気を含んでじっとり重い。
脇腹の辺りをまさぐっていた暖の手が胸にかかり、思わず身を捩った。
「逃げんなよ」
「逃げてない。ただ……」
息を飲み込むと喉が鳴る音がした。暖はおれの乳首に舌を這わせている。腰が浮いた。
「なあ、エアコンをなおしてからでもよくないか。明日か……」
暖が目を上げる。視線が絡む。
「明後日か……」
「だめだ」
暖がおれの言葉を遮った。冷静さは残っていなかった。
「もう待てない」
腰の下に手を入れられた。体を持ち上げられ、ハーフパンツが下着ごと下ろされる。女のように扱われる屈辱に泣きそうになったが堪えた。
「後ろ向いて。そのほうが楽だから」
いわれたとおりにするしかなかった。おれは体を裏返し、暖の手に導かれるままに膝頭をマットレスにめりこませて腰を上げた。臀部に暖の息を感じる。割れめの部分に冷たい液体の感触。不快に感じるはずなのに、室内の暑さのせいで心地よいと感じてしまった。しかし、それは一瞬だけだった。
オイルマッサ―ジでもするように暖の指が臀部の肉を圧し、撫でる。おれはシーツを握りしめて耐えた。しかし、指先が内部に潜りこんでくると、思わず声が出た。
「だいじょうぶか」
答えなかった。口をひらくと意図しない言葉が出てきそうだった。
暖はおれの膝の両側に自分の膝をぴったりとつけていた。股が接着して動くたびに擦れる。暖は右手で臀部を摩りながら、もう片方の手を前に回した。前後の敏感な部分を動じに刺激され、おれは全身を震わせた。意識が散乱し、とどめられない。混乱しているうちに、後ろのほうの指が増やされた。ローションの力を借りて奥まで押し入ってくる。
「ちょ……痛……」
触れられた部分から痺れるような痛みがはしる。
「だいじょうぶ。めちゃくちゃ感じてる」
「嘘だろ。そん……」
陰茎を包んでいた手に力が込もった。前後に擦られて、おれは思わずのけぞった。呼応するように後ろの動きも烈しくなる。体が跳ねるほど強く刺激を与えられ、おれは全身をのたうたせた。
最後に自慰をしたのはいつか思い出せない。あっという間に絶頂を迎えた。マットレスに大量の白濁を撒き散らし、そのうえに突っ伏した。
肩をつかまれた。ゆっくり引かれ、仰向けにされる。全裸で、汗まみれで、自分の出したもので腹をびしょびしょにした姿を、おれは暖の前に晒していた。
「すげ……」
暖が呟く。眼球が素早く動いている。おれの全身を見ている。喉が鳴る音が響くようだった。頭が重い。かなり熱が上がっているようだ。
暖はおれの股を持ち上げ、裏側に膝頭を差し込んで腰を浮かせた。赤ん坊のおむつ交換のような姿勢を取らされ、おれは羞恥に唇を噛んだ。
暖が上半身をおれの上に落とす。熱い舌に唇をこじ開けられた。キスしながらまた尻をさぐられる。今度はさっきよりも奥へ。内部で間接が曲がり、内臓を掠めとられるような動きに、おれはまた声を上げた。口を開けると舌がさらに深くまで這い回る。
しつこく擦られて、腰が跳ね上がった。二度目は短く、少量だったが、深かった。頭頂部がマットレスに埋まるほど大きく身を捩った。天井を向いた胸を暖の手が包む。掌で刺激され、先端を爪の先で搔かれる。休みなく刺激を与えられ、声を我慢するのが難しくなっていた。
臀部の動きを続けながら、暖が股の内側に唇を這わせる。二度達して下を向いている陰茎を口に含んだ。
以前にも暖の手で達せられたことがあったが、比較にならないほど烈しく、執拗だった。あらゆる手法を用いて、暖はおれを限界に追いやった。
三度目の瞬間、ほんの数秒意識がとおのいた。気づくと暖が裸になりおれの上に重なっていた。全裸の肌が擦れあい、摩擦でよけいに熱が上がる。
股の間にもっとも熱い塊を感じた。あ、入れられるなと、霞がかった頭で考えた。
暖が短く息を吐いて、次の瞬間、先端が潜りこんできた。散々拡げられたせいか、最初のうちは予想よりもスムーズだった。しかし、もっとも膨張した箇所が通るときには引き攣れるような痛みがはしった。
