いやな音がした。機械が肉を抉る鈍い音。甲高いブレーキ音が耳をつんざき、上半身が大きく前にかしいだ。シートベルトが胸に食い込み、鋭い痛みを感じた。反動で後頭部がシートヘッドで弾み、体が左右に揺れて、助手席のガラスに側頭部を強打した。視界が揺れ、衝突の衝撃で頭の奥に痺れるような痛みがはしった。
車が停止しても、すぐには動けなかった。数時間前まで参加していた卒業式の集まりで大量に摂取したアルコールのせいではない。酔いは完全にさめていた。
午後から降りはじめた雨は大降りになっていて、よけいに視界を悪くしていた。大粒の雨がフロントガラスを叩き、罅割れたガラスのわずかな隙間からじわりと車内に滲み出していた。
頭も体も本来の機能を失ってしまったかのように硬直して、指先さえ動かせなかった。ただ呆然と割れたフロントガラスを見つめていた。一瞬の後、体から先に機能を取りもどした。全身がこまかく震える。唇が乾く。
「おい……」
かろうじて、言葉を発した。掠れて、裏返っていた。自分の声だとは思えなかった。
「今のって……」
震えが大きくなっていく。視界に靄がかかったかのようだった。罅の入ったフロントガラスに向かって叫んだ。
「なんだよ、今のは!」
「大きな声出すな」
運転席の暖がいった。暖の声も知らない人間のもののように聞こえた。ステアリングを両腕で抱え込むように上半身をもたせかけている。背中を大きく上下させ、息を整えようとしているかのように見える。
「ふざけんな! どうなってんだよ! なんだよ、これ!」
おれは完全にパニックに陥っていた。シートベルトをはずそうとしたが、手が震えてうまくいかない。苛立ちながらもどうにか体を自由にし、ドアを開けて車外に飛び出た。勢いがつきすぎて、前のめりに転げた。ジーンズの膝がアスファルトを擦ったが、痛みは感じなかった。豪雨に打たれて全身ずぶ濡れになったが、気にする余裕はなかった。
「俊介!」
暖の声が遠くに聞こえるようだった。おれは後ずさりながら周囲を見回した。
「やめろ。外に出るな」
「うるせえよ!」
足を縺れさせながら車の前に回り込んだ。車体の前面が大きくへこみ、擦り傷も確認できた。踵から頭まで冷たいものが這い上がってくるような感覚。
ゆっくりと顔を傾けた。車からすこし離れた後方に、“それ”はあった。
無意識に後ずさった。荒い息を感じて振り返ると、いつの間にか車を降りた暖がおれの背後に立っていた。おなじ方向に視線を向けている。ヘッドライトに照らされた顔は青白かった。
「犬……じゃないよな」
馬鹿げた発言だった。離れていてもわかる。犬の大きさではないしましてや鹿や猪でもない。都心から離れた田舎道とはいえ、山奥ではない。大型の動物が道路を歩いているはずがなかった。それでも、いわずにはいられなかった。
暖は黙っておれを追い越し、“それ”に近づいた。おれは足の裏を杭で打ち込まれたかのように一歩も動けず、暖の動きを目で追った。
暖は“それ”をしばらく見下ろしてから、膝を曲げてしゃがみこんだ。
「生きてんのか……?」
おれは震える声でいった。
「生きてんのかって聞いてんだよ!」
暖は無言で立ち上がり、ゆっくり戻ってきた。端正な顔が歪んでいた。その表情で、おれはすべてを悟った。
「いやだ……」
暖を凝視しながら、おれは首を振った。はじめはゆっくりと、すこしずつ大きくなり、濡れた犬のように大きく上半身を左右に捻った。
「やだやだやだ。嘘だろ。死んでんのかよ!」
「俊介」
「もっかい確認しろよ!」
「俊介!」
「そうだ、救急車……救急車呼ばないと……」
スマホを取り出そうとジャケットのポケットに手を突っ込んだ。その手を暖につかまれた。すさまじい力だった。
「聞けよ、俊介」
「なんだよ、離せよ!」
「いいから、おれの話聞けって!」
「話してる場合かよ! おれらひと轢いたんだぞ!」
