文化祭が終わった次の放課後、俺は少しだけ肩の力を抜いて部室へ向かっていた。 二日続いた文化祭も終わり、発表もなんとか乗り切った。昨日までずっと騒がしかった校舎も、今日は嘘みたいに静かだ。飾りの一部はまだ残っているけど、空気はもういつもの学校に戻りつつある。
こういう日は、たぶん少しだらっとするもんだと思っていた。 少なくとも、俺はそう思っていた。
部室の引き戸を開けた瞬間、その考えが甘かったと分かった。
「だからそこ、もっと一拍置いてからのほうがいいんだって!」
「分かってるけど、その前にお前が近いんだよ」
「距離感も演出!」
「近いだけだろ」
いつもの声だった。 八坂先輩と櫻葉先輩が、もうコントの練習をしている。しかも普通に熱が入っていた。
「……え」
思わず声が漏れる。
八坂先輩が振り向いて、ぱっと笑った。
「あ、サク!」
「え、何してるんすか」
「練習」
「いや、見れば分かるんすけど」
俺は部室の中を見回した。
「文化祭、終わったはずじゃ……?」
櫻葉先輩が、だるそうに肩をすくめる。
「終わったよ」
「だったらなんで、もうやってるんすか」
「キングオブコント」
八坂先輩が胸を張って言う。
「出るから!」
「え」
「文化祭は文化祭。大会は大会」
「そんなテンションで切り替わるもんなんすか」
「切り替わるっていうか、そもそも別だし」
櫻葉先輩が言う。
「お笑い研究部なんだから、文化祭で終わりじゃないでしょ」
その言い方があまりにも当然で、逆にこっちが取り残された感じになる。
「まさか休めると思ってた?」
八坂先輩がにやにやしながら聞いてくる。
「ちょっとは」
「甘いなあ」
「八坂先輩に言われると腹立つっすね」
「なんで!?」
そこへ、引き戸がまた開いた。
「だから言っただろ」
凪先輩だった。 鞄を肩にかけたまま、こっちを見て笑っている。
「文化祭が終わったばかりで休めると思ったら大間違いだぞ」
「うわ、出た」
「出たとは」
「言いそうなことそのまま言ったなと思って」
「だってそのままだし」
凪先輩は部室の中へ入ってくると、そのまま俺の前で立ち止まった。眼鏡の奥の目が、妙に楽しそうだ。
「次は俺たちもM-1に向けてネタを作るぞ」
「即次だな」
「即次だよ」
「ちょっとは余韻とかないんすか」
「ある」
「あるんだ」
「でも余韻だけで終わるのはもったいないだろ」
凪先輩は軽く笑う。
「せっかく舞台立ったんだし」
その言い方は、なんかずるい。 文化祭のことを思い出すと、まだ少しだけ胸の奥がざわつく。あの拍手とか、台詞が飛んだ時の焦りとか、凪先輩が繋いでくれたこととか。全部まだ生々しいのに、本人はもう次を見ているらしい。
「行くぞ、サク」
「どこへ」
「ホーム」
「出た」
「ハンバーガー屋」
「分かってますよ、それくらい」
そう返すと、凪先輩は満足そうに笑った。 八坂先輩がその横で、わざとらしく手を振る。
「いってらっしゃーい! 俺らはKOC!」
「いや発音ネイティブ!」
俺が言うと、櫻葉先輩がぼそっと返した。
「形から入るの好きだから」
「聞こえてるよ!」
「聞こえるように言ったんだよ」
いつものやり取りを背中で聞きながら、俺は凪先輩と一緒に部室を出た。
駅前のハンバーガー屋は、文化祭明けでも変わらず明るかった。 窓際のいつもの席に向かい合って座る。外はまだ夕方の色を少し残していて、人通りも多い。
「で」
凪先輩はトレーを置くなりネタ帳を開いた。
「次のネタ、無人島のやつでいこうと思う」
「お、あれっすか」
「うん。M-1の予選用に、もうちょい長さが調整しやすいやつ」
「たしかに、ドライブスルーより展開広げやすそう」
「だろ?」
そう言って、凪先輩は少し嬉しそうに口元を緩める。こういう顔を見ると、この人ほんとにネタ好きなんだなと思う。
「最初の入りから好きなんだよな」
凪先輩がネタ帳をめくる。
「もし無人島に流されたらどうするか練習しよっか、ってやつ」
「その時点でもうだいぶ変だけど」