「ちょっと……待て、ちょっ……」
「待てないって……」
暖が腰を進める。強烈な圧迫感に、おれは声を上げた。
最奥までたどり着くと、暖はおれの首の両脇に手をついて、一度止まった。荒く息を継ぎながら見下ろしてくる。
「暖……」
なにかいおうとしたが、なにをいいたいのかわからなかった。おれを待たずに、暖が動きはじめた。もう考える余裕はなかった。おれは暖の動きに合わせて声を出した。無意識に体が逃げようとしてマットレスのうえをずり上がっていた。後頭部が床にあたり、頭がぐらつく。暖が手を伸ばし、おれの頭をつかんで引き寄せた。そのまま唇を貪られる。
暖も我を忘れたように夢中で腰を打ちつけている。右手でおれの頭を固定し、左手で腰をつかんでいる。肉が衝突する音が響く。体のあちこちが密着していて、汗と体液が混じり合う。もうどちらのものかわからない。
暖の動きが烈しくなり、大きく揺さぶられて、おれは暖の首に埋め、両腕を背中に回してしがみついた。そうしなければ振り飛ばされてしまいそうなほどめちゃくちゃな動きだった。
暖も声を上げた。低いうめき声が咆哮に近いものに変わる。ふたりぶんの声と皮膚を叩く音、泡だったローションが跳ねる音、おれの足首から伸びる鎖が床をのたうつ音が奇妙なコントラストを生んでいる。
「俊介……やばい、いく……俊介っ」
「だめだめ、やめろ、馬鹿、もう……」
もっとも奥まできて、止まった。次の瞬間、内部での膨らみが限界を超えた。内蔵の奥で弾ける感覚とともに、熱が拡がった。放出しながらも暖は緩やかに腰を打ちつけた。小刻みに奥を叩かれて、おれは体を揺らした。自分も達していたことに気づかなかった。
間の抜けた音がして、暖が出て行った。受け入れていた部分がじんじんと痺れている。
暖が深く息を吐いた。おれの上に体を預けてくる。全身脱力して、重みを増していた。文句をいう代わりに、上半身を捻った。暖は案外素直におれの体を滑り降りた。
体中熱が充満して、小刻みに震えている。動けそうになかったが、せめて暖の視線から逃れようと体を横に倒した。距離を取る間もなく、背後から抱き竦められた。耳の裏に唇を圧しつけられる。首や肩にも。体に纏わりつく手がいたわるように腕を撫でる。
「すごかったな……」
「……くっつくな。キモい」
体に回された腕を解こうとして手をかけたが、力が入らない。代わりに指をつかまれ、絡め取られる。抵抗する気力もない。したいようにさせてやった。自分を監禁している張本人と性交したうえ手を繋いで寝ているなど、まともな思考では受け入れられない。
体が重い。身じろぐと、体の奥に鈍い痛みが灯る。すでに終わっているはずなのに、まだ中に存在しているかのような感覚。強烈な余韻が残っていて、体が順応できない。
男同士の行為というものがこうなのか、それとも暖だからなのか。はじめて体験する身で判別することはできない。ただ……
覚悟を決めてから、3年前に見させられたお手製のハメ撮り動画を思い出していた。付き合っていた女と暖がセックスしている映像をひと晩中見ることになった。忘れようと思っても忘れられるものではない。
紗弓の姿に自分を重ねるのは楽しいものではなかったが、考えないわけにはいかなかった。しかし、実際にはまるでちがった。
紗弓としているときの暖は最後まで冷静で、ほとんど表情を変えることなく作業を進めていた。相手の反応を見ながら、計算して動いていた。しかし、今のは……おなじ人間とは思えない。
暖が脚を絡めてきて密着が濃くなる。終わった後も、紗弓のときはすぐにシャワーを浴びた。こんなふうに体を寄せあって余韻を共有するなど、まるで……
「……おい」
胸元にあったはずの暖の手がいつの間にか背後に回って、腰の周辺を蠢いている。
「……もう1回したい」
冗談だろとはもう聞かなかった。暖がやるといえば必ずやると知っていたからだ。