口にしたとたん、現実が襲いかかってきた。家で待つ母親、明朝会う約束をしている彼女、地元の同級生たち、取得したばかりの運転免許、進学が決まったばかりの大学、将来……
現実感は絶望に変化した。膝が震えて立っているのが難しくなっていた。よろけるおれの両腕を暖が強くつかみ揺さぶった。
「しっかりしろ、俊介。今からいうことよく聞けよ。いいか?」
おれの返事を待たずに、暖はいった。
「起きたことはしかたない。1時間前に時間をもどせるなら、おれだってそうしたいよ。でもできない。だから今すべきことをしよう」
「おまえ、なにいってんの……?」
おれほどパニックになってはいなかったが、暖もさっきまでは取り乱した様子だった。しかし、今は冷静さを取りもどしているように見えた。顔は依然として青白かったが、目はしっかりとしていた。この状況で落ち着いて話そうとする神経とその視線の鋭さに、おれは形容しがたいおそろしさを感じた。
「しかたないってなんだよ。状況わかってんのかよ。とんでもないことしたんだぞ」
「わかってる」
「じゃあ救急車呼ばないと。あと警察も……」
「警察は呼ばない。救急車も」
「はあ?」
「おまえこそ、状況がわかってない。いいか。ひとつには、救急車を呼んでも無駄だ。もう遅い。警察はもっと駄目だ。ありえない」
暖がなにをいっているのか、まったく理解できなかった。そんな顔をしていたのだろう。暖は幼い子どもにいい聞かせるように単語ごとに切ってゆっくり力を込めて話した。
「なあ、俊介。おれは犯罪者になりたくない。おまえもだろ。親御さんのこと考えろ。おまえんち、お母さんとふたり家族だっていってたよな。おまえが逮捕されたら、お母さんはどうなる?」
「ちょっと待てよ!」
たまらずに叫んだ。暖の手を振り払った。
「運転してたのおまえだろ! おれは関係ない!」
「そんなの通用すると思うか。おまえは酔っ払ってるし、前科だってあるんだろ」
「前科たってただの窃盗だろ! そんなの……」
「警察に信用される人間か、おまえが?」
信じられない言葉だった。目の前にいる人間が他人に思えて、おれは立ち竦んだ。
「悪い。ごめん。おれはただ、おまえに落ち着いてほしいだけなんだ」
「……落ち着いて、どうしろっていうんだよ」
おれはどうにか興奮を抑え、胸を上下させて必死に呼吸をしながら暖をにらんだ。暖とはちがい、簡単に冷静になれるとは思えなかった。
「頼みがある」
おれの目をしっかりと見て、暖はいった。
「あいつを埋めるのを手伝ってほしい」
その言葉はあまりに衝撃的で、おれは愕然とした。間抜けにも口を開いたまま突っ立っているおれに、暖は畳みかけるようにいった。
「あいつを見ろ。服装からいってどう見てもホームレスだろ。いなくなったって、探す人間がいるわけない。だいじょうぶだよ」
「なにがだいじょうぶだよ!」
思わず声を荒らげた。とんでもないことだ。おそろしく、おぞましい。育ちがよく、物腰やわらかく、だれにでも親切な暖の口から出る言葉とは思えなかった。
「おまえ、自分がなにいってんのかわかってんの? おれは絶対嫌だからな!」
「おまえも共犯者になるんだぞ」
「交通事故の共犯とは全然ちがうだろ、そんな……人間を埋めるなんて……」
「人間じゃない。死体だ。もう死んでる」
「だからちゃんと確かめろって!」
「もう確かめた。なんならおまえも確認しろよ」
冗談ではない。死体に近づくなどごめんだった。
「生き埋めにするわけじゃない。葬式だって死体を土に埋めるだろ。埋葬とおなじだよ」
おなじのはずがない。おれはパニック状態の頭を必死で回転させようとした。うまくいきそうになかった。
「それでも嫌だ。絶対できない」
おれは絞り出すようにしていった。
「俊介」
「ごめん。本当に申し訳ないと思うけど、できないんだよ。おれには無理……」
「頼むよ、俊介」
暖が再びおれの腕をつかむ。今度は懇願だった。切実な頼み。暖は必死になっておれに頭を下げた。
