「うわ、なんだ、おまえ、その顔」
その日、暖は疲れきった様子で入ってきた。外は雨が降っているようで、コートの肩が濡れている。
「そんな顔色悪い?」
「死にそうだぞ。メシ食ってんのかよ」
「俊介にそれ聞かれるとは」
暖は笑ったが、無理のある表情だった。
「冗談じゃなくて、マジでやばいぞ、おまえ。なんかあった?」
「べつになにもないよ」
嘘に決まっていたが、それ以上追求するのは憚られた。おれはべつに暖の友達でもなければ家族でもない。心配しているわけでもない。ただ、以前のように、暖がこないまま食料が尽きる状況になるのを危惧しているだけなのだ。
「今日もここで寝ていい?」
ここ最近、暖はくるたびに横になって1、2時間休んでいくようになっていた。
「いいけど、こんなとこで寝るより、ちゃんと自分の家で寝たほうがいいんじゃねえの」
「ここが一番よく眠れるんだよ」
おれには理解できなかったが、暖なりの理屈があるのだろう。さっさとコートを脱いだ。コートの下はスーツ姿だった。ネクタイを捥ぎ取り、バッグに圧しこむ。
最近はスーツを着てネクタイを締めていることが多い。まだ大学生ではあったが、卒業後のためにすでに行動を開始しているようだ。家業を継ぐにしろ、就職するにしろ、遊んでいる暇はないのだろう。
しかし、だとしても、ここまで疲弊しきっているのはおかしい。暖は体力があるほうだし、気苦労でやつれるほどデリケートな性格なら、人間を轢き殺し、目撃者を拉致監禁して平気な顔で生活できるはずがない。
「おまえって、友達とかいないの」
「なに、急に」
横になって目を閉じたまま、暖が答える。
「いや、なにもいわれないのかと思って」
「友達はいない」
「大学にも?」
「しゃべるひとはいるけど友達はいない」
おれが知る暖は、人当たりがよく、だれとでも親しく話す社交的な男だった。しかし、思い返してみると、親しく接しているようでいて、実は本心では決して気を許すことがなかったのではないだろうか。一見爽やかな笑顔の裏には黒い感情が潜んでいたのかもしれない。実際に、暖がこのような常軌を逸した犯罪行為を平然と行うようなサイコパスだと見抜くことができなかったわけだから。
「おまえ、友達くらいつくれよ」
「なんで」
「なんでって……気を許せる相手がいたほうがいいだろ。友達とか彼女とか。そういうひとほしいと思わねえの」
「おまえ、友達にも彼女にも裏切られてるじゃん」
暖の口調には棘があった。ふだんは抑制がきいていて感情を読み取れない。今日はすこしちがっていた。淡々とした言葉の影に心の動きが覗けている。
「おまえだって彼女くらいいたことあるだろ」
「ない。おれ女より男のほうが好きだし」
天気の話題でも出すかのようにさりげなく、暖はいい放った。ずっと気になっていたこと。あまりにさらりとしていたため、おれはすぐに反応できなかった。
「え、でも……」
紗弓との性行為はやはり合成かなにかだったのだろうか。一瞬考えたが、即座に打ち消された。
「女ともできるよ。一番最初は男じゃなくて女だったし」
「あっそ……」
いわゆる下ネタといえる話題で男友達と盛り上がることはあったが、なんとなく、暖はそういったこととは無縁のような印象だった。もちろん、年頃の男であり、家柄も外見もすぐれているからには、未経験ということはないだろうが。
去年のクリスマスイブのことを思い出した。暖が襲いかかってきたのは酒に酔ったせいだろうと思っていた。思いこもうとしていた。しかし、恋愛対象が男だというのなら、アルコールは無関係だろう。おれは警戒心をさらに強め、床の上に膝を滑らせて暖との距離を取った。
「周りは知ってんのかよ」
「男が好きって? 知るわけない」
