僕の部屋の勉強机の上には、ポツンと一つ、クマのぬいぐるみが置いてある。
それは、さほど大きくもなく小さくもない、男子高校生が絶対に持たないであろう、ふわふわのブラウンの毛のクマのぬいぐるみ。
小学生の頃は良かったが、高校二年生になった僕・間宮陽向は、それを持っていること自体が恥ずかしくて、何度も捨てようとした。実際に捨てた。それなのに、あれは何度も戻って来る。まるで、かの有名なメリーさんのように。
だから、僕は、この人形に名前を付けた。
その名も、”モリーさん”。
森のくまさんの『モリ』、それから、メリーさんのメの字を一文字弄っただけの単純な名前。
ネーミングセンスの欠片もないと思ったそこの君、男子高校生の思考なんて、こんなものだ。世の男子高校生が怒るか。
名前についてはどうでも良い。それよりも、問題なのはモリーさんが小汚くなってきたということだ。
モリーさんは、僕が小学校一年生の時に、近所に住んでいた幼馴染から、引っ越すからと贈られたものだ。実は、それから洗っていない。つまり、軽く十年は洗っていないのだ。
「捨てたら、戻って来るかな……」
そう思いつつも、十三度目の正直。資源ごみである今日がチャンスだ。
僕は、それをビニール袋に入れ、しっかりと袋の口を結び、立ち上がった。部屋に出て一階に下りれば、既に家庭内のごみ捨ては終わっていたようで、自分でゴミステーションに持って行った。
大きな袋が積み重なるそこの上に、ちょこんとモリーさんを置いた。
「どうか、戻って来ませんように……」
両手を合わせて、ついでにキッチンから持ち出した塩を袋の上から降りかけてみる。
「よし、学校行こ」
塩をキッチンに戻しに一旦家に帰り、準備しておいた荷物を取って、僕は再び玄関の扉を開けた。
「行ってらっしゃい。陽向、忘れ物ない?」
「忘れ物はないけど……母さん。モリーさん捨てたから、戻って来ないか見てて」
「お母さん、今日は仕事だから、見れないわよ。てか、陽向、また捨てたの? もう諦めなさいって」
両親も、始めこそ恐怖で神社やお寺など、様々なところで供養してもらおうと必死に動いてくれた。
しかし、それでも戻って来るモリーさんは、特段何もしない。呪われて不吉なことが起こるのではないかと懸念もしたが、そこまで呪われた感じもしない。これが日本人形やフランス人形のそれだったなら、見るだけで恐ろしいものがあるが、モリーさんは、ただの可愛らしいクマのぬいぐるみ。両親は諦めた。
僕も半分以上諦めているが、汚れた人形を後生大事にしたくない。
「だって、もう汚いし」
「お風呂入れてあげれば良いじゃない」
「また戻ってきたら入れるよ。じゃあね」
「はい、行ってらっしゃい」
母に見送られ、今度こそ僕は家を出た。
自転車の鍵を開け、それに跨った僕は、ゴミステーションに置かれたモリーさんを一瞥してから、学校に向かった――。
◇◇◇◇
学校に着けば、校門をくぐったすぐ横に設けられた駐輪場に、自転車を停めた。
鍵をかけていると、すぐ近くに同じクラスの森本冬也も自転車を停めた。その澄ました横顔を見ながら、僕は心の中で呟いた。
(お前のせいだかんな)
若干睨んでしまったようで、森本が怪訝な顔で見てきた。
「なに?」
「べ、別に、何もないけど」
「けど、なに?」
「む……何もないよ!」
僕は、乱暴に自転車の前のカゴからスクールバックを取って肩にかけた。校舎に向かって歩き出せば、少し遅れて森本も歩き出した。
森本は、僕よりも二十センチ近く背が高い。故に、足が長い彼は、すぐに僕に追いついた。
「足、遅」
「悪かったね!」
早足で歩き、森本を追い抜いた。しかし、すぐに追い抜かれる。