「なあ、お願いだから、助けてくれよ。おれの家のことも知ってるだろ」
暖の声。はじめて聞く色だった。
暖とは去年の夏頃に地元のクラブで知り合った。田舎町にある唯一のクラブで、暖はVIP席の常連だった。高校生の入店は禁じられていたが、暖の親が地元の有力者で、特別扱いを受けていた。店の前で不良仲間とどうにか入れないか相談していたところ、声を掛けられた。
家が近所だったことを除けば、共通点はまるでなかった。暖の家は地元でも知られた政治家の一家で、父親は県議会議員、祖父は衆院議員だった。一方、おれはシングルマザーの家庭に生まれ、母ひとり子ひとり。物心ついた頃には父親はすでにいなかった。職場の同僚と不倫した末に家を出て行ったらしい。以来、母親はアルコールに溺れた。働いているところを見たことはなかった。生活保護と、おれが居酒屋でバイトをして手に入れるわずかな給料だけでどうにか生活している。
暖が気まぐれを起こさなければ、一生出会うことはなかっただろう。暖と一緒にいれば、クラブ以外にも入れる店やできる体験が増えた。遊ぶ金の心配をする必要もなかった。おれは暖にくっついて歩くようになった。
家庭環境がちがっても、おれたちは不思議とうまが合い、よくふたりで遊んだ。進学校に通う暖の授業が終わるのを待って、頻繁に会っていた。それぞれの学校にも友人はいたが、互いにもっとも近い存在だったことは間違いない。
知り合ってすこしして、暖が東京の大学に合格し、おれもランクはかなり下だが地元の大学に受かった。都内のマンションに生活の拠点を移す暖と地元に残るおれ。高校を卒業すれば、これまでのように会うことはすくなくなる。卒業式の今日が最後のはずだった。
「俊介、頼むよ」
おれの腕をつかむ暖の手に力がこもった。
「おまえのことはおれが一生面倒見る。就職先も、親御さんのことも全部。なにも心配しなくていい。だから頼む。助けてくれ」
暖の声はほとんど叫び声になっていた。そんなふうになりふり構わず必死になっている暖を見るのははじめてだった。考えてみれば、おれたちは互いのことをほとんど知らない。遊び仲間として、それぞれの家庭環境や学校でのたわいない話をしてはいたが、深い部分について知り合うことはなかった。
「おまえはなにもしなくていい。ただ見てるだけでいいから。な?」
暖に兄弟はいない。おれとおなじひとりっこだ。本人が望むと望まざるとに関わらず、政治家への道を進むのだろう。無免許でもなければ酒を飲んだわけでもないが、ひとを轢き殺したのだ。過失とはいえ、ただでは済まない。約束されたはずの暖の将来が消え、道が閉ざされる。
「……わかった」
暖の視線から逃げるようにおれは頷いた。ほかになにもいえなかった。暖が運転免許を取得した記念と高校卒業の記念にドライブへ行こうと誘ったのはおれだ。運転していなかったとはいえ、おれにも責任の一端はある。
「ありがとう」
暖がおれの手を握りしめる。おれはされるがままだった。これからどうなるのか、考える力は残っていなかった。
暖がトランクを開け、“それ”を運び込んだ。おれは暖に命じられるままに手伝った。両腕で足を抱え、トランクのなかに放り込んだ。
移動させるとき、フードを被った顔が一瞬目に入った。血だらけではっきりと判別できなかったが、50代くらいの男だった。顔を見れば一生忘れられなくなりそうで、あえて顔を背けて作業に集中しようとした。
人通りのすくない道とはいえ、だれにも見られなかったのは奇跡だった。暖が車を運転し、その場を離れた。
雨はまだ降り続いていた。おれは助手席で微動だにしなかった。体の震えは止まるどころか烈しくなっていた。
「これ」
暖が後部座席からタオルを取り上げた。渡されたタオルで顔を拭いた。事故の衝撃でぶつけたらしく、こめかみに血がついていた。痛みは感じない。寒さもなにも感じなかった。
