蒸し暑い日だった。エアコンが故障したらしく、室内の温度は上昇していた。おれはシャツを脱ぎ、上半身裸になって、冷蔵庫の前にしゃがみこんでいた。エアコンのリモコンを操作するが、まったく動かない。噴き出す汗を手首で拭いながら、エアコンをにらんだ。
非常用の電源は装備されているのだろうか。万一停電にでもなったらまずい状況になる。暑さと汗の不快感のせいで神経が尖っていた。
ドアの外に足音が聞こえて、おれは息をついた。暖の足音がうれしいと思ったのははじめてだった。
「やっときたかよ。なあ、ちょっとこれ見ろよ、エアコン」
ドアが開く音。おれはドアのほうに背を向けたままエアコンを見上げてしゃべり続けた。
「壊れてるみたいでさ。暑くて起きたら動いてなくてさ」
「俊介」
「早くどうにかしろよ。暑くて死にそう」
「俊介」
そこでようやく暖の様子がふだんとちがうことに気づいた。切迫した表情。ただごとではない。
「なに……」
「そこ座れよ」
「なんだよ、そん……」
「いいから座れって。話あるから」
反論しようとしたが、暖の体に纏う嫌な空気を感じて、いわれるままに椅子にかけた。
「なに、話って」
「お母さんのことだよ」
「おふくろ?」
思わず立ち上がった。
「なにかあったのかよ」
「病院に運ばれた」
息が止まりそうになった。
「急性アルコール中毒だって。役所のひとがたまたま様子を見に行って、倒れてるところを見つけて救急車呼んだらしい。病院からおれに連絡があった。前に名刺を置いてったからだと思う」
以前にもおなじ原因で病院に運び込まれたことがある。おれが中学生の頃だ。おれが消えてから、飲酒量は増えていたにちがいない。胸が潰れそうだった。呼吸が烈しくなる。必死で冷静になろうとしたが、うまくいかなかった。
「それで……」
「さっき病院に行ってきた。すぐ処置できて無事だけど、入院が必要らしい。肝臓とそれから肺の状態もよくないって医者はいってる」
暖がスマホを差し出してきた。画面には母親の写真。病室らしき場所。ベッドの上で母は眠っていた。痩せて頬の骨が浮いている。首には皺が深く刻まれ、鎖骨が浮き出していた。まだ40代のはずなのに、まるで老婆のように見えた。涙が出そうになった。
子どもの頃のことを思い出した。まだアルコールに溺れる前の母はやさしく、おれのために料理をしたり、公園に連れていってくれたりした。つらくあたられることもあったが、愛情がなかったわけではない。おれが失踪して精神的に追い詰められたのがなによりの証拠だと思った。
「俊介」
スマホを持つおれの手に指を添えて、暖はいった。
「お母さんだけど、金銭的にもかなり困窮しているみたいだ。親戚とも縁が遠くて、面倒を見るひとがいないんだって」
「ここから出せ!」
おれはスマホを投げ棄て、暖につかみかかった。
「おれを出せよ! 今すぐ外に出せ!」
振り上げた拳はむなしく宙を搔いた。冷静さを失ったおれが暴れたところで、押さえこむのは容易だった。暖はおれの腕をつかみ、いった。
「落ち着け、俊介」
「うるせえ!」
両腕をつかまれ、おれは叫んだ。
「おれの母親だぞ! アル中でも、おれにとってはひとりしかいない家族なんだよ! 落ち着けるわけないだろ!」
息がくるしい。おれは酸素を求めて喘いだ。暖のシャツを両手でつかんだ。
「なあ、暖、頼むよ。今すぐおふくろんとこ連れてってくれよ」
「俊介……」
「だれにもなにもいわない。警察にも行かない。一緒についてきてもいい。顔を見たらすぐここにもどってくるから。絶対逃げないから。だから母親に会わせてくれよ。頼むって……」
ほとんど懇願だった。体が揺れ、おれは床に膝をついた。暖のシャツをつかんでいなかったら、そのまま倒れてしまいそうだった。
「暖、頼むよ。ほんとにお願いだから……」