東京ならまだしも、地元は田舎町だ。昭和の時代と較べれば多少軽減されているとはいっても、好奇の目に晒されるのは明らかだった。しかも暖の家は地元の名家で暖は跡取りのひとり息子だ。簡単に打ち明けられることではないだろう。
「じゃなんでおれにいうんだよ」
「だれかにバラす可能性ゼロだから」
それはすなわちおれを一生幽閉するという意味になるが、今更だ。ショックを受けることもない。おれは無言で暖を見つめた。視線に気づいたのか、暖が薄く目を開ける。
「なんだよ」
「べつに」
おれは離れた位置から膝を抱えて暖を眺めた。
「なんかかわいそうだなと思って」
「おれが?」
暖は仰向けになって笑った。
「こんな目に遭わされといてかわいそうとか、おひとよしかよ、おまえ」
「それとこれとはべつ。かわいそうっていっただけで、同情してるわけじゃない」
「変な理屈だな。まあいいけど」
暖は再び目を閉じた。すぐに寝息を立てはじめる。しばらくの間動かずにいたが、おれはそっと身を起こした。立ち上がらずに膝をつかって床を壁づたいに移動し、マットレスに近づく。
暖が手を伸ばしてもつかまることのない距離を確保して、寝顔を見つめた。暖は目を覚まさない。完全に熟睡している。
緩く結んだ唇は薄く、伏せられた睫は長い。形のよい眉に、すっと通った鼻筋。芸能人居慣れるほどとは思わないが、性別問わずほとんどの人間がイケメンと形容するだろう。金持ちの家に生まれ、頭も顔も完璧なのに男が好きだとは、もったいない話だ。
性的に倒錯していることが性格を歪め、異常な行動にはしらせる結果になったのだろうか。行為そのものは正当化できるものでないにしても、今こうなっているのは突然でも偶然でもないのだ。
おれは床にあぐらをかき、膝頭に右肘を載せて頬杖をついた。この男と会うことがなければと何度も考えた。しかし、それは暖もおなじだったのかもしれない。
暖はこの日一度も目覚めることなく、朝まで眠り続けた。
その日、暖は疲れきった様子で入ってきた。外は雨が降っているようで、コートの肩が濡れている。
「そんな顔色悪い?」
「死にそうだぞ。メシ食ってんのかよ」
「俊介にそれ聞かれるとは」
暖は笑ったが、無理のある表情だった。
「冗談じゃなくて、マジでやばいぞ、おまえ。なんかあった?」
「べつになにもないよ」
嘘に決まっていたが、それ以上追求するのは憚られた。おれはべつに暖の友達でもなければ家族でもない。心配しているわけでもない。ただ、以前のように、暖がこないまま食料が尽きる状況になるのを危惧しているだけなのだ。
「今日もここで寝ていい?」
ここ最近、暖はくるたびに横になって1、2時間休んでいくようになっていた。
「いいけど、こんなとこで寝るより、ちゃんと自分の家で寝たほうがいいんじゃねえの」
「ここが一番よく眠れるんだよ」
おれには理解できなかったが、暖なりの理屈があるのだろう。さっさとコートを脱いだ。コートの下はスーツ姿だった。ネクタイを捥ぎ取り、バッグに圧しこむ。
最近はスーツを着てネクタイを締めていることが多い。まだ大学生ではあったが、卒業後のためにすでに行動を開始しているようだ。家業を継ぐにしろ、就職するにしろ、遊んでいる暇はないのだろう。
しかし、だとしても、ここまで疲弊しきっているのはおかしい。暖は体力があるほうだし、気苦労でやつれるほどデリケートな性格なら、人間を轢き殺し、目撃者を拉致監禁して平気な顔で生活できるはずがない。
「おまえって、友達とかいないの」
「なに、急に」
横になって目を閉じたまま、暖が答える。
「いや、なにもいわれないのかと思って」
「友達はいない」
「大学にも?」
「しゃべるひとはいるけど友達はいない」