「だいじょうぶか」
答えなかった。暖は前を向いて運転していたが、左手を伸ばしておれの肩をつかんだ。
「心配するな。うまくいくから」
おそろしいほどに冷静な暖の横顔を見て、おれはいいようのない寒気を感じた。おれの知らない男がそこにいた。故意ではなかったとはいえ、ひとを殺してしまったのだ。これほど冷静でいられるのは異常ではないか。学生時代から積み上げてきた信頼や友情がフロントガラスの罅のようにすこしずつ崩れ、車内に侵入する雨水のように黒いものが広がっていくようだった。
「この辺でいいか」
林道をさらに進み、人気のない森にさしかかったところで、暖は車を停めた。素早く周囲を確認し、だれもいないのを確かめてから外に出た。
トラックを開ける音と雨音が混ざり合う。おれはゆっくりと車を降りた。
ガードレールの脇に停めた車。エンジンはかかったままで、ワイパーが左右にせわしなく動いている。おれは車体のへこみと傷を見つめた。ヘッドライトに照らされ、猛烈な雨に打たれながら立ち尽くしていた。
「俊介?」
トランクを覗き込んでいた暖が顔を上げ、おれのほうに歩いてきた。
「どうした?」
呆然と立っているだけのおれを見て、訝しげに眉を顰める。
「あとはおれがやるから、車にいろよ。濡れるぞ」
おれの肩を軽く叩いて、暖は作業に戻った。トランクの向こうに暖の姿が消えると、おれはいった。
「暖」
かろうじて出た声は雨音にかき消され、暖に届かなかった。もう一度、叫ぶようにいった。
「暖!」
「え?」
トランクの陰から暖が首を伸ばす。暗くて表情はよく見えない。構わずに、いった。
「ごめん。おれやっぱ無理だ」
「俊介……」
「今ならまだ間に合う。警察行こう。おれも一緒に行くから」
暖は黙っている。おれは懇願するようにいった。
「こんなの絶対間違ってるって。おれたちまだ18なんだぜ。これから何十年も人生続くんだから。何回でもやり直せる。だから、なあ、警察行って正直に話そう。わざとやったわけじゃないんだから、そんなに重い罪にはらないって」
暖はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……わかった」
「ほんとか?」
おれはほっとして息をついた。暖の主張は理解できるが、だからといって、やはり同意はできない。犯してしまった罪をなかったことにはできないのだ。逃げ延びることができたとしても、心のなかに闇が残るだろう。十年、二十年たってもその闇は消えない。一生を罪悪感とともに生きるのはごめんだった。
「ほんとに自首するんだな?」
「うん。俊介のいうとおりだと思う。やったことの責任は取らないと」
暖の顔は微笑んでいるように見えた。おれもようやくすこし笑えた。そうだ。だれにでも過ちはある。大事なのはどう償って今後の人生を送るかだ。
「よかった。じゃ早く行こう」
暖は完全に納得していないかもしれない。おれと暖では抱える事情がまるでちがうのだ。それでも、いつかはこの判断が正しかったと思えるだろう。そうしなくてはならない。おれは暖に背を向け、車に乗るため助手席に回ろうとした。
サイドミラーに映った暖の姿。その瞬間に気づくべきだった。暖の陰がゆっくりと背後に近づき、おれは無意識に振り返った。そして暖の目を見た。感情のない目だった。
おれは口を開いた。なにをいおうとしたのかは自分でもわからない。
暖が大きく上半身を捻った。なにか棒のようなものを手に持っている。それがなんなのか、確認するよりも先に、側頭部に強烈な衝撃を感じた。
なにが起きたのかわからなかった。気づくと、濡れたアスファルトに頬を擦りつけていた。雨と混じって薄い朱色の水になった血がダムのようにあふれ、目を開くことができなかった。それでも必死で視界を確保しようと瞼を震わせた。
靴音とともに、2本の足が近づいてくる。顔を上げようとしたが、体が動かない。