「俊介」
暖はおれの前にしゃがみこんだ。おれの肩をつかむ。おれは顔を上げた。二度と期待しないと誓った。それでも、おれは暖の次の言葉を待った。
「本当にごめん」
期待はあっさりと打ち砕かれた。暖は真剣な表情ではっきりといった。
「それはできない」
「暖……」
「聞けよ、俊介。おまえをここから出すことはできない。けどその代わりに、おまえの母親を施設に入れる」
強い意志を感じさせる口調で暖はいう。
「おまえの母親には治療と安定した生活が必要だ。アルコール依存症を治療する専門医療施設に入所させる。看護師が24時間ついて、食生活もしっかり管理される最高の施設を手配した。アパートもかなり長い間家賃を払ってないみたいだから解約して施設で暮らしてもらう。一番高い個室を用意してる。もちろん外出も自由だし、今より快適で健康的な生活ができると思う」
一言一言噛んで含めるようにいったが、おれには暖がいおうとしていることが理解できなかった。
「けど……」
「金はおれが全額出すから心配するな。未払いの家賃も消費者金融の借金も全部払う。お母さんには取り立ての心配もアルコールの苦しみもない生活を送ってもらえるようにする。この先は一生働かなくていいし、家賃も食費も必要ない。全部おれが面倒見る」
思いがけない話に、おれは言葉を失っていた。暖の表情は真剣で、冗談をいっているようには見えなかった。
「な、俊介。おまえも賛成だろ? おまえだって、お母さんがずっとこのままでいいとは思ってないよな?」
「ちょ、ちょっと待てよ」
おれは慌てていった。
「なんでおまえがそんなことするんだよ。目的はなんなんだよ」
「目的?」
「罪悪感か? 自分がしたこと、これで帳消しになると思ってんのかよ?」
「そんなこと思ってない」
暖は低い声でいった。
「おれはおまえに見返りを求めるからだよ」
「見返り?」
暖の視線がおれの体を降りていく。暑さのために服を脱いでいたことを思い出した。全身をぞわぞわとした嫌な感覚が走り抜け、おれは咄嗟に後ずさった。
「おまえ……冗談だろ?」
「冗談だと思うか?」
床にあぐらをかいて、暖はまっすぐにおれを見た。
「罪悪感とか、馬鹿か、おまえ。どこまでおひとよしだよ。なんでおれがおまえの母親の面倒を見なきゃいけない? しかもボランティアで? ふつうに考えて、ないだろ、それは。おれになんのメリットがある?」
暖の言葉はおれの心と体を急激に冷めさせていった。一瞬でも、暖の申し出が後ろめたさからくるものだと勘違いした自分を嗤った。暖は罪悪感などまったく感じてはいない。すべて計算ずくなのだ。
「……おれが断ったらどうすんだよ」
「どうもしない。おまえの母親が破滅するのを見てる」
暖は涼しい顔で答えた。
「おまえがおれを受け入れるなら、母親は一生優雅な暮らしを満喫できる。おまえが断れば、母親はアパートを追い出され、路頭に迷う。どっちでもおれには関係ない」
「おまえ、犯罪は犯したくないっていってただろ」
「見捨てるのと殺すのとはちがう」
「おなじだろ。おまえがおれを拉致ってこんなとこに閉じこめなかったらおふくろは……」
「幸せに暮らしてたか? 本気でそう思うのか?」
返答に詰まった。おれが狼狽する瞬間を暖は見逃さなかった。畳みかけるようにいった。
「勘違いすんなよ、俊介。おれはおまえを脅迫しているわけじゃない」
「どこがだよ。母親を人質に取ってるじゃねえかよ」
「ちがう。むしろ、おまえにチャンスを与えてるんだよ。人生で一度の親孝行ができるチャンスだろ」
「ふざけんな!」
おれは叫んだ。床に落ちていたリモコンを暖に向かって投げつけた。リモコンは暖の顔を直撃し、反動で床に落下した。衝撃で蓋がはずれ、乾電池が跳ね飛んだ。