「そこに対してサクが、生命の危機というより、野外実習が延長された気分じゃない?って返すの、強いと思う」
「俺が変なほうやるんすか」
「やってほしい」
「なぜ」
「だって似合うし」
「納得いかないっすね」
凪先輩は無視して続きを読み上げた。
「そのあと鳥を見るだろ」
「なんでそんな冷静なんだよ、ってやつ」
「そう。で、鳥を見たあとに、美味しそうですね〜」
「そこでサバイバルモード入るのか」
「入る」
「急に肝据わってるな」
言いながら、ちょっと面白い。 無人島のネタは前から断片だけ見てたけど、通して考えるとかなり変だ。変なのに、凪先輩が真面目に組み立てていくから余計に妙な感じになる。
「このナメクジは食べちゃダメですよ、も好き」
凪先輩が言う。
「サクが真顔で言ったら絶対おもしろい」
「俺、そんな役ばっかだな」
「適性って大事だから」
「便利な言葉だなあ」
そこからしばらく、俺たちは本気でネタを詰めた。 どこで間を置くか、どこを少し強めに言うか、後半の夢のくだりをどのくらい引っ張るか。文化祭の後だからってだらける空気は、凪先輩の前には一ミリもなかった。
俺も、気づけば普通にそれに乗っていた。
「部長が俺で、副部長がサクね、のとこ」
凪先輩が言う。
「そのあと“俺も帰れてないのかよ”って返し、ちょっと強めがいいかも」
「了解」
「あと最後」
ネタ帳を指で叩く。
「“じゃあ今のを踏まえて、これから無人島に流されに行こう”」
「で、“いや、流されなくていいから! もういいよ”」
「うん。そこは気持ちよく終わりたい」
この人、ほんとに終わり方まで細かい。 でも、その細かさがだんだん嫌じゃなくなってるのが自分でも分かる。
「サク」
「なんすか」
「ちょっと後半、夢のくだりから通すぞ」
「今?」
「今」
「今日も急だな」
「急じゃない。必要」
「必要なら仕方ないか」
そう返したら、凪先輩が少しだけ目を丸くした。 それから笑う。
「最近、素直だな」
「たまにっすよ」
「いいことだ」
「なんで上からなんだよ」
でも、悪くなかった。 こうやってネタの話をしてる時間は、文化祭の余韻を引きずるより、変に落ち着く気がした。
翌日。 昼休みが終わったあとの教室で、俺は少しだけ文化祭の余韻を味わっていた。
別に、昨日ももう普通に授業だったし、学校全体はだいぶ平常に戻っている。でも文化祭の発表を見てたらしい他クラスの女子が、廊下ですれ違う時にこっちを見てきたり、同じ学年のやつに「お前、ツッコミしてたやつだよな」と言われたり、そういう小さい残り方をしていた。
悪くない。 むしろかなり悪くない。
やっぱり舞台って強いんだなと思う。 凪先輩が前に言ってた、おもしろいやつは覚えられるってやつ。あれ、もしかして本当なのかもしれない。
そんなことを考えていたら、教室の後ろの戸が開いた。
「雪代くん」
呼ばれて振り向く。 見覚えのある顔だった。たしか文化祭の発表のあと、体育館の外で一回すれ違った気がする。
「あ、はい」
「急にごめん」
その子は少し笑った。
「文化祭の漫才、見たんだけど、すごく面白かった」
そう言われると、さすがにちょっと照れる。でも、悪い気はしない。
「ありがとうございます」
「それで、もしよかったら」
一瞬、言いにくそうに目を伏せてから、その子は続けた。
「今度の放課後、一緒にカラオケ行かない?」
え、と思った。 そのまま、普通に固まる。
「……え、俺ですか」
「そうだけど」
「いや、そうっすよね」
何言ってんだ俺。
その子は少し笑っていた。からかわれてる感じじゃない。ちゃんと本気っぽい。そうなると余計に、こっちの心臓だけが勝手にうるさくなる。
「大丈夫ならでいいんだけど」
「いや、全然」
反射で答えてしまってから、自分でもちょっと笑いそうになった。
「大丈夫です」
「よかった」
その子の顔が明るくなる。
「じゃあ、連絡先交換していい?」
「はい」
スマホを出して、連絡先を交換する。 やってることは普通なのに、妙に手元だけ落ち着かない。
「じゃあ、また連絡するね」
「はい」
