2225日後

 死んでもいいのか。
 暖の言葉の真意がわかったのは、クリスマスイブの夜から数日たった頃だった。
 暖がこない。あの日からドアが開くことはなかった。それは、食べ物と水の供給が途絶えるということだった。暖は姿を見せず、当然ながらおれは猛烈な飢えと渇きに耐えなければならなくなった。
 傷は浅くなかっただろう。時間の経過とともに、肉を抉る感触が手に宿り消えなくなった。すくなくとも、数日は入院するような傷だったにちがいない。
 あの日、この部屋を出た暖はどうしたか。救急車を呼んだか、それとも自分で車を運転して病院に行った。どちらも考えにくい。救急車を呼べば地下室の存在が知られるおそれがあるし、飲酒運転で捕まるリスクを冒すとも思えない。
 だとしたら、傷はそれほどひどいものではなく、自ら応急処置を施したか。傷を負った理由について医者に詮索されるだろうが、暖ならうまく乗り切るだろう。
 しかし、それならまったく姿を見せない理由がない。やはり重傷で動けない状態なのか、または意識がないままか、そうでなければ……
 クリスマスの料理を食べきり、残ったビールを一滴残らず飲み干すと、口に入れられるものがなくなった。5日、6日と時間が過ぎていくにつれ、恐怖が絶望に変わっていった。
 もし……もし暖が死んでいたとしたら。この場所を知っている人間は他にだれがいるのだろう。葬式を済ませ、遺品を整理し、ふだんつかわれていない地下室を思い出すまでに、どれくらいの時間が必要なものだろうか。
 まだ血の匂いがするマットレスに横たわって、おれはぼんやりと床の血だまりを眺めていた。乾いて黒ずんでいる。
 母親のことを思い出した。おれが死ねば、母の面倒を見る人間はいなくなる。
 皮肉なものだ。暖が死ねばおれも死ぬ。おれが死ねば母も死ぬ。
 暖を刺したのはおれで、間接的にはおれが全員殺したようなものだ。
 唇の端がぴくぴく震えた。笑いたかったが、顔の筋肉を動かす力が残っていない。もう疲れてしまっていた。擦り切れ、削れて、体全部がなくなってしまったかのようだ。
 二度と目覚めないかもしれないという恐怖をうっすらと感じながら、おれは目を閉じた。

 体を揺さぶられ、目が覚めた。暖がおれを見下ろしていた。どうやら夢や幻ではないらしい。おれの上半身を起こして、ペットボトルの水を飲ませた。久しぶりに口にする水をおれは必死で吸収した。一気に飲んだせいで、喉が痙攣して一部を吐いてしまった。吐き出した水が暖の膝に跳ね、デニム生地の藍を濃くした。
「だいじょうぶか」
「だいじょうぶに見えるかよ……」
 噎せながらかろうじて答えた。
「遅いんだよ、くそが」
 暖は食料も持参していた。差し出される前に袋を奪い取り、包装紙を毟り取ってハンバーガーに齧りついた。暖に構っている余裕はなかった。自分がどう見えているかも気にせず、おれは犬のようにがつがつと貪った。自分がどれほど生命に固執しているかをあらためて実感した。
 一心不乱に食べものを口に圧しこむおれを暖は静かに見つめていた。
「おまえが悪いんだぞ。見ろよ、この傷」
 暖がシャツを捲り上げる。脇腹に包帯が巻かれていた。経緯は知らないが、どうやら病院で手当を受けたらしい。
「おまえこそ自分がしたこと忘れたのかよ。自業自得だろ」
 サンドイッチをコーラで流し込みながら、おれはいった。
「死ねばよかったんだ、おまえなんか」
「そうなったらおまえも衰弱死だな。だれにも看取られずにここで腐って骨になるわけだ」
 暖の言葉は真実だった。おれは男に背を向け、無言で食事を続けた。
「俊介」
 背後で暖が立ち上がる気配がした。暖の声が頭上から降ってくる。
「もうわかっただろ。おれが死んだらおまえも死ぬ。心中したいならそれでもいいけど、今度おれを殺そうとするときは、ちゃんとそのこと覚悟したうえでやれよ」
 答えなかった。壁に向かって黙々と食べものを口に運んだ。あれほど欲していた食料だったが、まったくといっていいほど味がしなかった。おれは純白の壁を見つめ、ただ機械的に顎を動かしていた。