こめかみから血を流しながらも、暖は表情を変えなかった。バッグから紙束を抜き取り、おれの前に投げて寄越した。
医療施設のパンフレットだった。紙質からして上等で、高級な施設だということが一目でわかる。たとえおれが予定していたとおり大学に進学して企業に就職できたとしても、母親を入れてやることなど決してできないようなランクの施設。
「明日またくる。それまでに考えとけよ」
暖は立ち上がった。顔の血をタオルで拭いて、バッグを持ち上げる。
「おれはどっちでもいい。選ぶのはおまえだからな」
それだけいって、暖は出て行った。ドアの重い音を聞きながら、おれはうなだれていた。
パンフレットの表紙は緑に囲まれた施設の外観。ページを捲ると、制服姿の職員らしき若い女が微笑んでいた。個室のベッド、毎日提供される食事のメニュー、保険や保障などのオプションについて解説されている。
もしこの施設に入所できれば、母が抱えるアルコール依存や借金などの問題はすべて解消されるだろう。息子が失踪した心の傷もすこしは癒えるかもしれない。
母親はおれが中学の頃から働いていない。社会復帰は難しいだろう。生活保護だけで生きていくのは厳しい。それはずっと前からわかっていた。だからこそ、奨学金を借りて大学に進学しようと思った。いい仕事に就いて、母に楽をさせてやりたかった。こんなことになって、描いていた将来はすべて消え去ったが、唯一、母に安定した暮らしをさせることだけは実現できる可能性が残されているわけだ。ただし、そのためには唯一残った誇りを捨て去らなければならない。
拳を握りしめた。手のなかでパンフレットが歪み、制服姿の女性職員の顔が歪んだ。
おれはパンフレットを胸に押しつけた。汗で紙が湿ってぼろぼろになった。
母ちゃん、ごめん……
心のなかで懺悔した。猛烈に母親に会いたかった。しかし、その願いが叶わないことも知っていた。
暖はおれを解放しない。たとえなにがあっても。
地獄のような熱気のなかで、おれはうずくまり、荒い呼吸を繰り返していた。
非常用の電源は装備されているのだろうか。万一停電にでもなったらまずい状況になる。暑さと汗の不快感のせいで神経が尖っていた。
ドアの外に足音が聞こえて、おれは息をついた。暖の足音がうれしいと思ったのははじめてだった。
「やっときたかよ。なあ、ちょっとこれ見ろよ、エアコン」
ドアが開く音。おれはドアのほうに背を向けたままエアコンを見上げてしゃべり続けた。
「壊れてるみたいでさ。暑くて起きたら動いてなくてさ」
「俊介」
「早くどうにかしろよ。暑くて死にそう」
「俊介」
そこでようやく暖の様子がふだんとちがうことに気づいた。切迫した表情。ただごとではない。
「なに……」
「そこ座れよ」
「なんだよ、そん……」
「いいから座れって。話あるから」
反論しようとしたが、暖の体に纏う嫌な空気を感じて、いわれるままに椅子にかけた。
「なに、話って」
「お母さんのことだよ」
「おふくろ?」
思わず立ち上がった。
「なにかあったのかよ」
「病院に運ばれた」
息が止まりそうになった。
「急性アルコール中毒だって。役所のひとがたまたま様子を見に行って、倒れてるところを見つけて救急車呼んだらしい。病院からおれに連絡があった。前に名刺を置いてったからだと思う」
以前にもおなじ原因で病院に運び込まれたことがある。おれが中学生の頃だ。おれが消えてから、飲酒量は増えていたにちがいない。胸が潰れそうだった。呼吸が烈しくなる。必死で冷静になろうとしたが、うまくいかなかった。
「それで……」
「さっき病院に行ってきた。すぐ処置できて無事だけど、入院が必要らしい。肝臓とそれから肺の状態もよくないって医者はいってる」