「暖……」
「ごめんな、俊介」
暖の声が頭上に降ってきた。感情を失った声だった。
後頭部にもう一度衝撃が加わり、おれの意識は消えた。
車が停止しても、すぐには動けなかった。数時間前まで参加していた卒業式の集まりで大量に摂取したアルコールのせいではない。酔いは完全にさめていた。
午後から降りはじめた雨は大降りになっていて、よけいに視界を悪くしていた。大粒の雨がフロントガラスを叩き、罅割れたガラスのわずかな隙間からじわりと車内に滲み出していた。
頭も体も本来の機能を失ってしまったかのように硬直して、指先さえ動かせなかった。ただ呆然と割れたフロントガラスを見つめていた。一瞬の後、体から先に機能を取りもどした。全身がこまかく震える。唇が乾く。
「おい……」
かろうじて、言葉を発した。掠れて、裏返っていた。自分の声だとは思えなかった。
「今のって……」
震えが大きくなっていく。視界に靄がかかったかのようだった。罅の入ったフロントガラスに向かって叫んだ。
「なんだよ、今のは!」
「大きな声出すな」
運転席の暖がいった。暖の声も知らない人間のもののように聞こえた。ステアリングを両腕で抱え込むように上半身をもたせかけている。背中を大きく上下させ、息を整えようとしているかのように見える。
「ふざけんな! どうなってんだよ! なんだよ、これ!」
おれは完全にパニックに陥っていた。シートベルトをはずそうとしたが、手が震えてうまくいかない。苛立ちながらもどうにか体を自由にし、ドアを開けて車外に飛び出た。勢いがつきすぎて、前のめりに転げた。ジーンズの膝がアスファルトを擦ったが、痛みは感じなかった。豪雨に打たれて全身ずぶ濡れになったが、気にする余裕はなかった。
「俊介!」
暖の声が遠くに聞こえるようだった。おれは後ずさりながら周囲を見回した。
「やめろ。外に出るな」
「うるせえよ!」
足を縺れさせながら車の前に回り込んだ。車体の前面が大きくへこみ、擦り傷も確認できた。踵から頭まで冷たいものが這い上がってくるような感覚。
ゆっくりと顔を傾けた。車からすこし離れた後方に、“それ”はあった。
無意識に後ずさった。荒い息を感じて振り返ると、いつの間にか車を降りた暖がおれの背後に立っていた。おなじ方向に視線を向けている。ヘッドライトに照らされた顔は青白かった。
「犬……じゃないよな」
馬鹿げた発言だった。離れていてもわかる。犬の大きさではないしましてや鹿や猪でもない。都心から離れた田舎道とはいえ、山奥ではない。大型の動物が道路を歩いているはずがなかった。それでも、いわずにはいられなかった。
暖は黙っておれを追い越し、“それ”に近づいた。おれは足の裏を杭で打ち込まれたかのように一歩も動けず、暖の動きを目で追った。
暖は“それ”をしばらく見下ろしてから、膝を曲げてしゃがみこんだ。
「生きてんのか……?」
おれは震える声でいった。
「生きてんのかって聞いてんだよ!」
暖は無言で立ち上がり、ゆっくり戻ってきた。端正な顔が歪んでいた。その表情で、おれはすべてを悟った。
「いやだ……」
暖を凝視しながら、おれは首を振った。はじめはゆっくりと、すこしずつ大きくなり、濡れた犬のように大きく上半身を左右に捻った。
「やだやだやだ。嘘だろ。死んでんのかよ!」
「俊介」
「もっかい確認しろよ!」
「俊介!」
「そうだ、救急車……救急車呼ばないと……」
スマホを取り出そうとジャケットのポケットに手を突っ込んだ。その手を暖につかまれた。すさまじい力だった。
「聞けよ、俊介」
「なんだよ、離せよ!」
「いいから、おれの話聞けって!」
「話してる場合かよ! おれらひと轢いたんだぞ!」
口にしたとたん、現実が襲いかかってきた。家で待つ母親、明朝会う約束をしている彼女、地元の同級生たち、取得したばかりの運転免許、進学が決まったばかりの大学、将来……