そんなことをしている僕らは、友達でもなんでもない。昔は、あんなに仲良く遊んだのに――。
そう、何を隠そう、彼が先程話した引っ越してしまった幼馴染。中学の時にいつの間にか戻ってきていたようで、今は隣の学区に家があるらしい。
高校で再会した僕らは、天と地ほどの差があった。何がって、見た目。
高身長でワイルドな見た目の森本に対し、僕は童顔で、且つ誰よりも背が低い。男子校というのも相まって、余計に小さく見える。付いたあだ名は、もちろん「チビ」。一緒にいると際立つので、僕は極力近付かないようにしている。それなのに――――。
「どうして、席が前後なんだ……」
僕の席の後ろには、森本がいる。
「出席番号順なんだから、当たり前」
「むッ……」
間宮と森本、その間にいつもならいるはずの宮本や村田などが存在しないこのクラスを恨むばかりだ。
とはいえ、今日はゴールデンウィークも明けた五月の半ば。そろそろ席替えがあるはず。それまでの辛抱だ。
ふと、窓の外を見れば、ゴミ収集車が見えた。
(モリーさん、ちゃんと回収されたかな……)
少しばかりの期待と不安を胸に、それを眺めていると、森本が手を伸ばしてきた。その手は、僕が机に収めようと持っている手の中から、一冊のノートを奪い取って行った。
「ちょ、勝手になに?」
「数学のノート、写させて」
「はぁ……」
呆れて、溜め息しか出ない。
自由気ままな森本は、モリーさんをくれた張本人。森本がモリーさんをくれなければ、僕はこんなに悩んでいないというのに、こいつは平然とした顔をして、毎日のうのうと生きている。それだけで腹が立つ。
「ねぇ、森本」
「ん?」
ノートを写している森本を見ていると、再び溜め息が出た。
「やっぱ良い」
森本にモリーさんの話をしても良いが、鼻で笑われるだけな気がする。そんなことあるわけないじゃんと小馬鹿にされ、虚言癖があると噂されるか、信じてくれたとしても、僕が呪われていると、あからさまに距離を取られそうだ。それにだ、名前の由来は別にあるのに、森本のくれたクマさんだから、『モリーさん』にしたと思われても嫌だ。
(モリーさんの名前、変えようかな)
いかんいかん……もう、戻って来る前提で考えてしまった。塩も撒いたし、今日は絶対に帰って来ない。帰って来ない。帰って来ない。
意味もなく自己暗示をかけていると、僕のオタク仲間である浅田幹也がやってきた。
「間宮氏、これ読みましたか?」
「あ、読んだ読んだ。新刊出て、即効買いに行った」
オタクといっても漫画オタクだ。
浅田は、ひょろっとした体形に丸眼鏡で、同年代なのに敬語を使ったり、話し方に特徴があるところが、昔ながらのオタクを連想させる。ただ、話している内容は、さして他の生徒とは変わらない。男は、皆オタクなのだ。
そして、浅田は人を馬鹿にしたりしないので、この学校で唯一モリーさんのことを話した人物だ。
「ねぇ、浅田君。今日、うち来ない?」
「え、良いですけれど、珍しいですね」
「いや、実はさ」
浅田に近く寄るよう手招きすれば、耳を近づけてきた。
「モリーさん、捨てたんだって」
「なんと! そうだったのでありますね」
「だから、一人で帰るの怖くてさ」
「分かったであります。間宮隊長!」
ピシッと敬礼され、僕も真似して敬礼する。
「浅田隊員、宜しく頼む」
至極真面目にやり取りをしていたのに、森本がクスクスと笑っている。オタクを馬鹿にする典型例が、彼だと言っても過言ではない。
モリーさんがもし帰っていたら、森本だと思って思い切り洗ってやろう。この苛立ちをモリーさんにぶつけて、わしゃわしゃと、それはもう力強く、念入りに洗ってやろう。そう、心に誓った――。