暖がスマホを差し出してきた。画面には母親の写真。病室らしき場所。ベッドの上で母は眠っていた。痩せて頬の骨が浮いている。首には皺が深く刻まれ、鎖骨が浮き出していた。まだ40代のはずなのに、まるで老婆のように見えた。涙が出そうになった。
子どもの頃のことを思い出した。まだアルコールに溺れる前の母はやさしく、おれのために料理をしたり、公園に連れていってくれたりした。つらくあたられることもあったが、愛情がなかったわけではない。おれが失踪して精神的に追い詰められたのがなによりの証拠だと思った。
「俊介」
スマホを持つおれの手に指を添えて、暖はいった。
「お母さんだけど、金銭的にもかなり困窮しているみたいだ。親戚とも縁が遠くて、面倒を見るひとがいないんだって」
「ここから出せ!」
おれはスマホを投げ棄て、暖につかみかかった。
「おれを出せよ! 今すぐ外に出せ!」
振り上げた拳はむなしく宙を搔いた。冷静さを失ったおれが暴れたところで、押さえこむのは容易だった。暖はおれの腕をつかみ、いった。
「落ち着け、俊介」
「うるせえ!」
両腕をつかまれ、おれは叫んだ。
「おれの母親だぞ! アル中でも、おれにとってはひとりしかいない家族なんだよ! 落ち着けるわけないだろ!」
息がくるしい。おれは酸素を求めて喘いだ。暖のシャツを両手でつかんだ。
「なあ、暖、頼むよ。今すぐおふくろんとこ連れてってくれよ」
「俊介……」
「だれにもなにもいわない。警察にも行かない。一緒についてきてもいい。顔を見たらすぐここにもどってくるから。絶対逃げないから。だから母親に会わせてくれよ。頼むって……」
ほとんど懇願だった。体が揺れ、おれは床に膝をついた。暖のシャツをつかんでいなかったら、そのまま倒れてしまいそうだった。
「暖、頼むよ。ほんとにお願いだから……」
「俊介」
暖はおれの前にしゃがみこんだ。おれの肩をつかむ。おれは顔を上げた。二度と期待しないと誓った。それでも、おれは暖の次の言葉を待った。
「本当にごめん」
期待はあっさりと打ち砕かれた。暖は真剣な表情ではっきりといった。
「それはできない」
「暖……」
「聞けよ、俊介。おまえをここから出すことはできない。けどその代わりに、おまえの母親を施設に入れる」
強い意志を感じさせる口調で暖はいう。
「おまえの母親には治療と安定した生活が必要だ。アルコール依存症を治療する専門医療施設に入所させる。看護師が24時間ついて、食生活もしっかり管理される最高の施設を手配した。アパートもかなり長い間家賃を払ってないみたいだから解約して施設で暮らしてもらう。一番高い個室を用意してる。もちろん外出も自由だし、今より快適で健康的な生活ができると思う」
一言一言噛んで含めるようにいったが、おれには暖がいおうとしていることが理解できなかった。
「けど……」
「金はおれが全額出すから心配するな。未払いの家賃も消費者金融の借金も全部払う。お母さんには取り立ての心配もアルコールの苦しみもない生活を送ってもらえるようにする。この先は一生働かなくていいし、家賃も食費も必要ない。全部おれが面倒見る」
思いがけない話に、おれは言葉を失っていた。暖の表情は真剣で、冗談をいっているようには見えなかった。
「な、俊介。おまえも賛成だろ? おまえだって、お母さんがずっとこのままでいいとは思ってないよな?」
「ちょ、ちょっと待てよ」
おれは慌てていった。
「なんでおまえがそんなことするんだよ。目的はなんなんだよ」
「目的?」
「罪悪感か? 自分がしたこと、これで帳消しになると思ってんのかよ?」
「そんなこと思ってない」
暖は低い声でいった。
「おれはおまえに見返りを求めるからだよ」
「見返り?」
暖の視線がおれの体を降りていく。暑さのために服を脱いでいたことを思い出した。全身をぞわぞわとした嫌な感覚が走り抜け、おれは咄嗟に後ずさった。