その子が教室を出て行ったあとも、しばらく頭が追いつかなかった。
放課後カラオケ。 デートって言っていいのか分からないけど、かなりそれに近い。しかも、自分からじゃなく向こうから来た。
「雪代、今の何?」
近くの席のやつがすぐ反応してきて、俺はごまかすみたいに笑った。
「いや、ちょっと」
「ちょっとで済む感じじゃなくね?」
「うるさい」
でも、たぶんだいぶ浮かれていたと思う。 授業中も、何度かスマホの通知が気になった。これ、普通にうまくいったらすごいんじゃないか。文化祭の発表を見て誘われるって、ちょっと理想っぽくないか。そんなことまで考えていた。
放課後、いつものハンバーガー屋へ向かう途中でも、その気分は少し残っていた。 浮かれてるって自覚はあった。でも、別に悪いことじゃない。俺はもともと、こういうのを求めてたんだし。
店に入ると、凪先輩はもう席にいた。 いつも通り窓際の奥。いつも通りポテトとネタ帳。 でも今日は、ネタ帳の厚みがちょっと違った。開いたページに、もうかなり書き込みがある。
「お、サク」
「どうも」
「見てこれ」
座るより先に、凪先輩がネタ帳をこっちへ向けてきた。
「昨日の無人島のやつ、帰ってからちょい足した」
「ちょい?」
思わず言う。 全然ちょいじゃない。何ページか増えてる。
「まあ、ちょい」
「だいぶ書いてるじゃないっすか」
「夢のくだりと、SOSのとこ広げたかったんだよ」
凪先輩は楽しそうに言う。
「あとサクの返し、昨日のやつ忘れないうちにメモしといた」
「俺の?」
「うん。“必要なら仕方ないか”の言い方、ちょっと好きだったし」
「そんなとこ拾うんだ」
「拾うよ。相方の言葉だし」
その言い方に、少しだけ胸の奥が変なふうに動く。
俺は席に座って、トレーもまだないままネタ帳をのぞきこんだ。 たしかに、昨日よりかなり詰まっている。入りから後半まで、どこでどう笑いを積むか、かなり細かく書いてある。しかも、俺が言った返しが何個かそのまま残っていた。
「ここ」
凪先輩が指をさす。
「“無人島研究会を新設する”のあと、サクの“帰れなかった場合の夢じゃんそれ!”の入り、昨日より強めでいいと思う」
「うん」
「で、そのあと伝書鳩のくだりに少し間つくる」
「なるほど」
「あと、サクの“物騒な係だな!”のとこも、昨日ちょっとよかった」
「へえ」
「なんか今日、反応薄くない?」
「いや」
ほんとは薄いというより、別のほうへ気持ちが向きかけていた。 放課後カラオケのこと。交換した連絡先。向こうからまた来るかもしれないメッセージ。
でも、目の前のネタ帳を見ると、それが少しだけ遠のく。 凪先輩、こんなに書いてきたんだなと思った。 俺との漫才のために。
「サク?」
「なんすか」
「聞いてる?」
「聞いてるっすよ」
そう返した時、スマホが震えた。 机の端に置いたそれに、目がいく。
通知には、さっきの女子の名前が出ていた。
凪先輩は気づいてない。 ネタ帳を見ながら、まだ無人島の後半の話をしている。
俺はスマホを裏返した。
でも、気になる。 気になるはずなのに、さっきまでみたいな浮かれ方ではなくなっていた。
「で、ここなんだけど」
凪先輩が言う。
「サクのツッコミ、今日だったらもっといけそうなんだよな」
「今日?」
「うん。なんか、今のほうが切れそう」
「そう見えます?」
「見える」
「なんで」
「なんとなく」
「便利だな、それ」
凪先輩が笑う。 その笑い方が、妙にいつも通りで、妙に真面目で、なんかずるい。
またスマホが震えた。 今度は見なくても分かった。たぶん、予定の確認だ。今度の放課後、空いてる? とか、そんな感じだろう。
普通なら、喜ぶところだ。 むしろ、ちょっと前の俺なら絶対そっちを優先してた。
なのに、気づいたらスマホを開いていた。 通知を見て、短く返す。
ごめん、今度の放課後ちょっと予定入ってて難しいかも
送ったあとで、自分でも一瞬止まった。 何やってんだろう、と思う。けど、その手は止まらなかった。
続けて、また別の日にでも、と打ってから送信する。
