放課後バーガー

 文化祭二日目の朝は、一日目より少しだけ空気が張っていた。
 校舎の中は相変わらず騒がしい。展示を見に回る生徒、片づけをしているやつ、ステージ発表の時間を確認して走っていくやつ。昨日と同じようで、でもどこか違う。  たぶん今日は「見る側」じゃなくて「出る側」がいるからだ。
 俺は朝からなんとなく落ち着かなかった。  教室にいてもそわそわするし、廊下に出てもざわつく。何なら自分の手まで少し落ち着いていない。
 発表前って、こんな感じになるのかと思った。
 お笑い研究部の集合場所になっている空き教室へ向かうと、凪先輩はもういた。ネタ帳を膝に置いて座っている。ぱっと見はいつも通りで、眼鏡の位置も、足を組んでいる感じも自然だ。
「あ、おはよ。サク、顔かたくない?」
「凪先輩は普通っすね」
「普通のふりしてるだけ」
「やっぱ緊張してるんじゃないっすか」
「してるよ。だって文化祭の舞台だし」
 あっさり言って、凪先輩は少し笑った。  凪先輩はそういう時、ほんとにぶれない。変な先輩だし、押しは強いし、妙な理屈も多いくせに、こういう場面ではやけにまっすぐだ。
 体育館の袖へ向かうと、中は思ったより人が多かった。  袖からステージを見ると、客席の明るさと舞台の明るさが思ってた以上に違う。あそこに立つのか、と改めて思った瞬間、喉が少し乾いた。
「先いくね」
 八坂先輩が園児帽子をかぶり直しながら振り返る。
「ちゃんと笑ってよ」
「お前らのはたぶん大丈夫だろ」
 凪先輩が言う。
「入りの『物騒だねえ』強いし、最後の締めもきれいだしな」
「次、お前らだよ。入りちゃんと決めればいける」
 櫻葉先輩がこっちを見る。
「決めれば、って」
「決めろってこと」
「分かってます」
 そう返した声が、少しだけ硬かったのは自分でも分かった。
 舞台に「百均前線」が出た瞬間、八坂先輩の園児姿だけでもう空気が変わる。  コントは、ネタ見せの時よりずっとはっきりウケていた。
「動くな! この子がどうなってもいいのか!」
「おほんっ……いやあ、物騒だねえ」
 最初のこのやり取りで、客席がもう笑っている。  そこからはもう、彼らの独壇場だった。犯人役の櫻葉先輩が脅すたびに、園児役の八坂先輩が妙に達観した口調で返す。  どれも一発で状況が伝わるし、何より櫻葉先輩の受けがうまかった。
「最後、ちゃんと謝ったら許してあげるから」
 きれいにオチが決まり、拍手がしっかり起きた。  戻ってきた八坂先輩は汗をかいていたけど、顔はめちゃくちゃ満足そうだった。
「どう!?」
「めっちゃよかった。園児出てきた瞬間、もう強かったっす」
 俺が言うと、八坂先輩は「でしょ!」と笑った。
 いよいよ、放課後バーガーの番になった。
 司会の声が遠く聞こえる。コンビ名が呼ばれて、袖から一歩踏み出す。  照明の明るさが一気に目に入る。客席は暗くて全部は見えないのに、人がいることだけははっきり分かる。
 横を見ると、凪先輩がいた。
「いける?」
 口の動きだけでそう聞かれて、俺は小さく頷いた。
 舞台の真ん中に立つ。マイクの前に立つと、逃げ場がない感じがした。  凪先輩が、一拍置いてから口を開く。
「いらっしゃいませ! こんにちは! マイクに向かってこんにちは!」
 反射。ここは迷わない。
「こんにちは!……じゃなくて、ご注文をどうぞ、だろ!」
 客席が笑った。  その瞬間、少しだけ視界が開けた気がした。
 いける、と思った。  そのまま、ねぎらいのくだり、安心感のある飲み物、スマイル二倍。流れは悪くない。
 なのに、中盤に差しかかったあたりで、一瞬だけ頭が真っ白になった。
 次、何だっけ。
 ほんの一瞬。なのに、その時間だけやけに長く感じた。  凪先輩のボケが耳に入る。でも、返すべき言葉が引っかからない。  まずい、と思った時にはもう遅かった。
 その瞬間、凪先輩が一歩分だけ前に出た。
「さてはお客様、初めてのドライブスルーで少し混乱しておりますね?」
 客席が笑う。え、と思う間もなく、凪先輩がそのまま続けた。
「ご安心ください! 当店、初めてのお客様にも優しく対応しております!」
「いや、そっちが言うなよ!」
 気づいたら、口が動いていた。  凪先輩がこっちをちらっと見た。その目で、『戻れ』と言われた気がした。
 そこからは、なんとか繋がった。  さっき一瞬飛んだことすら、流れの一部みたいに見えるくらいには。  最後の「もういいよ!」を言い切った瞬間、拍手が聞こえた。
 舞台袖に戻った瞬間、膝の力が少し抜けた。
「……やば」
 思わずそう呟くと、凪先輩が横で笑った。
「お疲れ」
「すみません。途中、飛びました」
「飛んだな」
「すみません」
「二回言った。まあ、初めてだし」
 凪先輩はそう言ってから、軽く俺の頭をぽんと叩いた。というか、撫でた。
「初めてにしては上出来」
 その言い方が、思ってたよりずっとやわらかくて、なんか一瞬だけ何も返せなくなった。
「……凪先輩。普通に助けられたんですけど」
「助けたからな」
「自信満々だな」
「だって相方だし」
 その言い方は、ずるい。
「よかったじゃん! 途中ちょっと危なかったけど」
 八坂先輩たちが駆け寄ってくる。
「凪、繋ぎうまかったな」
「だろ」
「自分で言うな」
 そのまま四人で感想を言い合う。けど、俺の耳にはその全部が少し遠く聞こえていた。  まだ心臓が落ち着いていないんだと思う。
 舞台の上で、台詞が飛んだ。  でも、凪先輩が繋いでくれた。ただ助けるんじゃなくて、ちゃんと笑いに変えて。  あれができるの、単純にすごいと思った。
「次、演劇部だっけ」
 八坂先輩が体育館のほうを見ながら言う。
 その会話の中で、俺はもう一度だけ凪先輩の横顔を見た。  舞台を終えたばかりなのに、案外いつも通りの顔をしている。  でも、さっき俺の頭に置かれた手の感触だけが、まだ少し残っていた。
 初めてにしては上出来。
 たぶん、その一言で十分だった。  完璧じゃなかった。むしろ失敗しかけた。  それでも、隣にこの人がいたから最後までやれた。
 そういうのを、ちゃんと嬉しいと思ってしまったのが、なんか少し悔しかった。