「おまえ……冗談だろ?」
「冗談だと思うか?」
床にあぐらをかいて、暖はまっすぐにおれを見た。
「罪悪感とか、馬鹿か、おまえ。どこまでおひとよしだよ。なんでおれがおまえの母親の面倒を見なきゃいけない? しかもボランティアで? ふつうに考えて、ないだろ、それは。おれになんのメリットがある?」
暖の言葉はおれの心と体を急激に冷めさせていった。一瞬でも、暖の申し出が後ろめたさからくるものだと勘違いした自分を嗤った。暖は罪悪感などまったく感じてはいない。すべて計算ずくなのだ。
「……おれが断ったらどうすんだよ」
「どうもしない。おまえの母親が破滅するのを見てる」
暖は涼しい顔で答えた。
「おまえがおれを受け入れるなら、母親は一生優雅な暮らしを満喫できる。おまえが断れば、母親はアパートを追い出され、路頭に迷う。どっちでもおれには関係ない」
「おまえ、犯罪は犯したくないっていってただろ」
「見捨てるのと殺すのとはちがう」
「おなじだろ。おまえがおれを拉致ってこんなとこに閉じこめなかったらおふくろは……」
「幸せに暮らしてたか? 本気でそう思うのか?」
返答に詰まった。おれが狼狽する瞬間を暖は見逃さなかった。畳みかけるようにいった。
「勘違いすんなよ、俊介。おれはおまえを脅迫しているわけじゃない」
「どこがだよ。母親を人質に取ってるじゃねえかよ」
「ちがう。むしろ、おまえにチャンスを与えてるんだよ。人生で一度の親孝行ができるチャンスだろ」
「ふざけんな!」
おれは叫んだ。床に落ちていたリモコンを暖に向かって投げつけた。リモコンは暖の顔を直撃し、反動で床に落下した。衝撃で蓋がはずれ、乾電池が跳ね飛んだ。
こめかみから血を流しながらも、暖は表情を変えなかった。バッグから紙束を抜き取り、おれの前に投げて寄越した。
医療施設のパンフレットだった。紙質からして上等で、高級な施設だということが一目でわかる。たとえおれが予定していたとおり大学に進学して企業に就職できたとしても、母親を入れてやることなど決してできないようなランクの施設。
「明日またくる。それまでに考えとけよ」
暖は立ち上がった。顔の血をタオルで拭いて、バッグを持ち上げる。
「おれはどっちでもいい。選ぶのはおまえだからな」
それだけいって、暖は出て行った。ドアの重い音を聞きながら、おれはうなだれていた。
パンフレットの表紙は緑に囲まれた施設の外観。ページを捲ると、制服姿の職員らしき若い女が微笑んでいた。個室のベッド、毎日提供される食事のメニュー、保険や保障などのオプションについて解説されている。
もしこの施設に入所できれば、母が抱えるアルコール依存や借金などの問題はすべて解消されるだろう。息子が失踪した心の傷もすこしは癒えるかもしれない。
母親はおれが中学の頃から働いていない。社会復帰は難しいだろう。生活保護だけで生きていくのは厳しい。それはずっと前からわかっていた。だからこそ、奨学金を借りて大学に進学しようと思った。いい仕事に就いて、母に楽をさせてやりたかった。こんなことになって、描いていた将来はすべて消え去ったが、唯一、母に安定した暮らしをさせることだけは実現できる可能性が残されているわけだ。ただし、そのためには唯一残った誇りを捨て去らなければならない。
拳を握りしめた。手のなかでパンフレットが歪み、制服姿の女性職員の顔が歪んだ。
おれはパンフレットを胸に押しつけた。汗で紙が湿ってぼろぼろになった。
母ちゃん、ごめん……
心のなかで懺悔した。猛烈に母親に会いたかった。しかし、その願いが叶わないことも知っていた。
暖はおれを解放しない。たとえなにがあっても。
地獄のような熱気のなかで、おれはうずくまり、荒い呼吸を繰り返していた。