「サク?」
凪先輩が不思議そうに俺を見る。
「なんかあった?」
「……いや」
スマホを伏せて、俺は息をついた。
「大丈夫っす」
「ほんとか?」
「ほんと」
「ならいいけど」
凪先輩はそれ以上聞かなかった。 ただ、さっきまでの流れそのままでネタ帳に視線を戻す。
「じゃあ続きやるぞ」
「はい」
「“実はさっき伝書鳩、飛ばしといたんだよね”のあと」
「“古風すぎるな! けどありがとう!”」
「そう。そのあと鳩食おうとする」
「“伝書鳩を食べるなよ!”」
「いいね」
「凪先輩、今日そればっかっすね」
「今日のサク、ちゃんと切れてるから」
その言葉に、少しだけ笑ってしまう。
ほんとに、何やってるんだろうなと思った。 女子から誘われて、浮かれて、連絡先まで交換して。それなのに今、俺はハンバーガー屋で凪先輩のネタ帳を見ながら、無人島の伝書鳩の話をしている。
しかも、それを自分で選んだ。 誰に押されたわけでもなく、勝手に。
「サク」
「なんすか」
「今日、なんかいい感じ」
「雑な褒め方だな」
「でもほんと」
凪先輩はポテトを一本つまむ。
「ちょっと本気っぽい」
その一言が、妙に耳に残る。 本気。何に対してかは、まだたぶんうまく言えない。
「……文化祭終わったし」
なんとなく、そう言ってみる。
「次のことも考えないとでしょ」
「うん」
「だから、まあ」
「うん」
「今日はそっち優先で」
凪先輩は一瞬だけ止まった。 それから、少しだけ目を細める。
「そっちって」
「ネタ」
「分かってる」
「なら聞くなよ」
「聞きたかっただけ」
そう言って、また笑う。
その笑い方を見てると、なんとなく、断ったことを後悔しなかった。 むしろ、これでよかったのかもしれないとすら思う。
もちろん、それがどういう意味なのかはまだ分からない。 分からないままでいい気もした。
窓の外は少しずつ暗くなっていく。 店内は相変わらず明るくて、ポテトの匂いがして、周りの会話がざわざわ聞こえる。その中で俺たちは、無人島の夢のくだりをどうするか、本気で悩んでいた。
放課後カラオケより、こっちを選んだ。 その事実だけが、妙に胸の奥へ残ったままだった。
こういう日は、たぶん少しだらっとするもんだと思っていた。 少なくとも、俺はそう思っていた。
部室の引き戸を開けた瞬間、その考えが甘かったと分かった。
「だからそこ、もっと一拍置いてからのほうがいいんだって!」
「分かってるけど、その前にお前が近いんだよ」
「距離感も演出!」
「近いだけだろ」
いつもの声だった。 八坂先輩と櫻葉先輩が、もうコントの練習をしている。しかも普通に熱が入っていた。
「……え」
思わず声が漏れる。
八坂先輩が振り向いて、ぱっと笑った。
「あ、サク!」
「え、何してるんすか」
「練習」
「いや、見れば分かるんすけど」
俺は部室の中を見回した。
「文化祭、終わったはずじゃ……?」
櫻葉先輩が、だるそうに肩をすくめる。
「終わったよ」
「だったらなんで、もうやってるんすか」
「キングオブコント」
八坂先輩が胸を張って言う。
「出るから!」
「え」
「文化祭は文化祭。大会は大会」
「そんなテンションで切り替わるもんなんすか」
「切り替わるっていうか、そもそも別だし」
櫻葉先輩が言う。
「お笑い研究部なんだから、文化祭で終わりじゃないでしょ」
その言い方があまりにも当然で、逆にこっちが取り残された感じになる。
「まさか休めると思ってた?」
八坂先輩がにやにやしながら聞いてくる。
「ちょっとは」
「甘いなあ」
「八坂先輩に言われると腹立つっすね」
「なんで!?」
そこへ、引き戸がまた開いた。
「だから言っただろ」
凪先輩だった。 鞄を肩にかけたまま、こっちを見て笑っている。
「文化祭が終わったばかりで休めると思ったら大間違いだぞ」
「うわ、出た」
「出たとは」
「言いそうなことそのまま言ったなと思って」
「だってそのままだし」
凪先輩は部室の中へ入ってくると、そのまま俺の前で立ち止まった。眼鏡の奥の目が、妙に楽しそうだ。