現実感は絶望に変化した。膝が震えて立っているのが難しくなっていた。よろけるおれの両腕を暖が強くつかみ揺さぶった。
「しっかりしろ、俊介。今からいうことよく聞けよ。いいか?」
おれの返事を待たずに、暖はいった。
「起きたことはしかたない。1時間前に時間をもどせるなら、おれだってそうしたいよ。でもできない。だから今すべきことをしよう」
「おまえ、なにいってんの……?」
おれほどパニックになってはいなかったが、暖もさっきまでは取り乱した様子だった。しかし、今は冷静さを取りもどしているように見えた。顔は依然として青白かったが、目はしっかりとしていた。この状況で落ち着いて話そうとする神経とその視線の鋭さに、おれは形容しがたいおそろしさを感じた。
「しかたないってなんだよ。状況わかってんのかよ。とんでもないことしたんだぞ」
「わかってる」
「じゃあ救急車呼ばないと。あと警察も……」
「警察は呼ばない。救急車も」
「はあ?」
「おまえこそ、状況がわかってない。いいか。ひとつには、救急車を呼んでも無駄だ。もう遅い。警察はもっと駄目だ。ありえない」
暖がなにをいっているのか、まったく理解できなかった。そんな顔をしていたのだろう。暖は幼い子どもにいい聞かせるように単語ごとに切ってゆっくり力を込めて話した。
「なあ、俊介。おれは犯罪者になりたくない。おまえもだろ。親御さんのこと考えろ。おまえんち、お母さんとふたり家族だっていってたよな。おまえが逮捕されたら、お母さんはどうなる?」
「ちょっと待てよ!」
たまらずに叫んだ。暖の手を振り払った。
「運転してたのおまえだろ! おれは関係ない!」
「そんなの通用すると思うか。おまえは酔っ払ってるし、前科だってあるんだろ」
「前科たってただの窃盗だろ! そんなの……」
「警察に信用される人間か、おまえが?」
信じられない言葉だった。目の前にいる人間が他人に思えて、おれは立ち竦んだ。
「悪い。ごめん。おれはただ、おまえに落ち着いてほしいだけなんだ」
「……落ち着いて、どうしろっていうんだよ」
おれはどうにか興奮を抑え、胸を上下させて必死に呼吸をしながら暖をにらんだ。暖とはちがい、簡単に冷静になれるとは思えなかった。
「頼みがある」
おれの目をしっかりと見て、暖はいった。
「あいつを埋めるのを手伝ってほしい」
その言葉はあまりに衝撃的で、おれは愕然とした。間抜けにも口を開いたまま突っ立っているおれに、暖は畳みかけるようにいった。
「あいつを見ろ。服装からいってどう見てもホームレスだろ。いなくなったって、探す人間がいるわけない。だいじょうぶだよ」
「なにがだいじょうぶだよ!」
思わず声を荒らげた。とんでもないことだ。おそろしく、おぞましい。育ちがよく、物腰やわらかく、だれにでも親切な暖の口から出る言葉とは思えなかった。
「おまえ、自分がなにいってんのかわかってんの? おれは絶対嫌だからな!」
「おまえも共犯者になるんだぞ」
「交通事故の共犯とは全然ちがうだろ、そんな……人間を埋めるなんて……」
「人間じゃない。死体だ。もう死んでる」
「だからちゃんと確かめろって!」
「もう確かめた。なんならおまえも確認しろよ」
冗談ではない。死体に近づくなどごめんだった。
「生き埋めにするわけじゃない。葬式だって死体を土に埋めるだろ。埋葬とおなじだよ」
おなじのはずがない。おれはパニック状態の頭を必死で回転させようとした。うまくいきそうになかった。
「それでも嫌だ。絶対できない」
おれは絞り出すようにしていった。
「俊介」
「ごめん。本当に申し訳ないと思うけど、できないんだよ。おれには無理……」
「頼むよ、俊介」
暖が再びおれの腕をつかむ。今度は懇願だった。切実な頼み。暖は必死になっておれに頭を下げた。
「なあ、お願いだから、助けてくれよ。おれの家のことも知ってるだろ」
暖の声。はじめて聞く色だった。