それは、さほど大きくもなく小さくもない、男子高校生が絶対に持たないであろう、ふわふわのブラウンの毛のクマのぬいぐるみ。
小学生の頃は良かったが、高校二年生になった僕・間宮陽向は、それを持っていること自体が恥ずかしくて、何度も捨てようとした。実際に捨てた。それなのに、あれは何度も戻って来る。まるで、かの有名なメリーさんのように。
だから、僕は、この人形に名前を付けた。
その名も、”モリーさん”。
森のくまさんの『モリ』、それから、メリーさんのメの字を一文字弄っただけの単純な名前。
ネーミングセンスの欠片もないと思ったそこの君、男子高校生の思考なんて、こんなものだ。世の男子高校生が怒るか。
名前についてはどうでも良い。それよりも、問題なのはモリーさんが小汚くなってきたということだ。
モリーさんは、僕が小学校一年生の時に、近所に住んでいた幼馴染から、引っ越すからと贈られたものだ。実は、それから洗っていない。つまり、軽く十年は洗っていないのだ。
「捨てたら、戻って来るかな……」
そう思いつつも、十三度目の正直。資源ごみである今日がチャンスだ。
僕は、それをビニール袋に入れ、しっかりと袋の口を結び、立ち上がった。部屋に出て一階に下りれば、既に家庭内のごみ捨ては終わっていたようで、自分でゴミステーションに持って行った。
大きな袋が積み重なるそこの上に、ちょこんとモリーさんを置いた。
「どうか、戻って来ませんように……」
両手を合わせて、ついでにキッチンから持ち出した塩を袋の上から降りかけてみる。
「よし、学校行こ」
塩をキッチンに戻しに一旦家に帰り、準備しておいた荷物を取って、僕は再び玄関の扉を開けた。
「行ってらっしゃい。陽向、忘れ物ない?」
「忘れ物はないけど……母さん。モリーさん捨てたから、戻って来ないか見てて」
「お母さん、今日は仕事だから、見れないわよ。てか、陽向、また捨てたの? もう諦めなさいって」
両親も、始めこそ恐怖で神社やお寺など、様々なところで供養してもらおうと必死に動いてくれた。
しかし、それでも戻って来るモリーさんは、特段何もしない。呪われて不吉なことが起こるのではないかと懸念もしたが、そこまで呪われた感じもしない。これが日本人形やフランス人形のそれだったなら、見るだけで恐ろしいものがあるが、モリーさんは、ただの可愛らしいクマのぬいぐるみ。両親は諦めた。
僕も半分以上諦めているが、汚れた人形を後生大事にしたくない。
「だって、もう汚いし」
「お風呂入れてあげれば良いじゃない」
「また戻ってきたら入れるよ。じゃあね」
「はい、行ってらっしゃい」
母に見送られ、今度こそ僕は家を出た。
自転車の鍵を開け、それに跨った僕は、ゴミステーションに置かれたモリーさんを一瞥してから、学校に向かった――。
◇◇◇◇
学校に着けば、校門をくぐったすぐ横に設けられた駐輪場に、自転車を停めた。
鍵をかけていると、すぐ近くに同じクラスの森本冬也も自転車を停めた。その澄ました横顔を見ながら、僕は心の中で呟いた。
(お前のせいだかんな)
若干睨んでしまったようで、森本が怪訝な顔で見てきた。
「なに?」
「べ、別に、何もないけど」
「けど、なに?」
「む……何もないよ!」
僕は、乱暴に自転車の前のカゴからスクールバックを取って肩にかけた。校舎に向かって歩き出せば、少し遅れて森本も歩き出した。
森本は、僕よりも二十センチ近く背が高い。故に、足が長い彼は、すぐに僕に追いついた。
「足、遅」
「悪かったね!」
早足で歩き、森本を追い抜いた。しかし、すぐに追い抜かれる。