「次は俺たちもM-1に向けてネタを作るぞ」
「即次だな」
「即次だよ」
「ちょっとは余韻とかないんすか」
「ある」
「あるんだ」
「でも余韻だけで終わるのはもったいないだろ」
凪先輩は軽く笑う。
「せっかく舞台立ったんだし」
その言い方は、なんかずるい。 文化祭のことを思い出すと、まだ少しだけ胸の奥がざわつく。あの拍手とか、台詞が飛んだ時の焦りとか、凪先輩が繋いでくれたこととか。全部まだ生々しいのに、本人はもう次を見ているらしい。
「行くぞ、サク」
「どこへ」
「ホーム」
「出た」
「ハンバーガー屋」
「分かってますよ、それくらい」
そう返すと、凪先輩は満足そうに笑った。 八坂先輩がその横で、わざとらしく手を振る。
「いってらっしゃーい! 俺らはKOC!」
「いや発音ネイティブ!」
俺が言うと、櫻葉先輩がぼそっと返した。
「形から入るの好きだから」
「聞こえてるよ!」
「聞こえるように言ったんだよ」
いつものやり取りを背中で聞きながら、俺は凪先輩と一緒に部室を出た。
駅前のハンバーガー屋は、文化祭明けでも変わらず明るかった。 窓際のいつもの席に向かい合って座る。外はまだ夕方の色を少し残していて、人通りも多い。
「で」
凪先輩はトレーを置くなりネタ帳を開いた。
「次のネタ、無人島のやつでいこうと思う」
「お、あれっすか」
「うん。M-1の予選用に、もうちょい長さが調整しやすいやつ」
「たしかに、ドライブスルーより展開広げやすそう」
「だろ?」
そう言って、凪先輩は少し嬉しそうに口元を緩める。こういう顔を見ると、この人ほんとにネタ好きなんだなと思う。
「最初の入りから好きなんだよな」
凪先輩がネタ帳をめくる。
「もし無人島に流されたらどうするか練習しよっか、ってやつ」
「その時点でもうだいぶ変だけど」
「そこに対してサクが、生命の危機というより、野外実習が延長された気分じゃない?って返すの、強いと思う」
「俺が変なほうやるんすか」
「やってほしい」
「なぜ」
「だって似合うし」
「納得いかないっすね」
凪先輩は無視して続きを読み上げた。
「そのあと鳥を見るだろ」
「なんでそんな冷静なんだよ、ってやつ」
「そう。で、鳥を見たあとに、美味しそうですね〜」
「そこでサバイバルモード入るのか」
「入る」
「急に肝据わってるな」
言いながら、ちょっと面白い。 無人島のネタは前から断片だけ見てたけど、通して考えるとかなり変だ。変なのに、凪先輩が真面目に組み立てていくから余計に妙な感じになる。
「このナメクジは食べちゃダメですよ、も好き」
凪先輩が言う。
「サクが真顔で言ったら絶対おもしろい」
「俺、そんな役ばっかだな」
「適性って大事だから」
「便利な言葉だなあ」
そこからしばらく、俺たちは本気でネタを詰めた。 どこで間を置くか、どこを少し強めに言うか、後半の夢のくだりをどのくらい引っ張るか。文化祭の後だからってだらける空気は、凪先輩の前には一ミリもなかった。
俺も、気づけば普通にそれに乗っていた。
「部長が俺で、副部長がサクね、のとこ」
凪先輩が言う。
「そのあと“俺も帰れてないのかよ”って返し、ちょっと強めがいいかも」
「了解」
「あと最後」
ネタ帳を指で叩く。
「“じゃあ今のを踏まえて、これから無人島に流されに行こう”」
「で、“いや、流されなくていいから! もういいよ”」
「うん。そこは気持ちよく終わりたい」
この人、ほんとに終わり方まで細かい。 でも、その細かさがだんだん嫌じゃなくなってるのが自分でも分かる。
「サク」
「なんすか」
「ちょっと後半、夢のくだりから通すぞ」
「今?」
「今」
「今日も急だな」
「急じゃない。必要」
「必要なら仕方ないか」
そう返したら、凪先輩が少しだけ目を丸くした。 それから笑う。
「最近、素直だな」
「たまにっすよ」
「いいことだ」
「なんで上からなんだよ」
でも、悪くなかった。 こうやってネタの話をしてる時間は、文化祭の余韻を引きずるより、変に落ち着く気がした。