暖とは去年の夏頃に地元のクラブで知り合った。田舎町にある唯一のクラブで、暖はVIP席の常連だった。高校生の入店は禁じられていたが、暖の親が地元の有力者で、特別扱いを受けていた。店の前で不良仲間とどうにか入れないか相談していたところ、声を掛けられた。
家が近所だったことを除けば、共通点はまるでなかった。暖の家は地元でも知られた政治家の一家で、父親は県議会議員、祖父は衆院議員だった。一方、おれはシングルマザーの家庭に生まれ、母ひとり子ひとり。物心ついた頃には父親はすでにいなかった。職場の同僚と不倫した末に家を出て行ったらしい。以来、母親はアルコールに溺れた。働いているところを見たことはなかった。生活保護と、おれが居酒屋でバイトをして手に入れるわずかな給料だけでどうにか生活している。
暖が気まぐれを起こさなければ、一生出会うことはなかっただろう。暖と一緒にいれば、クラブ以外にも入れる店やできる体験が増えた。遊ぶ金の心配をする必要もなかった。おれは暖にくっついて歩くようになった。
家庭環境がちがっても、おれたちは不思議とうまが合い、よくふたりで遊んだ。進学校に通う暖の授業が終わるのを待って、頻繁に会っていた。それぞれの学校にも友人はいたが、互いにもっとも近い存在だったことは間違いない。
知り合ってすこしして、暖が東京の大学に合格し、おれもランクはかなり下だが地元の大学に受かった。都内のマンションに生活の拠点を移す暖と地元に残るおれ。高校を卒業すれば、これまでのように会うことはすくなくなる。卒業式の今日が最後のはずだった。
「俊介、頼むよ」
おれの腕をつかむ暖の手に力がこもった。
「おまえのことはおれが一生面倒見る。就職先も、親御さんのことも全部。なにも心配しなくていい。だから頼む。助けてくれ」
暖の声はほとんど叫び声になっていた。そんなふうになりふり構わず必死になっている暖を見るのははじめてだった。考えてみれば、おれたちは互いのことをほとんど知らない。遊び仲間として、それぞれの家庭環境や学校でのたわいない話をしてはいたが、深い部分について知り合うことはなかった。
「おまえはなにもしなくていい。ただ見てるだけでいいから。な?」
暖に兄弟はいない。おれとおなじひとりっこだ。本人が望むと望まざるとに関わらず、政治家への道を進むのだろう。無免許でもなければ酒を飲んだわけでもないが、ひとを轢き殺したのだ。過失とはいえ、ただでは済まない。約束されたはずの暖の将来が消え、道が閉ざされる。
「……わかった」
暖の視線から逃げるようにおれは頷いた。ほかになにもいえなかった。暖が運転免許を取得した記念と高校卒業の記念にドライブへ行こうと誘ったのはおれだ。運転していなかったとはいえ、おれにも責任の一端はある。
「ありがとう」
暖がおれの手を握りしめる。おれはされるがままだった。これからどうなるのか、考える力は残っていなかった。
暖がトランクを開け、“それ”を運び込んだ。おれは暖に命じられるままに手伝った。両腕で足を抱え、トランクのなかに放り込んだ。
移動させるとき、フードを被った顔が一瞬目に入った。血だらけではっきりと判別できなかったが、50代くらいの男だった。顔を見れば一生忘れられなくなりそうで、あえて顔を背けて作業に集中しようとした。
人通りのすくない道とはいえ、だれにも見られなかったのは奇跡だった。暖が車を運転し、その場を離れた。
雨はまだ降り続いていた。おれは助手席で微動だにしなかった。体の震えは止まるどころか烈しくなっていた。
「これ」
暖が後部座席からタオルを取り上げた。渡されたタオルで顔を拭いた。事故の衝撃でぶつけたらしく、こめかみに血がついていた。痛みは感じない。寒さもなにも感じなかった。
「だいじょうぶか」
答えなかった。暖は前を向いて運転していたが、左手を伸ばしておれの肩をつかんだ。
「心配するな。うまくいくから」