そんなことをしている僕らは、友達でもなんでもない。昔は、あんなに仲良く遊んだのに――。
そう、何を隠そう、彼が先程話した引っ越してしまった幼馴染。中学の時にいつの間にか戻ってきていたようで、今は隣の学区に家があるらしい。
高校で再会した僕らは、天と地ほどの差があった。何がって、見た目。
高身長でワイルドな見た目の森本に対し、僕は童顔で、且つ誰よりも背が低い。男子校というのも相まって、余計に小さく見える。付いたあだ名は、もちろん「チビ」。一緒にいると際立つので、僕は極力近付かないようにしている。それなのに――――。
「どうして、席が前後なんだ……」
僕の席の後ろには、森本がいる。
「出席番号順なんだから、当たり前」
「むッ……」
間宮と森本、その間にいつもならいるはずの宮本や村田などが存在しないこのクラスを恨むばかりだ。
とはいえ、今日はゴールデンウィークも明けた五月の半ば。そろそろ席替えがあるはず。それまでの辛抱だ。
ふと、窓の外を見れば、ゴミ収集車が見えた。
(モリーさん、ちゃんと回収されたかな……)
少しばかりの期待と不安を胸に、それを眺めていると、森本が手を伸ばしてきた。その手は、僕が机に収めようと持っている手の中から、一冊のノートを奪い取って行った。
「ちょ、勝手になに?」
「数学のノート、写させて」
「はぁ……」
呆れて、溜め息しか出ない。
自由気ままな森本は、モリーさんをくれた張本人。森本がモリーさんをくれなければ、僕はこんなに悩んでいないというのに、こいつは平然とした顔をして、毎日のうのうと生きている。それだけで腹が立つ。
「ねぇ、森本」
「ん?」
ノートを写している森本を見ていると、再び溜め息が出た。
「やっぱ良い」
森本にモリーさんの話をしても良いが、鼻で笑われるだけな気がする。そんなことあるわけないじゃんと小馬鹿にされ、虚言癖があると噂されるか、信じてくれたとしても、僕が呪われていると、あからさまに距離を取られそうだ。それにだ、名前の由来は別にあるのに、森本のくれたクマさんだから、『モリーさん』にしたと思われても嫌だ。
(モリーさんの名前、変えようかな)
いかんいかん……もう、戻って来る前提で考えてしまった。塩も撒いたし、今日は絶対に帰って来ない。帰って来ない。帰って来ない。
意味もなく自己暗示をかけていると、僕のオタク仲間である浅田幹也がやってきた。
「間宮氏、これ読みましたか?」
「あ、読んだ読んだ。新刊出て、即効買いに行った」
オタクといっても漫画オタクだ。
浅田は、ひょろっとした体形に丸眼鏡で、同年代なのに敬語を使ったり、話し方に特徴があるところが、昔ながらのオタクを連想させる。ただ、話している内容は、さして他の生徒とは変わらない。男は、皆オタクなのだ。
そして、浅田は人を馬鹿にしたりしないので、この学校で唯一モリーさんのことを話した人物だ。
「ねぇ、浅田君。今日、うち来ない?」
「え、良いですけれど、珍しいですね」
「いや、実はさ」
浅田に近く寄るよう手招きすれば、耳を近づけてきた。
「モリーさん、捨てたんだって」
「なんと! そうだったのでありますね」
「だから、一人で帰るの怖くてさ」
「分かったであります。間宮隊長!」
ピシッと敬礼され、僕も真似して敬礼する。
「浅田隊員、宜しく頼む」
至極真面目にやり取りをしていたのに、森本がクスクスと笑っている。オタクを馬鹿にする典型例が、彼だと言っても過言ではない。
モリーさんがもし帰っていたら、森本だと思って思い切り洗ってやろう。この苛立ちをモリーさんにぶつけて、わしゃわしゃと、それはもう力強く、念入りに洗ってやろう。そう、心に誓った――。