翌日。 昼休みが終わったあとの教室で、俺は少しだけ文化祭の余韻を味わっていた。
別に、昨日ももう普通に授業だったし、学校全体はだいぶ平常に戻っている。でも文化祭の発表を見てたらしい他クラスの女子が、廊下ですれ違う時にこっちを見てきたり、同じ学年のやつに「お前、ツッコミしてたやつだよな」と言われたり、そういう小さい残り方をしていた。
悪くない。 むしろかなり悪くない。
やっぱり舞台って強いんだなと思う。 凪先輩が前に言ってた、おもしろいやつは覚えられるってやつ。あれ、もしかして本当なのかもしれない。
そんなことを考えていたら、教室の後ろの戸が開いた。
「雪代くん」
呼ばれて振り向く。 見覚えのある顔だった。たしか文化祭の発表のあと、体育館の外で一回すれ違った気がする。
「あ、はい」
「急にごめん」
その子は少し笑った。
「文化祭の漫才、見たんだけど、すごく面白かった」
そう言われると、さすがにちょっと照れる。でも、悪い気はしない。
「ありがとうございます」
「それで、もしよかったら」
一瞬、言いにくそうに目を伏せてから、その子は続けた。
「今度の放課後、一緒にカラオケ行かない?」
え、と思った。 そのまま、普通に固まる。
「……え、俺ですか」
「そうだけど」
「いや、そうっすよね」
何言ってんだ俺。
その子は少し笑っていた。からかわれてる感じじゃない。ちゃんと本気っぽい。そうなると余計に、こっちの心臓だけが勝手にうるさくなる。
「大丈夫ならでいいんだけど」
「いや、全然」
反射で答えてしまってから、自分でもちょっと笑いそうになった。
「大丈夫です」
「よかった」
その子の顔が明るくなる。
「じゃあ、連絡先交換していい?」
「はい」
スマホを出して、連絡先を交換する。 やってることは普通なのに、妙に手元だけ落ち着かない。
「じゃあ、また連絡するね」
「はい」
その子が教室を出て行ったあとも、しばらく頭が追いつかなかった。
放課後カラオケ。 デートって言っていいのか分からないけど、かなりそれに近い。しかも、自分からじゃなく向こうから来た。
「雪代、今の何?」
近くの席のやつがすぐ反応してきて、俺はごまかすみたいに笑った。
「いや、ちょっと」
「ちょっとで済む感じじゃなくね?」
「うるさい」
でも、たぶんだいぶ浮かれていたと思う。 授業中も、何度かスマホの通知が気になった。これ、普通にうまくいったらすごいんじゃないか。文化祭の発表を見て誘われるって、ちょっと理想っぽくないか。そんなことまで考えていた。
放課後、いつものハンバーガー屋へ向かう途中でも、その気分は少し残っていた。 浮かれてるって自覚はあった。でも、別に悪いことじゃない。俺はもともと、こういうのを求めてたんだし。
店に入ると、凪先輩はもう席にいた。 いつも通り窓際の奥。いつも通りポテトとネタ帳。 でも今日は、ネタ帳の厚みがちょっと違った。開いたページに、もうかなり書き込みがある。
「お、サク」
「どうも」
「見てこれ」
座るより先に、凪先輩がネタ帳をこっちへ向けてきた。
「昨日の無人島のやつ、帰ってからちょい足した」
「ちょい?」
思わず言う。 全然ちょいじゃない。何ページか増えてる。
「まあ、ちょい」
「だいぶ書いてるじゃないっすか」
「夢のくだりと、SOSのとこ広げたかったんだよ」
凪先輩は楽しそうに言う。
「あとサクの返し、昨日のやつ忘れないうちにメモしといた」
「俺の?」
「うん。“必要なら仕方ないか”の言い方、ちょっと好きだったし」
「そんなとこ拾うんだ」
「拾うよ。相方の言葉だし」
その言い方に、少しだけ胸の奥が変なふうに動く。
俺は席に座って、トレーもまだないままネタ帳をのぞきこんだ。 たしかに、昨日よりかなり詰まっている。入りから後半まで、どこでどう笑いを積むか、かなり細かく書いてある。しかも、俺が言った返しが何個かそのまま残っていた。
「ここ」
凪先輩が指をさす。
「“無人島研究会を新設する”のあと、サクの“帰れなかった場合の夢じゃんそれ!”の入り、昨日より強めでいいと思う」
「うん」