おそろしいほどに冷静な暖の横顔を見て、おれはいいようのない寒気を感じた。おれの知らない男がそこにいた。故意ではなかったとはいえ、ひとを殺してしまったのだ。これほど冷静でいられるのは異常ではないか。学生時代から積み上げてきた信頼や友情がフロントガラスの罅のようにすこしずつ崩れ、車内に侵入する雨水のように黒いものが広がっていくようだった。
「この辺でいいか」
林道をさらに進み、人気のない森にさしかかったところで、暖は車を停めた。素早く周囲を確認し、だれもいないのを確かめてから外に出た。
トラックを開ける音と雨音が混ざり合う。おれはゆっくりと車を降りた。
ガードレールの脇に停めた車。エンジンはかかったままで、ワイパーが左右にせわしなく動いている。おれは車体のへこみと傷を見つめた。ヘッドライトに照らされ、猛烈な雨に打たれながら立ち尽くしていた。
「俊介?」
トランクを覗き込んでいた暖が顔を上げ、おれのほうに歩いてきた。
「どうした?」
呆然と立っているだけのおれを見て、訝しげに眉を顰める。
「あとはおれがやるから、車にいろよ。濡れるぞ」
おれの肩を軽く叩いて、暖は作業に戻った。トランクの向こうに暖の姿が消えると、おれはいった。
「暖」
かろうじて出た声は雨音にかき消され、暖に届かなかった。もう一度、叫ぶようにいった。
「暖!」
「え?」
トランクの陰から暖が首を伸ばす。暗くて表情はよく見えない。構わずに、いった。
「ごめん。おれやっぱ無理だ」
「俊介……」
「今ならまだ間に合う。警察行こう。おれも一緒に行くから」
暖は黙っている。おれは懇願するようにいった。
「こんなの絶対間違ってるって。おれたちまだ18なんだぜ。これから何十年も人生続くんだから。何回でもやり直せる。だから、なあ、警察行って正直に話そう。わざとやったわけじゃないんだから、そんなに重い罪にはらないって」
暖はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……わかった」
「ほんとか?」
おれはほっとして息をついた。暖の主張は理解できるが、だからといって、やはり同意はできない。犯してしまった罪をなかったことにはできないのだ。逃げ延びることができたとしても、心のなかに闇が残るだろう。十年、二十年たってもその闇は消えない。一生を罪悪感とともに生きるのはごめんだった。
「ほんとに自首するんだな?」
「うん。俊介のいうとおりだと思う。やったことの責任は取らないと」
暖の顔は微笑んでいるように見えた。おれもようやくすこし笑えた。そうだ。だれにでも過ちはある。大事なのはどう償って今後の人生を送るかだ。
「よかった。じゃ早く行こう」
暖は完全に納得していないかもしれない。おれと暖では抱える事情がまるでちがうのだ。それでも、いつかはこの判断が正しかったと思えるだろう。そうしなくてはならない。おれは暖に背を向け、車に乗るため助手席に回ろうとした。
サイドミラーに映った暖の姿。その瞬間に気づくべきだった。暖の陰がゆっくりと背後に近づき、おれは無意識に振り返った。そして暖の目を見た。感情のない目だった。
おれは口を開いた。なにをいおうとしたのかは自分でもわからない。
暖が大きく上半身を捻った。なにか棒のようなものを手に持っている。それがなんなのか、確認するよりも先に、側頭部に強烈な衝撃を感じた。
なにが起きたのかわからなかった。気づくと、濡れたアスファルトに頬を擦りつけていた。雨と混じって薄い朱色の水になった血がダムのようにあふれ、目を開くことができなかった。それでも必死で視界を確保しようと瞼を震わせた。
靴音とともに、2本の足が近づいてくる。顔を上げようとしたが、体が動かない。
「暖……」
「ごめんな、俊介」
暖の声が頭上に降ってきた。感情を失った声だった。
後頭部にもう一度衝撃が加わり、おれの意識は消えた。


