暖が鏡を持ってきた。おれの髪を切るためだ。監禁されてから1年半放っておいたおれの髪は肩につくほどの長さになっていた。
暖や自分を傷つける気がおれにもうないと判断したのか、暖は凶器になりそうなものやガラス製のものも持ち込むようになっていた。A4サイズの鏡をテーブルに置き、おれを椅子に座らせて、器用に鋏を扱って髪を切っていく。
ここにくる前はそれなりにおしゃれにも関心があったが、今では髪などどうでもよかった。しかし、鏡に映る自分の姿からは目を離すことができなかった。
たった1年半でかなり老けたように見えた。髪は乾き、肌は荒れている。予想はしていたが、あまりの外見の変化にショックを受けた。
「動くなよ」
おれの心の動きに気づいているのか、暖が顔を寄せ、鏡ごしにおれを見る。動揺を悟られまいと、視線を逸らした。
「おまえ、やったことあんのかよ」
「髪切るの? ないよ。動画見て勉強した」
付け焼き刃の知識のわりに、暖の手つきは滑らかだった。もともとなんでもこなせる器用さを持っているのだろう。涼しい顔で作業を進めている。さっぱりと短く刈った黒い髪には艶があって、肌も若々しく輝いている。外国人のような彫りの深い顔立ちは、性別問わずだれの目にも魅力的に映るだろう。小さな四角のなかに並んだふたつの顔のあまりの印象の違いに、おれは暗い気分になった。
「前髪切るから、目瞑って」
暖が体を移動させておれの前に回った。鋏の刃が近づいてきて、おれは反射的に目を閉じた。鏡を見ずに済むのは気が楽だと思った。刃が重なる軽やかな音とともに前髪に鋏が入れられ、膝の上に置いた手に短い髪の束が落ちて皮膚をちくちくと刺す。くすぐったいような感覚に、薄く目を開いた。
焦点が合わないほどの近距離に暖の顔があった。真剣な表情で、おれの額に鋏を寄せている。視線が合いそうになって、慌てて目を閉じた。
「できた」
暖が息をついて、ケープ代わりに肩にかけていたバスタオルを取り去った。床に敷いたゴミ袋の上にはかなりの量の髪の毛が散乱していた。
「いかがでしょうか」
おどけた口調でいって、鏡を見せてくる。年齢相応の若さを取りもどしたとはいい難いが、それなりに清潔感のある男がいた。
「素人にしては悪くないだろ」
「どうでもいい。だれに見られるわけでもないし」
「おれが見るだろ」
タオルについた毛を払いながら、暖は満足げに仕上がりを確認している。
「髪の毛ついてる」
ふいに手を伸ばし、おれの首に貼りついて1本の髪の毛を指先で掠め取った。触れるか触れないかの一瞬。鏡ごしに視線が絡んだ。暖はすぐに視線を逸らした。
「片付けるから、立ってそこどけよ」
おれを見ないまま、小型のハンディクリーナーを使って床の毛を吸い上げる。掃除をはじめる暖を横目に、おれは邪魔にならない場所へ移動した。壁際に立って、首の裏を掌で摩る。髪が纏わりつく感覚が消え、首元がいくぶん楽にはなったが、気分は晴れなかった。
去年のクリスマスに襲われかけてからは、とくに身の危険を感じることはなかった。時折、ふだんとはちがう妙な目つきで見られることはあったが、過剰に触れられることはない。それでも、本能的に暖の視線から逃げようとしていた。
同性を恋愛対象とする人間がいることは当然知っていた。暖がそうかもしれないと思ったが、あえて聞く気にはなれなかった。気を遣ったわけではない。暖の性思考になど関心はなかった。もちろん、自分の身に危険が及ばなければの話だが。
おまえ、男が好きなの?