「で、そのあと伝書鳩のくだりに少し間つくる」
「なるほど」
「あと、サクの“物騒な係だな!”のとこも、昨日ちょっとよかった」
「へえ」
「なんか今日、反応薄くない?」
「いや」
ほんとは薄いというより、別のほうへ気持ちが向きかけていた。 放課後カラオケのこと。交換した連絡先。向こうからまた来るかもしれないメッセージ。
でも、目の前のネタ帳を見ると、それが少しだけ遠のく。 凪先輩、こんなに書いてきたんだなと思った。 俺との漫才のために。
「サク?」
「なんすか」
「聞いてる?」
「聞いてるっすよ」
そう返した時、スマホが震えた。 机の端に置いたそれに、目がいく。
通知には、さっきの女子の名前が出ていた。
凪先輩は気づいてない。 ネタ帳を見ながら、まだ無人島の後半の話をしている。
俺はスマホを裏返した。
でも、気になる。 気になるはずなのに、さっきまでみたいな浮かれ方ではなくなっていた。
「で、ここなんだけど」
凪先輩が言う。
「サクのツッコミ、今日だったらもっといけそうなんだよな」
「今日?」
「うん。なんか、今のほうが切れそう」
「そう見えます?」
「見える」
「なんで」
「なんとなく」
「便利だな、それ」
凪先輩が笑う。 その笑い方が、妙にいつも通りで、妙に真面目で、なんかずるい。
またスマホが震えた。 今度は見なくても分かった。たぶん、予定の確認だ。今度の放課後、空いてる? とか、そんな感じだろう。
普通なら、喜ぶところだ。 むしろ、ちょっと前の俺なら絶対そっちを優先してた。
なのに、気づいたらスマホを開いていた。 通知を見て、短く返す。
ごめん、今度の放課後ちょっと予定入ってて難しいかも
送ったあとで、自分でも一瞬止まった。 何やってんだろう、と思う。けど、その手は止まらなかった。
続けて、また別の日にでも、と打ってから送信する。
「サク?」
凪先輩が不思議そうに俺を見る。
「なんかあった?」
「……いや」
スマホを伏せて、俺は息をついた。
「大丈夫っす」
「ほんとか?」
「ほんと」
「ならいいけど」
凪先輩はそれ以上聞かなかった。 ただ、さっきまでの流れそのままでネタ帳に視線を戻す。
「じゃあ続きやるぞ」
「はい」
「“実はさっき伝書鳩、飛ばしといたんだよね”のあと」
「“古風すぎるな! けどありがとう!”」
「そう。そのあと鳩食おうとする」
「“伝書鳩を食べるなよ!”」
「いいね」
「凪先輩、今日そればっかっすね」
「今日のサク、ちゃんと切れてるから」
その言葉に、少しだけ笑ってしまう。
ほんとに、何やってるんだろうなと思った。 女子から誘われて、浮かれて、連絡先まで交換して。それなのに今、俺はハンバーガー屋で凪先輩のネタ帳を見ながら、無人島の伝書鳩の話をしている。
しかも、それを自分で選んだ。 誰に押されたわけでもなく、勝手に。
「サク」
「なんすか」
「今日、なんかいい感じ」
「雑な褒め方だな」
「でもほんと」
凪先輩はポテトを一本つまむ。
「ちょっと本気っぽい」
その一言が、妙に耳に残る。 本気。何に対してかは、まだたぶんうまく言えない。
「……文化祭終わったし」
なんとなく、そう言ってみる。
「次のことも考えないとでしょ」
「うん」
「だから、まあ」
「うん」
「今日はそっち優先で」
凪先輩は一瞬だけ止まった。 それから、少しだけ目を細める。
「そっちって」
「ネタ」
「分かってる」
「なら聞くなよ」
「聞きたかっただけ」
そう言って、また笑う。
その笑い方を見てると、なんとなく、断ったことを後悔しなかった。 むしろ、これでよかったのかもしれないとすら思う。
もちろん、それがどういう意味なのかはまだ分からない。 分からないままでいい気もした。
窓の外は少しずつ暗くなっていく。 店内は相変わらず明るくて、ポテトの匂いがして、周りの会話がざわざわ聞こえる。その中で俺たちは、無人島の夢のくだりをどうするか、本気で悩んでいた。
放課後カラオケより、こっちを選んだ。 その事実だけが、妙に胸の奥へ残ったままだった。