おれが知る暖は、人当たりがよく、だれとでも親しく話す社交的な男だった。しかし、思い返してみると、親しく接しているようでいて、実は本心では決して気を許すことがなかったのではないだろうか。一見爽やかな笑顔の裏には黒い感情が潜んでいたのかもしれない。実際に、暖がこのような常軌を逸した犯罪行為を平然と行うようなサイコパスだと見抜くことができなかったわけだから。
「おまえ、友達くらいつくれよ」
「なんで」
「なんでって……気を許せる相手がいたほうがいいだろ。友達とか彼女とか。そういうひとほしいと思わねえの」
「おまえ、友達にも彼女にも裏切られてるじゃん」
暖の口調には棘があった。ふだんは抑制がきいていて感情を読み取れない。今日はすこしちがっていた。淡々とした言葉の影に心の動きが覗けている。
「おまえだって彼女くらいいたことあるだろ」
「ない。おれ女より男のほうが好きだし」
天気の話題でも出すかのようにさりげなく、暖はいい放った。ずっと気になっていたこと。あまりにさらりとしていたため、おれはすぐに反応できなかった。
「え、でも……」
紗弓との性行為はやはり合成かなにかだったのだろうか。一瞬考えたが、即座に打ち消された。
「女ともできるよ。一番最初は男じゃなくて女だったし」
「あっそ……」
いわゆる下ネタといえる話題で男友達と盛り上がることはあったが、なんとなく、暖はそういったこととは無縁のような印象だった。もちろん、年頃の男であり、家柄も外見もすぐれているからには、未経験ということはないだろうが。
去年のクリスマスイブのことを思い出した。暖が襲いかかってきたのは酒に酔ったせいだろうと思っていた。思いこもうとしていた。しかし、恋愛対象が男だというのなら、アルコールは無関係だろう。おれは警戒心をさらに強め、床の上に膝を滑らせて暖との距離を取った。
「周りは知ってんのかよ」
「男が好きって? 知るわけない」
東京ならまだしも、地元は田舎町だ。昭和の時代と較べれば多少軽減されているとはいっても、好奇の目に晒されるのは明らかだった。しかも暖の家は地元の名家で暖は跡取りのひとり息子だ。簡単に打ち明けられることではないだろう。
「じゃなんでおれにいうんだよ」
「だれかにバラす可能性ゼロだから」
それはすなわちおれを一生幽閉するという意味になるが、今更だ。ショックを受けることもない。おれは無言で暖を見つめた。視線に気づいたのか、暖が薄く目を開ける。
「なんだよ」
「べつに」
おれは離れた位置から膝を抱えて暖を眺めた。
「なんかかわいそうだなと思って」
「おれが?」
暖は仰向けになって笑った。
「こんな目に遭わされといてかわいそうとか、おひとよしかよ、おまえ」
「それとこれとはべつ。かわいそうっていっただけで、同情してるわけじゃない」
「変な理屈だな。まあいいけど」
暖は再び目を閉じた。すぐに寝息を立てはじめる。しばらくの間動かずにいたが、おれはそっと身を起こした。立ち上がらずに膝をつかって床を壁づたいに移動し、マットレスに近づく。
暖が手を伸ばしてもつかまることのない距離を確保して、寝顔を見つめた。暖は目を覚まさない。完全に熟睡している。
緩く結んだ唇は薄く、伏せられた睫は長い。形のよい眉に、すっと通った鼻筋。芸能人居慣れるほどとは思わないが、性別問わずほとんどの人間がイケメンと形容するだろう。金持ちの家に生まれ、頭も顔も完璧なのに男が好きだとは、もったいない話だ。
性的に倒錯していることが性格を歪め、異常な行動にはしらせる結果になったのだろうか。行為そのものは正当化できるものでないにしても、今こうなっているのは突然でも偶然でもないのだ。
おれは床にあぐらをかき、膝頭に右肘を載せて頬杖をついた。この男と会うことがなければと何度も考えた。しかし、それは暖もおなじだったのかもしれない。
暖はこの日一度も目覚めることなく、朝まで眠り続けた。