ていねいにゴミ袋を畳む暖の背中に向かって、問いかけた。暖が振り向いた。
「なに?」
「べつに。鏡は持って帰れよ」
「なんで」
「わかるだろ。今の自分の顔見るの嫌なんだよ」
できる限り感情を殺して、いった。半身に暖の視線を感じた。避けるようにマットレスに寝転がった。ごろりと体を横にして壁を向いた。なにかを考えるのが億劫だった。
鎖骨の辺りに違和感をおぼえ、指先で搔くと、爪の間に数ミリの毛が挟まっていた。取り忘れたらしい。胸の奥に感じる気持ちの悪い感覚にすこし似ている。わずかな違和感を払拭するように、おれは髪の毛をマットレスに擦りつけた。
暖や自分を傷つける気がおれにもうないと判断したのか、暖は凶器になりそうなものやガラス製のものも持ち込むようになっていた。A4サイズの鏡をテーブルに置き、おれを椅子に座らせて、器用に鋏を扱って髪を切っていく。
ここにくる前はそれなりにおしゃれにも関心があったが、今では髪などどうでもよかった。しかし、鏡に映る自分の姿からは目を離すことができなかった。
たった1年半でかなり老けたように見えた。髪は乾き、肌は荒れている。予想はしていたが、あまりの外見の変化にショックを受けた。
「動くなよ」
おれの心の動きに気づいているのか、暖が顔を寄せ、鏡ごしにおれを見る。動揺を悟られまいと、視線を逸らした。
「おまえ、やったことあんのかよ」
「髪切るの? ないよ。動画見て勉強した」
付け焼き刃の知識のわりに、暖の手つきは滑らかだった。もともとなんでもこなせる器用さを持っているのだろう。涼しい顔で作業を進めている。さっぱりと短く刈った黒い髪には艶があって、肌も若々しく輝いている。外国人のような彫りの深い顔立ちは、性別問わずだれの目にも魅力的に映るだろう。小さな四角のなかに並んだふたつの顔のあまりの印象の違いに、おれは暗い気分になった。
「前髪切るから、目瞑って」
暖が体を移動させておれの前に回った。鋏の刃が近づいてきて、おれは反射的に目を閉じた。鏡を見ずに済むのは気が楽だと思った。刃が重なる軽やかな音とともに前髪に鋏が入れられ、膝の上に置いた手に短い髪の束が落ちて皮膚をちくちくと刺す。くすぐったいような感覚に、薄く目を開いた。
焦点が合わないほどの近距離に暖の顔があった。真剣な表情で、おれの額に鋏を寄せている。視線が合いそうになって、慌てて目を閉じた。
「できた」
暖が息をついて、ケープ代わりに肩にかけていたバスタオルを取り去った。床に敷いたゴミ袋の上にはかなりの量の髪の毛が散乱していた。
「いかがでしょうか」
おどけた口調でいって、鏡を見せてくる。年齢相応の若さを取りもどしたとはいい難いが、それなりに清潔感のある男がいた。
「素人にしては悪くないだろ」
「どうでもいい。だれに見られるわけでもないし」
「おれが見るだろ」
タオルについた毛を払いながら、暖は満足げに仕上がりを確認している。
「髪の毛ついてる」
ふいに手を伸ばし、おれの首に貼りついて1本の髪の毛を指先で掠め取った。触れるか触れないかの一瞬。鏡ごしに視線が絡んだ。暖はすぐに視線を逸らした。
「片付けるから、立ってそこどけよ」
おれを見ないまま、小型のハンディクリーナーを使って床の毛を吸い上げる。掃除をはじめる暖を横目に、おれは邪魔にならない場所へ移動した。壁際に立って、首の裏を掌で摩る。髪が纏わりつく感覚が消え、首元がいくぶん楽にはなったが、気分は晴れなかった。
去年のクリスマスに襲われかけてからは、とくに身の危険を感じることはなかった。時折、ふだんとはちがう妙な目つきで見られることはあったが、過剰に触れられることはない。それでも、本能的に暖の視線から逃げようとしていた。
同性を恋愛対象とする人間がいることは当然知っていた。暖がそうかもしれないと思ったが、あえて聞く気にはなれなかった。気を遣ったわけではない。暖の性思考になど関心はなかった。もちろん、自分の身に危険が及ばなければの話だが。
おまえ、男が好きなの?
ていねいにゴミ袋を畳む暖の背中に向かって、問いかけた。暖が振り向いた。
「なに?」
「べつに。鏡は持って帰れよ」
「なんで」
「わかるだろ。今の自分の顔見るの嫌なんだよ」
できる限り感情を殺して、いった。半身に暖の視線を感じた。避けるようにマットレスに寝転がった。ごろりと体を横にして壁を向いた。なにかを考えるのが億劫だった。
鎖骨の辺りに違和感をおぼえ、指先で搔くと、爪の間に数ミリの毛が挟まっていた。取り忘れたらしい。胸の奥に感じる気持ちの悪い感覚にすこし似ている。わずかな違和感を払拭するように、おれは髪の毛をマットレスに擦りつけた。


